16. 救済の聖地
本日何回か更新します。
レミがルディナスの部屋の扉をノックすると、中から落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ、入って」
応接テーブルへ促され、レミは深々とソファへ腰を下ろすと、ルディナスは大地と同じ茶色の瞳を優しく細めた。
「お帰りなさい。街は楽しかった?」
「はい! とても」
迷いなく答えたレミの表情には、先ほどまでの硬さは欠片もない。心からの笑顔だと察したルディナスは、安堵したように息をついた。
「そう、良かったわ。この辺りは便も雰囲気も良いから、気に入ってくれると良いのだけれど」
「とても素敵な場所だと思います。街は賑やかだし、皆とても親切で。花畑もとっても綺麗でした」
「花畑?」
首をかしげるルディナスに、レミはキョトンとして彼女を見返した。
彼が教えてくれた真っ白な、光り輝く花畑。「誰も知らない」と言っていたけれど、保護者のようなルディナスだけは知っているのかと思っていた。だからレミには彼女の反応が意外で、アテが外れたように目をしばたたく。
街のことならば熟知しているけれど、花畑というのはルディナスは知らないようだ。
「え……? あの、カインが……」
カインが教えてくれた、彼のとっておきの場所だ――と言おうとしたところでレミは口を噤む。
とっておきの場所なら、もしかすると本当に誰にも教えていなかったのかもしれない。
そんな大切な場所に連れて行ってくれた。その事が嬉しくて、レミは心の内が温かくなる。そして頭を振って、「何でもないです」と告げるのだった。
だが、和やかな空気はルディナスの次の一言で一変した。
「辛いことを思い出させるかもしれないけれど……ライフェン博士のことを聞かせてちょうだい。早い内に聞きたくて、来てもらったのよ」
レミの肩がびくりと跳ねた。避けては通れない話題だと分かっていたはずなのに、恐怖で身体が固まる。そんな彼女の動揺を察し、ルディナスは一度席を立つと新しいカップを差し出した。
「ココアよ。温かいものを飲むと落ち着くわ」
甘い湯気を吸い込み、一口口に含むと、強張っていた心が少しずつ解けていく。レミは深く息を吐き、静かに意を決した。
「大丈夫です。……お話しします」
***
小腹が空いて食堂へ向かっていたカインは、ルディナスの部屋の前で足を止めた。
褒められた事ではないが、漏れ聞こえる声に引き寄せられるようにドアへ耳を押し当てる。保護者気取りの自分が同席できないもどかしさを抱えながら、じっと耳を澄ませた。
「……博士にとって、あなたがどういう存在なのか教えてほしいの。彼は各国に太いパイプを持つ権力者よ。もしあなたを取り戻そうと本格的に動き出せば、どう出るか……」
ルディナスの問いに、レミはギュッと拳を握りしめた。
「私は……物心ついた時から研究所にいました。家族の顔も知りません。自分がどこで生まれ、なぜ閉じ込められていたのか……『レミ』という名すら本当のものか分からないんです」
断片的に語られる過酷な処遇。実験体としての冷遇。
ドア越しに聞くカインの胸中に、激しい憤りが渦巻く。
「……私は、一体何のために存在しているんだろうって……ずっと考えていました」
消え入るようなレミの声に続いて、彼女は自身の決意を口にした。
「私、近いうちに『救済の聖地』へ行こうと思っています」
室内と廊下、双方の空気が凍りついた。
『救済の聖地』――ラメント大陸最北端に浮かぶ不可侵の孤島。
どんな咎人や訳ありの者でも受け入れるとされるが、一度渡れば生涯を神に捧げ、二度と外の世界へ戻ることは許されない。実態を知る者が誰一人として戻らない、噂だけの謎のヴェールに包まれた土地。
「……本気なの?」
ルディナスは険しい顔で眉をひそめた。
「一度渡れば二度と外へは出られないと言われている場所よ?それは研究所の檻と何が違うというの?」
「研究所でなければ、どこでも私には十分なんです」
レミは寂しげに、けれど揺るぎない瞳でルディナスを見つめ返した。
「デュロアルの皆さんが大好きです。だからこそ私がここに居続けて皆さんを危険に晒したくない……。もし、あの島へ辿り着けないのなら……研究所に戻らなければならないのなら、私は迷わず『死』を選びます」
重い沈黙が流れた。
かつての彼女にとって、唯一の逃避策は「自らの命を絶つこと」だった。それに比べれば、「生きて聖地へ向かう」という選択は、彼女にとって芽生えたばかりの僅かな希望なのだ。
ルディナスは静かに目を閉じ、深く溜息を吐いた。
「……分かったわ。あなたの意志を尊重するわ。けれど、まずはあなた自身の出生と博士の動向をこちらで調査させて。もし博士があなたを追っていないのなら、このままデュロアルで暮らせばいいのだから」
「……お願いします」
ドアの外で、カインは深く俯いていた。
(逃げて、隠れて、最後は二度と出られない島に自分から閉じこもる? そんなの、何の意味があるんだよ……)
立ち上がる気配を察知したカインは、急いで曲がり角の影へ身を潜めた。丁寧にドアが閉まり、レミの足音が静かに遠ざかっていく。
腑に落ちない不快感が、カインの胸を苛んでいた。
彼女が本当は「普通の幸せ」を望んでいることを、カインだけは知っている。あの花畑で見せた、あの心からの笑顔がすべてを物語っていたはずだ。
(ここにいればいいだろ……。俺たちと一緒に、ここで笑って生きていけばいいじゃねぇか!)
それが叶わぬ逃避行へのカウントダウンだと知らず、カインは己の苛立ちの正体を「保護者としての怒り」だと言い聞かせ、暗い廊下に一人立ち尽くしていた。




