閑話:ミャロの居酒屋珍道中
深夜の静寂が、クラン『レッドアイズ』の本部を包んでいた。薄暗い廊下を、豹人族の美女ミャロが滑るように進む。【物音消し】に似た、獣人特有の消音歩行だ。軋む扉を指先で押し、マルクの寝室へ忍び寄る。
ベッドでは、疲れ果てた青年が熟睡していた。
「……うぅ……ミラの食費が……もう金貨が足りねぇよ……」
寝返りを打つマルクを見下ろし、ミャロは薄く笑った。
「あたしをこき使うんだ。慰謝料をもらうよ」
枕元のサイフを、器用に抜き取った。
ずっしりとした重みに、彼女は満足そうに喉を鳴らす。豹耳を立て、尻尾を上機嫌に揺らす。普段の気怠い態度を脱ぎ捨て、歓楽街の裏路地へ繰り出していった。
赤提灯が揺れる大衆酒場、『止まり木亭』の暖簾をくぐる。炭火が爆ぜる音と、甘辛いタレの焦げる匂いが漂っていた。
ミャロはカウンターに腰掛けた。
「おい大将、串焼きを全部適当に焼きな」
「おいおい姉ちゃん、そんな雑な頼み方じゃ勿体ないぜ!」
隣の大柄な常連冒険者が、大ジョッキを傾けて口を挟んできた。
「ここは串に合わせて酒を選ぶのが、一番美味い楽しみ方なんだ!」
「へぇ。人間たちの街には、そんな組み合わせがあるのかい?」
獣人国では、強い蒸留酒をそのまま煽るのが主流だ。繊細な酒の文化はない。
ミャロは興味を惹かれ、瞳を細めた。
「まず塩の『皮』と『砂肝』には、氷のように冷やした『大辛口の澄酒』だ!」
「なるほど。皮の強い脂と砂肝の食感を、鋭い辛口でスッキリ洗い流すのかい」
「その通り! そしてタレの『ねぎま』には、人肌に温めた『琥珀酒』を合わせる!」
「温めた酒? 獣人国じゃ冷たいまま飲むのが普通だけどね」
「冷たい酒じゃ口の中で脂が固まっちまう! 温かい酒の香りが、タレの甘みやネギの香ばしさと完璧に絡み合うのさ!」
「面白いね。大将、その組み合わせで全部持ってきな!」
運ばれてきた焼き立ての串に、ミャロは豪快に齧りついた。パリッとした皮から熱い脂が弾け、極冷の澄酒が喉を鋭く駆け抜ける。
「……ッ! なんだいこれ、強い脂が消えてすぐ次が食べたくなるね!」
続いてねぎまを頬張り、温かな琥珀酒を煽った。肉の旨味とふくよかな樽の香りが同調し、芳醇な余韻が口いっぱいに広がる。
「タレの甘みと酒の香りが、口の中で完全に一体化してるよ、おっちゃん!」
「がっはっは! 分かってくれたか! だが本番はここからだぜ!」
男は得意げに笑い、大将へ合図を送った。
「大将! この姉ちゃんに、極上の『白レバー』をタレで出してやりな!」
「レバーかい。血生臭い部位は、少し苦手なんだけどね」
「まあ待てって! 合わせるのは、甘くてシュワシュワ弾ける『微炭酸の濁り酒』だ!」
間もなく、湯気を立てる大ぶりの串が置かれた。タレの焦げた匂いに、粗挽きの山椒の香りが重なる。恐る恐る口に含むと、濃厚なコクが舌の上でとろりと溶け崩れた。
「……っ、全然臭みがないよ! まるで極上のバターみたいだね!」
「そこに、よく冷えた微炭酸の濁り酒をぐっと流し込むんだよ!」
勧められるままに杯を干すと、まろやかな甘みと炭酸が口内を包んだ。山椒の痺れとレバーの深みを米の甘みが丸ごと包み込み、微炭酸が後味を爽やかに奪い去る。
「濃厚な脂を甘い濁り酒が受け止めて、シュワッと消える……至福だねぇ」
「だろう? これを知らなきゃ、王都の夜を語れねぇってもんよ!」
暖簾の隙間から、冷たい夜風が吹き込んできた。その冷気に、ミャロはふと昔の記憶を思い返す。
ほんの少し前まで、自分は地下牢の冷たい床に転がっていた。
こんな温かい夜など、想像もできなかった。
(タダ酒と美味い肉に釣られて、あたしもずいぶん安くなったもんだね)
自嘲しつつも、笑い声が心地よく胸に染みる。杯を重ねるごとに、ミャロの琥珀色の瞳はとろりと潤んでいった。普段の毒舌は消え去り、斑点尻尾を激しく左右に振り回す。
「大将! この琥珀酒と濁り酒を瓶ごと追加だ! みんなにも奢るよ!」
「お、気前がいいねぇ! ご馳走になるぜ、別嬪のお姉さん!」
すっかり陽気になったミャロは、椅子から立ち上がった。常連の男たちと肩を組み、獣人国の狩りのステップを刻む。
「さあさあ、夜はこれからだよ! みんな一緒に騒ぎな!」
「うおおっ、ミャロ姉さん最高だ! 踊れ踊れぇっ!」
美女の無邪気な笑顔に、男たちは熱狂した。床を踏み鳴らすリズムと歌声が響き、宴は深夜まで続いていく。
◇
翌朝、レッドアイズ本部の私室に、マルクの絶叫が木霊した。
「……おい! 俺のサイフから金貨が消えて領収書になってるぞ!?」
中には、油染みのついた長い紙が入っていた。
「な、なんで俺の金で勝手に豪遊して宴会を開いてるんだぁぁっ!?」
廊下から、バタバタと足音が駆け寄ってきた。
「ふぇぇ……!? なんだかお部屋から、お肉のいい匂いがしますぅ!」
ミラが飛び込んできて、お腹を鳴らした。
「ぐぅぅ〜……! 先生、朝ご飯にお肉を焼いてくれたんですかぁ!?」
「焼いてない! これは昨日あいつが食い散らかした領収書の匂いだ!」
さらに扉の影から、ライラが音もなく姿を現した。手帳を開き、感情の読めない瞳で羽ペンを走らせる。
「マルク様の財産管理の甘さ、およびミャロ様の深夜徘徊について」
「おいライラ、待て! それをマスターへの定期報告書に書くな!」
「規約ですので追記いたします。なお、被害総額は金貨三枚です」
「金貨三枚だとぉぉぉっ!?」
悲鳴を上げるマルクの横で、隣室のベッドの毛布が蠢いた。顔を出したミャロが、気怠げに丸い耳をパタパタと動かす。
「うぅ……頭が割れるように痛いね……朝から騒ぐんじゃないよ……」
「騒ぐ原因を作ったのはお前だぁぁっ!」
二日酔いで丸くなる美女を見下ろし、マルクは天を仰ぐのだった。




