12. カインの秘密の場所
本日2回更新予定です。
「わあ……! こんなに種類があるんだね」
マルシェの陳列棚や木箱には、所狭しとみずみずしい食材が並べられていた。気さくな店主から「味見してみなよ」と差し出されたリンゴのカットをレミは受け取っていいものか迷い、躊躇いがちにカインを見上げた。カインは「食べてみ?」と軽い調子で一口頬張り、行動のお手本を示してみせる。
レミもそれに倣い、小さく口へ運んだ。
「甘くて……とっても美味しい……」
口いっぱいに広がる新鮮な果汁と、豊かな酸味、優しい甘さ。レミが感動を噛み締めるように目を細めた瞬間、その一瞬の可憐さにノックアウトされた周囲の露天商たちが、色めき立って群がってきた。
「こっちの果物も美味いぞ! 是非食べていってくれ!」
「いやいや、うちのをオマケするからさ! あの、お姉さん、名前は!?」
「ずるいぞ、俺が先だ!」
あっという間に男性客や店主たちに取り囲まれるレミ。今さらながら彼女が浮世離れした美貌の持ち主であることを思い出し、カインは苦々しい顔で頭を掻いた。多くの人に詰め寄られて、レミの瞳に困惑と不安の色が差し始める。これ以上目立つのも危険だろう。
「あーもう、解散解散! 行くぞ!」
吐き捨てるように叫ぶと、カインはレミの手首を固く掴み、群がる男たちを蹴散らすように突き進んだ。「調子の良い奴らばっかりだ」と不機嫌そうに呟くカインの横で、レミは何が起きたのか分からず、ただ青い瞳を丸くさせていた。
***
それからも大通りを歩きながら、カインは街の案内を続けた。賑やかな露店街を抜けると、飲食店に混じって生活感のある集合住宅がチラホラと目立ち始める。
その後も衣料品店や日用品の店を巡り、必要なものを買い揃えていくうちに、いつしか陽は傾き始めていた。
「世界って……こんなふうになっているんだ……」
ポツリと感嘆の息を漏らすレミに、カインは苦笑いを浮かべた。
「こんなの世界の一部にすぎねぇよ。都会っていうなら、せめて王都くらい見ないとな」
「……そう……」
だが、レミにとっては、目の前のすべてが別次元だった。まるでお伽話の異世界に迷い込んでしまったかのような錯覚さえ覚える。
歩いていると、カインと一緒だからだろう。すれ違う人々から気さくに声をかけられた。その度に「恋人かい?」と冷やかされ、カインはその都度ムキになって否定する。レミは何を言われているのか理解できず、ただ首を傾げるばかりだった。カインが「不愉快な思いをさせてすまない」と気遣ってくれても、その真意すら掴めない。
(ううん……カインのせいじゃない……。私……)
自分は、何ひとつ知らない。
何も、分かっていないのだ。
──『お前など、チカラがなければただのゴミだ』──
脳裏に不意に蘇った酷薄な声に、レミは強く目を閉ざした。
行き交う人々は誰もが笑い合い、親子は固く手を取り合って歩いている。
手を取り合うのは、はぐれてしまわないため。互いを必要とし、生きていてほしいと心の底から願い合っているからだ。それは互いの存在を認め合っているという証。
目の前を歩く、背の高い彼もそうだ。カインは仲間に、友達に、必要とされているからこそ、当たり前のように今を生きている。生きている意味や資格など、考える必要すらなく。
様々な人と親しげに言葉を交わすカインと、温かな街の人々。それを見つめるにつれ、レミの胸の奥は締め付けられるように苦しくなり、やがて足元へ視線を落とした。
先ほどまで明るく歩いていた彼女の足が、ぴたりと止まる。
異変に気づいたカインが、足を止めて振り返った。
「どうしたんだ、レミ? 気分でも悪いのか?」
「ううん、そうじゃないの。……私って……何なんだろうね」
「レミ……?」
悲痛な面持ちで俯く彼女は、溢れ出そうになる涙を堪えるようにぎゅっと唇を噛み締め、口をつぐんだ。
「一体どうしたんだよ」
肌寒い風が通りを吹き抜け、レミの銀髪を揺らした。子どもの手を引く家族連れが、二人の傍らを通り過ぎていく。街の窓にはぽつぽつと暖かな灯りがともり始めていた。
「カインには……知り合いや、友達が沢山いるんだね……」
「まあ、ここに住み始めて結構経つからな。とはいえ、付き合いの深さは人それぞれだけど」
このリアンシティに流れ着いてから、すでに五年以上が経過していた。それだけいれば街に詳しくもなるし、知人が増えるのもごく自然なことだ。
だが、記憶にある限り、まともな人間関係を築けずにいたレミにとって、それは果てしなく遠い世界の話だった。
「私……本当に何も知らないんだなって。本当に……一人きりだったんだなって……そう思ったら……」
レミの顔が暗く沈んでいく。
「……ごめんなさい……」
見知らぬ街へ来たのだから、知る者がいないのは当然だ。しかし、この街を出ようと、あの冷たい研究所へ戻ろうと、自分という存在を知る者など世界中のどこにもいない。ましてや『友達』など、いるはずもなかった。
海も、大地も、人々も。自分は何も知らない孤立した世界で、ただ呼吸をしていただけなのだと痛感させられる。それは、賑やかな群れの中に突如放り込まれた、異物のような孤独感だった。
「何言ってるんだよ。これから色々知っていけばいいし、知人だってたくさんできるさ!」
「生き方なんて……分からないの。私はずっとただ『生かされて』きただけで……生きているなんて思ったこと、一度もなかった。何がしたいのかも……何も分からない……!」
優しく灯る家々の明かりも、人々が助け合って生きる喧騒も、今のレミには眩しすぎるお伽話のように思えた。
「カインが研究所から出してくれる時……これからは好きに生きていいんだって、そう言ってくれた。でも私……この世界に住んでいる人間じゃないみたいな気持ちにしか……なれなくて……」
溢れ出す涙を堪えようと、レミの声が途切れ途切れに震える。カインの慰めの言葉が届いても、胸にぽっかりと開いた虚無の穴は埋まらない。
何も知らず、ただ痛みと絶望だけを抱えて生きてきた年月。これから知っていけばいい――そう笑うには、失われた時間があまりにも長すぎた。
「レミ……」
「ごめんなさい……。折角、楽しいことをたくさん教えてくれているのに……色々な人に会わせてくれているのに……」
黙って言葉を受け止めていたカインは、自身の拳を強く握りしめた。
暗い顔で小さく肩を震わせる彼女の姿が、かつての自分と恐ろしいほど重なって見えたからだ。
温かな人の営みの『外側』でしか生きられないのかと絶望し、怒りと孤独に身を投げ出していた悲しい日々。
(……違う。もう俺は……)
カインは突如、レミの手首を強く掴むと、勢いよく歩き出した。
手首を引かれたレミは一瞬つんのめりそうになりながらも、引きずられるようにして彼についていく。何故カインが突然こんな行動に出たのか理解できず、レミは困惑と焦りの声を漏らした。
「カイン……? どうしたの? どこに行くの?」
「……レミ、俺のとっておきの場所に連れて行ってやる。ついて来い」
カインは街の外れへと向かって足早に進んだ。赤レンガの整った石畳は姿を消し、剥き出しの砂利道と傾斜のある山道へと変わっていく。振り返ると街の明かりが遠く小さく眼下に広がっており、自分たちが高台へ登っていることが分かった。
すれ違う人影すら完全に途絶えたあたりで、カインはようやく足を止めた。
「こっちだ。ちょっと段差があるから気をつけろよ」
カインが指さしたのは、道の脇に鬱蒼と茂る木々の合間だった。眼前に広がるのは完全な森。人の立ち入る気配のない深い緑の闇に、レミは思わず目を丸くした。
「こっちって……道がないよ? もう暗くなってきたのに、危ないんじゃ……」
「いいから」
カインは腰ほどの高さのある段差へ軽々と飛び乗ると、レミへ手を差し伸べ、彼女の身体を優しく引き上げた。
ポケットから小型の魔導ライトを取り出して足元を照らすと、迷いのない足取りで深緑の奥へと突き進んでいく。
マーケットを離れて二十分ほどが過ぎた頃。
暗い森を抜け、小高い丘の段差を登りきった瞬間──
眼前に広がった光景に、レミは息を呑んだ。
「すごい……綺麗……!」
そこは、一面の花畑だった。
純白の可憐な花々が、夜の静寂の中に果てしなく咲き誇っている。その花々から溢れ出しているのだろうか、まるで蛍の光のような微かな光の粒が、空中をふわりふわりと舞っては消えていく。
深緑の森と薄暗い夜空を優しく照らし出すその光景は、あまりにも幻想的で、息を呑むほど美しかった。
見上げれば、群青の空に小さな一番星が輝いている。だが、それ以上にこの足元の地上は温かな光に満ちており、まるで天と地がひっくり返ったかのようだった。言葉を失い、レミはただ感嘆の息を漏らすことしかできない。
「すげえだろ? こんな森の奥にあるから、誰も知らないんだ。俺自身、花なんて興味ねぇけど…ここだけは特別綺麗だと思う」
「うん……すごい……! まるで、夢の中にいるみたい……!」
雪のように白い花々と、夜空を舞う光の粒。
さっきまで胸を苛んでいた苦痛も絶望も忘れ、レミはその美しすぎる世界に惹き込まれるように見入っていた。
そんな彼女の横顔をじっと見つめていたカインは、両手をポケットに突っ込み、懐かしい静けさを見渡した。
レミにとっては初めての光景だが、カインにとっては幾度となく訪れた場所だ。




