第5話 違約金一億円
「会長が、たいそうご立腹だ」
鷹峰は、社長室の窓を背にして立っていた。逆光で表情が見えない。見えなくても、声で十分だった。
「せっかくの厚意を、恥をかかせて断ったそうだな」 「……接待の同席とは聞いていましたが、ホテルの同伴は業務命令にないはずです」 「ほう」
鷹峰は机の引き出しから、見覚えのある分厚い書類を出した。俺が署名した、あの契約書だった。
「第二十二条。乙は特別秘書室の業務全般に誠実に従事する。業務の範囲は甲が定める。──そして第三十一条。乙の責による中途解約の場合、施術費用および逸失利益として、違約金一億二千万円」
一億二千万。母の施設の費用が月二十四万。ローン残債一千二百万。俺の人生の帳簿では、一生かかっても払えない数字だった。
「わかるか、榊原くん。お前に拒否権はない。あるのは、従うか、破産するかの二択だ」
二択。この会社は、いつも俺に二択を突きつける。どちらを選んでも向こうが勝つ二択を。
「……前の秘書も、こうやって従わせたんですか」
言ってから、しまったと思った。鷹峰の眉が、初めて動いた。
「氷室か。あの女も長いな……。桐生のことは忘れろ。あれは、自分から辞めた」
桐生。初めて聞く、前任者の名前だった。自分から辞めた。違約金一億二千万の契約から、自分から。その日本語の不自然さを、鷹峰は取り繕おうともしなかった。
「来月の頭、葛城会長と温泉に行く。熱海の定宿だ。一泊二日、同行しろ」
鷹峰は契約書をしまい、もう俺を見なかった。
「会長の機嫌を直してもらわんとな。──今度は、逃げ場のないところがいい」
*
その夜、退勤する俺に、氷室さんがエレベーターの中で、前を向いたまま言った。
「桐生さんはね、私が育てた子だった」
初めて聞く、氷室さんの体温のある声だった。
「逃げ切った子は、いない。……でもあなた、ホテルのロビーで領収書の宛名を聞いたんですって?」
能面が、ほんの少しだけ、笑った気がした。
「二十三年の総務は、伊達じゃないってことね。──熱海、気をつけて」
(第5話・了)
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