第6話 野球拳
熱海の宴席は、最初から様子が違った。
仲居が最後の膳を置いて下がると、襖が閉められ、座敷には鷹峰と葛城会長、取り巻きが四人、そして浴衣の俺だけが残された。浴衣というのは、スーツよりずっと心細い。帯一本で成立している服だということを、着てみて初めて知った。
酒が進み、会長の顔が赤黒くなってきた頃、取り巻きの一人が手を叩いた。
「よーし、座興だ。秘書さん、野球拳といこう」
血の気が引いた。断る空気は、この座敷のどこにもなかった。鷹峰は盃を舐めながら、こちらを見てすらいない。命令するまでもない、という顔だった。
「じゃんけんだけなら」と言った俺の声は、自分でも情けないほど細かった。
一戦目。負けた。羽織を脱いだ。座がどっと沸く。 二戦目。勝った。会長が上着を脱ぎ、悪趣味な歓声が上がる。 三戦目。負けた。「帯だ、帯」と手拍子が始まる。
帯を解けば、浴衣はただの布になる。俺は帯に手をかけたまま、動けなかった。手拍子が速くなる。酔った男たちの目が、一斉にこちらを向いている。六対一。逃げ場のない座敷。これが「逃げ場のないところ」の意味か。
指が帯の結び目にかかった、そのとき。
襖が、外から勢いよく開いた。
「失礼いたしますぅ! お布団の時間でございますのでぇ!」
女将だった。仲居を三人引き連れ、返事も待たずにずかずかと入ってくる。布団だ枕だと騒がしく立ち働き、座敷の空気は完全に破壊された。会長が舌打ちして立ち上がる。「終わりだ、終わり。風呂に入って寝る」
廊下に出た俺の袖を、女将がすっと引いた。
「──氷室さんから、お電話をいただいておりましたの。九時になったら布団を、って」
氷室さん。俺は廊下で、深々と頭を下げた。女将は何も聞かず、何も言わず、行ってしまった。
*
深夜、目が冴えて廊下の自販機に向かう途中だった。角の座敷から、灯りと低い声が漏れていた。鷹峰と、会長の声だった。俺は反射的に柱の陰に入った。
「──来期も同じでいい。発注額の三パーセント、例の口座に」 「葛城さんも人が悪い。架空の会食で領収書を切らせておいて」 「お互い様だろう、鷹峰さん。おたくこそ、秘書の"開発費"を研究費で落としてるくせに」
低い笑い声。
月八回の料亭。動かない取引。三パーセント。例の口座。──手帳に控えた日付の列が、頭の中で一本の線につながった。
俺は浴衣の袂からスマホを出し、震える指で録音ボタンを押した。柱の陰で、五分。人生で一番長い五分だった。
部屋に戻り、布団をかぶってから気づいた。これだけでは、まだ足りない。録音は密談の断片にすぎない。裏付けの帳簿がなければ、揉み消される。総務二十三年の頭が、冷静にそう告げていた。
翌朝、帰り支度をしていた俺を、鷹峰が部屋に呼んだ。
「今夜はもう一泊する。会長がお前を気に入った」
鷹峰は、窓の外の海を見たまま言った。
「夜、会長の部屋に行け。──契約を取るのも秘書の仕事だ」
(第6話・了)
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