19. 何気ない、普通の幸せ
レミがデュロアルの屋敷に流れ着いてから、およそ一ヶ月の月日が流れた。
朝食を作り、後片付けをして、掃除や買い物を済ませる。そんな暮らしにも、すっかり慣れてきた。今日は不在者が少ないので、夕食は賑やかにテーブルを囲めそうだった。
ここへ来てから、メルに多くの家事を教えてもらった。もともと記憶力に優れたレミは、教わったことをスポンジのように吸収していく。おかげで一通りの家事を問題なくこなせるようになっていた。
歳も近く優しいメルとはすっかり意気投合し、毎日他愛のないおしゃべりを楽しむ時間がレミの日常となっていた。
生活の合間には、研究所の事情やレミ自身の出自について、調査を担当するウィリスと何度も言葉を交わした。
ウィリスは決してレミに無理強いをせず、思い出すことに恐怖を感じればすぐに問いを止めてくれたため、安心して心を開くことができた。カインが出来るだけ同席してくれていたことも、大きな安堵に繋がっていた。
だが、研究所に来る以前の記憶は、何も戻らなかった。あの場所で過ごした日々にも、温かな思い出と呼べるものは、たった一つしかなかった。
あの暗い檻の中で、寄り添うように傍で自分を励ましてくれた『彼』のこと。
救われたと言える記憶は、本当にそれだけだった。
いつか自分の本当の姿や過去が明らかになる時が来るのだろうか。どれほど残酷な事実であったとしても自分のルーツを知りたいという思いは、ルディナスに告げた時から変わっていない。
皆と過ごしてお互いを知る事で、その思いはいっそう強くなっていた。
朝食の後片付けを終え、一人台所に立つレミは窓から外を眺めた。
澄み渡る青空。
白くたなびくカーテンが心地よい風を室内に届けている。こんなにも美しい世界にずっと留まっていたいと心から願う反面、本当の自分の在り方に自信を持てなかった。
「……お洗濯しなきゃ。今は、考えるのをやめよう」
パタン、と窓を閉めて小さく溜息をつく。
前向きに――今は与えられた日々を精一杯生きなければ。そう自分に言い聞かせるレミの胸元で、何かが一瞬きらりと光を弾いた。
カインから預かった、シルバークロスのチョーカーだ。
指先でそっと触れると、光の舞う花畑で交わした約束が、鮮やかによみがえった。
(そうだ……私、カインと約束したんだもの)
「どうしようもなくなった時は、一人で膝を抱え込まなくていい」と言ってくれた彼の不器用な優しさを思い出すだけで、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
カインは本当に、自分に生きる力をくれる人だ。今この場に彼がいなくとも、存在を思い浮かべるだけで沈んでいた心はすっかり浮上することができた。
今日の夕食は自分が作る。レパートリーはまだ少ないが、多少の献立を組める程度にはなっていた。
以前メルにカインの好物を聞いた時、
「カインさんの好物? うーん、やっぱりお肉全般ですねぇ……。あっ、でもハンバーグが大好きですよ! 前に俺のは倍量で頼むな! なーんて言ってました。子どもみたいですよね〜」
そう言ってクスクスと笑っていた。
それを聞いてから、どうしてもカインに美味しいものを食べさせてあげたくてコッソリ練習したのだ。今日はその成果をお披露目出来るだろうか?
そんな事を考えていると、いつの間にか気持ちは明るくなっていた。
「……よし、大丈夫! さ、早く終わらせちゃおう!」
レミはぐっと背伸びをすると、晴れやかな表情を取り戻して家事へと取りかかった。
***
「ただいまー」
デュロアルの屋敷には、いつもと変わらぬ穏やかな時間が流れていた。
仲間たちが集まって談笑するホールへ戻ってきたカインは、ふぅと深く息を吐き出すと、そのままソファーへと身体を投げ出した。
今日は近隣で発生した魔物の討伐依頼だった。今回は以前のような研究者の警護とは異なり、カインが最も得意とする分野の仕事。しかし目まぐるしく多様な依頼が来る連日の緊張感で疲労が溜まっていないはずがない。
背もたれに深く体重を預け、天井を仰ぎながら溜息を吐き出すと、ちょうどホールへやってきたレミがカインの様子に気づいて柔らかく目を細めた。
「おかえりなさい。お疲れ様、カイン」
ここに来たばかりの頃と比べ、彼女は驚くほどよく笑うようになっていた。
さりげない気遣いも心地よく、すっかりこの『家』の日常に馴染んでいる。
不思議なことに、彼女の無垢な笑顔を見ると、どれほど疲れていても胸の奥がじんわりと癒やされていくのをカインは感じていた。打算がなく、心が綺麗な人というのは側にいて心地いいものだ。
庭で蕾だった花が美しく開けば「本当に数日でこんなに鮮やかな花が咲くんだ…!」と目を輝かせ、雨が降れば傘をさして歩ける事を「雨の日もお出かけ出来るなんてすごいね!」とはしゃぎ。空からシャワーが降ってくるような心地も楽しいと笑うのだった。
レミは弓を扱い、類稀なる『癒しの力』も持っている。そのため、一時は彼女を正式なデュロアルのメンバーとしてはどうか?という意見も挙がったのだが、ルディナスやウィリスと話し合った結果、やはり彼女には争いのない穏やかな生活を送らせてやりたいという結論に至り、変わらず家事手伝いとして過ごしてもらうことになっていた。
彼女の飲み込みの早さと記憶力は飛び抜けていた。
「自分も勉強がしたい」と言うので、彼女はリシェイと共にウィリスの座学に参加しているのだが、リシェイが必死の思いで課題本を一冊読んでいる間に、レミはなんと五冊を読み切ってしまう。しかも、その内容を一読で丸暗記しているのだ。
狭い研究所で生きてきた彼女にとって、専門書に並ぶ難解な引用や語彙を理解するのは決して容易ではないはずだが、彼女は辞書を引いて逐一調べ上げると、その周辺の記述ごとすべて記憶してしまうのだった。
最早リシェイに面子などあったものではない。
ウィリスの「見習いましょうね?」という笑顔の無言の圧が突き刺さり、撃沈状態である。
ただ暗記するだけでなく、得た知識を応用した考察についてウィリスと議論を交わすほどで、ウィリスも「基礎を学んだら、本格的に学問の道へ進みませんか?」と本気で勧めているくらいだった。
食事の時間ともなれば、その賑やかさはいっそう増す。
「あっ!テメェ、リシェイ!!それは俺の肉だろ!!」
「え〜、いいじゃん、もう一枚くらい!!」
「ふざけんな、お前さっきメルからも貰ってただろ!!」
大皿でだせば大食漢のカインとリシェイがおかずの取り合いをして、メルは「サラダ多めで!」と野菜を中心にのんびり食べる。
フェイはレミが一皿運んでくるたびに「今日はデートしない?」とにこやかに軽く口説いてくる。
「「おかわり!!」」
とカインとリシェイの声が揃ってシチューの皿を掲げると、レミは嬉しそうに微笑んだ。
筋がいいのか、料理を始めてまだ一ヶ月とは思えないほど、メキメキと腕を上げている。メルとフェイ以外の者が何度挑戦してもレシピ通りに仕上がらないデュロアルにおいて、彼女の手料理は奇跡のようなご馳走だった。
「リシェイとカインは大盛りだよね?」と皆の食べる分量を覚えて給仕をするのも楽しそうにしている。
メルも家事が分散されて本来の仕事に専念できるため、非常に助かっていた。
今やレミは、すっかり『家』の一員であり、日々を当たり前に過ごす家族のような存在となった。
だが――以前ルディナスの部屋の前で盗み聞いた「救済の聖地」の件について、カインは誰にも打ち明けておらず、その秘密はずっと胸の奥に引っかかったままだった。
けれど、こうして穏やかに笑う彼女の姿を見ていると、気が変わってくれたのではないかと思いたくなり、カインからその話題を掘り起こすような真似はしなかった。
今のレミに必要なのは、この『何気ない日常』なのだから。
普通の幸せを手に入れて、研究所の事など遠い彼方の話になれば良い。
───そう、思っていた。




