2. 運命の出会い
本日は昼に第1〜3話、20時に第4〜8話を公開予定です。
螺旋階段を一気に駆け上がり、カインは上層の薄暗い通路へと滑り込んだ。階段の出口にあった木戸を背中で固く閉ざし、深く息を吐き出しながら、焦茶色の短髪を乱暴に掻きむしる。
下層の通路は警備兵とゴーレムの警戒で完全に塞がれている。だが、この静まり返った上層で息を潜めてやり過ごし、連中が撤収した隙を見計らって下りれば、脱出するルートはいくらでもあるはずだ。
依頼人は私設護衛が担いで外へ逃げ切ったはずだし、護衛の役目は果たした。さっさと合流して帰国し、この胸糞悪い任務を終わらせる――そう、頭では冷静に判断していたはずだった。
―――……だ……こち、ら……へ……
ふいに、脳裏へ直接杭を打ち込まれたような、奇妙な衝撃が走った。
誰かの声のような、けれど言葉にならない不可思議な響き。
「……何だ? 今、誰か……うぐッ!?」
呟いた瞬間、両目の奥に焼きごてを押し当てられたような強烈な痛みが走った。
外部からの攻撃ではない。眼球の奥底、自らの血肉と魂の奥深くから熱を帯びて疼きだす、異常な熱量。
(くそっ、なんだこれ……熱い……っ!?)
カインの意志とは完全に無関係に、血液が沸騰したように全身を駆け巡る。
ガタンッ!! と、凄まじい衝撃音が静寂を破った。
通路の先、頑丈な外壁に嵌め込まれていたはずの重厚な窓が、突風に煽られたように内側へ向かって勢いよく跳ね上がったのだ。
「何だ、急に……」
固く施錠されていたはずの魔導窓が、まるで何者かに招き入れられるようにひとりでに解錠され、全開になっていた。
高所特有の冷たい突風が唸りを上げて吹き込み、カインのジャケットコートを激しく翻す。だが、その風よりも遥かに強く、カインの全身を捉えて離さないものがあった。
―――……来……て……我が……器……
(器……!?)
瞳が、頭蓋の内側が、割れるほどに熱い。
声なき声が、狂おしいほどの引力となってカインの全身の筋繊維を無理やり引き絞る。
逃げるなら、身を潜めて階下へ戻るべきだ。こんな吹きさらしの高所から外壁に飛び出すなんて、警備に見つかるリスクも高く、何ひとつ合理的な判断ではない。
不審感と本能的な警戒警報が頭の中でけたたましく鳴り響いている。
なのに――抗えない。
心臓を鷲掴みにされ、魂そのものを直接手招きされているような、理屈を超えた猛烈な衝動。
「行かなければならない」「この先に、俺を呼んでいる“何か”がある」――思考を焼き尽くすほどの強烈な確信が、カインの身体の主導権を暴力的に奪い去っていた。
「くっ……体が……勝手に……ッ!」
カインは何かに惹きつけられるように、窓枠へと足をかけた。見下ろせば、落ちれば命の保証など到底ない遥かな高所。身を震わせるほどの強風が吹き抜けている。
常人なら降りようなどと考えるはずもない場所だが、圧倒的な衝動に突き動かされたカインは、迷うことなく外壁の配管と点在するバルコニーへ身を躍らせた。
風に乗って砂利が肌を叩く。
目に入らぬよう細めながら、足場を下り、狭い突起へと着地しては次の場所へ飛び移る。
気づけば元のフロアとは随分と離れてしまっていた。不規則な足場を辿ったことで、研究所の外壁を右往左往する形になっている。
心なしか、先ほどまでの警備の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
静か……というよりも、人間そのものの気配が途絶えている。壁の向こう側は、一般の研究員すら立ち入りを禁じられた極秘区域なのかもしれない。
(なんなんだよ、一体……! なんで俺は、こんな所へ引き寄せられてんだ!?)
人の多い場所で見つかるのも厄介だが、もしこんな厳戒区域への侵入が露見すれば、警備兵に拘束されてしまう。個人としても最悪の事態だ。
必死に自らの意志で身体の主導権を取り戻そうと抗っていると、あるバルコニーに着地した瞬間、ふっと全身を縛り付けていた不可解な引力が抜け、自由な感覚が戻ってきた。
「よし……急いでさっきの場所に戻らねぇと!」
得体の知れない恐怖を振り払うように、カインは警戒を怠らず、元のフロアへ登り戻ろうと身構えた。
――その時だった。
背後で、バルコニーに面した窓がひとりでに開いた。
「えっ?」
カインは足を止め、振り返った。
中から現れたのは、真っ白な服を着た華奢な人影。 その少女は、開いた窓を信じられないものを見るように見つめ、風と光に吸い寄せられるようにふらりとバルコニーへ足を踏み出してきた。
狭い足場で、カインは咄嗟に身を引こうとした。だが、その前に少女の肩が胸元へぶつかった。
「うわっ!?」
「え………?」
思いも寄らぬ衝突だった。
一瞬か細い声が聞こえたかと思うと、体勢を崩したカインはそのままバルコニーの石床へ倒れ込み、腕を強く擦りむいた。大した傷ではないが、じんじんと熱い痛みが走る。
「……痛ぇな、一体何なんだよ……!」
苛立ちに顔をしかめ、頭を押さえながら体を起こそうとしたカインの視界で、少女の身体がぐらりと揺れた。
衝突の衝撃のまま、彼女は手すりへ向かって大きく前のめりに倒れ込みかけていたのだ。眼下には遥か遠く砂地が広がっている。吹き荒れる強風に煽られ、少女の細い身体が外の虚空へと投げ出されそうになった。
「おい、バカ! 落ちるぞ!!」
カインは咄嗟に手を伸ばして彼女を抱き寄せ、そのまま窓の内側へ身を投げ出した。二人はもつれ合うようにして室内へと転がり込む。
「っだぁ……!」
カインは床へ倒れ込みながらも、すぐさま跳ね起きて開け放たれた重い格子窓を掴んだ。外から見咎められる前に力任せに引き戻し、勢いよく押し閉めて固く鍵をかけ直す。
「……ハァ、ハァ……! 危ねぇだろ! 一体何考えてんだあんた、死にたいのか!?」
荒い息を吐きながら背中で窓を押さえ、怒鳴りつける。
だが、冷たい石床にへたり込んだ少女から返ってきたのは、悲鳴でも怯えでもなかった。
「……あ、開いてた……?」
呆然と、固く閉ざされた窓を見上げる少女。
年の頃は自分より少し下の、十七かそこらだろうか。ゆったりとした無地の白いワンピースは、どこか病衣か実験着を思わせる。
その身を包むようにして床一面に広がっているのは、息を呑むほどに長く、豊かな銀の髪だった。まるで光を紡いだ糸のように細く、座れば床に幾重にも波打つほどの尋常ではない長さ。
そして、色素の薄い透き通るような肌の奥で、カインを見つめる双眸だけが、見たこともないほど澄み切った空の蒼を湛えていた。
(……なんなんだ、この子は)
まるで精密に作られた人形のような浮世離れした美しさ。
だが――その華奢な左手首には、白磁のような肌を締め付けるように、重々しく無骨な黒い金属の拘束具が嵌められていた。
「どうして……? ずっと、開かなかったのに……」
「は? 鍵が開いたからだろ。それより今の音、外の警備に聞かれてねぇか!?」
カインは眉をひそめ、部屋の奥の扉を鋭く警戒する。しかし、少女は弱々しく首を横に振るだけだった。
「警備? ……聞かれる心配はないよ。この部屋は、外や他の部屋と音が通じないようになってるから。……検査の時以外、誰も……来てくれないもの」
「来てくれない」――その言葉に落ちた深い影に、カインは毒気を抜かれたように言葉を詰まらせた。
「……あんた、一体……」
外の空は、先ほどよりもいっそう深く薄暗くなっていた。
固く閉ざされた隔離領域の下で、静かに一つの出会いが波紋を広げ始めていた。




