20. 研究所からの追っ手
本日12時と夜更新予定です。
カインは勢いをつけて身体を起こすと、再びレミへ視線を向けた。
「これから買い物か?」
時刻はすでに夕方の四時。そろそろ夕食の仕込みを始める時間帯だ。レミが「そうだよ」と頷いたところへ、通りがかったリシェイが外出の気配を察知して駆け寄ってきた。
「買い物行くの!? アタシも行くー!」
「うん、一緒に行こう。ええと、今日は人数が多いから分量は……」
和気藹々と楽しそうに献立を話し合いながら「カイン、今日は期待していてね」と満面の笑みでマーケットにリシェイと出て行った。どうやら自分の好物を振る舞ってくれるようだ。
カインは夕食までの間、クールダウンを兼ねてトレーニングルームへと向かった。
(……そうだ。あいつはもう自由なんだ)
カインはどこか楽観的に、そう信じて疑っていなかった。
***
傾きかけた太陽が街を橙色に染め上げ、少し肌寒い秋風が通りを吹き抜けていく。いつもの賑わいを見せるマーケット街で、リシェイが小走りにレミの前に踊り出た。
「アタシ、ちょっと買いたいものがあるからあっち行ってきていい? すぐ戻るからさ~!」
「うん、いいよ。私、この辺りで買い物しながら待ってるね」
「アリガト! じゃ、また後でね!」
器用に人波をすり抜け、目的の店へと駆けていくリシェイ。地元の街だけあって、彼女の足取りには迷いがない。いつでも元気いっぱいの彼女と一緒にいると、レミも自然と明るい気持ちになれた。
軽やかに手を振って見送ると、レミは手元の買い物メモに視線を落とす。
「えっと……レタスはあっちだったかな。卵も買って帰らなきゃ」
驚異的な記憶力を誇るレミだったが、毎日人々が目まぐるしく行き交う街の地理には、まだ完全には慣れていなかった。
だがメインストリートは一本道だ。店を探して少し迷うことはあっても、脇道に逸れさえしなければ道に迷うことはない。ただ街を歩くだけでも、今のレミにとっては心踊る大冒険だった。
雑踏の中に響く人々の話し声、露店から流れる音楽、風の音。
かつて無音の狭い部屋に閉じ込められていたレミにとって、世界が奏でるすべての音が胸を打つ美しい旋律だった。戸惑いながらも、目まぐるしく変化する毎日が愛おしくてたまらない。
自由であることが、これほどまでに素晴らしいなんて。
しかし、雑踏の中で店を探そうとキョロキョロと上ばかり見上げていたせいか、前方の注意がおろそかになってしまった。早足で歩いてきた通行人と、正面から強くぶつかってしまう。
「きゃっ!?」
よろめいて足がもつれ、視界が急速に斜めへと傾いた。
転んでしまう――そう思ってとっさに両目を固く閉ざす。
「あ……あれ……?」
だが、いつまで経っても硬い石畳に身体が打ち付けられる感触は訪れなかった。
後ろ手に、右腕を強く掴まれて引き揚げられている。誰かが間一髪で助けてくれたのだと理解し、レミは胸を撫で下ろしながら振り返ろうとした。
「すみま……っ……!?」
次の瞬間、背後から口を強く塞がれ、強引に暗い路地裏へと引きずり込まれた。
抵抗しようにも、口を覆う手はビクともしない。分厚い胸板に背中を隙間なく密着させられ、骨が軋むほどの力で完璧に拘束されていた。
表通りの喧騒から遮断された、狭く薄暗い路地裏。何が起きたのか分からず、レミは恐怖に瞳を大きく見開いた。身体を必死によじり、拘束から逃れようともがく。
「ん……っ、んんー!!」
「…………レミ」
耳元で落とされたその低い声に、レミの全身が凍りついた。
絶対に忘れもしない、聞き覚えのある声。
口元を覆う手がゆっくりと離され、レミは震えながら振り返った。
そこに立っていたのは、カインたちより長い時間を共に過ごしてきた男。
季節にそぐわない厚手の黒い詰襟の衣装。
左の目元から頬にかけて浮かぶ不気味なタトゥー。
そして、闇に溶け込むような深い青色の髪。
「ヴァート……さん……!?」
「……探したよ、レミ」
あまりの驚きに身構えようとした瞬間、すかさずヴァートはレミの両手首を掴み上げ、冷たい壁際へと力任せに押しつけた。
「ど、どうしてヴァートさんがここに……っ! 離して!」
「……静かに」
手首を締め上げる力が増し、あまりの痛みにレミは顔を歪めた。一見すると細身でしなやかな体躯に見えるが、彼の秘めた握力は、並の怪力男など足元にも及ばない。
青い髪の青年は、一切の感情を削ぎ落とした無表情のまま、レミの耳元へ顔を寄せた。
「……僕から力で逃げられると思うかい? 大声を出すのもやめるんだ。……誰かが駆けつけてくれば、僕はその者を殺すしかなくなる」
冷酷なひと言に慄き、レミは悲鳴を喉の奥で押し殺した。
琥珀色の彼の瞳が、冗談でも威嚇でもなく『本気』であることを物語っていたからだ。ここで彼を刺激するのはあまりにも危険だと、レミの生存本能が警鐘を鳴らしていた。
抵抗をやめたレミを見て、ヴァートはわずかに手首の力を緩めた。無駄な足掻きをしない賢さは、かつての教え通りだ。
「そう……それでいい」
「私を……連れ戻しに来たの……?」
「そうだ。博士は大層ご立腹だよ」
レミの肩がヒュッと跳ね上がった。
脳裏に、あの悪夢のような日々が一気に蘇ってくる。
白く冷たい部屋。
過酷な実験。
絶望と苦痛に満ちた毎日。
ようやく手に入れた光の世界から、またあの暗闇へと引き戻されるというのか。全身を駆け巡る激しい悪寒に、レミは瞳を固く閉ざした。
「嫌! 私はあんなところに戻りたくない!」
「無理だ。あの博士が、この僕を直々に派遣したんだ……それがどういう意味か、君なら分かるだろう? ……どこへ逃げようと無駄だ」
治安部隊でも正規の交渉人でもなく、影の暗殺者である自分を投入した意味。それは「どんな手段や犠牲を払ってでも奪還しろ」という絶対の命令に他ならない。
やはり自分の存在は、ただの実験体などではなく、博士にとって代えのきかない特別な意味を持っているのだとレミは悟った。
「私は……一体何なの……!? なんで私なの!?」
なぜ、あの天才学者はそこまで自分という存在に執着するのか。
かつては『癒しの力』を解明するためかと思ったこともあった。だが、癒やしの力は稀少とはいえ、自分だけの固有能力ではない。確かにレミほどの力を持つ者は稀だが、高度な術士であれば同様の奇跡を扱える者が存在すると、ウィリスからも教わった。そんなもののために、あの男が何年もの歳月と巨額の資産を投じるはずがないのだ。
これほど執着され、人生を狂わされながら、なぜ自分という人間の正体すら教えてもらえないのか。
レミの青い瞳が恐怖に揺れる。
「……そればかりは、僕にも教えていただけない。だが……分かるだろう? 博士の手から逃げ切るなんて、絶対に不可能なんだ! 今ならまだ、博士の怒りも浅い方だ。僕も一緒に許しを乞うから大人しく帰ろう。このまま逃げ続ければ、君は自我すら奪われ、本当の『人形』にされてしまう! 僕は、これ以上君が壊されるところを見たくないんだ!」
必死に説得を試みるヴァートに対し、レミは涙をボロボロと零しながら首を振り続けた。
戻った先に待っているのは、死よりも酷い絶望だけだと知っているからだ。
(一体……私が何をしたっていうの……?)
物心ついた時から、ずっと囚われていた。
自分が博士にどんな罪を犯したというのだろう?彼は神でもないのに、なぜこんな理不尽な罰を受け続けなければならないのか。
泣き叫ぶレミの手首を、ヴァートは逃がさじと再び強く締め上げた。男性の圧倒的な筋力と彼が持つ異能の前では、レミの力など赤子同然だ。本気を出されれば、自分の腕など簡単にへし折られてしまうだろう。
「っ……! カイ……っ!!」
激痛の中、喉まで出かかったその名をレミは必死で呑み込んだ。
(ダメ……! 絶対に…これ以上カインを巻き込んじゃダメ……!!)
脳裏に、彼の姿が鮮明に浮かび上がる。
焦げ茶色の髪に、太陽のような笑顔と新緑の瞳。
ぶっきらぼうで、けれど誰よりも温かい人。
自分を暗闇から連れ出してくれた恩人。
生きる意味と、温かな約束をくれた大切な人。
もし彼がここに駆けつければ、ヴァートは間違いなく彼を殺そうとするだろう。仮にカインが勝てたとしても、国をも動かす博士の影がデュロアル全体を襲い、あの温かな『家』を破壊してしまう。
自分に光をくれたあの人が、自分と同じ地獄に叩き落とされることだけは、何があっても防がなければならなかった。
レミは叫び出しそうになる胸を固く押し殺した。
「君に手荒い真似はしたくない……大人しく僕に従うんだ」
沈みゆく太陽が、路地裏の隙間に橙色の冷たい影を落としていく。
またあの暗闇の中へ連れ戻される絶望感に押し潰されそうになりながら、レミは掠れた声で呟いた。
「……今まで…どこに行っていたの……? もう……戻ってこないと思ってた……」
ヴァートとは、二度と会うことはないのだと思っていた。
恨みや嫌悪ではない。純粋な寂しさと悲しさ。ようやく訪れた再会の場所が、こんな冷酷な路地裏だなんて、あまりにも残酷すぎた。
「ずっと…待ってたの……。でも、もうヴァートさんはいないって言われて……」
彼もまた、レミにとって数少ない「寄り添ってくれた大切な存在」だったのだ。だからこそ、生きて会えたこと自体は嬉しかった。博士もそれを見抜いた上で、レミが最も拒絶しにくい『カード』として彼を送り込んできたのだろう。
だが――あの日々に戻ることだけは、どうしても受け入れられない。
涙を流して肩を震わせるレミに、ヴァートの瞳に一瞬だけ切ない陰りが差した。
「……すまない。君を一人にして……。君の精神状態が安定したと判断され、僕は君の監視役から外されたんだ。だが、僕は何度も博士に懇願し続けた……! やっと許しが出て君の元へ戻った時には……君は連れ去られた後だった。会えなくなってから、僕は、ずっと……」
ヴァートはレミの両手首を右手でまとめて押さえると、左手を伸ばし、彼女の頬へ触れた。
ひんやりとした柔らかな肌の感触。
かつて二人きりの部屋で過ごした時間が、ヴァートの脳裏に鮮やかに蘇る。今の彼を満たしているのは、任務の義務感などではなく、酷く不全で、ねっとりとした執着と情愛だった。
「君の傍に……いたかった……。君は僕の手の中だけで……ずっと……」
ヴァートは逃げ場を塞ぐように、ゆっくりとレミの顔へ自分の顔を近づけていく。




