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EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第三章 旅路の始まりと伝承
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30. 悪夢のあと


 断片的な映像が、濁流のように脳裏を駆け抜ける。



 昏い森。

 その奥を轟々と流れる、水かさの増した川。



 一人の男が何かを叫んでいる。

 だが、言葉は意味を持たない音となって耳を滑り落ちた。聞き取ろうとするほど頭の奥が締めつけられ、景色が白く滲む。


 あの時はまだ幼すぎて、大人の話など何も分からなかった。



『離してよ! 何でこんなコトするんだよぉ!』



 こげ茶色の髪に緑の瞳をした、十歳にも満たない少年。

 幼い日のカインは、男に腕を掴まれ、森の中を引きずられるように走っていた。


 細い腕に指が食い込む。足が木の根に引っかかっても、男は歩みを緩めない。

 怖い。けれど、父親にこんな扱いを受ける理由だけが分からなかった。



 景色が白む。



 次に見えたのは、激しく波打つ川岸だった。

 男を見上げても、その顔は逆光にぼやけている。



『悪いな、カイン。……だが、こうするしか……っ!』



 腕を引かれ、身体が浮いた。

 カインは必死に足を踏ん張り、川へ落ちる寸前で踏みとどまった。


 昨晩の雨で、川は濁流と化している。轟音が地面を揺らし、泥水の飛沫が頬を叩いた。

 いつもは「危ないから近づくな」と叱るのに、なぜ父さんはこんな場所へ連れてきたのだろう。この川では、魚釣りだってできないのに。


 振り返った瞬間、景色が白く弾けた。


 見たいのに、見えない。

 思い出せないのか。


 それとも、思い出したくないのか。


『俺がいっぱいイタズラしたから!? 言いつけ守らない、悪い子だから? ごめんなさい、もうしない! お母さんのお手伝いもする! いい子になるから……父さん、やめてぇッ!』


 涙で景色が歪む。

 悪戯がばれるたび叱られた。けれど、その後はまた笑い合えたはずなのに、知らないうちに、取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか。

 自分が悪い子だから、父さんはこんな顔をしているのだろうか。




『お前は、ここにいてはいけないんだ!』




 背中を強く突き飛ばされた。



 足元が消える。

 逆さになった景色に、川岸へ立つ男の姿が焼き付いた。その顔は、最後まで見えなかった。



『父さん――ッ!』



 絶叫ごと、濁流に呑まれた。



 冷たい水が全身を叩き、耳の中が轟音で満たされる。

 必死に手足を掻いても、水面へ届かない。息ができず、口の中へ泥水が流れ込む。


 肺が焼ける。

 死にたくない。


 伸ばした手は何も掴めず、指先から力が抜けていく。

 身体が沈み、闇が広がった。



 その時、誰かが名を呼んだ。





「……イン……カイン……」



 遠い水底から引き上げられるように、意識が揺さぶられる。

 重い瞼をゆっくりと開いた。



「カイン!」



 古びた木張りの天井が見えた。

 肺に空気が流れ込み、カインは激しく咳き込んだ。濡れてもいないのに、身体の内側にはまだ川の冷たさが残っている。


 傍らには、銀の髪と心配そうな青い瞳があった。


「レ、ミ……?」

「そうだよ、私。……分かる?」

「あ……ああ……」


 声が掠れる。

 カインは息を整えながら上体を起こした。背中には冷たい汗が張りつき、指先が小刻みに震えている。


 レミは二段ベッドの梯子に上り、上半身を覗かせていた。


「大丈夫? すごくうなされていたから、起こした方がいいと思って……」

「夢、か……」


 呟いた途端、夢の濁流が蘇った。

 カインは額の汗を拭う。


 何度も見た夢だった。

 覚えている数少ない家族の姿。そして、親に捨てられた記憶。


「悪い。もう大丈夫だ。起こしてくれて、サンキュ」


 平静を装ったが、声には震えが残っていた。


「カイン……うわ言で、『父さん』って。お父様の夢を見ていたの?」


 身体が強張った。

 思わず睨み返すと、レミの肩が小さく跳ねる。



 聞かれた。知られた。

 あの惨めな声を、こいつに。



「……言ったのか?」


 レミは怯えたように頷いた。


「他には?」

「ううん。それ以外は、よく聞こえなかったけど……」


 カインは息を吐いた。

 安堵よりも、弱さを覗かれた羞恥と苛立ちが勝った。


「あんな……何でもねぇよ。忘れてくれ」

「でも、本当に苦しそうだったから……」

「大丈夫だって」


 声が荒くなる。

 レミが黙り込むと、その沈黙さえ神経を逆撫でした。


 心配されているだけだ。分かっている。

 それでも、内側では「見るな」「触れるな」と何かが叫び続けていた。


 レミが手を伸ばす。


「私でよければ、何か――」


 その手が、濁流へ沈みかけた自分を掴もうとした父親の手と重なった。



 違う。レミは違う。



 そう思うより早く、腕が動いた。

 伸ばされた手を、思い切り振り払う。



「何でもねぇっつってんだろ! お節介なんだよ、そういうの!」



 手のひらに、振り払った感触だけが残った。


「カイ――」


 レミが息を呑む。


 薄闇の中で、カインの瞳が赤く光っていた。

 以前見た真紅よりも濃い、血のような色だった。


 耳鳴りがする。

 頭の奥で何かが唸り、怒りを糧に身体の奥の力が膨れ上がっていく。


「ただの興味本位だろ!?」


 声が勝手に大きくなる。


「話聞いて、痛みを分かったようなフリして! 相談に乗ってやって、『良い人だ』って思われたいだけだろ!」

「わ、私は……そんな……!」

「そんなに人の不幸話が楽しいのかよ! 話せば引くクセに、作り笑いで誤魔化しやがって! 本当は見下してるくせに!」



 違う。

 レミはそんな人間じゃない。


 分かっているのに、怒りが理性を押し流した。



 言い放った瞬間、音が途切れた。


(……俺、何言ってんだ?)


 荒い呼吸だけが響く。

 レミは俯き、声に起こされたフェイとリシェイも寝床から顔を上げていた。


 その視線に、カインの熱が一気に引いていく。


「……ごめん、なさい」


 小さな謝罪に、胸が詰まった。


 彼女は、ただ心配してくれただけだ。

 差し伸べられた手を振り払ったのは、自分だった。


「違うんだ、レミ! 俺は……っ!」


 手を伸ばしかけたが、途中で止まった。

 何が違うというのだろう。口にしたのも、彼女を傷つけたのも、間違いなく自分だった。


 レミは顔を上げ、寂しそうに微笑んだ。


「ううん。お節介だったね。言いたくないことなんて、誰にだってあるのに……無理に聞こうとして、ごめんなさい」

「お前が悪いんじゃ……!」


 否定したいのに、言葉が続かない。


「教えてくれて、ありがとう」


 カインは言葉を失った。

 責められると思っていた。だが、レミは自分の方を悪者にしようとしている。


「私、今までそうやって、自分のことを指摘してもらったことがなかったから。良いところも悪いところも、ちゃんと知りたいの」

「レミ……」

「悪いところは、少しずつ直していけばいいんだよね。カインとの『契約』みたいに」


 レミはもう一度微笑み、梯子を下りた。

 その笑顔が無理をしているように見えた。


 引き止めたかった。謝りたかった。

 けれど、言葉が出てこない。


 レミが自分のベッドへ戻っていくのを、カインは黙って見送った。


 これ以上聞かないよう、気を遣わせてしまった。

 最後まで、自分の方を案じさせた。



 カインは前髪を掻き上げ、額を覆った。

 赤い光が薄れ、瞳がいつもの緑へ戻っていく。


 だが、心は静まらなかった。



 責めたかったのは、彼女ではない。

 それなのに、最も傷つけたくなかった相手へ、すべてをぶつけてしまった。


 振り払った手の感触と、レミの寂しそうな笑顔が脳裏に残る。


(……何で俺は、こうなんだ。いつまでこんな感情に振り回されてるんだよ!)


 謝らなければならない。

 けれど、今さら声をかければ、また彼女を苦しめるかもしれない。


 自分の感情ひとつ制御できない。

 過去に縛られ、目の前の優しささえ疑い、仲間を傷つけた。


 その事実だけが、胸の奥を締めつけていた。



 それからは誰も口を開かず、重苦しい夜が更けていった。



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