第3話 総務のおっさん、秘書になる
誤算だったのは、秘書の仕事そのものは、俺に向いていたことだ。
考えてみれば当然だった。スケジュール調整、来客対応、根回し、手土産の選定。全部、総務で二十三年やってきたことだ。役員の好みは頭に入っている。専務は日本茶しか飲まない。常務は商談前に必ず胃薬を探す。応接室の空調は商談開始十分前に二十四度。そういうことを、俺は誰に教わるでもなく、身体で覚えていた。
「……あなた、本当に異動初週?」
三日目、氷室さんの能面が、初めてわずかに動いた。来客の葛城興産の専務が煙草を探す仕草をした瞬間、俺が灰皿と、彼の銘柄のマッチを出したときだ。総務の倉庫番を舐めてはいけない。備品の位置と人間の癖を覚えるのが仕事なのだ。
だが、その総務の血が、余計なものを見つけてしまった。
秘書室の業務には、社長の経費精算の一次チェックが含まれていた。領収書をめくっていた俺の指が、ある一枚で止まった。『葛城興産様 会食』──銀座の料亭、一晩で六十八万。それ自体は、まあいい。社長の接待ならある額だ。問題は頻度だった。月に八回。しかも同じ店。二十三年、経費の裏を見てきた人間の勘が、低い音で鳴った。
会食が月八回あるのに、葛城興産との取引実績は、この半年ほとんど動いていない。動いていない相手と、なぜ月八回も飯を食う?
俺はそっと領収書の日付を手帳に控えた。何に使うあてもない。ただの、総務の習性だった。このときはまだ。
*
視線には、慣れなかった。慣れないなりに、対処は覚えた。
書類を拾うときは膝を折って腰を落とす。エレベーターでは壁を背にする。階段は使わない。歩幅は狭く。二十三年間、一度も考えたことのなかった歩き方を、一週間で叩き込まれた。教官は、男たちの視線だった。
それでも金曜の朝、氷室さんがスケジュール表に書き込んだ一行からは、逃げようがなかった。
『19:00〜 葛城興産・葛城会長 接待会食(同席:榊原)』
葛城会長。月八回の料亭の、相手方だった。
(第3話・了)
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