29. 花束の記憶
「やっぱりお風呂って最高~! さっぱりしたー!」
リシェイがタオルで髪を拭きながら、二段ベッドの下段へ腰を下ろした。
小さな宿は部屋数が少なく、今夜は四人一室だ。二段ベッドが二つ並ぶだけの質素な部屋だが、清潔で、旅費の節約にもなる。
部屋の中央ではフェイが地図を広げ、カインと明日からの経路を相談していた。レミも隣から、二人の指がなぞる道を目で追っている。
「よし、当面はこのルートで街を迂回するか。今夜はしっかり休もうぜ」
「だネ。もう全身バッキバキだわー」
カインが地図を畳むと、フェイは大きく伸びをした。ふと、レミの傍らに置かれた弓へ目を留める。
「それにしても、レミの弓の腕前は大したもんだよネ。いつ覚えたんだ?」
カインも気になっていたのか、彼女へ視線を向け、レミは自分の掌を見つめてわずかに表情を曇らせた。
「研究所で、ヴァートさんに習ったの。リシェイは一度会ったよね?」
「あっ、青い髪で、顔に刺青のあった男?」
「うん。ヴァート=クロフォードさん。二年前から一年間、私の監視役をしていた人なの」
「監視役……?」
カインが眉を寄せる。
「……あの頃の私は、ずっと死にたいと思っていたの。でも、死ぬことすら許してもらえなかった」
自分の力で傷を治すことを拒めば、激しい吐き気や目眩を伴う投薬治療が待っていた。
傷つけられることも、治すことも、拒むことも許されない。生きることさえ、博士の都合に合わせて決められていた。
青ざめていくレミを見て、カインは静かに口を挟んだ。
「無理に話さなくていいぞ」
「ううん。みんなには知っていてほしいから」
レミは顔を上げた。
「私が衰弱して、研究に支障が出るようになったからって……博士が世話係として連れてきたのが、ヴァートさんだった。でも、あの人は優しかった。何も知らない私に、外の世界のことを教えてくれたの」
その表情に、閉ざされていた部屋へ差し込む光のような温もりが浮かんだ。
***
十六歳のレミが部屋でできることは、小さな的を狙う弓の練習と、本を読むことくらいだった。
何十回も読み返した本は、ページが破れかけ、表紙の装飾も剥げている。それでも、彼女にとっては宝物だった。
何も起こらず、その本をめくっていられる日が幸せだった。ここで起こる変化は、大抵、新しい実験や苦痛を意味したからだ。
けれど、そんな日々の中で、待ち遠しい物音が一つだけあった。
トン、トン――。
丁寧なノックに、レミは本を置いて扉へ駆け寄った。
「ヴァートさん、おかえりなさ――……わぁっ!」
扉を開けた途端、鮮やかなオレンジ色と甘い香りが目の前に広がった。
その束が下がると、青い髪の青年が顔を覗かせる。左目元には幾何学的な刺青が刻まれていた。
「ただいま、レミ」
「それ……なぁに?」
「花、だよ」
「これがそうなの!? 私、本物を見るのは初めて!」
本の写真では分からなかった色と香りに、レミは目を輝かせた。
ヴァートは部屋へ入り、リボンで束ねた花を差し出す。
「外の品はあまり持ち込めないんだが、僕の監視下ならと許可が出た」
「これ、私にくれるの?」
「ああ」
「そんなのダメだよ!」
ヴァートの表情が固まった。喜んでもらえると思っていたのに――
「だって、ヴァートさんの大切な宝物でしょ!? 私は見せてもらえただけで十分だから、自分で大事にして!」
押し返される花束を見て、ヴァートはようやく彼女の勘違いに気づいた。
花の値段も、野に咲く花の数も知らないレミにとって、それは宝石よりも貴重なものだったのだ。
「いや……君のために買ってきたんだよ。そんなに高いものじゃないし、外の野原にも咲いている」
「そ、そうなの……?」
自分が見当違いな事に必死になっていたと気付いたレミは、耳まで赤くなった。
「じゃあ、本当にもらっていいの?」
「その方が僕も報われる」
普段は人との接触を避ける彼が、慣れない街の花屋まで出向いた。
花を選ぶことも、誰かに贈ることも、彼にとってはきっと不慣れだった。それでも、彼女に笑ってほしかった。ただ、それだけのために。
レミはおそるおそる花束を受け取った。
甘い香りに顔を寄せ、幸せそうに目を細める。
「綺麗……」
「どれがいいか分からなくて、目に留まったものを選んだんだが……気に入ってもらえただろうか?」
少し落ち着かない様子のヴァートへ、レミは眩しい笑顔を向けた。
「うん! ありがとう、ヴァートさん!」
その笑顔を見つめるヴァートの瞳にも、ほんの一瞬だけ安堵の色が浮かんだ。
***
「ただの任務だったのかもしれないけれど……あの部屋で傍にいてくれたことが、本当に嬉しかったの」
レミは花束を抱いた時の温もりを思い出すように、両手を膝の上で重ねた。
けれど、ヴァートは突然姿を消した。
博士から「処分した」と告げられ、レミは何日も泣き明かした。生きていてほしいと願い続けても、彼が部屋へ戻ることはなかった。
ようやく取り戻しかけていた笑顔も、再び消えた。
(『君の傍にいたかった』……かぁ)
リシェイは、あの男が絞り出すように呟いた言葉を思い出した。
今の話を聞けば、ヴァートがレミをただの監視対象として見ていたとは思えない。
「でも、アイツって何者なの? 何もないところから槍を出すなんて、見たことないんだけど」
「……博士に身体を改造されたって言っていたの。髪の色が変わったのも、その影響で」
レミは目を伏せた。
「顔の刺青は、呪術を使うための『契約呪術』なんだって。生身の人間には、すごく危険なものらしいの」
「そんなことまでするの!?」
「それに……博士には絶対に逆らえない仕組みになっているって。カインに壊してもらった私の腕輪と、同じようなものが身体に組み込まれているらしいの」
追っ手である彼もまた、博士の犠牲者だった。
レミを連れ戻すために現れたヴァートの姿の奥に、彼女はかつて自分を守ってくれた人の面影を見ている。だからこそ、敵として向き合うことが怖かった。
「話し合えたらいいんだけど……私、ヴァートさんとだけは戦いたくない」
膝の上で拳を握るレミを見て、リシェイは首を傾げた。
「そんな化け物みたいに改造された奴のこと、怖くないの?」
――化け物。
その言葉に、カインの身体が小さく強張った。
レミは気づかず、まっすぐリシェイを見つめている。
「どうして?」
「だって、明らかにフツーの人間じゃないじゃん」
「身体は違うのかもしれない。でも、ヴァートさんは温かい心を持った人だったもの。だから怖くないよ」
レミは迷わず答えた。
「本当の彼は、とても優しい人だから。私、あの人が好きなの」
その言葉は、ヴァートを庇うためだけのものではなかった。
どれほど身体を変えられても、どれほど人ならざる力を与えられても、その人の心まで奪われるわけではない――レミはそう信じていた。
カインは、その澄んだ瞳をじっと見つめた。
自分の中に潜むものを、もし誰かが「化け物」と呼んだとしても、レミは同じように見つめてくれるのだろうか。
そんな考えが浮かび、カインはすぐに目を伏せた。
フェイが少し困ったように頭を掻く。
「ま、遭遇しないのが一番だネ。話し合いで済めばいいけど……レミ、もしも」
「分かってるよ」
レミは小さく息を吸った。
自分が躊躇すれば、仲間を危険に晒す。
ヴァートを救いたいと思う気持ちと、仲間を守らなければならない責任。そのどちらも、捨てることはできなかった。
「戦いを避けられないなら、私も向き合う。……でも、できるなら最後まで、ヴァートさんをヴァートさんとして見ていたい」
その言葉に、フェイは何も返さなかった。
ただ、レミの覚悟を受け止めるように、静かに頷いた。
やがてフェイはベッドの下段へ身を投げ出した。
「んじゃ、明日に備えて寝ようゼ。ベッドで眠れる夜を無駄にする手はないからナ」
「賛成~!」
リシェイも横になり、ものの数秒で寝息を立て始めた。一同は苦笑し、それぞれの寝床についた。
カインも目を閉じた。
夕暮れの街で見かけた親子。
レミに問われた、自分の両親のこと。
そして、身体が違っても怖くないと語った彼女の言葉。
眠りに落ちていく意識の中を、今日の光景が巡る。
その夜、カインは久しぶりに――幼い頃の重く苦しい夢を見た。




