44. 赤き瞳の悪魔
今のカインの表情は、冗談を言っている時の顔でも、仲間を守ろうとする時の顔でもなかった。
せめぎ合う刃の向こうで、口元が歪んでいる。まるで相手と殺し合うことが、楽しくて仕方がないとでもいうように。
シンが先ほど吐き捨てた、『血に飢えた悪魔』。
その言葉が、リシェイの脳裏に蘇った。
「カイン……? どうしちゃったの……?」
こんな顔は知らない。
口が悪くて、喧嘩っ早くて。それでも、いつだって自分たちを気にかけてくれる人だった。ところが今の彼には、目の前の敵しか見えていない。
間に入れば、自分まで斬られるのではないか。
そう思った瞬間、足が地面に縫い止められた。
「……正体を現したな、化け物」
刃越しに届いたシンの声で、カインはハッとした。
(俺……今、何を……)
どう斬れば、こいつは苦しむ。
どこから壊せば、この冷たい顔が歪む。
楽しい。
もっと、力を出せる。
何もかも、叩き潰せる。
――シ ネ
「……っ!」
カインは血の気が引いて、激しく頭を振った。
その一瞬、剣を押す力が緩んだ。シンは即座に刃を引き、競り合いを外した。
押し返す相手を失い、カインの剣が前へ流れる。まずい、と腕を引き戻した時には、シンの切っ先が喉元にあった。
「くっ!」
反射的に顎を引いた事で直撃は逃れたが、襟が裂け、首筋に細い熱が走った。
辛うじて避けた顔のすぐ下を、今度は逆向きの刃が襲う。カインは剣を立てて受けたが、鋭い衝撃に肘が跳ね上がった。
「違う! 俺は……っ!」
「違わない。それが貴様らの本性だ」
カインは歯を食いしばり、踏み込んだ。
細かな剣筋など追い切れない。ならば、腕力でまとめて押し返すしかない。
「違う!!」
力任せの一撃がシンの剣を弾き、カインは後ろへ跳んだ。だが、シンは追わず、左手を向ける。パチンと指を鳴らすと紫電が爆ぜた。
「逃がすと思うか」
着地したカインへ雷光が襲いかかる。横へ跳び、続く一撃を転がってかわしたが、背後の木が爆ぜ、焼けた袖から腕へ痺れが走った。
シンは剣を構えたまま、再び左手に紫電を集めている。
離れれば術が来る。
避けようと足を止めれば、あの刃が届く。
(これが魔剣士か……! ふざけんな、反則だろ!! こんなめちゃくちゃな攻撃!!)
カインは片膝をつきながら、震える手で柄を握り直した。
頭の奥では、まだ声がしていた。加減などするな。全部使え。目の前の男を殺してしまえ、と。
(駄目だ……飲まれるな……!)
この状態でさらに力を求めれば、自分が自分でなくなる。カインは、その感覚を知っていた。けれど、抑えようとすれば、その僅かな隙をシンの剣が突いてくる。
剣を捨てることもできない。
手放せば、その瞬間に殺される。
「俺は……悪魔なんかじゃない!」
「ならば、その眼は何だ」
シンは肩で息をすることもなく、剣先をこちらへ向けた。一切の情がないその青の瞳は氷のように冷たかった。
「今、俺を殺すことを楽しんだだろう」
「……っ!!」
「俺も貴様を殺したくて仕方がない。そこだけは、よく分かる」
足元の砂利が、小さく鳴った。
来る。
そう分かっていたのに、カインは踏み込みを捉えられなかった。
先ほどまで数歩先にいた男が、もう間合いの内側にいる。長い金の髪が目の前で静かに揺らめいた。
喉元へ迫る突きを、カインは咄嗟に身を捩ってかわした。だが、シンはすでに剣を引き戻し、逃れた先へ横薙ぎの刃を走らせていた。
「ぐぁっ!」
肩口が裂けた。
カインは後退しながら剣を振ったが、刃が届く頃にはシンは半歩外へ出ていた。
「遅い」
声だけが、静かに届いた。
真紅の瞳が発現すれば、普段とは比べものにならない力が湧く。身体も速く動く。今まで見えなかったものまで、見えるようになる。
それなのに、この男の剣には追いつかない。強い、などという次元ではない。
シンの肩が動いたのを見てからでは、もう遅かった。振り上げる予備動作も、踏み込む際の力みもない。刃を受け止めたと思った時には、次の一撃のために剣が離れている。
こちらが一度振るう間に、二度、三度と斬り込まれる。ここまで速い剣技など見た事がない。
「俺が……アンタに何をしたってんだよ!」
カインは剣を構えたまま叫んだ。
「今日、初めて会ったんだろうが! 『レティシア』なんて奴、俺は知らない!」
リアンシティへ辿り着くまで、まともとは言い難い世界で生きてきた。
争った相手も、一時だけ関わった相手もいる。全員の名前を覚えているわけではない。それでも、レティシアという名には、一片の覚えもなかった。
「色んな奴を傷つけてきたのは認める! だけど、殺してなんか――」
「黙れ」
シンの姿が沈んだ。
カインは低い斬撃を警戒し、剣を下げる。
その判断を嘲笑うように、銀光は更に下から跳ね上がった。鋭い音とともに防御を浮かされ、腕が開くと、その隙間を袈裟斬りの一閃が抜けた。
「がっ……!」
必死の思いで距離を半歩取ろうとしたものの、胸から腹にかけて、熱い線が走る。遅れて噴き出した血が、地面へ散った。
「カインッ!」
リシェイの悲鳴が響く。
駆け寄りかけた彼女を、カインは片手で制した。
視線を向ける余裕さえないが、リシェイを巻き込むわけにはいかない。
「貴様ら一族が仕組んだのだろう。アイツは最期に言った。『裏切りの、真紅の瞳の一族』と……!」
「知らねぇ……本当に、何も知らないんだ!」
瞳の由来も、血筋も、教えられたことなどない。
一族がいるというのなら、両親だって、その中にいたのだろうか。
「俺は……実の親に、川へ捨てられたんだぞ!! まだ幼いガキだった!!」
喉が裂けるほど叫んだ。
「一族がいるなんて、今初めて聞いたんだ! アンタは何を知ってる!? この眼のこと、何か知ってるなら教えてくれよ!」
シンの眉が僅かに動いたが、青い瞳の殺意は消えなかった。
シンが地を蹴ると、カインは退かずに踏み込んだ。
距離を取れば術が来る。退き続けても、踏み込みからは逃れられない。ならば、こちらの一撃が届く間合いで押し返すしかない。
渾身の斬り下ろしを放つが、シンは受けずに刃の脇をすり抜けるように身をかわし、カインの手元へ剣を滑らせる。
鍔元に鋭い衝撃が走った。
両腕が跳ね、肩口へ次の斬撃が落ちる。
「ぐっ!」
カインは剣を引き戻し、肩口へ落ちる刃を辛うじて受け止めた。
「俺はあの日、一番大切な家族を失った! 残されたものも、全て捨ててきた! もう、失うものなど何もない!」
競り合いに持ち込んで押し返そうと力を込めた瞬間、シンは剣を引いた。
前のめりになったカインの腹へ、膝が突き刺さる。
「が、はっ……!」
開いた傷が引き攣れ、息が止まった。
それでもカインは剣を離さず、横へ薙ぐものの、届かない。シンはすでに間合いの外にいた。
「……家、族……?」
カインの動きが、一瞬止まった。
青い瞳の奥にあるものを、初めて見た気がした。
憎悪の向こうに、取り返しのつかない喪失がある。
けれど、だからといって、何も知らない自分が、ここで殺されなければならない道理などない。
シンの切っ先が、すっと下がる。
神速の一閃が襲いかかる。
カインは咄嗟に剣を立て、受け止めた。衝撃で痺れた指が緩む。その瞬間、続く一撃が鍔元を正確に打ち、剣を跳ね飛ばした。
回転しながら宙を舞う銀刃を、目だけで追う。
数歩先へ落ちた剣が、乾いた音を立てた。拾わなければ、と身体を向けた途端、膝裏を蹴り払われた。
カインは地面に手をつき、立ち上がろうとしたが、片膝を起こすより早く、喉元へ冷たい切っ先が触れた。
「ここまでだな」
シンの息は、ほとんど乱れていなかった。
これだけ打ち合い、傷を負わせ、剣を奪ってなお、その手元に震え一つない。乱れているのは、金髪の幾筋かと、憎悪を湛えた眼差しだけだった。
カインは真紅の瞳で睨み上げる。
まだ、力はある。しかし力に手を伸ばそうとするたびに赤黒い闇が迫ってくる──
身体の奥では、どす黒い衝動が暴れていた。
殺せ。壊せ。
抑えるな。
この男に対抗しなければと思うのに、己の力の深淵には手を伸ばせない。もしそれを掴み取れば、その瞬間に『カイン』という人間は───
カインが身体を起こしかけた瞬間、腹部へ重い衝撃が落ちた。
「ぐあぁッッ!」
シンのブーツだった。
背中が地面に押しつけられる。
傷口を踏み込まれ、カインは声にならない息を吐いた。
「貴様の行く先は地獄だ。天国にいるレティシアに会うことすら叶わん」
足首を掴んで押し退けようとしたが、踏みつける位置を僅かに変えられただけで、激痛が腹の奥を貫いた。
「がはっ……!」
咳とともに血が零れる。
握った指から力が抜けた。
シンは、その手を冷たく見下ろしていた。
「痛いか?」
じり、と靴底が傷を圧迫する。
「苦しいか?」
罰だと言わんばかりにシンは足に力を込めた。
「だが、レティシアの苦しみは、こんなものではなかったはずだ」
その名を口にした時だけ、声が掠れた。
カインは荒い呼吸の合間に、言葉を絞ろうとした。
知らない。自分は何も知らない。
何度告げても、届かなかった言葉が、血の味とともに喉へ詰まる。
「彼女の命を奪った罪……地獄の責め苦の中で、永遠に悔い続けるがいい。残りの一族も、すぐに探し出して地獄へ叩き落としてやる」
剣が持ち上がった。
最後まで、無駄のない動きだった。これほどの憎しみに身を焦がしながら、その刃だけは恐ろしいほど静かだった。
リシェイが何かを叫んでいる。しかし声すらも遠くに聞こえる。意識が遠のきそうになる。
カインは何とか逃れようと、踵で地面を掻いた。
腹を押さえる足は動かない。
頭上の切っ先が、僅かに角度を変える。
あの速さで振り下ろされれば、もう避けられない。
青い瞳が、細くなった。
「死ね」




