13. 二人の契約
「俺さ……昔から辛いこととか、嫌なことがあると、いつもここに来てたんだ」
ここは誰にも教えたことのない、自分だけの秘密の場所。無骨な自分を唯一、偽りなく曝け出せる場所だった。
「ここに来ると、不思議と心が落ち着いた。きっと、この花たちに助けられてたんだと思う。誰にも気づかれずに咲いてて、何も喋ってくれないけど……俺を救ってくれた」
「そう……だったんだ……」
カインがぽつりと零した心根に触れ、レミは彼の心の拠り所である白い花々を、慈しむような目で見つめた。穢れを知らぬその無垢な美しさは、確かに悲しみすらも優しく包み込んでくれる気がした。
「レミ」
少し先へ歩いていたレミは、名前を呼ばれて振り向いた。カインは柔らかく微笑んでいる。
「レミも、この花たちと同じなんだよ」
「私……?」
「自分では『誰にも気づかれない』って思い込んでるみたいだけど……お前はちゃんと、ここにいる。お前に出逢えて良かったって思ってる奴なら、もう周りにたくさんいるぞ」
「最初の俺なんて厄介者扱いだったからな。一日でこれだけの人に受け入れられるなんて、俺よりずっと凄いぜ」と語るカインに、レミは困惑したように小さく頭を振った。
「私……何もしてないの。まともに会話だって、できていないのに……」
「いいんだよ。誰もがお上手な返しができるわけじゃねぇ。素直でいられるだけで充分なんだ。弱くたっていいじゃねぇか」
伏し目になり、頑なに否定しようとするレミへ、カインは温かな眼差しを向けた。
「俺はレミに助けられた。そして……みんなも、もうレミのことを大切な『仲間』だと思ってる」
「仲間……私が……?」
生まれてこの方、『仲間』などという温かな言葉をかけてもらったことなど一度もなかった。胸を満たす溢れんばかりの嬉しさと同時に、深い不安が鎌首をもたげる。
仲間とは、何をすればいいのだろう。
仲間であり続けるためには、自分はどう振る舞えばいい?
もしもいつか「もう要らない」と見捨てられたら――自分はどうなってしまうのだろう。
温もりに近づけば近づくほど、それを失う恐怖が膨らんでいく。
カインには、彼女の胸を苛む恐怖が痛いほど理解できた。自分自身もかつて、同じ絶望の淵を彷徨っていたからだ。
「レミ、辛い時は誰かを頼ったっていいんだ。一人で頑張ってもどうにもならないことなんて、いくらでもあるんだからさ」
レミは青い瞳を瞬かせた。
「頼っても……いいの……?」
誰かを頼れば、その人の重荷になってしまう。自分は普通の人間とは違う『歪な存在』だと自覚しているからこそ、誰かに縋ることも、頼ることも恐ろしかったのだ。けれどカインは「すべてを拒絶する必要はない」と言い切り、力強く頷いてみせた。
「ああ。俺はデュロアルでそれを学んだ。だから今度は……俺がレミにそれを教えてやりたいんだ」
レミの目から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。
「あ……あれ……? 泣くつもりなんて、なかったのに…。悲しいわけじゃないのに……どうして……涙が出ちゃうんだろう……」
カインは一歩踏み出し、泣きじゃくるレミへと歩み寄った。向き合ったレミは、涙を袖でぐいっと拭うと、カインの顔を見上げる。
夜の光に照らされた彼の焦げ茶色の髪と、深く穏やかな緑の瞳。それらを一心に映す彼女の無垢な瞳は、どんな宝石よりも澄み渡り、美しかった。
「なあ、レミ。俺と……『契約』しないか?」
「契……約……?」
「ああ。期限付きの契約だ。俺がレミを守る。期限は……そうだな。『レミが心から安心して暮らせるようになるまで』だ。どうだ?」
契約を遂行するのが俺の本業だからな、と笑うカインを見つめ返しながら、レミはポツリと呟いた。
「嬉しいけれど……私には、あなたを雇うお金なんてないよ……」
「金なんて要るかよ」
「でも……そんなわけにはいかないよ。私、見合うものなんて何ひとつ持っていないもの……」
「うーん、そこまで真面目に気にしなくてもな……」
頑ななレミの態度に、カインは弱って頭を掻いた。
本来、契約とは相応の対価が伴うものだ。見返りなど求めていないカインだったが、彼女の生真面目な性格上、ただの『約束』と言ってしまうと余計に遠慮して拒絶してしまうだろう。だからこそ『契約』という形を持ちかけたのだが、案の定、対価の段で引っかかってしまったのだ。
どうすれば彼女を納得させられるか――少し思案したカインは、ハッと名案を思いついたように手を打った。
「よし! じゃあこうしようぜ。レミはこれから……『自分には生きる資格がない』なんて思わないこと。これを契約金代わりにしろ。いいな?」
レミは驚きに青い瞳を大きく見開いた。感情を表に出すのが苦手な己の本心を、まさか見抜かれているとは思わなかったのだ。しかしカインには彼女の悲痛な自傷の念が手に取るように分かっていた。
「レミはすぐ自分の殻に閉じこもっちまうだろ? 死んでも構わないなんて顔するし。毎回そんなこと思われたんじゃ、俺の身が持たないんだよ。だから少しずつ、そういうのを治していこう。その方が、金なんかよりずっと価値がある」
「生きる……」
レミは掠れた声で、彼の言葉の重みを反芻した。
「どうだ? 俺にとっても精神的に助かることだから、報酬としては十分すぎるくらいだろ」
「今のレミにとっちゃ、資金調達よりずっとハードルが高いだろ?」とカインは冗談めかして苦笑した。どこまでも前向きで、どこまでも優しい彼に、レミは微かに目を細めた。
「……カイン……本当に、あなたは……」
目に見えるモノと心。その本質的な価値は違っていて、提案者に得のない取引など契約としては成り立たない。
結局のところ、これはただの『約束』なのだ。
それを都合よく受け取るのは、やはり甘えになってしまう気がしてならない。
けれど――ここまで自分に向き合ってくれたことが、嬉しくて。
言葉にならないほど嬉しくて、これ以上断ることなんてできなかった。
いや、それ以上に――
「ありがとう……。お願い……します……」
その言葉を聞いた瞬間、カインの表情がパッと明るくなった。
「よし! でも、契約書も何もないな……。あ、そうだ」
カインは自分の首から、一本のチョーカーを外した。初めて逢ったあの護衛任務の時も身につけていた、銀色のクロスが胸元で光る愛用の品だ。
カインはそのチョーカーを、レミの小さな手にそっと握らせた。
「これが契約書代わりだ。期限はレミが自分で判断してくれ。その時が来たら、これを俺に返してくれればいい。お前がちゃんと笑っていたら、俺は喜んで受け取るからさ」
「これが……?」
「ああ。失くすなよ? それ、結構気に入ってるんだか……」
最後まで言いかけて、カインは慌てて口を塞いだ。
「じゃなくて! 大事な契約の証だからな!」
レミは掌のチョーカーをじっと見つめ、ぎゅっと固く握りしめた。硬質な銀の冷たさが、今の彼女には何よりも温かく感じられた。
「……うん。分かった……」
陶器のように白い頬を、一筋の涙が静かに伝い落ちる。チョーカーを見つめる彼女の目元から零れ落ちた無垢な滴は、夜の白い光を受けて美しく煌めいた。
その姿はまるで絵物語の一ページのようで、カインは息を呑んで目を奪われた。
「……泣くなよ」
「ねえ、カイン。これ……身につけていてもいい?」
「いいけど、男物だからサイズが合わないだろ? レミの首にはゆるゆるだぞ」
胸元でチョーカーをぎゅっと抱きしめ、レミは愛おしそうに瞳を閉じた。
「いいの……。私、嬉しいの……。こんなに嬉しいって思ったの……生まれて初めて…」
ゆっくりと顔を上げた彼女の唇には、確かな『笑顔』が浮かんでいた。
取り繕った愛想笑いでも、怯えを隠す笑みでもない。胸の奥から溢れ出た、本物の感情の形。
涙を浮かべたまま穏やかに咲いたその微笑みに、カインの鼓動は跳ね上がるように早くなった。
「とても嬉しいの……。ありがとう、カイン……」
それは、彼女が初めて見せた心からの笑顔だった。
普段の憂いを帯びた顔立ちも息を呑むほど美しかったが、今の笑顔はその比ではないほど鮮やかにカインの心に刻み込まれた。
カインにとっては、彼女を救うための不器用な約束。
けれどレミにとっては、生まれて初めて届いた純粋な『幸せ』の証。
この誓いが、のちにカインにとってかけがえのない特別な絆となり――
──二人の行く先を大きく揺るがす約束となることを、まだ知る由もなかった――
二人の原点となる場所と約束。
ここまでで一章終了です。
少し本筋から外れて幕間をお届けした後、二章に入ります。
幕間と14話は一挙更新の予定です。
よろしくお願いします。




