45. 護りたい人
リシェイの脳裏に、在りし日の記憶が蘇った。
リアンシティから三つ隣の街で、五歳から孤児院生活を送っていた。悪党に絡まれていた自分を助けてくれたのは、仕事で訪れていたカインだった。
この人のように強くなりたい。誰かを助けられるようになりたい。その一心でデュロアルの門を叩いたが、最初は何度も追い払われた。
『危ないから帰れ。遊びじゃねぇんだぞ』
それでも諦めずにしがみつくうち、最後に折れてくれたのもカインだった。
『仕方ねぇから、コイツも入れてやってくれよ。俺が面倒見るからさ』
迷惑そうに言いながら、誰よりも先に皆を説得してくれた。帰る家ができて、叱ってくれる人や、一緒に笑える人ができた。その真ん中には、いつもカインがいた。
本当の家族は、もういない。けれど、自分にはこの人たちがいる。
その大切な一人が、今、目の前で殺されようとしていた。
***
「やめてよぉぉっ!!」
振り上げられた剣へ、ダガーが飛んだ。
シンは振り返りもせず、首を僅かに傾けて手首を返した。硬い音とともにダガーが弾かれ、砂利の上を転がっていく。カインを踏みつけた足はそのままに、切っ先だけが再び喉元へ戻された。
リシェイは投げ終えた腕を伸ばしたまま、息を呑んだ。涙で滲んだ視界の中、青い瞳がゆっくりとこちらを向く。
「……次はない」
声を荒らげることすらなかった。もう一度邪魔をすれば、自分が斬られる。その確信に、膝が震えた。
シンはリシェイを見据えた。
この男は、あの眼を隠していた。
ならば少女も同じなのか。
怯えた顔で何も知らないふりをしているだけではないのか――。
「リシェイは関係ねぇッ!」
足元から、掠れた声が飛んだ。
「俺と血の繋がりなんかない! ただの仕事の同僚だ! こいつに手を出すな!」
カインは血の混じった息を吐きながら、それでもシンを睨み上げた。
「用があるのは、俺だろうが……!」
「カイン……!!」
リシェイは唇を噛んだ。
真紅の瞳が、今は自分を逃がそうとしている。さっきの顔が恐ろしかったことまで、なかったことにはできない。
それでも、今ここで彼を見捨てることなどできなかった。
「……邪魔するよ。カインを殺すなら、何度だって邪魔する!」
「この男が何なのか、分かっているのか。お前も見ただろう。人を斬ることを楽しんでいた顔を」
「……見たよ」
「ならば退け。次にあの刃が向くのは、お前かもしれん」
リシェイの呼吸が止まった。自分もそう思い、足がすくんだのだ。その沈黙を見て、シンは言葉を重ねた。
「分かっているのだろう。今なら、まだ間に合う。この男から離れろ」
恐怖を思い出させれば、少女は退く。そうすれば、この男を終わらせられる。それでいいはずだった。
「……嫌だ」
「何故だ! 放っておけば、また誰かが奪われる!」
「だからって、カインを殺していいことになんかならないでしょ!?」
リシェイは両拳を握り締め、声を張り上げた。
「カインは……家族がいないアタシにとって、お兄ちゃんみたいなものなんだから!!」
シンの剣先が止まった。
「怖い顔したからって、もう家族じゃないなんて言えないよ! ずっと一緒にいたんだもん!」
――お兄様。
聞こえるはずのない声に、シンの喉が引き攣れた。涙に濡れた少女の顔へ、別の顔が重なる。差し出した手を疑いもせず握り、いつも自分を見上げて笑っていた。
――レティシアは、お兄様が大好き。
思い出すな。今は、目の前の男を殺すことだけ考えろ。
指の関節が白くなるほど柄を握っても、その笑顔は消えなかった。この少女はレティシアではない。あの子はもう、どこにもいないというのに。
「……レティシア……」
カインは眉を寄せた。喉元の切っ先は動かないが、青い瞳は自分の向こう側を見ていた。リシェイは息を切らしながら泣き叫んだ。
「カインも、早く戻ってよ! 解毒剤、持っていかなきゃいけないんだよ!? レミが待ってるんだよ!!」
シンの顔が跳ね上がった。
「……今、誰の名を言った」
「レミだよ……! アタシを庇って毒を受けて、今も苦しんでるの!」
その名を胸の内で繰り返した途端、シンは息苦しさを覚えた。何が引っかかったのか、考えようとしても掴めない。ただ、遠ざけていた記憶のどこかを、無理にこじ開けられるようだった。
「アタシのせいなの……! だから助けなきゃ……レミを助けたいの!」
必死な叫びが、記憶の中の声と重なった。
――お兄様が「大丈夫」って言うなら、だいじょうぶなんだよね。
自分がいるから、必ず護るからと、確かに言った。あの子は最後まで信じていた。その信頼に、何ひとつ応えられなかった。
「……黙れ……」
リシェイの声を止めたいのか、頭の中の声を止めたいのか、シン自身にも分からなかった。
「……シン」
足元から届いた呼びかけに、視線が戻った。
カインの中では、リシェイの叫びを聞くうち、破壊の衝動が鎮まりつつあった。病院で待っている少女の顔が浮かぶ。苦しみながら、それでも生きたいと言ってくれた彼女を救うために、ここまで来たはずだった。
「俺たちは……レミを救わなきゃならねぇ。あいつは、この眼にも、お前の恨みにも関係ない。ただ、俺たちを待ってるんだ」
「……それを、俺が信じると思うか」
「俺が逃げると思うなら、後をつけてきたって構わない。あいつを助けたら、もう一度お前の前に立つ。だから……今は、行かせてくれ」
命乞いだと切り捨てればよかった。殺されるのが怖くなり、仲間を言い訳にしているだけだ。この眼を持つ者の言葉など、聞く必要はない。
剣を押せば終わる。もう少し力を込めるだけで、この声も――。
「お願い……カインを殺さないで……」
リシェイが一歩近づいた。
群青色の丸い瞳が強くこちらを見据えた。
「アタシから、家族を取らないで!」
シンの呼吸が途切れた。
少女は自分ではなく、カインを見ていた。
逃げることより、その男を失う方が恐ろしいのだ。震えながら名を呼ぶ姿を、シンは知っていた。引き離されまいと必死に伸ばされる手も、何もできないまま奪われる恐怖も。
血に濡れた自分の剣が、目に入った。その先にいるのは、この少女が家族と呼ぶ男だった。
違う。
自分はあの子を奪った者たちに、報いを与えるのだ。
だが、この男がレティシアを殺したところを見たのか。
浮かんだ疑問に、腹の底から怒りが込み上げた。今更、何を迷う。それすら失ったら、自分は何を頼りに生きていけばいい。
「……レティシア……俺は……」
返事など、あるはずがなかった。それなのに、浮かび上がった幼い顔が悲しそうに歪む。頬を涙が伝い、小さな首が横に振られた。
あの子のために生きてきた。
あの子のために剣を取った。
そのあの子が、今の自分を拒んでいる。
「……やめろ」
シンはカインの腹から足を離した。
カインは激しく咳き込み、腹を押さえて地面へ手を突いた。リシェイが駆け寄ろうとしたが、僅かに動いた剣を見て足を止める。
指は震えていても、切っ先はカインを捉えていた。下手に仕掛ければ、一瞬で斬られる。カインは背後の木へ肩を預け、リシェイに動くなと目で伝えた。
シンには、そのやり取りさえ遠かった。
もう一度だけ笑ってほしかった。お兄様は間違っていないと、言ってほしかった。けれど記憶の中の少女は、泣きながら首を振り続けていた。
「……あああぁぁッ!!」
剣が跳ね上がった。
「カインッ!」
リシェイの悲鳴とともに刃が視界を埋めた。避ける力は残っておらず、カインはただ、その軌跡を見上げた。
左頬に熱が走り、直後、背後で大木が裂けた。
砕けた樹皮と葉が降り注ぐ中、装飾剣は顔のすぐ脇を通り、幹へ深く食い込んでいた。
外したのだと、カインは悟った。あれほど正確に自分を追い詰めた刃が、最後の瞬間に逸れていた。
シンは柄を握ったまま俯いていた。額から落ちる汗を拭いもせず、震える手へ力を込める。
引き抜け。まだ、この男は生きている。
そう思っても、指は動かなかった。剣を抜けば、もう一度選ばなければならない。男を殺し、そこで泣いている少女から家族を奪うことを。
「……レティシア……俺は、どうすれば……」
掠れた問いに、誰も答えなかった。
カインには、この男が何を見ているのか分からない。ただ、殺せたはずなのに、殺さなかった。その事実だけが、目の前に残っていた。
おそるおそる近づいたリシェイが、隣へ膝をつく。カインはその頭へそっと触れ、背へ庇うように引き寄せた。
まだ、大丈夫だとは言えなかった。シンは剣を手放していない。
カインは青い瞳の奥に残る葛藤を見据え、黙って、その決着を待った。




