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父さんとの想い出は数えるほどしかない。
何かと忙しい人で、家に帰ってくる機会は滅多になかった。しかも、珍しく家にいるときでさえ、涼馬と遊ぶより沙織と過ごす時間の方が多かった。
沙織が生来魔法に目覚めて以来、父さんは彼女の魔法の指導を買って出ていたのだ。
傍から眺めていても面白いものではない。涼馬はそんなとき、決まって一人でゴロゴロと寝転がり、暇をつぶしていた。
中学校に上がった年の10月、父さんはダンジョン内で失踪した。遺体は発見されていない。だが、帰ってくることもなかった。
友川に常々言っていた、探索家なんて命を賭けて金を稼ぐ賤業だ、という言葉は本心だった。
家族を放ってダンジョンに入り浸るような男が、まともな父親であるわけがない。おまけに、息子には探索家の才能の一つも残していないときた。まったく、とんだ子不幸者である。
帰宅した涼馬はベッドに仰向けになり、誰もいない天井へ向かって悪態を吐いていた。行き場をなくした憤りも、惨めさも、今日一日で溜め込んだ何もかもを、ここにはいない父さんへとぶつけていく。
だが、今日ばかりは得意の責任転嫁をもってしても、背負いきれないほどの惨めさが身を蝕んでいた。
いつもなら、こんなときはスマホでも弄って時間を潰すところだが、絶賛炎上中の身としては触る気にもなれない。どうせ開いたところで、見知らぬ誰かが親切にも自分の欠陥を教えてくれるだけだろう。
「そうだ」
ふと思い立ったようにベッドから身体を起こした。
視線の先にあるのは、もう何年も開けていない押入れだった。
この部屋は元々、父さんの書斎だった。
父さんの失踪後、涼馬が自室として使うことになった際、残されていた仕事の資料や荷物をまとめて押入れへ詰め込んだ。 それ以来、一度も開けていない。
何しろ、父さんは一級探索家だったのだ。ならば、何か役に立つ情報くらいは残されているかもしれない。欲を言えば、マジックオーブの一つでも転がっていてほしいところだ。
そんな都合のいい期待を抱きながら、押入れの戸を開ける。
「へ?」
そこには、何もなかった。
いや。
何もない、があった。
押入れの奥にあるはずの壁も、積み込んだはずの荷物もそこには見えない。
代わりにそこでは、太陰を思わせる真っ黒な闇が、ぽっかりと口を開けていた。
「ダンジョン……」
通報しなくては。
最初に脳裏へ浮かんだのは、善良な一般市民として至極まっとうな考えだった。
そして次に、中へ入ってみようと思った時にはもう、涼馬の身体は闇の中へと踏み込んでいた。
一瞬、世界が暗転する。
次いで光を取り戻した視界には、異様な光景が広がっていた。
「キモッ」
扉の先に広がっていた世界はピンクに染まっていた。
蛍光色のような派手なピンクではない。もっと生々しい、人肌に近い色。
舌や粘膜を思わせる、妙に湿っぽいピンクだった。
壁も床もぶよぶよと柔らかく、足を乗せるたびに僅かに沈み込んだ。表面には薄く湿り気があり、靴底を持ち上げると、何かが剥がれるような嫌な感触が伝わってくる。まるで、巨大な生き物の体内にでも迷い込んでしまったかのようだった。
ダンジョンは千差万別だ。
もっともありふれた洞窟型から、森の中、海岸、果ては街並みにしか見えないものまで存在する。
およそ「ダンジョン」という言葉からは想像もつかない空間があることくらい、涼馬でも知っていた。
それでも。
ここまで生理的嫌悪を掻き立てる空間があるとは、さすがに想像していなかった。
「とはいえ、帰るにもまずは扉を見つけないとな」
振り返る。
そこに、入ってきたはずの扉はなかった。
あるのは薄気味悪いピンク色の壁だけ。ぶよぶよと湿った肉のようなそれが、最初から何もなかったとでも言いたげに、退路を塞いでいた。
誰も立ち入ったことのないダンジョンは、出入口が不安定になっている。侵入した者は第1階層のどこかへ無作為に転送されてしまい、元の世界へ戻るためには、その階層のどこかに存在する出口を自力で探し出さなければならない。
ただし、誰かが一度でも出口となる扉を発見し、そこから帰還すれば、ダンジョンの出入口は安定する。以降は侵入した地点と出口が重なるため、中へ入ってすぐに引き返すことも可能になるのだ。
つまり、初めて迷い込んだ人間だけが、帰り道を求めて彷徨わされる仕組みだった。
まるで、うっかり入り込んだ人間を殺すためだけに作られた仕組みのような……。
そこまで考えて、涼馬はかぶりを振った。
「うっ……」
ほんのりと鼻につく生臭さに、思わず顔をしかめる。
それでも、前へ進むしかない。
足元は頼りなく、踏み込むたびにぐにゃりと沈み込む。床が柔らかいだけならまだしも、表面は妙に滑りやすく、少しでも油断すれば足を取られてしまいそうだった。
涼馬は不格好に身体を揺らしながら、一歩ずつ慎重に歩を進めていった。
「ギュゥゥウ」
不意に、奇妙な鳴き声が響いた。
涼馬は足を止め、音のした方へ目を向ける。
通路の曲がり角。その先から姿を現したのは、明らかにこの世の生物ではない異形の存在だった。
モンスターだ。
大きさは小動物ほど。その姿は、生き物と呼ぶにはあまりにも奇妙だった。ペットボトルを思わせる筒状の胴体から短い脚が何本か伸び、頭らしき部分の頂からは、細長い触手のようなものが何本もうねうねと蠢いている。
「なんだ、こいつ……」
涼馬が身構えるより早く、モンスターの身体がぐるりとこちらを向いた。
次の瞬間、跳んだ。
「こ、こっちにくんな!」
反射的に踵を返し、駆け出した。だが、ただでさえ不安定な足場だ。一歩、二歩と必死に足を動かしたところで、靴底がつるりと滑った。
「うわっ!」
身体が宙を泳ぎ、そのまま床へ転がる。慌てて振り返った時には、もう遅かった。
モンスターが目前まで迫っている。
死ぬ。
涼馬はせめてもの抵抗として、顔を背けることしか出来なかった。
だが、次の瞬間に襲ってきたのは、予想していた鋭い痛みではなかった。
「うげええええええ」
全身にぞわりと鳥肌が立つ。モンスターは涼馬の腰元に飛びつくと、ぬめった触手をズボンに絡ませ、執拗にまとわりついてきた。そして、うねうねと蠢く触手が股間をまさぐってくる。
せめてもの救いは、ズボン越しだということだろう。
これが直接だったなら、あまりの衝撃に気絶していたかもしれない。
「そこは沙織にしか触らせる気はねえよ!!」
ここ数日で溜まりに溜まった鬱憤まで拳に乗せ、思い切り殴りつける。
しかし、モンスターは触手をがっちりと絡ませたまま、離れようとしない。小さな身体のどこにそんな力があるのか、引っ張ろうが叩こうが、まるで剥がれる気配がなかった。
それでも涼馬は殴り続けた。何度も、何度も、何度も。拳の皮が裂け、血が滲んでも構わなかった。
そして何発目だっただろうか。ようやくモンスターの身体から力が抜け、触手がだらりと垂れ下がった。
次の瞬間、その身体は煙のようにほどけ、跡形もなく消えていった。
「はぁ……はぁ……なんなんだよ、ここ……」
涼馬は荒い息を吐きながら、乱れた服を直した。どうやら大きな怪我はしていないらしい。固く張ったテントをどうにか鎮める。
そして、モンスターの消えた場所には、奇妙なものが残されていた。
小さな魔石と、先ほどのモンスターをそのまま小型化したような筒状のアイテム。どこからどう見てもオナホだった。
「でも、俺、一応倒したんだよな。モンスター……」
徐々に実感が湧いてきた。
「よっしゃーーーーーーーーー」
思いっきりガッツポーズした。雑魚モンスターだろうがなんだろうが関係ない。
勝ちは勝ちなのだ。戦利品についてはほんの少しだけ悩んだものの、結局すべてポケットへ押し込み、再び歩き出した。
第1階層に現れる敵は、先ほどの筒状のモンスターだけだった。
名前がないのも不便なので、とりあえず『オナホクン』と名付けた。
それから5体ほどと戦闘になったが、どいつもこいつも狙ってくるのは執拗に下半身ばかり。倒すまでには時間がかかる。
それでも、殴り続ければ倒せない相手ではなかった。
いろいろと思うところはある。せめて美少女のモンスターの姿をしていて欲しい。
ハーピーとかセイレーンとか。
だが、こんなのでも命を取りに来られるよりは遥かにマシだろう。
そう自分に言い聞かせながら、涼馬はひたすら通路を進み続けた。
彷徨うこと1時間。
代わり映えのしないピンク色の景色にも、いい加減うんざりしてきた頃だった。
通路の先に、見覚えのあるものが現れた。
木製の引き戸。見慣れた取っ手。紛れもなく、自室の押入れにあった戸だった。
涼馬の顔に、自然と安堵の笑みが浮かんだ。
「助かったー!」
駆け寄って戸を開け、そのまま勢いよく潜り抜ける。途端に全身から力が抜け、涼馬は大きく伸びをした。
そこでようやく、自分の身体にまとわりつく生臭いベタつきに気が付いた。ダンジョンの床を転げ回ったせいだろう。服のあちこちが妙な液体で湿り、触れるだけで嫌な感触が指先に残る。
「うわ、くっさ……」
さすがに、こんな格好でベッドに寝転がる気にはなれない。
涼馬は慌てて服を脱ぎ捨てた。とにかく今は、一刻も早くシャワーを浴びたい。
全裸のまま部屋の戸を開ける。
そこがダンジョンに通じていた、なんてことはなくいつもの廊下だった。
ただ一つ。
「お兄の変態!!」
顔を真っ赤にした妹の麻衣が、こちらを見て叫んでいることを除いては。




