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EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第二章 安息を揺るがす影
19/79

18. 研究所の異変

 

 ────レミの脱出から数日後。

 ライフェン研究所・生体隔離区画。


 静まり返った廊下に、乾いた靴音が響いた。

 真っ黒な装束に身を包み、端正な顔立ちの左頬には刺青のような紋様が怪しく刻まれている。

 そしてそのアンバランスさを際立たせるように、青い髪と、血色の薄い白い肌が目を引いた。


 その青年───ヴァートはレミの部屋の前で足を止め、短くノックする。


「レミ? 僕だ。ヴァートだ」


 返事はなかった。


 一年ぶりに訪れた部屋の向こうには、人の気配すらない。ヴァートは眉を寄せ、解錠術式を通してドアを開けた。


 簡素なベッド。

 数冊の本が並ぶラック。

 冷たい石床。


 隠れる場所などないはずなのに、レミの姿はどこにもなかった。


「……レミ?」


 呼びかけは、虚ろな室内に吸い込まれる。


 ヴァートは部屋の中を見回した。寝具は乱れていない。机の上にも、床にも、争った形跡はない。まるで、最初から誰もいなかったかのようだった。


 だが、そんなはずはない。


 彼女はこの部屋から出ることを許されていない。処置のない日は、食事が配給口から差し入れられるだけだ。命じられた者以外、この部屋へ立ち入ることも許されていない。


 ヴァートは廊下へ戻り、処置記録を確認した。


 最後の検査は数日前。それ以降、移送の記録はない。隔離区画の管理を担う人造人間にも照会したが、返ってきたのは同じ答えだった。


「最後の処置以降、移送命令は受けていません」


 ヴァートは記録を閉じ、棟内の検査室へ向かった。

 処置室の隅、保管庫、隔離区画の奥。レミが移される可能性のある場所を、ひとつずつ確認していく。


 どこにもいない。


 棟内を一巡して部屋へ戻った時、ヴァートはようやく異変に気づいた。


 首筋を冷たい風が撫で、彼は足を止めて窓へ目を向ける。格子窓が、わずかに開いていた。


「……そんなはずは」


 ヴァートは窓辺へ駆け寄り、押し開けた。

 石造りのバルコニーに、細かな砂埃が吹き溜まっている。その上に、靴跡が残されていた。


 一つではない。


 窓辺から外壁へ向かうと、砂埃の上には、レミのものとは明らかに違う、大きな靴跡が残っていた。窓辺から手すり際へと続くその跡を、ヴァートは目で追った。


 ヴァートの呼吸が浅くなる。


 この窓には、外からの侵入を防ぐだけでなく、内側からレミが開けることもできない封印術が施されていたはずだ。何よりバルコニーは各室にある訳でもない。隣のバルコニーまでは大きく距離があり、普通の人間が容易に渡ってこられる場所ではない。


 そして彼女の左手首には拘束具がある。ヴァートが全力で攻撃しても傷ひとつつかなかった、黒い鉄輪。レミ一人では、どうにもできるはずがなかった。



 その時、懐に入れていた魔導通信の宝珠が朱色に点滅した。


『――ヴァート。あの娘を検査室へ連れてこい』


 博士の声だった。

 ヴァートは窓から目を離さないまま、宝珠を握りしめる。


「博士……レミが、部屋におりません」

『別の処置室だろう』

「棟内を確認しました。見つかりません。移送の記録もありません」


 短い沈黙が落ちた。


『……腕輪の反応も拾えない。どういうことだ?』


 その問いに答えるより早く、ヴァートはバルコニーから身を躍らせた。常人ではその落下に耐え切れる筈もない高さから身を踊らせると砂地へ着地し、足元を探る。


 黒い金属の破片が、いくつも散らばっていた。

 一片を拾い上げた瞬間、それが拘束具のものだと分かった。


「……腕輪が、壊されています」

『何だと?』

「窓の外に、彼女のものではない靴跡がありました。何者かが外壁を伝って侵入し、彼女を連れ出したようです」

『窓が開くはずがない! 内側のあの娘にも、絶対に開けられないよう術式を施してあったはずだぞ!』


 博士の声に、初めて苛立ちが混じった。

 通信の向こうで、何かが倒れる音がする。続いて、ガラスの砕ける音が響いた。


 ヴァートは破片を握りしめた。


「外部から、協力者が侵入した可能性があります。防衛結界の記録を確認すれば――」


『……どんな手を使ってでも連れ戻せ』

「どんな手を、使ってでも……ですか」

『息の根さえ止まっていなければ、手足の一本や二本、失くなっていようと構わん。生きて私の実験台の上にありさえすれば、四肢など必要ないからね』


 ヴァートの指の間で、破片が軋んだ。あまりに非人道的な言葉に背筋が凍る思いだった。


『彼女は、私の研究を完成させる唯一の鍵だ。決して逃がすな』

「博士……! 彼女を一体何だと思っているのです!」

『口答えをするな、失敗作の分際で』


 声から温度が消えた。

 最後はまるで蛇のように身を絡めとる恐怖にヴァートは全身が粟立つ。


『お前の身体が誰の手で動いているか、忘れたわけではあるまいね? 失敗すれば、お前も廃棄処分だ。……返事は?』


 ヴァートは目を伏せた。


 胸の奥で、埋め込まれた術式が冷たく脈打つ。己の身体を支配する術式の存在を、嫌でも思い知らされる。

 拒絶の権利など、最初から与えられていない。何を言われようと博士には肯定しか返せないのだ。


「……承知いたしました」


 通信が切れた。


 砂風の中、ヴァートは黒い破片を握ったまま、研究所を見上げた。


 連れ去られたのか?それとも、自ら誰かの手を取ったのか。

 どちらにせよ、レミはもうこの場所にはいない。


「……レミ。君は今、どこにいるんだ」


 捕まれば、彼女にはさらなる地獄が待っている。連れ出した者も、博士に見つかれば無事では済まない。


 ヴァートは破片を懐へしまった。


 見つけなければならない。

 誰より先に。



 ***



 捜索は研究所の敷地内から始まった。



 まず、防衛結界の記録を調べた。

 最後の検査が行われた日、待合室で防衛結界が作動していた。保管庫の封印に不正な干渉が加えられ、侵入者排除の機構が起動した記録だった。


 訪問した学者と、その私設護衛。

 そして、外部から雇われた護衛が一人。

 台帳に残っていたのは、人数だけだった。


「この護衛の名前は?」

「契約書には記載がありません。依頼人側の手配だそうです」

「顔を覚えている者は?」

「待合室の警備担当が確認しています。ただ、詳しい特徴までは……」


 手がかりは、あまりにも少なかった。

 最も怪しい共同研究を持ちかけてきた学者への照会は、怒鳴り声に遮られた。


『護衛のことだと!? 知らん! 貴様らの罠のせいで、こちらは殺されかけたのだぞ! ライフェンに伝えろ、私を侮辱したことは決して忘れんとな!』

「その護衛を、どちらから雇われたのかだけでも――」

『私の研究を踏みにじっておいて、今度は情報を寄越せだと!? 二度と連絡してくるな!』


 一方的に通信が切れた。


 ヴァートはしばらく宝珠を見つめ、それから静かに手を下ろした。



 状況から察するに、その護衛がレミを連れ出した可能性が濃厚だ。しかし何故護衛がレミのいる隔離棟に行く必要───否、そもそも何故行けたのか?

 それにただの傭兵がレミを連れ去る理由も皆目見当がつかない。


 レミが助けを求めたのか?

 それにしては彼女1人のためにこんなリスクを背負う理由も思いつかなかった。


 レミを連れ出した可能性が高い男の素性は、分からなかった。

 研究所内に二人の姿がないと確認されると、捜索は街へ広がった。


 宿屋。

 街道沿いの休憩所。

 馬車の発着場。

 人の出入りが多い市場。


 銀髪の少女と若い男を見なかったか、一つずつ聞き込んでいく。


 しかし、返ってくるのは首を横に振る反応ばかりだった。


「そんな二人は見ていない」

「銀髪の娘?干からびたこの大陸にそんな華やかな娘はいないだろ」

「研究所がえりと思しき女性は何人か見たが、若い男と一緒だったかどうかまでは覚えていない」


 目撃情報は、どれも曖昧だった。


 ヴァートは大陸内の捜索を続けながら、港にも足を運んだ。最後にレミが確認された日から、不在が発覚した日まで。その間に出航した船を、一便ずつ調べていく。


 船の名簿に、レミの名はない。


 当然だった。彼女が本当の名を名乗ったかどうかすら分からない。連れ出した男の名も、身分も、行き先も不明だった。


 乗客を覚えている船員も少なく聞き込みは難航した。

 日が過ぎるほど、博士からの催促は厳しくなった。

 通信のたびに、同じ命令が繰り返される。


 見つけろ。

 連れ戻せ。

 失敗は許さない。


 ヴァートは港を回り続けた。

 そして、脱出からひと月近くが経とうとした頃、別の航路から戻った船員が、ようやく彼の問いに反応した。


「銀髪の娘……ああ、いたかもしれねぇな」


 ヴァートは顔を上げた。


「いつの便だ」

「あの日の最終便だよ。若い男と二人で、出航ぎりぎりに駆け込んできた。娘の方は毛布を被ってたから、はっきりとは見てねぇけど」

「その男は?」

「さあな。急いでたし、顔までは覚えてねぇよ」

「船は、どこへ向かった」


 船員は少し考え、指を海の向こうへ向けた。


「センティアル大陸。リアン港行きだ」


 ヴァートは息を止めた。


 少女の名も、男の素性も、港へ着いてからの行き先も分からない。

 それでも、初めて得た手がかりだった。



 ***



 蒼く輝く海面が、眩しい日差しを受けて煌めいていた。


 甲板の片隅で、ヴァートは手すりに身を預けている。

 黒いフードを深く被り、青い髪と顔の刻印を隠していた。船上ではかえって目立つ姿だったが、素顔を晒すよりはましだった。


 水平線の向こうに、陸地が見え始めている。


 センティアル大陸。

 その港町、リアンシティ。


 そこにレミがいるという確証はない。すでに別の街へ移っている可能性もある。


 それでも、行くしかなかった。


「……ここに、いるのか……?」


 あの部屋で見た、レミの蒼い瞳が脳裏に浮かぶ。


 外の世界を知りたいと願いながら、願うことさえ諦めようとしていた少女。その彼女が、誰かと海を渡った。


 今、どんな顔をしているのだろう。

 怯えているのか。それとも、知らなかった景色を見て笑っているのか。


 会わなければ、何も分からない。


 博士の命令が蘇る。


 ───どんな手を使ってでも連れ戻せ。


 ヴァートは手すりを握りしめた。


 ───君を、迎えに行く。


 その言葉が何を意味するのか。

 彼女を見つけた時、自分に何ができるのか。


 答えを出せないまま、ヴァートは近づく陸地を見据え続けていた。



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