34. 唯一の逃げ道
レミのまつ毛が揺れ、ゆっくりと瞼が開いた。
心配そうに覗き込む三人の顔が、次第にはっきりと見えてくる。
「カイン……リシェイ……フェイ……」
「気がついたか?」
カインの声に、レミはシーツを握り締めた。少しずつ昼間の記憶が戻ってきて、自分の置かれた状況を何となく理解した。
「ごめんなさい……いきなり倒れちゃって……」
「何でもかんでも謝るなよ。悪いことしたわけじゃねぇだろ」
「ごめんなさい……」
「ほら、また謝った」
カインが口元を緩めると、レミも力なく微笑んだ。
額へ触れてみたが、熱はない。閉じ込められて暮らしていた彼女には、連日の山越えが堪えたのかもしれなかった。
「気分はどうだ?」
「うん。もう、大丈夫」
レミはゆっくりと上体を起こした。
起き上がったタイミングを見計らい、フェイが木製のお椀を運んできた。運ばれてきたミルク粥からは、優しい湯気と甘い香りが漂っている。
フェイは料理が得意だ。
手際も良いはずなのに、普段は「面倒くさいし、可愛い女子に作ってもらった飯の方が美味い」と言って怠けるだけだった。レミのためならばと腕を振るってくれた。
「いただきます……」
木のスプーンで一口運ぶ。
温かな甘さが喉を通ると、レミの表情が少し和らいだ。
「今日はもう休みなヨ。明日も気分が悪かったら、遠慮なく言うこと。いいネ?」
「ありがとう、フェイ。すごく美味しい……」
フェイが安堵の息を吐く。
レミはお椀へ目を落としたまま、ぽつりと尋ねた。
「何があったのか、訊かないの……?」
カインは椅子の背へ身体を預けた。
「お前が本当に話したいって思った時に、いくらでも聞くって決めたからな」
先日、朝のベンチで自分が告げた言葉をそのまま返され、レミは青い瞳を大きく見開いた。
「……ありがとう」
急いで説明しなくてもいい。
そう思うと、胸のざわめきが少しずつ静まっていった。あれは一体何だったのだろう?
「自分でも、よく分からないの。教会にいたら、頭の中に何かが見えて……」
どれも、形を掴む前に消えてしまった。
ただ、怖さと哀しさだけが残っている。
「誰かに助けてって言いたかったのに、声が出なくて……」
俯くレミの頭を、カインがそっと撫でた。
「もう大丈夫だ。俺たちがいるだろ。今度また怖くなったら、真っ先に俺の名前を呼べ。絶対に駆けつけてやるから」
「もちろん、オレもネ」
「アタシもだよ!」
三人を見上げ、レミは目頭が熱くなるのを感じた。
「ありがとう……私、今、本当に幸せ……」
こんな時間を知ってしまうと、『救済の聖地』へ行かず、ずっと皆と歩いていたくなる。
口にはできない願いを胸にしまい、レミは温かなお椀を両手で包んだ。心まで満たされるのをはっきりと感じる。
(みんななら、どんな暗闇の中からでも……私を見つけてくれそう)
その幸せを、今はただ噛み締めていた。
***
翌朝、レミは誰よりも早く目を覚ました。
暗い部屋で一人目覚めるのは、長年の監禁生活で染みついた習慣だった。
白み始めた窓の光を頼りに、ベッドの上で地図を広げる。
かつて、同じように地図を眺めた日のことを思い出した。
***
『この国は、すごく大きいのね』
『リドゥ国だね。ラメント大陸では随一の規模だよ。大きな港があって、世界中の交易船が集まるんだ』
薄暗い研究所の部屋。
ヴァートが手描きした地図を挟み、二人は並んで座っていた。
彼の語る街や国の話は、外へ出られないレミにとって、世界を知る貴重な機会だった。ヴァートはかつては各地を旅するファイターだったらしく、地理に詳しかった。
ふと、北の海にある島へ目が留まる。
周囲の島には地名があるのに、そこにだけ何も書かれていなかった。
『この島には、どうして名前がないの?』
『正式な国名がないんだ。一般には『救済の聖地』と呼ばれているね』
ヴァートは島を指した。
『古来の神を信仰する人々が、誰にも邪魔されず、生涯を神に捧げるために独立を申請した土地だと言われている』
『お祈りのためだけに、島を作ったの?』
『ああ。エヴァルナと同じ、『世界保護指定国』の特例だよ。どの国の領土にも属さないんだ』
世界保護指定国。
国際条約によって、他国からの侵略や干渉を禁じられた地域だ。
その代わり、歴史的遺産や天然資源のエーテル、独自の文化を守り続ける責務を負う。自由な技術革新や開発よりも、古くからの価値を維持することが優先されるのだという。
指定を受けているのは、自然とエーテルに恵まれたエヴァルナと、この名もない聖地だけだった。
『信心深い者なら、世界中の誰でも受け入れるそうだ。ただし……』
ヴァートの眉が、僅かに寄った。
『入った人間は、外の世界での権利も人間関係も、すべて捨てなければならない』
一度入れば、生涯出られない。
外にいる人間との接触も禁じられる。
だが、それは同時に、どんな権力者も、そこへ逃れた者には手を出せないということだった。
『昔は純粋に神を信じる者が集まったらしい。けれど今は、行き場を失った者や、追及から逃れたい者も流れ込んでいるというよ』
『二度と出られなくても、そこへ行きたいの?』
『外で生きる術を失った者には、唯一の逃げ場なんだろうね。最低限の食糧と住処は保障されるそうだ。……どこまで本当かは知らないけれど』
レミは彼を見上げた。
『ヴァートさんは、行きたいと思わないの?』
彼は時折、己の境遇が嫌いだと漏らした。
許されるなら博士のもとを去り、人間として生きたいのだと。
誰も手を出せない場所なら、彼も安心できるのではないかと思ったけれど、ヴァートは首を横に振った。
『ただ生かされて、意思を持たない人形のように暮らす……そんなもののどこに、人間としての幸せがあるんだ?』
青い瞳に、苦いものが浮かんだ。
『……これ以上、己の尊厳を失うのはごめんだよ』
***
レミは、地図の上の島を指先で撫でた。
昨夜のミルク粥の温かさも、三人の笑顔も、まだ鮮やかに覚えている。最早彼らはレミにとっての光そのものだった。
聖地へ入れば、もう会えなくなる。
「……でも、私にはこうするしか……」
地図を折り畳み、枕元へ置く。
朝日が差し込み始めた部屋で、レミは静かに膝を抱えた。




