35. 別の形の幸せ
3章ラストです。
翌朝にはレミの体調も回復し、一同は胸を撫で下ろした。
「レミ、不調を感じたら遠慮なく言えよ。我慢するより、早めに休む方が効率いいからな」
「うん、ありがとう」
昨日、教会で脳裏を掠めた光景は、まだうまく説明できないという。何か思い出したら相談することにして、宿を出た。
街を発つ前に、もう一度教会へ立ち寄った。
心配をかけた神父へ挨拶したいという、レミの希望だった。
朝のミサを終えた人々と入れ替わりに聖堂へ入ると、神父が歩み寄ってきた。
「昨日のお嬢さん……もう歩いても大丈夫なのですか?」
「はい。突然倒れてしまって、ご迷惑をおかけしました」
「ご回復されたのなら何よりです。無茶はなさらないようにね」
リシェイとフェイが堂内を見学する間、カインは壁にもたれていた。
やはり、教会は居心地が悪い。
家を失った幼い自分を保護したのも、教会だった。
貧しくとも、孤児たちやシスターと支え合った、かつての居場所。
――真紅の瞳が発現するまでは。
どれほど祈っても、大切なものを奪われ、追放される自分を神は救わなかった。
己の身は己で守るしかないと、あの日に知った。
「あの……『救済の聖地』について、ご存知でしょうか?」
レミの声に顔を上げる。
「深い信仰を持つ方々が開いた場所だと伺ったのですが……」
「あそこは、もはや神聖とはほど遠い場所です」
神父の表情が険しくなった。
「神の名を隠れ蓑に、罪から逃れる者たちが集まっている。統括者が人々を奴隷のように使役しているとも、感情を失った人間ばかりだとも聞きます。……まさか、向かうおつもりでは?」
「いえ、噂で聞いたものですから……」
慌てて取り繕うと、神父は表情を和らげた。「どうぞごゆっくり」と告げ、奥へ戻っていく。
レミはその場に佇んでいた。
「……気が変わったんなら、行くのはやめろ」
振り向いた彼女へ、カインは続けた。
「別の方法を探せばいい。行かなきゃならねぇなんて、意地張るなよ」
「昔、ヴァートさんに教わったことを思い出して、訊いてみたの。私の気持ちは変わらないよ」
「俺だって、そこにお前一人を残すのが最良だなんて思っちゃいねぇよ。焦って決めるな」
カインは壁を離れ、隣に立った。
二人で、窓から差し込む光を見上げる。
幸せになってほしかった。
あれほど苦しんできた彼女の行く先が、得体の知れない場所で一人きりになることだとは、思いたくない。
「……別の形の幸せはないのか?」
「別の幸せ?」
「俺も、普通の女の子が何を望むかなんて分かんねぇけど……仕事して、周りに認められたいとか」
ルディナスやメルを思い浮かべて言うと、レミは考え込んだ。
「楽しそうだけど、どんなお仕事があるのかも、まだよく知らないから……。家事は好きだよ。もっとお料理も覚えたい」
「まあ、外に出たばかりだしな」
いつか好きな人と家庭を築きたい。そう話していたメルを思い出す。
「じゃあ、好きな男と結婚して、嫁さんになるとか」
「お嫁さんになるって、一人の男の人と家族になる約束をすることで合ってる?」
「まあ、そうだな」
「素敵だと思うけど、私をお嫁さんにしてくれる人なんていないから、無理かなぁ」
「そんなわけねぇだろ」
即座に言い返していた。
彼女を知れば、惹かれる男などいくらでもいるはずだ。
けれど、自分は違う。
誰かが大切になるのが怖かった。失えば、もう耐えられない。自分のような呪われた人間が、誰かを愛していいはずもない。
それなのに、ふと思ってしまった。
(普通に人を愛せるなら……レミとなら、幸せになれそうだな)
その考えに、カインは自分で戸惑った。幸せにしてやりたい、ではない。自分も、彼女と幸せになれそうだと思ったのだ。
「じゃあ、カインがお嫁さんにしてくれる?」
「ああ……って、えぇっ!?」
思わず振り向くと、レミは悪戯っぽく笑っていた。
「冗談だよ。すごく驚いちゃったね」
「ビビったっつーの! 冗談でも、俺の嫁になりたいなんて軽々しく言うなよ」
「どうして?」
「俺なんかやめとけ。ガサツだし、口も悪いだろ。もっと優しくて落ち着いた……ウィリスみたいな男の方がいいんじゃねぇか」
「ウィリスさんも素敵だよ。でもカインだって優しくて、強くて、私には世界で一番素敵な人だよ?」
まっすぐに見上げられ、顔が熱くなった。
否定しなければならないのに、言葉が出てこなかった。冗談だろ、といつものように笑い飛ばせばいいのに、彼女の声を聞いていると、その言葉を手放したくなくなった。
「でも……メルやリシェイに好きな人の話を聞かれても、よく分からなかったの」
レミは目を伏せた。
誰かを特別に好きになるとは、どういうことなのだろう。狭い檻で育った自分には、そんな感情も分からないのかもしれない。
俯きかけたレミの頬を、カインの両手がばちんと挟んだ。
「ひゃっ!?」
「また頭ん中で不吉なこと考えてんだろ。眉下がってんぞ、コラ」
頬を引っ張り、下がった眉を持ち上げる。
レミは涙目になった。
「カ、カイン……何するの……」
「何でも難しく考えるな。悩みがあるなら俺に話せ。んで、ちゃんと笑ってろ」
「……痛いよ」
頬を挟まれたまま、困ったように笑う。
カインは噴き出した。
「笑いながら痛いって言うなよ、不気味だぞ」
「だって、カインが笑ってろって言ったから」
「そうだっけ?」
とぼけた顔を見つめ、レミは小さく息をついた。
「カインの優しさに、もう何度救われたのかな」
「……俺は優しくなんかねぇよ」
「ううん」
手が離れると、レミはその胸へ身体を預けた。
「お、おい! また気分悪くなったのか!?」
「そうじゃないよ。ただ、嬉しくて……」
細い腕が胴へ回り、ぎゅっと抱きしめられる。
カインは息を止めた。
近い。
あまりにも近すぎる。
服越しの体温も、胸元に触れる彼女の呼吸も、鮮明に感じられた。
離れなければ。
そう思うのに、身体が動かない。
突き放せないのか。
それとも、自分が離れたくないのか。
答えを出すのが怖くて、カインはただ、腕の中の温もりに意識を奪われていた。
「ありがとう、カイン」
「あ、ああ……」
彼女はただ、嬉しくて抱きついている。子どもが親にするようなものだ。その親愛を、自分に都合よく受け取ってはいけない。
そう思うのに、抱きしめられていることが嬉しかった。彼女のそばにいるのが自分であることを、誇らしいとさえ感じていた。
「お仕事も、結婚も、それがどんな幸せなのかはまだ分からないけど……」
ステンドグラスの光が、銀髪と胸元のシルバークロスを照らした。
「今はすごく幸せ。大好きな人たちが……カインが、一緒にいてくれるから」
カインの手が、宙で止まった。
自分が、彼女の幸せの一部になっている。
嬉しかった。それと同じくらい、恐ろしかった。
大切なものは、必ず奪われる。
そう思い知らされてから、誰かを愛することを避けてきた。失うくらいなら、初めから持たなければいい。
なのにレミは、閉ざしていた場所へ、ためらいなく入ってくる。
「ずっと死にたいって思っていたけれど……今はそれだけじゃないよ」
「……レミ……」
胸が締めつけられた。
生きたいと思えるようになった彼女のそばに、自分がいる。それだけで、救われる気がした。
もう二度と、死にたいと思わせたくない。
信頼してくれるなら、裏切りたくない。
彼女を失うのは怖い。
けれど、その怖さから逃げるために、今この手を振りほどくこともできなかった。
迷っていた手を、そっと頭へ置くと、レミの身体から力が抜けた。拒まれなかったことに安堵したように、身を委ねてくる。
その反応に、胸の奥が熱くなった。
こんなふうに安心してくれるのか。
大雑把で乱暴な自分の手でも。
カインはゆっくりと腕を回し、華奢な身体を抱き寄せた。
ただ、彼女が生きたいと思える今を守りたい。そう願う腕に、ほかの気持ちが混じっていないとは、もう言い切れなかった。
それでも今は、この温もりを手放したくなかった。
教会で祈っても、自分の願いは届かなかった。
神など、もう信じられない。
けれど腕の中には、生きている彼女がいる。自分を信じ、安心して身体を預けている。
救いというものがあるのなら、誰かの手の中にあるのかもしれない。
髪から漂うかすかな香り。
胸に触れる、穏やかな呼吸。
その一つ一つを感じながら、カインはようやく肩の力を抜いた。彼女を抱きしめている自分を、今だけは否定したくなかった。
やがてレミはゆっくりと身体を離し、「もう大丈夫」と心からの笑顔を見せた。
その笑顔を、ステンドグラスの光が包んでいた。
かつて神に見捨てられたと思った場所で、カインは初めて、祈りではなく腕の中の温もりに救いを見た。
カインは胸に残る温もりを確かめるように、静かに目を細めるのだった。
ここで3章終了です。読んでいただき、ありがとうございます!
次からは大きく物語が動いていきます。
重苦しい展開もあると思いますが、お付き合いいただけたら幸いです。
今日続けて更新します。




