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EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第三章 旅路の始まりと伝承
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29. 花束の記憶


「やっぱりお風呂って最高~! さっぱりしたー!」


 リシェイがタオルで髪を拭きながら、二段ベッドの下段へ腰を下ろした。


 小さな宿は部屋数が少なく、今夜は四人一室だ。二段ベッドが二つ並ぶだけの質素な部屋だが、清潔で、旅費の節約にもなる。


 部屋の中央ではフェイが地図を広げ、カインと明日からの経路を相談していた。レミも隣から、二人の指がなぞる道を目で追っている。


「よし、当面はこのルートで街を迂回するか。今夜はしっかり休もうぜ」

「だネ。もう全身バッキバキだわー」



 カインが地図を畳むと、フェイは大きく伸びをした。ふと、レミの傍らに置かれた弓へ目を留める。


「それにしても、レミの弓の腕前は大したもんだよネ。いつ覚えたんだ?」


 カインも気になっていたのか、彼女へ視線を向け、レミは自分の掌を見つめてわずかに表情を曇らせた。


「研究所で、ヴァートさんに習ったの。リシェイは一度会ったよね?」

「あっ、青い髪で、顔に刺青のあった男?」

「うん。ヴァート=クロフォードさん。二年前から一年間、私の監視役をしていた人なの」

「監視役……?」


 カインが眉を寄せる。


「……あの頃の私は、ずっと死にたいと思っていたの。でも、死ぬことすら許してもらえなかった」


 自分の力で傷を治すことを拒めば、激しい吐き気や目眩を伴う投薬治療が待っていた。

 傷つけられることも、治すことも、拒むことも許されない。生きることさえ、博士の都合に合わせて決められていた。



 青ざめていくレミを見て、カインは静かに口を挟んだ。


「無理に話さなくていいぞ」

「ううん。みんなには知っていてほしいから」


 レミは顔を上げた。


「私が衰弱して、研究に支障が出るようになったからって……博士が世話係として連れてきたのが、ヴァートさんだった。でも、あの人は優しかった。何も知らない私に、外の世界のことを教えてくれたの」



 その表情に、閉ざされていた部屋へ差し込む光のような温もりが浮かんだ。



***



 十六歳のレミが部屋でできることは、小さな的を狙う弓の練習と、本を読むことくらいだった。


 何十回も読み返した本は、ページが破れかけ、表紙の装飾も剥げている。それでも、彼女にとっては宝物だった。

 何も起こらず、その本をめくっていられる日が幸せだった。ここで起こる変化は、大抵、新しい実験や苦痛を意味したからだ。


 けれど、そんな日々の中で、待ち遠しい物音が一つだけあった。



 トン、トン――。



 丁寧なノックに、レミは本を置いて扉へ駆け寄った。



「ヴァートさん、おかえりなさ――……わぁっ!」



 扉を開けた途端、鮮やかなオレンジ色と甘い香りが目の前に広がった。

 その束が下がると、青い髪の青年が顔を覗かせる。左目元には幾何学的な刺青が刻まれていた。


「ただいま、レミ」

「それ……なぁに?」

「花、だよ」

「これがそうなの!? 私、本物を見るのは初めて!」


 本の写真では分からなかった色と香りに、レミは目を輝かせた。

 ヴァートは部屋へ入り、リボンで束ねた花を差し出す。


「外の品はあまり持ち込めないんだが、僕の監視下ならと許可が出た」

「これ、私にくれるの?」

「ああ」

「そんなのダメだよ!」



 ヴァートの表情が固まった。喜んでもらえると思っていたのに――



「だって、ヴァートさんの大切な宝物でしょ!? 私は見せてもらえただけで十分だから、自分で大事にして!」


 押し返される花束を見て、ヴァートはようやく彼女の勘違いに気づいた。

 花の値段も、野に咲く花の数も知らないレミにとって、それは宝石よりも貴重なものだったのだ。


「いや……君のために買ってきたんだよ。そんなに高いものじゃないし、外の野原にも咲いている」

「そ、そうなの……?」


 自分が見当違いな事に必死になっていたと気付いたレミは、耳まで赤くなった。


「じゃあ、本当にもらっていいの?」

「その方が僕も報われる」


 普段は人との接触を避ける彼が、慣れない街の花屋まで出向いた。

 花を選ぶことも、誰かに贈ることも、彼にとってはきっと不慣れだった。それでも、彼女に笑ってほしかった。ただ、それだけのために。



 レミはおそるおそる花束を受け取った。

 甘い香りに顔を寄せ、幸せそうに目を細める。



「綺麗……」

「どれがいいか分からなくて、目に留まったものを選んだんだが……気に入ってもらえただろうか?」


 少し落ち着かない様子のヴァートへ、レミは眩しい笑顔を向けた。


「うん! ありがとう、ヴァートさん!」


 その笑顔を見つめるヴァートの瞳にも、ほんの一瞬だけ安堵の色が浮かんだ。


***



「ただの任務だったのかもしれないけれど……あの部屋で傍にいてくれたことが、本当に嬉しかったの」



 レミは花束を抱いた時の温もりを思い出すように、両手を膝の上で重ねた。



 けれど、ヴァートは突然姿を消した。

 博士から「処分した」と告げられ、レミは何日も泣き明かした。生きていてほしいと願い続けても、彼が部屋へ戻ることはなかった。


 ようやく取り戻しかけていた笑顔も、再び消えた。



(『君の傍にいたかった』……かぁ)



 リシェイは、あの男が絞り出すように呟いた言葉を思い出した。

 今の話を聞けば、ヴァートがレミをただの監視対象として見ていたとは思えない。


「でも、アイツって何者なの? 何もないところから槍を出すなんて、見たことないんだけど」

「……博士に身体を改造されたって言っていたの。髪の色が変わったのも、その影響で」


 レミは目を伏せた。


「顔の刺青は、呪術を使うための『契約呪術』なんだって。生身の人間には、すごく危険なものらしいの」

「そんなことまでするの!?」

「それに……博士には絶対に逆らえない仕組みになっているって。カインに壊してもらった私の腕輪と、同じようなものが身体に組み込まれているらしいの」


 追っ手である彼もまた、博士の犠牲者だった。

 レミを連れ戻すために現れたヴァートの姿の奥に、彼女はかつて自分を守ってくれた人の面影を見ている。だからこそ、敵として向き合うことが怖かった。


「話し合えたらいいんだけど……私、ヴァートさんとだけは戦いたくない」


 膝の上で拳を握るレミを見て、リシェイは首を傾げた。


「そんな化け物みたいに改造された奴のこと、怖くないの?」




 ――化け物。



 その言葉に、カインの身体が小さく強張った。

 レミは気づかず、まっすぐリシェイを見つめている。


「どうして?」

「だって、明らかにフツーの人間じゃないじゃん」

「身体は違うのかもしれない。でも、ヴァートさんは温かい心を持った人だったもの。だから怖くないよ」


 レミは迷わず答えた。



「本当の彼は、とても優しい人だから。私、あの人が好きなの」



 その言葉は、ヴァートを庇うためだけのものではなかった。


 どれほど身体を変えられても、どれほど人ならざる力を与えられても、その人の心まで奪われるわけではない――レミはそう信じていた。



 カインは、その澄んだ瞳をじっと見つめた。

 自分の中に潜むものを、もし誰かが「化け物」と呼んだとしても、レミは同じように見つめてくれるのだろうか。

 そんな考えが浮かび、カインはすぐに目を伏せた。



 フェイが少し困ったように頭を掻く。


「ま、遭遇しないのが一番だネ。話し合いで済めばいいけど……レミ、もしも」

「分かってるよ」


 レミは小さく息を吸った。


 自分が躊躇すれば、仲間を危険に晒す。

 ヴァートを救いたいと思う気持ちと、仲間を守らなければならない責任。そのどちらも、捨てることはできなかった。


「戦いを避けられないなら、私も向き合う。……でも、できるなら最後まで、ヴァートさんをヴァートさんとして見ていたい」


 その言葉に、フェイは何も返さなかった。

 ただ、レミの覚悟を受け止めるように、静かに頷いた。



 やがてフェイはベッドの下段へ身を投げ出した。


「んじゃ、明日に備えて寝ようゼ。ベッドで眠れる夜を無駄にする手はないからナ」

「賛成~!」


 リシェイも横になり、ものの数秒で寝息を立て始めた。一同は苦笑し、それぞれの寝床についた。


 カインも目を閉じた。



 夕暮れの街で見かけた親子。

 レミに問われた、自分の両親のこと。

 そして、身体が違っても怖くないと語った彼女の言葉。



 眠りに落ちていく意識の中を、今日の光景が巡る。



 その夜、カインは久しぶりに――幼い頃の重く苦しい夢を見た。



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