15. 契約の証とレミの笑顔
2回目更新分です
森を抜けて街道へ戻った二人は、街を見渡せる高台に辿り着いた。
眼下には、宝石を散りばめたような明かりが広がっていた。通りを行き交う人々の影が光の間を流れ、遠くの建物の窓には、ひとつ、またひとつと灯りが浮かんでいる。夜風が高台の草を撫で、冷えた空気を頬へ運んできた。
風に乗って、街のざわめきがかすかに届く。誰かの笑い声、店先で交わされる呼び声、遠くで鳴る鐘の音。暗闇に閉ざされた研究所にはなかった、生きた世界の気配が、眼下の光とともに広がっていた。
「綺麗だね……!」
レミは手すりへ駆け寄った。冷たい金属に触れた指先へ、夜の温度がじんと伝わる。青い瞳は無数の灯りを映し、いっそう大きく輝いていた。
「あんまり乗り出すと危ないぞ」
「うん、大丈夫」
カインは少し離れた場所から、彼女の背中を見守った。風が吹くたび、銀色の髪がさらさらと揺れ、月明かりを受けて淡く光る。
先ほどまでのぎこちなさは、もう消えていた。レミはただ、目の前に広がる夜の街を見つめている。
「カイン」
「何だ?」
「ありがとう」
「さっきも聞いたって」
「うん。でも、何度でも言いたくなったの」
レミが振り返る。
夜風に撫でられた頬に、柔らかな笑みが浮かんでいた。
カインは返事をしようとして、わずかに息を詰めた。彼女の笑顔を正面から受け止めると、胸の奥が妙に落ち着かない。視線を逸らそうとしても、青い瞳から離れられなかった。
彼女を元気づけたつもりが、自分まで癒やされているようだった。
それだけではない。この笑顔を、できるだけ長く見ていたいと思ってしまう。
そう考えた自分に気づき、カインはわずかに眉をひそめた。彼女が笑っている方がいいのは、きっと傷ついた顔を見たくないからだ。そうに決まっている。
「……お前は笑ってる方が、ずっといいよ」
届かないほど小さく呟き、カインも街へ目を向けた。
眼下では、夜の街が絶えず瞬き続けている。
けれど視線を戻しても、さっきの笑顔はいつまでも脳裏に残っていた。
***
住宅街をゆっくり回り、屋敷へ戻った時には、夜の九時を過ぎていた。
高台の冷たい風にさらされていた身体には、屋敷の扉をくぐった瞬間、室内のぬるい空気が心地よく感じられた。木の床を踏む音が静かな玄関ホールに響き、どこか遠くで時計の針が時を刻んでいる。
「ただいま。帰って……ゲッ!?」
玄関に立つ青年を見て、カインは顔をしかめた。
薄茶の髪に、少し切れ長の紫の瞳。見慣れた顔が、こちらを見るなりぱっと輝く。
いや、見ているのは後ろのレミだった。
「あの……」
「この子がレミちゃん!? うっわ、めちゃくちゃ可愛いじゃん! て言うより美人!?」
静かなホールに、フェイの声だけがやけに大きく響いた。
カインを押しのけ、青年が迫る。
「おいこら、てめぇ!」
反射的に声を荒げたカインは、フェイの肩を掴もうと手を伸ばした。だが、その手がレミの前へ出かけたところで、ふと止まる。フェイに触れられたままの彼女の手が目に入り、先ほどまで冷えていた指先を思い出した。
「オレはフェイ。フェイ=ジェニアス。ここの一員だヨ」
カインの声を聞き流し、フェイはにっこり笑った。
仲間だと分かり、レミはひとまず安堵する。
「留守にしてて残念ダヨ。オレ十九歳なんだけど、キミは? 同い年くらい?」
「えと……十八です。レミと申します……」
「一歳違いか。オレのことはフェイって呼んでネ。敬語もなしで」
「は、はい……じゃなくて、うん。よろしくね、フェイ」
フェイは彼女の両手を握り、さらに顔を近づけた。
外の冷気が残るレミの指先に、フェイの手の熱が伝わる。
カインの視線が、二人の重なった手へ落ちた。
胸の奥に、小さな苛立ちが生まれる。フェイが馴れ馴れしいのはいつものことだ。レミが困っているから腹が立つだけだと、カインはすぐに理由を決めつけた。
「ね、こんな広い世界で逢えたなんて、運命感じない? 歳も近いし、いい感じだと思うヨ。よかったらオレと付き合わ――」
ズドン!
「痛ぇっ!!」
カインの拳骨が脳天へ落ちた。
乾いた衝撃音がホールに響き、頭を抱えてしゃがむフェイを、レミが呆然と見下ろす。
「アホフェイ! レミが困ってんだろうが!」
「引っ込んでろよオッサン!」
「二歳しか違わねぇだろ!」
胸倉を掴み合う二人の声が、静まり返っていた屋敷の中へ次々に跳ね返る。
そこへメルが足音を響かせて駆け込み、二人の間へ割って入った。
「帰るなり何なんですか! レミさんが驚いているでしょう!?」
慣れた叱責に、ようやく二人の手が離れる。
カインはなおもフェイを睨みつけていたが、レミの視線に気づくと、ばつが悪そうに顔を背けた。自分でも、なぜここまで腹を立てたのか、よく分からなかった。
メルは溜息をつき、レミへ向き直った。
「そうでした。ルディナスさんが、今日、お時間のある時に来てほしいそうです。遅くなっても構わないと」
「ルディナスさんが?」
「でも、お疲れですよね。明日にしていただきましょうか?」
「ううん、大丈夫。今から行ってみるね。ありがとう」
レミは頷き、カインを振り返った。
「今日はとっても楽しかった。……嬉しかったよ」
朝までの硬い表情とは違う、心からの笑顔だった。
その表情を見た瞬間、カインの胸に残っていた苛立ちは、静かにほどけていった。
「……ああ。気をつけてな」
ようやく出てきた声は、思ったより低く、少し掠れていた。
レミが軽やかに去っていく背中を見送りながら、カインはしばらくその場に立ち尽くしていた。
メルも、傍らのリシェイも、彼女の笑顔を目で追っていた。
朝まで硬かった少女の表情が、見違えるほど自然にほどけていたからだ。
フェイが息をついた。数多の美女を見てきたフェイも初めての感覚だったようで目を見張っていた。
「っわ……オレ、マジで惚れそうカモ」
カインは腕を組んだ。見惚れるのは分かるが、彼女はどこまでも無防備だ。放っておくとどんな事に巻き込まれるかわかったものではない。
「頼むから、変なこと吹き込むなよ。あいつ、世間を知らねぇから何でも信じるんだ。レミに軽薄が移ったら可哀想だろ」
「軽薄って何だヨ」
フェイの反論を聞き流しながら、カインは廊下の奥へ消えたレミの姿を思い浮かべていた。
あの笑顔を、フェイの軽口で曇らせたくない。そう思うのは、彼女が世間知らずだからだ。自分が連れ出した責任があるからだ。
そう言い聞かせるほど、胸の奥の苛立ちは、なかなか消えなかった。
そんなカインの両脇へ、リシェイとメルがにやにやしながら近づいた。
「何だか良い雰囲気だねぇ? レミ、笑ってたじゃん!」
「とっても意味ありげなお言葉でしたねぇ」
「街を案内して、喜んでたってだけだろ」
尾行に失敗した二人は、空白の時間に興味津々らしい。カインは追い払うように手を振ったが、リシェイが逃げ道を塞いだ。
「じゃあさ、あのチョーカーは? カインのだよね?」
「あのクロスですよね! 気に入っているって言っていたのに!」
カインは言葉に詰まった。
いずれ気づかれるとは思っていたが、よりによって今か。相変わらず目ざとい二人だ。
「それは……何だっていいだろ! もう寝る! おやすみ!」
背後の声を振り切り、自室へ逃げ込んだ。
ドアを閉めると、屋敷のざわめきが一枚の板を隔てて遠のいた。
背中を預けた扉からは、まだフェイたちの声がかすかに漏れている。外の冷気を閉め出した部屋には、夜の静けさと、自分の荒い呼吸だけが残った。
カインは深く息を吐く。
安全を保障するための契約の証だと、そう言えば済む話だった。隠せば余計に勘ぐられることくらい、分かっていたのに。
(……『守るための契約』なんて、口説き文句みたいで恥ずかしかっただけだろ、どうせ)
暗い部屋で、レミの笑顔を思い返す。
窓の隙間から入り込む夜気が、火照った頬を冷ましていく。
彼女に笑いかけられて嬉しいのは、頼ってくれていると分かるからだ。あれほど素直に懐かれれば、誰だって悪い気はしない。
それに、フェイが彼女の手を握っていた時に覚えた苛立ちも、レミが困っていたからに決まっている。自分が守ると約束した相手を、軽薄な男から遠ざけようとしただけだ。
自分は彼女を連れ出した責任者で、保護者なのだから。
そう言い聞かせ、カインは胸の奥の奇妙な高鳴りを、無理やり納得させるのだった。




