1. 研究所の護衛任務
いつも、空を見上げていた。
鳥籠のように閉ざされた、高塔の窓。
その向こうには、煙るような鈍色の空と、乾いた砂地が広がっている。大気は埃と煤に濁り、澄んだ陽光が差し込むことはなかった。
――空は、青いのだという。
擦り切れた書物に記されたその当たり前を、少女だけは知らない。
抜けるような青空も、世界を染める夕暮れの茜色も、一度だって見たことがなかった。
知っているのは、死んだような昼の灰色。そして、残酷な痛みと悪夢を連れてくる夜の闇だけ。
生気のない世界で、少女の瞳だけが、見たこともない空の蒼を湛えていた。
背へ零れる銀髪を鈍い光に晒し、膝を抱えて、届かない空を見つめ続ける。
この手を引いて外へ連れ出してくれる存在など、世界のどこにもいないと信じながら。
***
乾いた砂が、風に乗って肌を叩く。
世界に六つある大陸の中で、最も小さく痩せたリーン大陸。
その荒野にそびえる研究塔の前へ、一台の魔導車が滑り込んだ。
「デカいな……。マジで一個人の持ち物かよ」
黒いジャケットの深紅の裏地を砂風に揺らし、カインは天を仰いだ。十層を超える窓の列が、城さながらに空へ伸びている。
持ち主は、絶大な権力を持つ魔導学者、ジウ=ライフェン博士。
そこに「学会で発表されたデータを取り返せ」と因縁をつけに乗り込むのだから、国内の真っ当な警備会社には軒並み断られたのだろう。だからこそ、他国でしがらみのない組織に依頼が回ってきたのだ。
依頼を引き受けたのは、他国を拠点とする人材派遣組織『デュロアル』。
所属するファイターのカインは、用心棒として同行していた。
(前はゼロを散々不機嫌にさせたくせに、またうちを頼りやがって……)
「おい、ぼさっとしていないで行くぞ!」
「……はいはい」
高価なスーツを着た小太りの依頼人が、神経質に怒鳴る。その後ろには、荷物を抱えた私設護衛の巨漢が付き従っていた。
短気なカインにとって、この手の仕事は剣を振るうより神経を使う。
焦茶色の短髪を掻き、黙って後に続いた。
「ドアを開けんか!」
「はぁ?」
入口で立ち止まった依頼人を睨む。
(秘書でも連れてこいっての!)
悪態は胸の内に留め、指抜きグローブを嵌めた手で重い両開き扉を押した。
「ハイハイ、どーぞ! 気づかなくて悪うございましたね!」
「ふん、気が利かん若造だ」
背中を睨みつけながら、カインも中へ入った。
受付では、依頼人の通行証で一行の入館が認められた。
記録されるのは「学者本人、私設護衛、外部護衛一名」という頭数だけ。カイン個人の名を尋ねられることもなく、三人は待合室へ通された。
***
約束の刻限から、一時間が過ぎていた。
石造りの壁に背を預け、カインはあくびを噛み殺した。腰の片手剣の柄を指で弾き、深い緑の瞳を振り子時計へ向ける。
「この私を、いつまで待たせる気だ……!」
依頼人は部屋を往復し続けていた。
やがて、苛立ちの矛先がこちらへ向く。
「おい、雇われの若造! 何とか言ったらどうだ。前のゼロとかいう男の方が、愛想は悪くとも頼り甲斐があったぞ!」
「あっちはアンタがあまりにうるせぇから、相手すんの諦めて黙ってただけだろ。……だいたい、天下のライフェン相手に俺の剣で何とかしろってか? 無茶言うなっての。気難しい奴だって最初から分かってただろうが」
「金は払ったのだ!」
依頼人が声を荒らげた。
「共同研究の契約金を前払いしたのに、データの開示を引き延ばすばかりだ。絶対に何か隠している!」
その時、重厚な扉が開いた。
助手と術士を従え、一人の男が入ってくる。
警備兵たちが一斉に頭を垂れた。
ジウ=ライフェン。
白衣の下に黒いベストを着こなした、細身の男だった。波打つ亜麻色の髪に、澄んだ水色の瞳。穏やかな微笑を浮かべた姿は、学者というより貴族の紳士を思わせる。
だが、カインの肌が粟立った。
(……なんだ、この男)
怒気も威圧感もない。
それなのに、目の前の人間を同じ人間として見ていない。標本箱の羽虫を眺めるような眼差しだった。
「お待たせして申し訳ありません。新しい術式の検証に、少々熱中してしまいまして」
「挨拶は結構だ! 生体魔導の刻印データはどうなっている! 契約期日はとうに過ぎているぞ!」
「ああ、あの件ですか」
ライフェンは小さく首を傾げた。
「あの記録は、すべて破棄させていただきました」
「は……破棄だと!?」
「ええ。検証はしましたが、私の求める領域には何の価値もありませんでした。理論に混ぜるべきではない、不純物です」
「ふざけるな! 私の研究室が心血を注いだ成果を――」
「成果、ですか」
微笑みは変わらない。
声だけが、冷えた。
「貴方の貧相な脳髄が生み出したゴミ屑を、精査して差し上げたのですよ。感謝していただきたいものですね」
「貴様……!」
「どうぞお引き取りを。これ以上、私の時間を浪費させないでいただきたい」
ライフェンは踵を返した。
助手たちも蔑むような一瞥を残して続く。壁際のカインには、最後まで目もくれなかった。
扉が閉まる。
「……許さん。私の生涯を、ゴミ屑だと……!」
依頼人の顔が赤黒く歪んだ。
「先生、引き上げましょう。ここは相手の縄張りです」
「まだだ……あの保管庫なら、写本が残っているはずだ!」
私設護衛の制止を振り払い、依頼人は奥の鉄扉へ駆け寄った。持参した術具を取り出し、鍵穴へねじ込む。
「おい、やめろ!」
カインの声と同時に、甲高い警報が鳴った。
床に刻まれた魔導文字が朱色に発光する。
出入口の上から巨石の防壁が下り始め、部屋の隅では、台座に鎮座していたストーン・ゴーレムの眼窩に紅い光が灯った。
「ひ、ひぃっ!?」
腰を抜かした依頼人へ、巨大な石の拳が迫る。
「チッ……!」
カインは前へ跳び出し、剣を抜いた。
関節の魔導石へ刃を叩きつける。火花が散り、腕に痺れが走った。
逸れた拳が、すぐ脇の床を強打する。
防御術式の施された床は無傷だった。あの質量をまともに受ければ、人間の身体などひとたまりもない。
「旦那を連れて逃げろ!」
「だが、あんたは――」
「早く! 出口が塞がるぞ!」
私設護衛は一瞬息を呑んだが、カインが身を挺して稼いでくれた好機を無駄にはしなかった。
パニックで泣き叫ぶ学者を力づくで担ぎ上げると、落下しかけている石扉の隙間へと滑り出すように転がり出た。
直後、巨石が床へ噛み合った。
封印の光が走り、外の物音が途絶える。
(よし、依頼人は逃がした……!)
身勝手な暴走を始末し、無傷で送り出したのだ。護衛としては十分だろう。
問題は、自分がどう生き残るかだった。
岩の擦れる音が背後に迫る。
標的を変えたゴーレムを振り返り、カインは剣を構え直した。
「……さて。泥をかぶるのは下っ端の役目とはいえ、歓迎が重すぎるだろ!」
分厚い石の外殻に、剣一本で打ち合うのは分が悪い。
豪腕を低く躱し、周囲へ視線を走らせる。
壁の松明が照らす先、石壁の高い位置に、わずかに開いた木造りの跳ね上げ戸が見えた。点検用か、あるいは資材の搬入路か。隙間の奥、暗がりに石の螺旋階段が上へと伸びているのが見える。
(あそこだ!)
カインは石造りの書架へ飛び乗った。
棚を蹴り、頭上の木戸へ手をかける。
背後で拳が唸った。
風圧を背に受けながら木戸を押し開け、カインは暗い階段へ身を躍らせた――。
はじめまして。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
カインとレミ、そして仲間たちの旅路を見届けていただけたら嬉しいです。
本作は最終話まで執筆済みです。
現在、推敲と掲載用の話数調整を進めており、こまめに更新していく予定です。
どうぞよろしくお願いいたします!
登場人物の名前やプロフィールを確認したい方へ、活動報告にキャラクター紹介を掲載しています。
・登場人物紹介①【デュロアル編】
・登場人物紹介②【ライフェン研究所編】
※序盤の設定を紹介しています。本編だけでもお楽しみいただけます。




