ep85 妻から怒鳴られた後に 〔※SIDE セバス〕
◇◇
婚姻してから39年間。
何時も笑んで無口な妻のミッシェルが、あれほど感情的に怒りを露わに喋っている姿に、レイモンは戸惑っていた。
自室に家令のセバスと戻ってから夜着に着替えさせられガウンを羽織り、休憩用の寝椅子で足を延ばし人心地ついて、独り言のような問いを投げた。
「ミッシェルは、アーシュレイ家の事に等興味がないと思って居たのだが。 私は思い違いをしていたのだろうか。 嫌していたのだな、きっと。 無口だと思っていたあのミッシェルを怒らせてしまったよ。」
セバスがレイモンの背中へと差し込んだクッションに力を抜いて身体を預けた。
レイモンが横に成ったのを確かめ、セバスは足元まで移動し、手際よく革靴の紐を解いて、靴を脱がせた。 そしてウール素材の室内履きへと履き替えさせた。
それからセバスは、部屋付きのメイドにレイモンへ掛けるブランケットを取りに行かせて、部屋の隅に寄せて居たサイドテーブルを抱え、寝椅子で仰向けに成り両手の指を会わせて考え込んで居るレイモンの傍へ静かに置いた。
そしてテーブルに置いてあった水差しの水をグラスに注いで、レイモンの近くに置いたサイドテーブルへと運んだ。
「ミッシェル奥様は、自分から話される方では無かったのは確かですが、侍女長のサマンサを信頼している訳ではありません。 それに気付かぬフリがお得意なだけで御座いますよ、旦那様。」
メイドが持って来たキャメルのブランケットを受け取り、メイドたちに部屋を下がらせ、セバスは広げたブランケットをレイモンの腹部の上からそっと掛け、足元まで丁寧に覆った。
寝椅子の近くに置かれた火鉢には炭が熾され、青銅で作られた五徳と呼ばれる上には、真鍮のサモワール(湯沸かし器)が掛かり、シュンシュンと湯気を上げていた。
レイモンは、孫娘のオリビアが職人たちに造らせた此の火鉢が、いたく気に入っていた。
王都パルスの町屋敷に購入していた大きな魔石暖炉より、レイモンは火鉢が良いと、領主館で此方を愛用していた。
魔石暖炉は、3年前に教会の許可が下りて作られるようになった暖房用の魔道具だ。
鍛造した円柱型の炉に組み込まれた火の魔石を起動させ、室内を暖める事が出来るのである。
一ヶ月に1度は、魔石交換が必要だが、煙が出ない為、屋内に新たな穴を開け、暖炉用の煙突を作らずに済むのだ。
その利便性に注文が殺到し、現在は国内外の魔具師が作り続けても生産が追い付かない状況で、昨年の冬にアーシュレイ侯爵家でも、3台をやっと入手が出来た程の代物なのだ。
閑話休題
セバスは、上瞼が少し垂れさがって来たレイモンの疲れた横顔を見ながら、少しだけ肩を竦めた。
(沈黙した事に依って、わたしは或る意味で、サマンサの共犯ですがね。)
セバス自身に於いてもミッシェルが嫁いでから20年近くは、陶器人形のような彼女の言葉を代弁していると云うサマンサの話を信用していた。 その頃のことを思い出したセバスは苦い想いを飲み込み軽く首を振った。
16歳でアーシュレイ侯爵家にクロノア公爵家から嫁いだミッシェルは、美しかったが無口で感情のないビスクドールのようであった。
セバスの其の想いが変わったのは、嫡子であるロベールの奥方になったクラウディアが、次代の後継であるジルベールを懐妊していた時だった。
ちょうど此の時期にロベールの愛妾エリシアも懐妊していたが。
若奥様になっていたクラウディアは、懐妊して直ぐ、物理攻撃と共にセバスの元へと訪れ、侯爵夫人のミッシェルに『クラウディアの護衛騎士であるケビンの妻ロザリーを乳母にするように!』と、交渉しに来たのだった。
セバスは、懐妊中のクラウディアの大立ち回りにヒヤヒヤとさせられ、彼女の言い分に頷くしかなかった。 クラウディアの身体を気遣いつつセバスは、ミッシェル侯爵夫人の部屋へと案内した。
室内へと入ると、手紙に目を通して居たミッシェル侯爵夫人を守るように3人の専属侍女たちは、セバスとクラウディアの前に立ちふさがった。
しかしミッシェル侯爵夫人は、静かに手を挙げて侍女たちを下がらせ、薄い若草色の目を向け、小さな形の良い唇を開いた。
「何かしら? クラウディアの事だから、きっと子供の事ね? 以前に、こうしてクラウディアが、私の部屋に乗り込んで来たのは、お腹にオリビアが居た時でしたもの。」
今やアーシュレイ侯爵夫人として中央の社交を熟していたミッシェルは、口角を僅かに上げる笑みを浮かべ落ち着き払った声で、息を切らして興奮状態にあるクラウディアに問うた。
尤もクラウディアが息を切らせているのは、無理を通そうと、唐突にセバスへ足技を仕掛けた所為なのだが。
そして一度目にミッシェルの部屋にクラウディアが乗り込んだのは、『オリビアを乳児院へ送らず、自分の母乳で育てたい』という高位貴族らしくない願いをアーシュレイ侯爵夫人であり、屋敷内を差配する彼女に叶えて貰う為だった。
「お義母様、私は此の子の乳母は、ケビンの妻のロザリーにしたいのです。彼女は既に5人目を身籠り、此の子の出産時期より、その子は少し早めに生まれます。 ケビンから話を訊くと、生家のブランシェと似たような子育ての仕方でしたので、乳兄弟として共に育てたいのです。 高位貴族であるアーシュレイ家の在り方と何かと違うと知っていますが、万が一、此の子が男の子だった場合、ドロテアをオリビアから引き続かせた侭で、此の子の乳母にしたくないのです。 ドロテアの指図で、私は今もオリビアに殆ど会わせて貰えてませんから。」
クラウディアは、アーシュレイ侯爵家に於ける乳母の権限の強さを溢しつつ、母として幼い我が子達と過ごしたいと切々とミッシェルに訴えた。
ミッシェルは、サロンチェアーに座り、静かに笑んだ侭、クラウディアの話を聴いていた。 そして小さく頷いて、薄い若草色の目を細めた。
「ええ、宜しいわ、クラウディア。 でもレイモンの説得はクラウディアがしてね。 レイモンには、私から許可を得たと話して良いから。 その代わりクラウディアは、私と1つ取引をしましょう。」
いつもは口の端を上げ、笑みを作っていたミッシェルが、この時ニッコリと、表情を緩めるのをセバスは初めて見た。
それからセバスは、クラウディアにミッシェルから持ち掛けた取引内容を聴いて、背筋が粟立った。 此の方は気付かない振りをしているだけで、全てを見透かしているのでは無いかと、セバスは感じたのだった。
アーシュレイ侯爵家の安寧の為にサマンサのした事に目を瞑り、沈黙を守ることを選択したセバスの罪すらもミッシェルは、知って居るのかもと、、、。
◇
苦い思い出が脳裏を占めそうになった時、レイモンの咳払いが聴こえ、セバスは背筋を伸ばして、寝椅子で仰向けになっているレイモンに視線を向けた。
何時もは鋭い空色の眼の眦を下げ、しわがれた情けない声でレイモンは呟いた。
「私は妻が、てっきり喜んでいると思ったのだよ。 一応は王妃殿下からの招待となっているが、御声掛け下さったのは、陛下と王太子殿下なのだ。 光栄なことだとな。 それがあんなにミッシェルが怒る等と考えもしなかった。」
「どちらかといえばオリビアお嬢様が、王宮に招かれましたのを旦那様が了承したことより、クレール夫人を此の領主館に連れて来られた事を奥様は怒って居られるのかと私は思いますが、、、。」
「ん?クレール夫人か? いつも楽し気にミッシェルは、サロンで彼女とお茶をしていたでは無いか。」
「其処はアーシュレイ侯爵家の女主人ですからね、ミッシェル奥様は。 特に王城へ戻られる女官に隙等を見せないでしょう。 旦那様が王都へと向かわれる前に、私も言いましたでしょう? オリビアお嬢様のマナー教師を一旦終わらせた方が良いのでは?と。」
「いや確かに聞いたが。 クレール夫人はパトリシア王妃殿下の御友人なのだぞ。 私から見れば気取りのない善き御婦人に見えるがな。」
「本当に旦那様は、どうして異性に関してだけ鈍くなられるのやら。まあ、それで助かったことも多いですがね。」
そうなのだ。
女心に鈍いお陰で、侍女長のサマンサがレイモンの気を惹こうと、秋波を送っても気付かなかったくらいだ。
元々が色男で或るレイモンは、若い時分からレナールに付いて王城に出入りしていた為、モテていた。
本人に自覚が無い為、セバスも気付かない呈で、屋敷に届いた招待状を仕分けていた。 危険なマダムからの招待は、コッソリと大旦那様やセバスの父へと預けていた。
何と言ってもミッシェル奥様は、アーシュレイ侯爵家にとって大恩あるフルーブ1世の外孫である。 そしてフルーブ王家から覚え目出度いクロノア公爵家の御令嬢なのだ。
婚姻前なら兎も角も、間違ってもレイモンが浮気で醜聞など立って貰っては一大事。
そしてレイモンは、ミッシェル奥様を妻と云うよりもフルーブ王家を盛り立てる為、婚姻した事業パートナーと思い込んでいる節がある。
レイモンは、他の奥方のようにミッシェル奥様が、感情を露わにしないお陰で、交渉事に動きやすくなり、社交の場に於いてミッシェルに感謝をしているのだが、彼もまた口数が少な過ぎるのだ。
後継息子のロベールがロベールなので、暇人が多い王都では、旦那様の醜聞を探す者も居たが、異性への鈍さは筋金入りなので、身綺麗な侭、穏やかなアーシュレイ侯爵夫妻として此処まで来れた。
同性同士の悪意には、それなりに敏感なレイモンだったが、異性の悪意には気付かない。
セバスは薄い溜息と共にレイモンに言葉を続けた。
「私がクレール夫人の悪意みたいなモノに気付けたのは、ミッシェル奥様からのお話と王都の町屋敷で息子からの報告を聴かされたからです。」
「ミッシェルがセバスにか? サマンサからではなく?」
「はい。 もうかなり昔から、私は旦那様に申しておりますでしょう? サマンサはミッシェル奥様と親しくなどないと。 まあ旦那様や私は、男ですから侍女長と余り話す機会は御座いませんけども。」
「だから不思議なのだ。 何故セバスにミッシェルが態々報告して居るのか、が、、、。」
「もしかして焼き餅ですか?」
「違う! ただ疑問に思っただけだぞ、セバスよ。」
「クスッ。 そうですね。 ミッシェル奥様の所に伺い、用が済んでも暫く待って居ると、ミッシェル奥様は何かれと話して下さいますよ。 旦那様もスタスタと歩き去るだけではなく、偶にはミッシェル奥様と歩調を合わされてみると宜しいかと。」
「アレは喜ぶのだろうか? 今更そんなことをして。」
「でもミッシェル奥様に叱られましたね。 何も相談せずに旦那様が全て決めていたことを。」
「ああ、ミッシェルに初めて怒鳴られた。 、、、だが、何だろうな、セバス。 如何やら私は嬉しく感じているらしい。 胸がトクトクと鳴っているのだ。」
「ふっ。暫く旦那様は、此方でゆっくりされるのでしょう?」
「そうだな。 陛下の件も一段落を終えた。 しかしだ、セバス。」
「はい。」
「私はずっとミッシェルを王女殿下と思って仕えていた心算だったのだが、ミッシェルの口振りでは如何やら違っていたみたいだ。」
「それは私も反省する点です。 余計な事でミッシェル奥様を煩わせては成らないと思う余り、ロベールお坊ちゃまの事等は、極力隠していた心算でしたが、クレール夫人から要らぬ茶々が入りました。」
「もしやアリシアのことが?」
「いえっ。 一応、彼女は、エンバス男爵未亡人で娘のアリシアはエンバス男爵の娘と云うことになって居りますから、エリシアが洩らさない限り大丈夫でしょう。 クレール夫人が噂していたのは、ロベールお坊ちゃまとエリシアとの暮しだけでしたので。」
「そうか。一安心だ。しかしミッシェルにアリシアの事を打ち明けていた方が良いだろうか?」
「そうですね。でも其の前に、、、旦那様。」
「うん?何だセバス。改まって。」
「はい。先ず、旦那様は、ミッシェル奥様に謝りましょう。」
「、、、う、、ん?」
「ミッシェル奥様に怒られるのは嫌でないのでしょう?旦那様。」
「まあ、そうだな。」
「ふっ。」
「笑うな、セバス!珈琲を入れて呉れ。」
セバスは軽く咳払いをして笑いを落ち着かせ、レイモンに照れ隠しで頼まれた珈琲を入れる為に、使用人用の控えの間に足を向けた。
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