17. 逃げるという選択
ルディナスの部屋を出たレミは、静かな廊下を歩いていた。
可憐な切り花や、誰かが付けた柱の傷。冷たい研究所にはなかった暮らしの跡が、心を和ませてくれる。
ふと窓の外を見ると、中庭のベンチに人影があった。
「カイン……?」
黒っぽい髪と大きな背中に引かれ、庭へ出る。
正面へ回り込んだレミは、足を止めた。
「……カイン……じゃない……?」
「あれ? 君は……」
知らない男性だった。
カインより黒い髪に、若草色の瞳。膝に本を開き、穏やかにこちらを見上げている。
「す、すみません! 後ろ姿がカインに似ていたので……」
慌てて下がるレミに、青年は眼鏡を外して本を閉じた。
「気にしないでください。もしかして、レミさんですか?」
立ち上がり、微笑んで手を差し出す。
「初めまして。ウィリス=サクヤと申します。カインたちと同じ、デュロアルの居住組ですよ。今朝は美味しい朝食をありがとうございました」
「い、いえ! お口に合ったなら……」
レミはおずおずと握手を返した。
組織の仲間については聞いていたが、顔を合わせるのは初めてだ。
「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。……僕、怖いですか?」
「違うんです! 人と話すのに慣れていなくて……すみません」
「謝らないでください。少しずつ慣れてもらえれば良いですよ」
柔らかな声に、レミの肩から少し力が抜けた。
「私のことは、レミで構いません。みんなそう呼んでくださるので」
「では、僕のことも呼び捨てでどうぞ」
「年上の方にそんな……!」
「カインも年上でしょう?」
言われて、レミは返事に困った。
ウィリスがくすりと笑う。
「呼びやすい方で構いませんよ」
「じゃあ……ウィリスさん、と呼んでも良いですか?」
頷いた彼は、ベンチの本へ手を伸ばした。
「カインを探していたんですか?」
「いいえ。何をしているのかなと思って……あ、本!」
開かれたページへ、レミの目が吸い寄せられる。
国の歴史を記した本だった。
「仕事の息抜きです。部屋にこもりがちなので、夜風に当たろうと思いまして。読書には少し暗いのですがね」
「私も、本が好きです。研究所ではあまりできることがなくて、持っていた本は全部、覚えるくらい読み返しました」
「それは素晴らしいですね。カインやリシェイにも、見習ってほしいですよ。本を見ると吐き気がするとまで言うので……。座学を教えていても、目を離すと脱走するので困るんですよ」
嫌がる二人の姿が浮かび、レミは思わず吹き出した。
「僕の部屋でよければ、本はいくらでも貸しますよ。明日、館内を案内しましょうか。分からないことがあれば、お教えします」
「本当ですか? ぜひ、お願いします!」
初めて見る新しい本を前に、レミの瞳が輝いた。
***
「ん? あれは……ウィリスとレミか?」
夜食をつまんで部屋へ戻る途中、カインは庭の二人に気づいた。
夜は十時半を回ろうとしている。窓を開け、声をかけた。
「こんなトコで何してんだ?」
「あ、カイン」
「初対面だったので、ご挨拶をしていたんですよ」
ウィリスは食事時にも仕事で席を外しがちで、レミに紹介しそびれていた。
「すっかり忘れてた。悪かったな」
頭を掻くカインへ、ウィリスは笑った。
「では、ウィリスさん。明日はよろしくお願いします。カインも、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
レミが室内へ戻るのを見送り、カインも窓を閉めた。中庭へ回り、ベンチに歩み寄る。
「明日、何があるんだ?」
「館内の案内と座学を。本も貸す約束をしたんです」
「あー……本棚の本、擦り切れるまで読んでたもんな……」
研究所で見た光景を思い出し、カインは呟いた。新しい本が読めるとなれば、目が輝くのも頷けた。ウィリスは穏やかに微笑む。
「また我が家に、新しい家族が増えましたね」
「えらく話が弾んでたな」
「読書がお好きなようで。僕の仕事にも興味を持っていただけたのは嬉しいですし。気が合うのかもしれませんね」
並んでいた二人の姿が、頭に浮かぶ。
穏やかで、本が好きで。落ち着いた雰囲気の美男美女。自分とは随分違う。
「……仲良いじゃん」
ウィリスが目元を緩めた。
「やきもちですか?」
「バカ言え!」
「あのカインが、女の子を気にするようになったのですねぇ」
「事情を知ってて言ってんだろ……」
「ええ。滅多にないことなので、つい」
いつもは騒がしい面々を宥める男まで、これだ。
カインは「もういい」と溜息をつき、夜空を見上げた。
さっき盗み聞きしたレミの言葉が、頭から離れなかった。
逃げて、隠れて、最後は二度と出られない島へ行く。それが最善だと言い切る彼女の言葉には疑問ばかり感じてしまう。
「なあ、ウィリス」
「何でしょう?」
「『逃げる』のって……幸せだと思うか?」
ウィリスは少し目を見開いた。
「時と場合によりますね」
「……だよな。悪ぃ、変なこと聞いて」
「いえ。立ち向かうことだけが正しいとは思いません。逃げなければ、守れないものもあるでしょう」
カインは黙って耳を傾けた。
「ただ、逃げた先で幸せになれるかは、結果でしか分かりません。途中で別の道を見つけることも、振り返って立ち向かうこともある。大事なのは、自分がどうしたいのかを見失わないことだと思います」
ウィリスは静かに問いかけた。
「君も、そうだったでしょう?」
カインは過去を思い返した。
逃げれば楽になると思ったこともある。それでも、苦しみから逃れられるとは限らなかった。
「……いろんな見方があるんだな」
「僕個人の意見ですけれどね。参考になれば」
レミは、どうしたいのだろう。
今ある選択肢だけで決めてしまう前に、何かしてやれることはないのか。
考え込むカインを見て、ウィリスが微笑んだ。
「何がおかしいんだよ?」
「おかしいんじゃないです。嬉しくなったんですよ」
「は?」
「ここへ来たばかりの君は、自分のためだけに爪を立てているようでした。それが今は、誰かの幸せを真剣に考えている」
カインは言葉を詰まらせた。
「彼女との出逢いが、また君を変えてくれるのかもしれませんね」
しばらくして、カインは視線を逸らした。
「知らねぇよ。……どうせあいつは、そのうち出て行くつもりなんだから……」
最後の呟きは、風に紛れた。
ウィリスは本を手に立ち上がる。
「さて、僕は仕事に戻ります。君は?」
「俺も戻る。眠いしな。……お前、メシの時くらい定時に出てこいよ。だから紹介し損ねるんだ」
「ごもっともです。気をつけましょう」
小さく笑い合い、二人は屋敷へ戻っていった。
窓の外には、無数の星々が瞬いていた。




