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EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第四章 交錯する宿命
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39. 譲れないもの


薬はない。


 あっさりと言い切った老婆を前に、二人は椅子を蹴るように立ち上がった。


「な……なんでだよ!」

「作り置きがないんだよ。言ったろう? その魔物は、この辺りじゃ最近は出なかった。使い道のない解毒薬を揃えておくほど暇じゃないさ」

「じゃあ、今すぐ作ってくれ!」

「原材料のストックもないんだよ」


 カインの拳がテーブルを叩き、カップの中で茶が跳ねた。それでも老婆は眉一つ動かさず、こちらを見上げていた。


 薬がないなら作ればいい。材料がないなら取ってくればいい。それなのに、どうしてこの老婆は平然としていられるのか。こうしている間にも、レミは熱に浮かされ、毒に身体を蝕まれている。


 苦しみながら、それでも自分たちに謝っていた声が、耳から離れなかった。


「俺たちが取ってくる。それならいいだろ!」

「森にあるかもしれないがねぇ。似たような魔水晶や薬草は山ほどある。素人に見分けがつくんかい?」

「なら、一緒に……来てください。お願いします」


 カインはテーブルへ両手をつき、頭を下げた。


 老婆は肩と腰を順に叩いたが、その指先が、ほんの一瞬だけ止まった。細められた目が、伏せられた頭から足元までを、値踏みするようにゆっくりとなぞる。


「前に森へ入って、腰を痛めてねぇ。あんな獣道は、もう歩きたくないよ」


 カインは顔を上げた。


 歩きたくない。それだけの理由で、レミを見捨てるというのか。


「じゃあ、どうしろってんだよ! あれも駄目、これも駄目って、人の命がかかってんだぞ!」

「やかましいねぇ! 口の悪い男は、アタシの好みじゃないんだよ!」

「誰がアンタの好みなんか訊いた、クソババア!」

「誰がクソババアだい、このクソガキ! れでーに向かって、何て口の利き方だい!」


 カインの眉間に皺が寄った。


「……レディって言いたいのか?」

「そうさ!」


 老婆は胸を張り、白髪をふさりとなびかせた。二人が揃って身を引くと、その目がさらに険しくなる。


「どこまでも失礼なガキどもだねぇ。人に物を頼む態度じゃないよ!」


 そんなことは分かっていた。分かっていても、喉までせり上がる怒りを呑み込めなかった。



 赤の他人を助ける義務などない。それは理解している。だが、苦しんでいるのは、自分にとってはただの他人ではなかった。


 レミだ。


 自分の名を呼び、何度も笑いかけてくれた。荒んだ態度を向けても、恐れることなく手を伸ばしてくれた。その彼女の命が、目の前の老婆の気分一つに委ねられている。


 金なら払うし、材料も取りに行く。できることは何でもするつもりなのに、それでも手が届かない。剣を振るうことならできるこの手が、彼女を救うためには何の役にも立たなかった。


「ふざけんじゃねぇ……!」



 もう一度、拳がテーブルへ落ちた。


 老婆の瞳が冷えた。だが、その奥には怒りとは別の、奇妙な期待のような光が一瞬だけ宿った。



「そんなに頼みたいなら、その暴言を詫びて、土下座の一つでもしてみな」

「……は?」



 一瞬、言葉の意味が分からなかった。



「できないんだろ? あんたみたいな突っ張った男は、頭なんか下げたくないんだ。床に額を擦りつけて、『助けてください』とでも泣いてごらんよ。本気だっていうならね」


 耳の奥で血の音がした。


 助けてほしいなら、惨めな姿を見せろ。そう言っているのだ。


 握り締めた拳が震えた。人の弱みを握った途端、好きなだけ踏みつけていいと思う。そんな人間を、嫌というほど見てきた。


 殴れば、黙らせられる。


 だが、黙らせてどうする。その後、誰が薬を作るというのだ。ここで老婆を殴れば、レミを救う手段まで失ってしまう。


 脳裏に、苦しそうに眉を寄せた彼女の顔が浮かんだ。あの優しい声も、自分を見つめる透き通った青い瞳も、失いたくなかった。もう一度元気になって、自分の名を呼んでほしかった。


「じゃあ、アタシがする! 土下座でも何でもするよ! だから――」


 リシェイが前へ出たが、老婆は嘲笑った。


「違うね。アタシは、そっちのデカい男に言ってるんだよ」


 こちらを指した指先が、何かを確かめるように胸元へ向けられる。


「その生意気な頭を床へ擦りつけるところが、見たいんだ」


 カインは息を止めた。


「酷いよ! 何でそこまでするの!? カイン、しなくていい。元々アタシが悪いんだから……別の方法を探そうよ!」


 腕を引かれ、このまま出ていけたら、どれほど楽だろうと思った。こんな相手に頼んだのが間違いだったと吐き捨て、扉を蹴り開けてしまいたかった。



 けれど、別の方法など思いつかなかった。



 病院にも薬はなかった。この街で他の魔工師を探し、また一から頼んでいる間、レミの体力がもつ保証はない。魔晶毒の恐ろしさは、自分も知っていた。


 レミはいつも、自分より他人を優先する。だからこそ今度は、自分が彼女を優先しなければならないはずだった。


「くそ……っ」


 カインはリシェイの手を振りほどくこともできず、俯いた。


 どうして自分が、ここまでされなければならない。無茶な要求をしているのは、あちらではないか。そう思うたび、もう一つの考えが胸を刺した。



 ――それで、レミは助かるのか。



 正しさを言い募っても、怒鳴っても、彼女の毒は消えない。今、自分が言い返すために使っている時間も、レミが苦しんでいる時間だった。



 固く目を閉じると、今度は彼女の笑顔が浮かんだ。


 外の世界のことなど何も知らないくせに、こちらの小さな気遣いは一つも取りこぼさず、嬉しそうに笑う。自分のことは後回しにして誰かへ手を伸ばし、カインの不器用な優しさまで、真っ直ぐに受け取ってしまう。


 彼女はいつも、助けてもらってばかりだと言った。けれど、救われていたのは自分も同じだった。



 レミがそばにいるだけで、荒んだ心が少しずつ静まっていった。名前を呼ばれ、笑いかけられるだけで胸の奥が温かくなり、いつの間にか、自分を見る青い瞳を探すようになっていた。



 その感情が何なのか、分からなかったわけではない。



 ただ、認めたくなかった。大切だと思うほど失った時が怖くなるし、自分のような人間が誰かを愛したところで、行き着く先は分かっている。


 だから仲間なのだと、自分が連れ出した以上、守る責任があるだけなのだと言い聞かせてきた。けれど今、その言い訳に縋って何になるのだろう。


 彼女がいなくなる可能性を考えただけで、胸の奥が引き裂かれそうだった。


 また笑ってほしい。自分の名を呼んで、あの柔らかな声を聞かせてほしい。


 そのためなら何でもすると思いながら、頭を下げることだけは嫌だというのか。



 カインは、握り込んだ指を一本ずつ開いた。爪の食い込んでいた掌が痛み、その感覚が、熱くなっていた頭を僅かに冷ました。



「……カイン?」


 リシェイの声には答えず、その手をそっと外した。



 膝を折る。



 床へ両手をつくと、傍らで息を呑む音がした。老婆の笑い声も止まり、代わりに短く息を吸う音が聞こえた。

 妙に静かな気配だった。


 顔を伏せる寸前、身体が強張った。床板の木目がやけにはっきりと見え、惨めに這いずって生きていた過去が、鮮明に脳裏を過ぎった。


 悔しかった。こんな相手に、こんな形で頭を下げるのは。



 それでも、カインは額を床へ押し当てた。



「……さっきは、無礼を言ってすみませんでした」


 声が喉に引っかかり、一度唇を噛んでから続きを絞り出す。


「仲間を……レミを、死なせたくないんだ。どうか、力を貸してください。お願いします……!」


 床についた手が震えた。怒りは消えておらず、顔を上げれば、また罵声を浴びせてしまいそうだった。だからそのまま指を床へ押しつけ、次の言葉を待った。


「……無様な姿だねぇ。悔しくないのかい?」


 カインは歯を食いしばった。


 悔しくないわけがなかった。今すぐ立ち上がって、ふざけるなと怒鳴りたい。こんな姿をリシェイに見られていることさえ耐え難かったが、顔も上げられずに苦しむレミを思うと、膝を伸ばすことはできなかった。


 自分が味わう屈辱には、終わりがある。薬さえ手に入れば立ち上がり、彼女のもとへ走って、その手を握ることができる。


 レミが生きている明日を迎えられる。


 ここで意地を張って失うかもしれないものには、代わりがなかった。


「あいつを救えるなら……」


 額を床へつけたまま、カインは声を絞った。



「他に方法がないなら、俺のプライドなんか、いくらでも捨ててやる!」



 誰かのために、ここまでできる自分がいるとは思わなかった。仲間だから、自分が連れ出したから――それだけで済ませておきたかった想いが、今、床へ伏せた身体を支えていた。


 それでもまだ、その感情に名前をつけるのは怖かった。



 ただ、失いたくない。

 レミのいない明日だけは、どうしても選べなかった。



「……助けてください。お願いします……!」


 隣で衣擦れの音がした。リシェイも膝をつき、床へ頭を下げていた。嗚咽を堪える息が小さく震えていて、その姿を横目に捉えると、カインはもう一度深く額を伏せた。


 長い沈黙の後、老婆の溜息が頭上へ落ちた。


「はあ……本当に、そこまでするとはねぇ」


 カインは動かなかった。まだ、薬を作るという返事は聞いていない。


 レミを救うためなら、何度でも頭を下げる。そのために捨てなければならない誇りがあるなら、いくらでも捨ててやるつもりだった。



「……もういいよ。さっさと立ちな」




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