33. ハーヴェルという光
二人を見送ると、フェイとレミは教会へ向かった。
ミサはすでに終わり、聖堂に信者の姿はない。
フェイが重い木扉を押し開けると、蝶番が低く軋んだ。
「どうぞ」
促され、レミは中へ足を踏み入れた。
「うわぁ……!」
石造りの彫刻と、鮮やかなステンドグラス。
高い天井に反響した声が、幾重にも重なって返ってくる。差し込む陽光は赤や青、金色に染まり、床の上で揺らめいていた。
「とっても綺麗……!」
「リアンシティの大聖堂より小さいけど、職人の腕がいいんだろうネ」
レミは光に導かれるように祭壇へ歩み寄った。
その中央には、大きく翼を広げた形の聖像が祀られている。
見上げた瞬間、胸の奥で、冷たい何かが波打った。
どくん。
心臓が一度、大きく跳ねる。
「おや、この時間には珍しいですね」
背後から声がして、レミは肩を震わせた。
振り返ると、白いローブをまとった初老の男性が、穏やかな笑みを浮かべて近づいてくる。
「神父様かい?」
「はい。お祈りにいらしたのですか?」
レミは慌てて一礼した。
「旅の途中なんです。教会がとても綺麗で……勝手に入ってしまって、ご迷惑でしたか?」
「いいえ。これもハーヴェル様のお引き合わせでしょう。どなた様も歓迎いたしますよ」
「ハーヴェル……様?」
首を傾げるレミに、フェイが説明した。
「光と再生を司る神様だヨ。『光神ハーヴェル』。確か、一番古い神様だったよネ」
「ええ。創造と光、そして再生を象徴する『万物の母』です」
神父は聖書を胸に抱いた。
「世界を崩壊させようとした邪神エルゲインを、御身を挺して滅ぼされた女神様ですよ。今こうして生きていられることに、感謝を忘れてはなりません」
神父が胸の前で十字を切る。
その衣擦れの音が、やけに大きく聖堂へ響いた。
レミは彼の手元を見つめたまま、唇を微かに動かした。
「ハーヴェル……エルゲイン……」
その名を口にした途端、耳の奥で、遠く何かが軋んだ。
フェイは翼の聖像を見上げた。
「もっとも、五千年前の伝承だから、実際に女神様だったのかは分からないんだけどネ」
「そんなに昔なの?」
「だから人型の神像じゃなく、自由と希望を表す翼を祀るんだって、親に教わったヨ。ま、髭面の頑固ジジイより、美しい女神様の方がオレはいいケド」
フェイの軽口が、聖堂の奥でぼんやりと反響する。
レミは再び、翼の像へ近づいた。
ステンドグラスの光が像の輪郭を縁取り、白い翼がゆっくりと揺れているように見える。
神父もその隣に立ち、静かに手を合わせた。
「総本山の聖像は、さらに素晴らしかったそうですが……残念ながら、失われてしまいました」
「失われた?」
「北のラメント大陸にある、エヴァルナ神聖国。ハーヴェル様の伝承の根源となった国ですが、アーミス国の侵略で王都が崩壊し、神殿も再建されていないのです」
――エヴァルナ、そしてハーヴェル。
その響きが届いた瞬間、レミの中で何かが弾けた。
ぱちん、と糸が切れるような音がした気がした。
視界が白く滲む。
次の瞬間には、聖堂の床が遠ざかり、足元が崩れ落ちたような感覚に襲われた。
「豊かな天然エネルギーに満ち、自然と調和した美しい国でした。平和を愛する世界保護指定国を荒らすなど、恐ろしい罰当たりです」
神父の声が、急速に遠ざかっていく。
代わりに、耳の奥で別の音が膨らんだ。
ごうごうと燃える音。
何かが崩れ落ちる轟音。
遠くで誰かが叫んでいる。
「エヴァルナ……の……ハーヴェル……」
自分の声が、ひどく遠い。
膝が震えた。
息を吸おうとしたが、喉が塞がって空気が入ってこない。
ひゅっ、と細い音が漏れる。
「レミちゃん? どうしたんだい、真っ青じゃ……!」
フェイが近づいてくる。
その声は水の底から聞こえてくるようにくぐもっていた。
肩に手が触れた。
びくり、と身体が跳ねる。触れられた場所から冷気が広がり、視界の端が黒く染まっていく。
ステンドグラスの色が溶け、赤と青の光が血のように床を這った。
「ハーヴェル……神様……の……儀式……」
言葉と同時に、途切れ途切れの光景が脳裏へ叩き込まれた。
暗い。
何も見えない。
誰かが走っている。
足音が近づいてくる。
――駆けつけて……
――……を……護って……
声が重なり、意味を結ぶ前に砕け散る。
レミの膝から力が抜けた。
「レミちゃん!?」
床へ倒れ込む身体を、フェイが慌てて抱き留める。
石床に衣服が擦れ、乾いた音が響いた。
「嫌……っ!」
レミはフェイの腕の中で身をよじった。
「怖い……呼ばなきゃ……来てくれるって……約束、して……っ!」
自分が何を見ているのか分からない。
目の前にいるのが誰なのかも分からない。
ただ、暗闇の向こうから何かが迫ってくる。
「呼ぶって、誰を!? レミ、しっかり!」
フェイの声が近づいたり遠ざかったりする。
その顔が、知らない誰かの顔と重なった。
「怖い……怖いよぉっ!」
耳を塞いでも、音は消えない。
足音。叫び声。何かを引きずる音。
「助けて……来ないで! あっちに行ってぇぇぇっっ!!」
レミが頭を抱えた、その時だった。
バタンッ!
重厚な教会の扉が、音を立てて開いた。
冷たい外気が吹き込み、扉の金具がガン、と鳴る。
差し込んだ光が床を横切り、レミの視界を真っ白に焼いた。
誰かがいる。
黒い影が、こちらへ近づいてくる。
「イヤぁぁぁぁぁああああっっ!!」
絶叫が聖堂を震わせた。
その瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
レミの身体から力が抜け、フェイの腕の中へ崩れ落ちる。
「レミっ!? おい、しっかりしろ!」
フェイが頬を叩くが、返事はない。
扉の前に立っていたカインとリシェイは、悲鳴を聞いた瞬間、顔色を変えて駆け込んできた。
「レミ!? 何があったんだ、フェイ!」
靴音が石床を激しく打つ。
その音が、まだレミの耳の奥で鳴り続けていた。
「分からない! 話を聞いてたら、急に……!」
フェイの声も震えている。カインは答えを待たず、フェイの腕の中でぐったりしているレミを見た。
青ざめた顔。
閉じられた瞼。
浅く、途切れそうな呼吸。
「レミ……!」
カインはすぐに彼女を横抱きに抱え上げた。
腕の中の身体は、驚くほど軽かった。
「とにかく宿へ戻るぞ!」
リシェイが何度も頷く。
フェイは神父へ「すみません!」と頭を下げ、二人の後を追って駆け出した。
カインの腕の中で、レミの唇が微かに動く。
「……助……け……て……」
その声は、走る足音と風の音に紛れて消えた。
***
宿へ運び込んでから三時間。
レミはまだ目を覚まさなかった。
フェイは厨房を借り、何かを作っている。鍋の蓋が鳴り、包丁がまな板を叩く音が、部屋の外から断続的に聞こえてくる。
リシェイは落ち着かず、ベッドの周りを何度も行き来していた。カインはベッド脇の椅子に座り、絞ったタオルをレミの額へ乗せる。
呼びかけても、目覚める気配はない。
時折、何かに怯えるように手足が跳ねる。
自分が父親の夢にうなされた時も、こんな姿だったのだろうか。
「怖……い……たす……けて……」
かすれた声が、レミの唇から漏れる。
カインは小さく震える手を包んだ。
冷たい指先が、彼の掌の中でわずかに痙攣する。
今も、どこかの暗闇に取り残されているのかもしれない。
「大丈夫だ。俺たちがついてる。……約束は絶対に守るから」
その声が届いたのか、レミの目尻から一筋の涙が伝った。
唇が、ゆっくりと動く。
「……い……さま……」
「え……?」
カインは目を瞬かせた。




