4. 外の世界への憧れ
「……レミ。あんた、ずっとここにいるのか?」
改めて見回した部屋の異様さに、カインは眉をひそめた。
冷たい切り石の床に、最低限の簡素なベッド。壁際には数冊の本の並ぶ無機質なラック。少女の私室というよりは、厳重な観察室か檻そのものだ。
床の隅に置かれた、擦り切れた一冊の古い本。拾い上げてみれば、手垢でボロボロになった植物の図鑑だった。
「それ……大好きなの」
レミが、壊れ物を慈しむように本を見つめた。
「街の市場の匂いも、海に沈む夕日の色も、風が運ぶ草の香りも……全部、本の中でしか知らないけれど。外の世界は、とても綺麗なんだよね?」
その問いかけは、あまりに純粋で、胸が締め付けられるほど切実だった。
「ああ、綺麗だよ。……俺の住んでるリアンシティって港町なんてさ、夕方になると海が全部茜色に染まって、市場の飯の美味そうな匂いが街中に広がるんだ。こんな埃っぽい砂だらけの場所とは比べ物にならねぇ」
「……あかね色……」
レミの青い瞳が、見たこともない光を宿して揺れた。
「行ってみたい……。本物の風に吹かれて、その海を……見てみたい」
ぽつりと零れ落ちたその言葉は、彼女が生まれて初めて口にした、心からの叫びのようだった。
だが――次の瞬間、レミは自らの手首に嵌められた黒い金属の拘束具を見つめ、痛ましく表情を凍りつかせた。
「……ううん。嘘、ごめんなさい。忘れ……」
「嘘なわけねぇだろ」
カインは遮るように、無意識のうちに一歩踏み込んでいた。
普段なら他人の事情に深入りなど絶対にしない。境界線を引き、ドライに割り切るのがプロの流儀だ。
けれど、冷たい枷に繋がれ、光のない部屋で空を見つめ続けるこの少女を前にして、どうしても背を向けることができなかった。
「行きたいなら、行きたいって言えばいい。……俺が、」
――連れてってやる。
喉元まで出かかったその言葉を、カインは辛うじて呑み込んだ。見ず知らずの他人に無責任に言っていい言葉じゃない。
だが、その熱は確かにレミへ届いていた。レミは息を呑み、泣きそうなほど見開かれた瞳でカインを見つめ返した。
二人の間に流れる、張り詰めた熱い沈黙。
カチリ、と室内の仕掛け時計が小さな音を立てた。続いて、時刻を告げる無機質な音が六度、静かな部屋に響き渡る。
続いて、出口の扉でカチリと錠の外れる音がした。
十八時。
検査の時間を告げるその音が、二人の間に生まれた熱を一瞬で冷ました。
「……っ」
レミの顔から血の気が引いた。彼女は弾かれたように立ち上がると、長い銀髪を翻して出口の扉へ向かった。
「レミ!?」
「行かなくちゃ……時間なの」
「どこへ行くんだよ、その手首の枷は一体――」
「時計が鳴ったら、検査室へ行くように言われてるの。……その時しか、扉は開かないから」
すがりつくようなカインの手を振り切るように、レミはドアノブに手をかけた。
けれど、扉を開ける直前、彼女は一度だけ立ち止まった。
振り返ったその顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。それでも彼女は、ぎこちなく口元を緩めようとした。
「あかね色の海の話……嬉しかった。……元気でね、カイン」
「待てよ、レミ――!」
制止の声も虚しく、扉は冷酷な音を立てて閉ざされた。
あとには、冷え切った空気と、あの少女が残していった熱っぽいため息だけが取り残される。
(……チッ! なんだってんだよ、あいつ)
行きたいと願ったくせに、自ら檻の奥へと戻っていく。その痛ましい姿が、カインの胸の奥を激しく掻き乱した。
しかし、本人がいない以上、ここで考えていても答えは出ない。
扉の向こうは研究所の内部だ。廊下へ出たところで、警備兵とゴーレムのいる下層を通らなければ外には出られない。
脱出路を確かめようと窓へ向かって踏み出した――その瞬間だった。両目の奥を、焼きごてで抉られたような激痛が走ったのは。
「がっ……あ……!?」
激痛と共に、脳髄を力任せに鷲掴みにされたような凄まじい衝撃が頭蓋の内側で炸裂する。
今までも両の瞳が真紅に染まり疼くことや「声」に苛まれ、気分が悪くなること自体は何度もあった。だが、今回のはまるで格が違う。神経を直接引き裂かれるような圧迫感とともに、荒れ狂う怒号のような言葉が脳裏へ雪崩れ込んできた。
──《行くな》
──《捉えろ》
──《出せ》
「くそっ……! なんだ、これ……! 頭が……割れる……!」
激しい目眩と嘔気に襲われ、カインは石畳の床へ膝をついた。手足に力が入らず、呼吸すら喉に張り付いてまともに吸えない。額から滝のような脂汗が滴り落ち、視界が白く明滅する。
(ふざけんな……! なんで……こんな時に……っ!)
立ち上がることすらできない。こんな状態で外壁に飛び出せば、一瞬でバランスを崩して地上へ転落死するのがオチだ。
カインは壁に背を預け、荒い呼吸を繰り返しながら、激痛の波が引くのを歯を食いしばって耐え続けた。
意識が朦朧とする中で、部屋の異様な光景が視界に焼き付く。
冷たい石造りの壁、薬品の匂い、手首に嵌められた黒い拘束具。擦り切れるほど読まれた植物図鑑。そして、去り際のあの消え入りそうな笑顔。
(あいつ……一体何者なんだ……? なんでレミに会ってから、こんなに頭ん中が暴れてやがる……?)
脳裏に響き続ける《行くな》《捉えろ》《出せ》という謎の声と、少女の寂しげな瞳が交錯する。
助けてもらい、傷まで治してもらったのに、ろくにお礼すら言えなかった。
外の世界の話を聞いて「行ってみたい」と呟いた彼女は、なぜあんな表情をしていたのか。
激痛の波に呑まれながら、カインはただ一人、床の上で呻き声を漏らし続けていた――。




