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「よし、行くか」
翌日も涼馬はダンジョンに潜った。
押入れの戸を開き、黒い靄の中へ足を踏み入れる。一瞬だけ視界が闇に染まり、次に現れたのは、あのぶよぶよとしたピンク色の空間だった。
何度見ても、生理的な嫌悪感を掻き立てられる光景だ。
涼馬はすぐに後ろを振り返った。
そこには昨日とは違い、入ってきた押入れの戸が何食わぬ顔で鎮座している。
ダンジョンでは、誰かが一度でも扉から帰還することで出入口が安定するとは知っていたものの、実際にこの目で見るまでは安心できなかった。
手にはマッピング用のノートと鉛筆を持っている。押入れの奥さえ開けられれば、父さんが使っていた自動マッピングツールも残っているはずだった。
だが、皮肉なことに、その押入れの戸そのものがダンジョンへ繋がっているせいで、中の荷物を取り出すことができない。
仕方なく、今日は昔ながらの手書きである。
「キュィィィイイ」
しばらく歩いたところで、聞き覚えのある鳴き声が響いた。
オナホクンだ。
性懲りもなく現れたらしい。
涼馬は慌ててノートを閉じ、身構える。
次の瞬間、オナホクンが一直線に飛び掛かってきた。
けれど、昨日とは違う。
狙いはもう分かっている。そのうえ動きも単純な直線だ。
涼馬は身体を僅かにずらして突進をかわすと、すれ違いざまに拳を叩き込んだ。カウンターが綺麗に決まり、オナホクンの小さな身体がぐらりと傾く。
間髪入れずに二発、三発と拳を浴びせると、オナホクンは呆気なく力を失い、煙のように消え去った。後に残されたのは、小さな魔石だけだった。
「……え?」
涼馬はその場に立ち尽くした。
いくら最初の一撃が綺麗に入ったとはいえ、昨日と比べて明らかに少ない。
オナホクンを倒すまでに必要な拳の数が、目に見えて減っている。
涼馬は自分の拳を見つめた。
「俺……成長してるのか?」
ゲームのように、レベルアップの音でもピコンと鳴ってくれれば話は早い。だが、残念ながら現実にそんな便利なシステムは存在しない。
もっとも、人間の強さを『レベル』のような数値で測ろうという研究自体は進められているらしいが。
それからも、何体かのオナホクンと戦った。
一体。
また一体。
戦闘を重ねるにつれ、最初は半信半疑だった手応えが、次第に確かな実感へと変わっていった。
昨日のようには苦戦しない。
オナホクンの動きに慣れたというのもあるだろう。
だが、それだけでは説明がつかなかった。
身体が軽い。
拳に力が乗る。
何より、明らかに攻撃の通りが良くなっている。
涼馬は確実に強くなっていた。
「さて、そろそろ帰ろうかな」
十分な手応えも得た。
涼馬が引き返そうとした、その時だった。
視界の端を、金色の何かが横切った。
その影は涼馬に向かってくることもなく、通路の角を曲がり、すっと壁の向こう側へと消えていった。
特殊個体? 危険か?
第1階層だし、今の俺なら大丈夫だろう。
涼馬は一瞬の逡巡の後にその影を追った。
べたっ、べたっと湿った床を蹴るたび、何とも間の抜けた音が響く。滑りやすい足場に気を取られながらも懸命に走り、やがて逃げていく背中を視界に捉えた。
「なんだ、あれ……」
金色に光り輝くオナホクンだった。
ゴールデンオナホクン。いや、オナホクンゴールド。
長いな。
「オナホクンGでいいか」
ゴールデンのG。
ついでに自慰の意味も掛かっている。
我ながらなかなかセンスのある名前だ、と涼馬は満足した。
オナホクンGの動きは、それほど速くない。懸命に短い脚を動かしているものの、じりじりと距離が縮まっていく。
「もらった!」
追いついた涼馬は、サッカーボールでも蹴り飛ばすように思い切り脚を振り抜いた。
蹴りがオナホクンGの胴体を綺麗に捉える。小さな身体は勢いよく吹き飛び、柔らかな壁へと叩きつけられた。そのまま、ぶよん、ぶよんと何度か跳ね返り、床へと転がる。
「まだか!」
涼馬は逃がすまいと飛びかかり、馬乗りになった。
容赦なく拳を叩きつける。ボコボコと鈍い音が響き、オナホクンGの身体が殴打のたびに揺れた。しかし、数発殴ってもまだ消える気配がない。
普通のオナホクンとは、明らかに耐久力が違っていた。
息を整えようと、ほんの一瞬だけ拳を止める。
その隙だった。
オナホクンGの頭頂部から伸びた触手が、するりと涼馬の腰元へ這い寄った。
気付いた時には遅い。
触手はズボンの隙間へ潜り込み、たちまち身体に絡みついてくる。慌てて引き剥がそうとしたものの、オナホクンGはびくともしない。
「ぐっ……!」
普通のオナホクンとはまるで違う。
闇雲にまとわりつくだけではなく、こちらの反応に合わせて的確に動きを変えてくる。掴もうとすればするりと逃れ、引き離そうとすれば、ますます頑固にしがみつく。
「おぉぉぉぉ……」
それを聞いて調子づいたのか、オナホクンGの動きがさらに激しくなる。
「ぐぅぅぅ……気持ち良すぎるっ」
抵抗する余裕は全くなかった。
ものの数分で限界に達した。全身が強張り震える。しばらくして、ようやく触手が離れた頃には、涼馬は床に両手をつき、肩で息をしていた。
「はぁ……はぁ……」
すっかり力が抜けていた。いくらでもトドメはさせる状況だった。
殺される。一瞬最悪の未来が頭を過ぎった。
だが、そんな涼馬をよそに、オナホクンGは触手を器用に動かし、採取した精液を頭頂部の空洞へと運んでいく。何度かに分けて取り込むその仕草は、まるで餌を巣穴へ運び込む小動物のようだった。
「……食ってんのか?」
精液を餌にでもしているのだろうか。
満足したらしいオナホクンGは、すっと身体を起こした。そして何事もなかったかのように涼馬へ背を向け、走り出す。
「逃がすかよっ。俺の1億匹以上の息子の仇だ!」
ふらつく身体を無理やり起こし、その無防備な背中めがけて飛び蹴りを叩き込んだ。
不意を突かれたオナホクンGの身体が、勢いよく吹き飛ぶ。
今度こそ限界だったらしい。
床へ落ちるより早く、その身体は煙となって消えていった。
あとに残されたのは、これまでより一回り大きな魔石。
そしてもう一つ。
淡いピンク色の光を帯びた、一つのオーブだった。




