第36話:逃れられぬ鉄の五項目
「マルク様、おはようございます。冷酷な現実をお持ちいたしました」
朝の光が差し込む宿屋の一室。目を覚ました俺の前に仁王立ちしていたのは、黒装束のライラだった。
「うおっ!? ライラか、頼むから人の枕元に音もなく立つのはやめてくれ」
「朝の挨拶よりも先に、こちらをご確認ください」
ライラが無表情のまま、細長い羊皮紙を俺の顔面へ突きつけてくる。
「なんだこれ……? 昨日の収支報告書か? 素材も売ったし報奨金も出たんだから、そこそこ潤ってるはずだろ?」
「いえ。寝ぼけずに現実を直視してください。現在の我々の手持ち資金は、金貨・銀貨・銅貨を含めて完全に『ゼロ』です」
「は? ゼロ? おいおい、一桁間違えてるんじゃないのか?」
「間違いありません。原因は昨夜のレッドアイズの皆様の飲食代。そして何より――反動で代謝が跳ね上がったミラ様が、宿の保存食を食い尽くしました」
俺の能力、【経験値注入】。
魂に蓄えた経験値ストックを他者へ注ぎ込み、主脈や枝脈を一時的に強制開花させる力だ。効果が切れても、一度刻まれた「正解の身体感覚」によって、対象は以前とは比較にならない速度で急成長する。
だが、その恩恵には重すぎる代償があった。
一つは、効果終了後の地獄の筋肉痛と神経疲労。丸数日は、指一本動かせなくなる。
そしてもう一つ、厄介な「社会的リスク」があった。超代謝の反動で胃袋のリミッターが外れ、底なしの暴食状態に陥るのだ。個人の財布など一晩で吹き飛ぶ、致命的な金銭的リスクである。
「結果として、昨夜の時点で不足分をすべてセリア様に立て替えていただいております」
ライラは淡々と続けた。
「つまり我がパーティは、資金ゼロどころか、セリア様に莫大な『貸し』を作った状態で朝を迎えたということです」
「ば、莫大な貸し!?」
「はい。このままミラ様に食事を与え続けた場合、本日のお昼には宿代も払えず、完全破産いたします」
「ひ、昼には破産確定だとぉぉぉっ!?」
俺は悲鳴を上げてベッドから飛び起き、一階の食堂へ駆け下りた。
食堂では、すでに地獄のような光景が繰り広げられていた。
「ふぇぇ! 身体の奥がカッカと熱くて、いくら食べてもお腹が満たされませんぅ……!」
「ミラ、喉詰まらせないでくださいね! スープも飲んでください! ……あ、これおいしい!」
テーブルには、山盛りのローストポーク、焼きたてパンのタワー、大鍋いっぱいのシチュー。それを、規格外の巨躯を縮こまらせたミラとミミィが、両手に肉を持って凄まじい勢いで胃袋へ放り込んでいる。
「くぅ〜ん……わんっ!」
子犬が嬉しそうに尻尾を振る横で、空になった特大皿がガチャガチャと積み上がっていく。
「あらあらマルク先生、おはようございますぅ」
厨房から顔を出したのは、胸元の大きく開いた給仕服を着た、人妻女将のアンナさんだった。豊満な谷間を揺らし、しっとりとした色気たっぷりの笑顔を向けてくる。
「あの娘たち、本当においしそうに食べてくれて作り甲斐があるわぁ。追加の伝票、まとめて先生につけておくわねぇ」
「あ、あはは、アンナさん、いつもありがとうございます……」
引きつった笑顔を返しつつ、俺の胃にはキリキリとした激痛が走っていた。
(まずい、本当にまずいぞ! 薬草採取やゴブリン退治みたいな低ランク依頼じゃ、ミラとミミィの食費の十分の一も稼げない!)
短時間で大金を稼ぐには、素材が高値で売れる上位魔獣の討伐しかない。だが今のパーティは、超火力アタッカーのミラ、斥候のライラ、覚醒したばかりのテイマーのミミィだ。
高ランク魔獣を安全に狩るには、敵の初撃を殺す『盾役』と、過剰負荷や毒を即時回復する『治癒士』が絶対に不可欠だった。
(こうなったら、あいつらに頼み込むしかない!)
俺は宿を飛び出し、レッドアイズが陣取る隣の酒場へ猛ダッシュした。奥のボックス席では、深紅の髪をポニーテールにした女傑・セリアが、大ジョッキのエールを片手に煙管を燻らせていた。
「おや、マルクじゃないか。朝から血相変えてどうしたんだい?」
「セリア! 頼む、頼みがあるんだ!」
俺はセリアの前に滑り込み、テーブルに勢いよく手をついた。
「ヴォルクとリアーチカを、一週間、いや、三日だけでいいから無償で貸してくれ!」
「……はぁ? ヴォルクとリアーチカを貸せぇ?」
セリアは煙管を口から離し、呆れたように片眉を跳ね上げた。
「頼むよ! あいつら二人が前衛と後衛に入ってくれれば、安全に高ランク討伐を回してすぐに大金を稼げるんだ!」
俺は両手を合わせた。
「このままじゃ弟子に食い潰されて破産しちまうんだよ!」
必死に懇願する俺の顔へ、セリアは煙をふぅーっと吹きかけた。ニヤリと、極めて邪悪な笑みを浮かべる。
「ふざけんじゃないよ、マルク。誰がタダでうちの看板前衛とトップヒーラーを貸し出すもんかい」
「そこをなんとか! 昔の情けってもんがあるだろ!?」
「情けで飯が食えるかい! だいたいねぇ、あんたは大きな勘違いをしてるよ」
セリアは豊満な胸を反らせ、懐から一枚の羊皮紙を取り出してテーブルに叩きつけた。
「人手を借りる前に、あんたにはまず、あたしに作っちまったこの『莫大な貸し』をきっちり清算してもらわなきゃ困るんだよ!」
「なっ! 貸しの詳細!?」
突きつけられた羊皮紙には、冷酷な項目がびっしりと書き連ねられていた。
『一、レッドアイズ全団員分の昨夜の祝勝会飲食代(最高級酒樽十数本および特選肉料理の山・全額立て替え分)』
『二、ミラ嬢の代謝亢進に伴う厨房食材および保存食の追加購入費(全額立て替え分)』
『三、オーグ宿屋の延泊補償および大所帯利用に伴う諸経費(全額立て替え分)』
『四、過去のオーグ迷宮遠征時におけるヴォルク護衛出向の対価(巡礼優先指名権・二回分の未履行分)』
『五、上記立て替えの担保として交わされた、マルクによる精密鑑定およびスキル調律の無償提供契約』
「ご、五項目も!?」
俺の顔から、血の気がサーッと引いていく。
「これだけの貸しをあたしに作っておきながら、さらにタダでうちの最高戦力を寄越せだぁ? いい度胸じゃないか」
セリアは煙管の吸い口でトントンと机を叩き、サディスティックに目を細めた。
「ガイン、ロイス! あんたたちからも言ってやりな!」
隣の席で肉を食っていたガインが、苦笑いで両手を広げた。
「すまねぇなマルク。俺たちもマスターの命令には逆らえねぇんだ。お前の腕は信じてるが、まずはその貸しを返してもらわねぇとな」
「そうだぜマルク! 男なら自分のケツは自分で拭かなきゃな!」
ロイスがニヤニヤと冷やかしてくる。
「ヘレナまでそんな目で見るなよ!」
「当然です。貸借関係の清算は組織運営の基本ですからね」
眼鏡を押し上げたヘレナにまで冷静に切り捨てられ、俺は完全に退路を断たれた。
「というわけさね。貸しを返すどころか、さらに人員をタダで使おうなんて甘い考えは捨てな。うちの看板は一人たりとも貸せないよ!」
セリアの非情な通告が、酒場に冷たく響き渡った。
「くそっ! 完全に詰んだ!」
俺は頭を抱え、床に膝をついた。ヴォルクとリアーチカがいなければ、安全な高ランク討伐は不可能だ。宿屋では、ミラが今も料理を平らげ続けている。昼が来れば追加の請求書が回り、俺たちは本当に身ぐるみ剥がされて放り出される。
(どうする!? 何か手はないのか!? この山積みの『貸し』を帳消しにして、ミラの食費まで全部解決できる裏技は!)
冷や汗が顎を伝い、床にポタポタと落ちる。
その極限状態の中、俺の頭の中で、前世のMMOプレイヤーとしての悪魔的な計算式が火花を散らして組み上がった。
(待てよ?)
俺は顔を上げた。
目の前には、勝ち誇った顔でエールを呷るセリア。そして、レッドアイズがこれから王都レ・ルミナスへ戻り、勢力を拡大しようとしているという事実。
(セリアが欲しいのは、クランの武威と即戦力だ。そして俺たちが欲しいのは、ミラの食費のスポンサーと活動拠点!)
狂気じみた、だが完璧な打開策が脳裏に閃いた。
「……セリア」
「なんだい、まだ泣きつく気かい?」
俺は不敵に口元を吊り上げ、床からすっくと立ち上がった。
「あんたに、断れない最高の提案をしてやるよ」
借りたものは返す。
当たり前ダロゥ?
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