39. 譲れないもの
薬はない。
あっさりと言い切った老婆を前に、二人は椅子を蹴るように立ち上がった。
「な……なんでだよ!」
「作り置きがないんだよ。言ったろう? その魔物は、この辺りじゃ最近は出なかった。使い道のない解毒薬を揃えておくほど暇じゃないさ」
「じゃあ、今すぐ作ってくれ!」
「原材料のストックもないんだよ」
カインの拳がテーブルを叩き、カップの中で茶が跳ねた。それでも老婆は眉一つ動かさず、こちらを見上げていた。
薬がないなら作ればいい。材料がないなら取ってくればいい。それなのに、どうしてこの老婆は平然としていられるのか。こうしている間にも、レミは熱に浮かされ、毒に身体を蝕まれている。
苦しみながら、それでも自分たちに謝っていた声が、耳から離れなかった。
「俺たちが取ってくる。それならいいだろ!」
「森にあるかもしれないがねぇ。似たような魔水晶や薬草は山ほどある。素人に見分けがつくんかい?」
「なら、一緒に……来てください。お願いします」
カインはテーブルへ両手をつき、頭を下げた。
老婆は肩と腰を順に叩いたが、その指先が、ほんの一瞬だけ止まった。細められた目が、伏せられた頭から足元までを、値踏みするようにゆっくりとなぞる。
「前に森へ入って、腰を痛めてねぇ。あんな獣道は、もう歩きたくないよ」
カインは顔を上げた。
歩きたくない。それだけの理由で、レミを見捨てるというのか。
「じゃあ、どうしろってんだよ! あれも駄目、これも駄目って、人の命がかかってんだぞ!」
「やかましいねぇ! 口の悪い男は、アタシの好みじゃないんだよ!」
「誰がアンタの好みなんか訊いた、クソババア!」
「誰がクソババアだい、このクソガキ! れでーに向かって、何て口の利き方だい!」
カインの眉間に皺が寄った。
「……レディって言いたいのか?」
「そうさ!」
老婆は胸を張り、白髪をふさりとなびかせた。二人が揃って身を引くと、その目がさらに険しくなる。
「どこまでも失礼なガキどもだねぇ。人に物を頼む態度じゃないよ!」
そんなことは分かっていた。分かっていても、喉までせり上がる怒りを呑み込めなかった。
赤の他人を助ける義務などない。それは理解している。だが、苦しんでいるのは、自分にとってはただの他人ではなかった。
レミだ。
自分の名を呼び、何度も笑いかけてくれた。荒んだ態度を向けても、恐れることなく手を伸ばしてくれた。その彼女の命が、目の前の老婆の気分一つに委ねられている。
金なら払うし、材料も取りに行く。できることは何でもするつもりなのに、それでも手が届かない。剣を振るうことならできるこの手が、彼女を救うためには何の役にも立たなかった。
「ふざけんじゃねぇ……!」
もう一度、拳がテーブルへ落ちた。
老婆の瞳が冷えた。だが、その奥には怒りとは別の、奇妙な期待のような光が一瞬だけ宿った。
「そんなに頼みたいなら、その暴言を詫びて、土下座の一つでもしてみな」
「……は?」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「できないんだろ? あんたみたいな突っ張った男は、頭なんか下げたくないんだ。床に額を擦りつけて、『助けてください』とでも泣いてごらんよ。本気だっていうならね」
耳の奥で血の音がした。
助けてほしいなら、惨めな姿を見せろ。そう言っているのだ。
握り締めた拳が震えた。人の弱みを握った途端、好きなだけ踏みつけていいと思う。そんな人間を、嫌というほど見てきた。
殴れば、黙らせられる。
だが、黙らせてどうする。その後、誰が薬を作るというのだ。ここで老婆を殴れば、レミを救う手段まで失ってしまう。
脳裏に、苦しそうに眉を寄せた彼女の顔が浮かんだ。あの優しい声も、自分を見つめる透き通った青い瞳も、失いたくなかった。もう一度元気になって、自分の名を呼んでほしかった。
「じゃあ、アタシがする! 土下座でも何でもするよ! だから――」
リシェイが前へ出たが、老婆は嘲笑った。
「違うね。アタシは、そっちのデカい男に言ってるんだよ」
こちらを指した指先が、何かを確かめるように胸元へ向けられる。
「その生意気な頭を床へ擦りつけるところが、見たいんだ」
カインは息を止めた。
「酷いよ! 何でそこまでするの!? カイン、しなくていい。元々アタシが悪いんだから……別の方法を探そうよ!」
腕を引かれ、このまま出ていけたら、どれほど楽だろうと思った。こんな相手に頼んだのが間違いだったと吐き捨て、扉を蹴り開けてしまいたかった。
けれど、別の方法など思いつかなかった。
病院にも薬はなかった。この街で他の魔工師を探し、また一から頼んでいる間、レミの体力がもつ保証はない。魔晶毒の恐ろしさは、自分も知っていた。
レミはいつも、自分より他人を優先する。だからこそ今度は、自分が彼女を優先しなければならないはずだった。
「くそ……っ」
カインはリシェイの手を振りほどくこともできず、俯いた。
どうして自分が、ここまでされなければならない。無茶な要求をしているのは、あちらではないか。そう思うたび、もう一つの考えが胸を刺した。
――それで、レミは助かるのか。
正しさを言い募っても、怒鳴っても、彼女の毒は消えない。今、自分が言い返すために使っている時間も、レミが苦しんでいる時間だった。
固く目を閉じると、今度は彼女の笑顔が浮かんだ。
外の世界のことなど何も知らないくせに、こちらの小さな気遣いは一つも取りこぼさず、嬉しそうに笑う。自分のことは後回しにして誰かへ手を伸ばし、カインの不器用な優しさまで、真っ直ぐに受け取ってしまう。
彼女はいつも、助けてもらってばかりだと言った。けれど、救われていたのは自分も同じだった。
レミがそばにいるだけで、荒んだ心が少しずつ静まっていった。名前を呼ばれ、笑いかけられるだけで胸の奥が温かくなり、いつの間にか、自分を見る青い瞳を探すようになっていた。
その感情が何なのか、分からなかったわけではない。
ただ、認めたくなかった。大切だと思うほど失った時が怖くなるし、自分のような人間が誰かを愛したところで、行き着く先は分かっている。
だから仲間なのだと、自分が連れ出した以上、守る責任があるだけなのだと言い聞かせてきた。けれど今、その言い訳に縋って何になるのだろう。
彼女がいなくなる可能性を考えただけで、胸の奥が引き裂かれそうだった。
また笑ってほしい。自分の名を呼んで、あの柔らかな声を聞かせてほしい。
そのためなら何でもすると思いながら、頭を下げることだけは嫌だというのか。
カインは、握り込んだ指を一本ずつ開いた。爪の食い込んでいた掌が痛み、その感覚が、熱くなっていた頭を僅かに冷ました。
「……カイン?」
リシェイの声には答えず、その手をそっと外した。
膝を折る。
床へ両手をつくと、傍らで息を呑む音がした。老婆の笑い声も止まり、代わりに短く息を吸う音が聞こえた。
妙に静かな気配だった。
顔を伏せる寸前、身体が強張った。床板の木目がやけにはっきりと見え、惨めに這いずって生きていた過去が、鮮明に脳裏を過ぎった。
悔しかった。こんな相手に、こんな形で頭を下げるのは。
それでも、カインは額を床へ押し当てた。
「……さっきは、無礼を言ってすみませんでした」
声が喉に引っかかり、一度唇を噛んでから続きを絞り出す。
「仲間を……レミを、死なせたくないんだ。どうか、力を貸してください。お願いします……!」
床についた手が震えた。怒りは消えておらず、顔を上げれば、また罵声を浴びせてしまいそうだった。だからそのまま指を床へ押しつけ、次の言葉を待った。
「……無様な姿だねぇ。悔しくないのかい?」
カインは歯を食いしばった。
悔しくないわけがなかった。今すぐ立ち上がって、ふざけるなと怒鳴りたい。こんな姿をリシェイに見られていることさえ耐え難かったが、顔も上げられずに苦しむレミを思うと、膝を伸ばすことはできなかった。
自分が味わう屈辱には、終わりがある。薬さえ手に入れば立ち上がり、彼女のもとへ走って、その手を握ることができる。
レミが生きている明日を迎えられる。
ここで意地を張って失うかもしれないものには、代わりがなかった。
「あいつを救えるなら……」
額を床へつけたまま、カインは声を絞った。
「他に方法がないなら、俺のプライドなんか、いくらでも捨ててやる!」
誰かのために、ここまでできる自分がいるとは思わなかった。仲間だから、自分が連れ出したから――それだけで済ませておきたかった想いが、今、床へ伏せた身体を支えていた。
それでもまだ、その感情に名前をつけるのは怖かった。
ただ、失いたくない。
レミのいない明日だけは、どうしても選べなかった。
「……助けてください。お願いします……!」
隣で衣擦れの音がした。リシェイも膝をつき、床へ頭を下げていた。嗚咽を堪える息が小さく震えていて、その姿を横目に捉えると、カインはもう一度深く額を伏せた。
長い沈黙の後、老婆の溜息が頭上へ落ちた。
「はあ……本当に、そこまでするとはねぇ」
カインは動かなかった。まだ、薬を作るという返事は聞いていない。
レミを救うためなら、何度でも頭を下げる。そのために捨てなければならない誇りがあるなら、いくらでも捨ててやるつもりだった。
「……もういいよ。さっさと立ちな」




