30. 悪夢のあと
断片的な映像が、濁流のように脳裏を駆け抜ける。
昏い森。
その奥を轟々と流れる、水かさの増した川。
一人の男が何かを叫んでいる。
だが、言葉は意味を持たない音となって耳を滑り落ちた。聞き取ろうとするほど頭の奥が締めつけられ、景色が白く滲む。
あの時はまだ幼すぎて、大人の話など何も分からなかった。
『離してよ! 何でこんなコトするんだよぉ!』
こげ茶色の髪に緑の瞳をした、十歳にも満たない少年。
幼い日のカインは、男に腕を掴まれ、森の中を引きずられるように走っていた。
細い腕に指が食い込む。足が木の根に引っかかっても、男は歩みを緩めない。
怖い。けれど、父親にこんな扱いを受ける理由だけが分からなかった。
景色が白む。
次に見えたのは、激しく波打つ川岸だった。
男を見上げても、その顔は逆光にぼやけている。
『悪いな、カイン。……だが、こうするしか……っ!』
腕を引かれ、身体が浮いた。
カインは必死に足を踏ん張り、川へ落ちる寸前で踏みとどまった。
昨晩の雨で、川は濁流と化している。轟音が地面を揺らし、泥水の飛沫が頬を叩いた。
いつもは「危ないから近づくな」と叱るのに、なぜ父さんはこんな場所へ連れてきたのだろう。この川では、魚釣りだってできないのに。
振り返った瞬間、景色が白く弾けた。
見たいのに、見えない。
思い出せないのか。
それとも、思い出したくないのか。
『俺がいっぱいイタズラしたから!? 言いつけ守らない、悪い子だから? ごめんなさい、もうしない! お母さんのお手伝いもする! いい子になるから……父さん、やめてぇッ!』
涙で景色が歪む。
悪戯がばれるたび叱られた。けれど、その後はまた笑い合えたはずなのに、知らないうちに、取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか。
自分が悪い子だから、父さんはこんな顔をしているのだろうか。
『お前は、ここにいてはいけないんだ!』
背中を強く突き飛ばされた。
足元が消える。
逆さになった景色に、川岸へ立つ男の姿が焼き付いた。その顔は、最後まで見えなかった。
『父さん――ッ!』
絶叫ごと、濁流に呑まれた。
冷たい水が全身を叩き、耳の中が轟音で満たされる。
必死に手足を掻いても、水面へ届かない。息ができず、口の中へ泥水が流れ込む。
肺が焼ける。
死にたくない。
伸ばした手は何も掴めず、指先から力が抜けていく。
身体が沈み、闇が広がった。
その時、誰かが名を呼んだ。
「……イン……カイン……」
遠い水底から引き上げられるように、意識が揺さぶられる。
重い瞼をゆっくりと開いた。
「カイン!」
古びた木張りの天井が見えた。
肺に空気が流れ込み、カインは激しく咳き込んだ。濡れてもいないのに、身体の内側にはまだ川の冷たさが残っている。
傍らには、銀の髪と心配そうな青い瞳があった。
「レ、ミ……?」
「そうだよ、私。……分かる?」
「あ……ああ……」
声が掠れる。
カインは息を整えながら上体を起こした。背中には冷たい汗が張りつき、指先が小刻みに震えている。
レミは二段ベッドの梯子に上り、上半身を覗かせていた。
「大丈夫? すごくうなされていたから、起こした方がいいと思って……」
「夢、か……」
呟いた途端、夢の濁流が蘇った。
カインは額の汗を拭う。
何度も見た夢だった。
覚えている数少ない家族の姿。そして、親に捨てられた記憶。
「悪い。もう大丈夫だ。起こしてくれて、サンキュ」
平静を装ったが、声には震えが残っていた。
「カイン……うわ言で、『父さん』って。お父様の夢を見ていたの?」
身体が強張った。
思わず睨み返すと、レミの肩が小さく跳ねる。
聞かれた。知られた。
あの惨めな声を、こいつに。
「……言ったのか?」
レミは怯えたように頷いた。
「他には?」
「ううん。それ以外は、よく聞こえなかったけど……」
カインは息を吐いた。
安堵よりも、弱さを覗かれた羞恥と苛立ちが勝った。
「あんな……何でもねぇよ。忘れてくれ」
「でも、本当に苦しそうだったから……」
「大丈夫だって」
声が荒くなる。
レミが黙り込むと、その沈黙さえ神経を逆撫でした。
心配されているだけだ。分かっている。
それでも、内側では「見るな」「触れるな」と何かが叫び続けていた。
レミが手を伸ばす。
「私でよければ、何か――」
その手が、濁流へ沈みかけた自分を掴もうとした父親の手と重なった。
違う。レミは違う。
そう思うより早く、腕が動いた。
伸ばされた手を、思い切り振り払う。
「何でもねぇっつってんだろ! お節介なんだよ、そういうの!」
手のひらに、振り払った感触だけが残った。
「カイ――」
レミが息を呑む。
薄闇の中で、カインの瞳が赤く光っていた。
以前見た真紅よりも濃い、血のような色だった。
耳鳴りがする。
頭の奥で何かが唸り、怒りを糧に身体の奥の力が膨れ上がっていく。
「ただの興味本位だろ!?」
声が勝手に大きくなる。
「話聞いて、痛みを分かったようなフリして! 相談に乗ってやって、『良い人だ』って思われたいだけだろ!」
「わ、私は……そんな……!」
「そんなに人の不幸話が楽しいのかよ! 話せば引くクセに、作り笑いで誤魔化しやがって! 本当は見下してるくせに!」
違う。
レミはそんな人間じゃない。
分かっているのに、怒りが理性を押し流した。
言い放った瞬間、音が途切れた。
(……俺、何言ってんだ?)
荒い呼吸だけが響く。
レミは俯き、声に起こされたフェイとリシェイも寝床から顔を上げていた。
その視線に、カインの熱が一気に引いていく。
「……ごめん、なさい」
小さな謝罪に、胸が詰まった。
彼女は、ただ心配してくれただけだ。
差し伸べられた手を振り払ったのは、自分だった。
「違うんだ、レミ! 俺は……っ!」
手を伸ばしかけたが、途中で止まった。
何が違うというのだろう。口にしたのも、彼女を傷つけたのも、間違いなく自分だった。
レミは顔を上げ、寂しそうに微笑んだ。
「ううん。お節介だったね。言いたくないことなんて、誰にだってあるのに……無理に聞こうとして、ごめんなさい」
「お前が悪いんじゃ……!」
否定したいのに、言葉が続かない。
「教えてくれて、ありがとう」
カインは言葉を失った。
責められると思っていた。だが、レミは自分の方を悪者にしようとしている。
「私、今までそうやって、自分のことを指摘してもらったことがなかったから。良いところも悪いところも、ちゃんと知りたいの」
「レミ……」
「悪いところは、少しずつ直していけばいいんだよね。カインとの『契約』みたいに」
レミはもう一度微笑み、梯子を下りた。
その笑顔が無理をしているように見えた。
引き止めたかった。謝りたかった。
けれど、言葉が出てこない。
レミが自分のベッドへ戻っていくのを、カインは黙って見送った。
これ以上聞かないよう、気を遣わせてしまった。
最後まで、自分の方を案じさせた。
カインは前髪を掻き上げ、額を覆った。
赤い光が薄れ、瞳がいつもの緑へ戻っていく。
だが、心は静まらなかった。
責めたかったのは、彼女ではない。
それなのに、最も傷つけたくなかった相手へ、すべてをぶつけてしまった。
振り払った手の感触と、レミの寂しそうな笑顔が脳裏に残る。
(……何で俺は、こうなんだ。いつまでこんな感情に振り回されてるんだよ!)
謝らなければならない。
けれど、今さら声をかければ、また彼女を苦しめるかもしれない。
自分の感情ひとつ制御できない。
過去に縛られ、目の前の優しささえ疑い、仲間を傷つけた。
その事実だけが、胸の奥を締めつけていた。
それからは誰も口を開かず、重苦しい夜が更けていった。




