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EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第三章 旅路の始まりと伝承
36/93

35. 別の形の幸せ

3章ラストです。


翌朝にはレミの体調も回復し、一同は胸を撫で下ろした。


「レミ、不調を感じたら遠慮なく言えよ。我慢するより、早めに休む方が効率いいからな」

「うん、ありがとう」


 昨日、教会で脳裏を掠めた光景は、まだうまく説明できないという。何か思い出したら相談することにして、宿を出た。




 街を発つ前に、もう一度教会へ立ち寄った。

 心配をかけた神父へ挨拶したいという、レミの希望だった。


 朝のミサを終えた人々と入れ替わりに聖堂へ入ると、神父が歩み寄ってきた。


「昨日のお嬢さん……もう歩いても大丈夫なのですか?」

「はい。突然倒れてしまって、ご迷惑をおかけしました」

「ご回復されたのなら何よりです。無茶はなさらないようにね」



 リシェイとフェイが堂内を見学する間、カインは壁にもたれていた。


 やはり、教会は居心地が悪い。


 家を失った幼い自分を保護したのも、教会だった。

 貧しくとも、孤児たちやシスターと支え合った、かつての居場所。



 ――真紅の瞳が発現するまでは。

 


 どれほど祈っても、大切なものを奪われ、追放される自分を神は救わなかった。

 己の身は己で守るしかないと、あの日に知った。



「あの……『救済の聖地』について、ご存知でしょうか?」


 レミの声に顔を上げる。


「深い信仰を持つ方々が開いた場所だと伺ったのですが……」

「あそこは、もはや神聖とはほど遠い場所です」


 神父の表情が険しくなった。


「神の名を隠れ蓑に、罪から逃れる者たちが集まっている。統括者が人々を奴隷のように使役しているとも、感情を失った人間ばかりだとも聞きます。……まさか、向かうおつもりでは?」

「いえ、噂で聞いたものですから……」


 慌てて取り繕うと、神父は表情を和らげた。「どうぞごゆっくり」と告げ、奥へ戻っていく。


 レミはその場に佇んでいた。



「……気が変わったんなら、行くのはやめろ」



 振り向いた彼女へ、カインは続けた。


「別の方法を探せばいい。行かなきゃならねぇなんて、意地張るなよ」

「昔、ヴァートさんに教わったことを思い出して、訊いてみたの。私の気持ちは変わらないよ」

「俺だって、そこにお前一人を残すのが最良だなんて思っちゃいねぇよ。焦って決めるな」


 カインは壁を離れ、隣に立った。

 二人で、窓から差し込む光を見上げる。



 幸せになってほしかった。


 あれほど苦しんできた彼女の行く先が、得体の知れない場所で一人きりになることだとは、思いたくない。


「……別の形の幸せはないのか?」

「別の幸せ?」

「俺も、普通の女の子が何を望むかなんて分かんねぇけど……仕事して、周りに認められたいとか」


 ルディナスやメルを思い浮かべて言うと、レミは考え込んだ。


「楽しそうだけど、どんなお仕事があるのかも、まだよく知らないから……。家事は好きだよ。もっとお料理も覚えたい」

「まあ、外に出たばかりだしな」


 いつか好きな人と家庭を築きたい。そう話していたメルを思い出す。


「じゃあ、好きな男と結婚して、嫁さんになるとか」

「お嫁さんになるって、一人の男の人と家族になる約束をすることで合ってる?」

「まあ、そうだな」

「素敵だと思うけど、私をお嫁さんにしてくれる人なんていないから、無理かなぁ」

「そんなわけねぇだろ」


 即座に言い返していた。

 彼女を知れば、惹かれる男などいくらでもいるはずだ。


 けれど、自分は違う。

 誰かが大切になるのが怖かった。失えば、もう耐えられない。自分のような呪われた人間が、誰かを愛していいはずもない。


 それなのに、ふと思ってしまった。


(普通に人を愛せるなら……レミとなら、幸せになれそうだな)


 その考えに、カインは自分で戸惑った。幸せにしてやりたい、ではない。自分も、彼女と幸せになれそうだと思ったのだ。


「じゃあ、カインがお嫁さんにしてくれる?」

「ああ……って、えぇっ!?」


 思わず振り向くと、レミは悪戯っぽく笑っていた。


「冗談だよ。すごく驚いちゃったね」

「ビビったっつーの! 冗談でも、俺の嫁になりたいなんて軽々しく言うなよ」

「どうして?」

「俺なんかやめとけ。ガサツだし、口も悪いだろ。もっと優しくて落ち着いた……ウィリスみたいな男の方がいいんじゃねぇか」

「ウィリスさんも素敵だよ。でもカインだって優しくて、強くて、私には世界で一番素敵な人だよ?」


 まっすぐに見上げられ、顔が熱くなった。


 否定しなければならないのに、言葉が出てこなかった。冗談だろ、といつものように笑い飛ばせばいいのに、彼女の声を聞いていると、その言葉を手放したくなくなった。


「でも……メルやリシェイに好きな人の話を聞かれても、よく分からなかったの」


 レミは目を伏せた。

 誰かを特別に好きになるとは、どういうことなのだろう。狭い檻で育った自分には、そんな感情も分からないのかもしれない。



 俯きかけたレミの頬を、カインの両手がばちんと挟んだ。



「ひゃっ!?」

「また頭ん中で不吉なこと考えてんだろ。眉下がってんぞ、コラ」


 頬を引っ張り、下がった眉を持ち上げる。

 レミは涙目になった。


「カ、カイン……何するの……」

「何でも難しく考えるな。悩みがあるなら俺に話せ。んで、ちゃんと笑ってろ」

「……痛いよ」


 頬を挟まれたまま、困ったように笑う。

 カインは噴き出した。


「笑いながら痛いって言うなよ、不気味だぞ」

「だって、カインが笑ってろって言ったから」

「そうだっけ?」


 とぼけた顔を見つめ、レミは小さく息をついた。


「カインの優しさに、もう何度救われたのかな」

「……俺は優しくなんかねぇよ」

「ううん」


 手が離れると、レミはその胸へ身体を預けた。


「お、おい! また気分悪くなったのか!?」

「そうじゃないよ。ただ、嬉しくて……」


 細い腕が胴へ回り、ぎゅっと抱きしめられる。

 カインは息を止めた。


 近い。

 あまりにも近すぎる。


 服越しの体温も、胸元に触れる彼女の呼吸も、鮮明に感じられた。


 離れなければ。

 そう思うのに、身体が動かない。


 突き放せないのか。

 それとも、自分が離れたくないのか。


 答えを出すのが怖くて、カインはただ、腕の中の温もりに意識を奪われていた。


「ありがとう、カイン」

「あ、ああ……」


 彼女はただ、嬉しくて抱きついている。子どもが親にするようなものだ。その親愛を、自分に都合よく受け取ってはいけない。

 そう思うのに、抱きしめられていることが嬉しかった。彼女のそばにいるのが自分であることを、誇らしいとさえ感じていた。



「お仕事も、結婚も、それがどんな幸せなのかはまだ分からないけど……」


 ステンドグラスの光が、銀髪と胸元のシルバークロスを照らした。



「今はすごく幸せ。大好きな人たちが……カインが、一緒にいてくれるから」



 カインの手が、宙で止まった。


 自分が、彼女の幸せの一部になっている。

 嬉しかった。それと同じくらい、恐ろしかった。


 大切なものは、必ず奪われる。

 そう思い知らされてから、誰かを愛することを避けてきた。失うくらいなら、初めから持たなければいい。


 なのにレミは、閉ざしていた場所へ、ためらいなく入ってくる。


「ずっと死にたいって思っていたけれど……今はそれだけじゃないよ」

「……レミ……」


 胸が締めつけられた。



 生きたいと思えるようになった彼女のそばに、自分がいる。それだけで、救われる気がした。


 もう二度と、死にたいと思わせたくない。

 信頼してくれるなら、裏切りたくない。


 彼女を失うのは怖い。

 けれど、その怖さから逃げるために、今この手を振りほどくこともできなかった。


 迷っていた手を、そっと頭へ置くと、レミの身体から力が抜けた。拒まれなかったことに安堵したように、身を委ねてくる。

 その反応に、胸の奥が熱くなった。



 こんなふうに安心してくれるのか。

 大雑把で乱暴な自分の手でも。



 カインはゆっくりと腕を回し、華奢な身体を抱き寄せた。


 ただ、彼女が生きたいと思える今を守りたい。そう願う腕に、ほかの気持ちが混じっていないとは、もう言い切れなかった。


 それでも今は、この温もりを手放したくなかった。


 教会で祈っても、自分の願いは届かなかった。

 神など、もう信じられない。


 けれど腕の中には、生きている彼女がいる。自分を信じ、安心して身体を預けている。

 救いというものがあるのなら、誰かの手の中にあるのかもしれない。


 髪から漂うかすかな香り。

 胸に触れる、穏やかな呼吸。


 その一つ一つを感じながら、カインはようやく肩の力を抜いた。彼女を抱きしめている自分を、今だけは否定したくなかった。



 やがてレミはゆっくりと身体を離し、「もう大丈夫」と心からの笑顔を見せた。


 その笑顔を、ステンドグラスの光が包んでいた。

 かつて神に見捨てられたと思った場所で、カインは初めて、祈りではなく腕の中の温もりに救いを見た。



 カインは胸に残る温もりを確かめるように、静かに目を細めるのだった。





ここで3章終了です。読んでいただき、ありがとうございます!


次からは大きく物語が動いていきます。

重苦しい展開もあると思いますが、お付き合いいただけたら幸いです。


今日続けて更新します。

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