大樹岳の森と樹海の呼子
暁冠暦五二〇年、霧灯月の終わり。
ラウムベルクの朝は、冬の手前でいちばん静かになる。
黄葉月の賑わいがいったん落ち着き、初霜月の厳しさがまだ本格化する前。人々は外へ出ることをやめるわけではないが、無駄な遠出を減らし、家と倉と店のあいだで用を済ませようとする。市場に並ぶ品も、鮮やかな果実や旅人向けの軽い小物より、保存の利く根菜、干し肉、獣脂、油、厚布、薪の束といった、冬を確実に越すためのものが増えていた。
ラウムベルクは王国北部、いわゆる北域の中では最南端にある。北から降りてくる冷気と、南から届くやや温んだ風とがこの地でぶつかるから、四季の色がはっきりしている。冬はきちんと寒く、春は鮮やかに芽吹き、夏は短いが濃く、秋はよく実る。北域の他の土地ほど苛烈ではないが、そのかわり季節の変化が街の表情を大きく変えた。
その北域の中央には、巨大な山岳と森林が一体となって人を拒む地帯がある。
大樹岳地帯。
山々は高く連なり、その裾野に広がる森は深く、谷は複雑で、地脈も魔脈も入り組んでいる。晴れていれば山影は遠くからでも見えるが、その内部を正しく知る者は少ない。森と岩と霧が、古い時代の秘密ごと今なおそこに残っているような場所だった。
人々の暮らしは、その大樹岳地帯を避けるように円を描いて広がっている。
町、村、砦、修道院、教会、交易所、伐採地。
それらをつなぐ主要道路はまとめて北域回廊と呼ばれる。
北域の外から来た者には、一本の道の名だと誤解されることもあるが、実際には大樹岳地帯をぐるりと囲む幾筋もの街道と連絡路の総称だった。人も物も、軍も教会も、行商人も巡礼も、その回廊を通って回る。北域は広く、そして中央が塞がれている。だからこそ、この回廊が止まるということは、北域そのものの呼吸が止まることに近い。
《暮れの星雑貨店》は、その北域回廊の南側の入口に近い場所に、相変わらず静かに店を開いていた。
店先に並ぶ品はすでに冬支度の色合いが濃い。
厚手の外套に縫い足すための布、指先の感覚を残したまま冷えを防ぐ革手袋、携帯用の脂壺、火打石、干し茶、保存香草、毛布の繕い糸、荷具の革紐、底の厚い旅靴用の鋲。
旅はまだある。むしろ北域回廊の移動は、雪が深くなる直前の今こそ増える。補給を前倒しにし、冬籠り前の移送を急ぐ者が多いからだ。だが、そこに漂う空気は夏の旅とは違う。今の旅は、先へ進むためのものというより、閉ざされる前に渡りきるためのものだった。
エルセリアは朝のうちに棚を整え、店先の鉢に溜まった夜露を払った。
銀髪の長い束は、いつものように背でまとめられている。五年や十年では、見た目の印象はほとんど変わらない。だからこそ、この店を知る者の中には、たまに奇妙な感覚を覚える者もいた。季節は変わる。街の顔ぶれも変わる。だが、この店主だけは、まるで季節に対して別の時間を生きているように見えるのだ。
けれど街の多くの人間は、その違和感を違和感のまま通り過ぎる。
エルセリアがそれを望んでいるからでもあった。
午前のうちに、二人ほど常連客が来た。
北壁の見張りに出るという若い兵士が、指先の動きが鈍くならない薄手の手袋を買いに来る。
次に、川沿いの畑を持つ老夫婦が、霜除けのための油紙を束で求めた。
どちらにもエルセリアは淡々と応じ、必要以上のことは言わず、それでも相手が必要とするものはきちんと選んで渡した。
昼に近づくころ、扉の鈴が鳴る。
エルセリアは顔を上げた。
「……また遅くなった」
そう言って店に入ってきた男を見て、彼女は少しだけ目を細める。
カイル・ヴァルトは三十五歳になっていた。
若いころの鋭さは消えていない。危機に触れれば一瞬で全身が戦闘の構えを取りそうな、あの苛烈さはまだある。だが、それはもう剥き出しではなかった。厚い革の鞘に収まった刃のように、必要な時にだけ抜かれる性質へ変わっている。体つきは三十の頃よりさらに無駄が削げ、力を誇示するような厚みではなく、「長く動くこと」を前提に作られた実用の形になっていた。肩から腰にかけての重心の置き方に、歩き慣れた街道と、防衛線で崩れない立ち方の癖が見える。顔には薄い傷が増えたが、それも派手ではない。攻め込んだ傷ではなく、生き延びた傷だと分かる類のものばかりだった。
装備もまた、熟練者のそれだった。
目立つ装飾はない。
だが腰の剣、短剣、外套の重み、荷具の結び方、どれも手を抜いていない。
北域回廊で長く生き残ってきた者の装いだった。
「今度は前より短いけど、それでも遅いよな」
「五年ね」
「……数えるなって前も言った気がする」
「忘れていないだけよ」
「そっちの方が怖い」
そう言ってから、カイルはいつものように少し気まずそうに頭を下げた。
「顔を出そうって気持ちはあったんだ。あったんだけど、北域回廊をぐるぐる回ってるうちに季節が過ぎるんだよ。南側の教会から北東の砦まで行って、戻ってきたと思ったら今度は西の小修道院、その次は伐採地の祈祷所、そのまま軍の要塞補助で――」
「生きていたならいいわ」
「本当にそれで済ますんだな」
「死んでいない人を叱っても意味がないもの」
「その理屈、便利すぎないか」
「便利よ」
「認めるのかよ」
カイルは笑った。
若い頃なら、もっと肩で笑っていただろう。
今は、ようやく帰ってきた場所の空気に、身体の強張りを解いていくような笑い方だった。
「座る?」
「……ああ。今日は報告もあるけど、相談の方がでかい」
エルセリアが茶を淹れている間、カイルは店の中を見回した。
この店は季節ごとに前へ出る品が違う。だが全体の静けさは変わらない。
そして、店の奥の壁際にはあの弓もまだある。
布に包まれたままの長弓。
五年前、彼はそれを見て「すごいものだろ」と口にした。今もその印象は消えていない。けれど今日は、弓よりも先に話すべきことがある。
茶器が置かれ、二人は向かい合う。
霧灯月の終わりの空気は冷えていたが、店の中は香草の匂いでやわらいでいた。
「で、報告って?」
「……まあ、最初に言うなら、まだちゃんと生き残ってる」
「見れば分かるわ」
「そうだな。で、その上で……北域回廊の仕事が増えた」
カイルは茶を一口飲み、それから言葉を続けた。
「教会の護衛、防衛、要塞任務。前に話した頃より、だいぶ北の方まで回るようになった。ラウムベルクから見れば北域の南側はまだ楽な方だけど、回廊の北東へ行くと、気候が全然違う。夏でも霧が重いし、秋の終わりには路面が朝凍る。谷ごとに空気が変わるし、道が一筋違うだけで補給が半日遅れる」
「慣れたのね」
「慣れるしかなかった。軍も教会も、結局は回廊が通ってる限り動けるからな。逆に言えば、そこが切られたら全部詰む」
彼は北域回廊の名を口にする時、自然と視線が地図を見るようになる。
頭の中に実際の道筋が浮かんでいる者の話し方だ。
「ここ数年は、回廊内の移動護衛が主だった。巡礼や神官の移送だけじゃなくて、冬前の兵糧、祭具、負傷兵の搬送、要塞間の連絡。魔物の襲撃も多い。大樹岳地帯の南縁に近い区間は特に」
「功績を上げ続けているんでしょう?」
「ベルノか」
「ええ」
「ほんとにあいつは、どうでもいいことまで先に喋るな」
「どうでもよくはないわ」
「……まあ、C級上位って言われるのは嘘じゃない」
言葉の響きに、以前ほどの気恥ずかしさはなかった。
誇りを隠すでもなく、誇りに酔うでもない。
必要だからそこにいる、という実務者の口調だ。
「でも、たぶん今の俺は、剣の腕でそこまで来たわけじゃない」
「そう」
「護衛でも防衛でも、結局は流れを見る方が先だった。どこで押されるか、どこで崩れるか、どこなら少人数で持ちこたえられるか。あんたにもらった小石がなくなってからも、その見方だけは残ってたから」
「小石はもうないのね」
「ない。あれは聖ラディウスで最後まで使い切った。でも、あれで学んだ考え方は、今もある。だから今の俺は、要塞任務でも『前に出て斬れ』ってより『ここを詰まらせろ』『ここは退くな』『ここに火を回せ』って言うことが多い」
「向いているのでしょう」
「そうなんだと思う。で、そのせいで今回がまずい」
カイルの声の温度が少し変わった。
「いつもの任務じゃないのね」
「まったく違う」
彼は茶器を置き、両手を組んだ。
戦場の報告に入る時の手だ。事実を順に並べ、感情を挟みすぎないようにする癖が見える。
「北域回廊の南東寄り、大樹岳地帯の南縁に近い伐採地と祈祷所が、ここ二か月くらいコボルトにやられてる」
「コボルト」
「小群れが夜に出てきて、薪置き場を荒らしたり、食料を盗んだり、見張りを襲ったり。最初はただの嫌がらせかと思われてた。でも最近は違う。伐採小屋が一つ焼かれて、回廊沿いの補給箱も二度切られた。軍と教会が調べたら、大樹岳地帯の森林の浅いところに、いくつか拠点を移しながら群れてるらしい」
「回廊を削るつもりね」
「たぶん」
コボルト。
単体ではゴブリンより少し厄介な程度に見られがちだが、森林を根城にした群れは別物になる。足が速く、匂いに敏く、罠と待ち伏せに慣れ、地形に合わせて散る。人間側が森へ踏み込めば、その時点で相手の土俵に立つことになる。
「それで、教会と軍が合同で拠点群を殲滅することになった」
「殲滅」
「そう」
カイルはそこで一度黙った。
言葉を口にするだけで、喉の奥に苦味が上がるのだろう。
「……護衛なら分かる」
「ええ」
「防衛も、まだ分かる。壁や通路があれば、どこで持たせるか考えられる。でも今回は違う。こっちから森へ入って、奴らを探して、巣穴や補給路を潰して、逃げる群れを断って、できれば頭まで仕留める」
「でもあなたは、殲滅任務の経験は少ない」
「少ない。っていうか、ほとんどない。小規模な追い払いならある。でも森林を根城にして戦い慣れてる奴らを相手に、どうやって勝てばいいんだって……」
カイルはそこで、ようやく本音を出した。
「俺、守る側の戦いならまだ何とかなると思ってる。誰かを逃がす、何かを残す、持ちこたえる。そのためのやり方はある。でも森の中で“狩る側”に回るとなると、自分の足場がどこにあるのかすら分からなくなる」
「森に壁はないものね」
「そうだよ。戦線も曖昧、退路も曖昧、敵の数も曖昧。しかも相手はそこに慣れてる。木の上から石投げるし、罠も張るし、わざと姿見せて誘ってくる。俺みたいなのが行っても、逆に群れの餌になるだけなんじゃないかって思う」
その言葉には、自分を卑下する響きはなかった。
実戦を知る者の、正確な恐れだった。
守る戦いに強いという自覚があるからこそ、それが通じない場を前にした時の不安もまた明確になる。
エルセリアはしばらく答えなかった。
窓の外では風が落ち葉を転がしている。
北域の森の匂いが、はるか遠くから回廊沿いに流れてきているような気がした。
「大樹岳地帯の森の中でも、流れはあるわ」
やがて、彼女はそう言った。
カイルが顔を上げる。
「森に?」
「ええ。壁や門の代わりに、木立、斜面、獣道、谷風、湿り気、匂い。目に見えないだけで、群れが通りやすい道と、戻りやすい道と、嫌う場所はある」
「……」
「あなたは今まで、石垣や通路だけを見ていたわけじゃないでしょう。崩れ方を決めるために、場そのものを見てきた」
「それは、そうだけど」
「なら、森でも使えるわ。ただ見方を変えるだけ」
「見方、か」
カイルはその言葉を繰り返す。
それだけで不安が消えるわけではない。だが、完全に自分の外の戦場だと思っていたものが、少しだけ地続きになる。
エルセリアは立ち上がった。
「ちょっと待って」
「……ああ」
彼女は店の奥へ入っていく。
棚の陰、奥の引き出し、そのさらに奥。
一か月前、木こりが持ち込んだ古びた品をしまってあった場所だ。
その木こりは、大樹岳地帯の南縁で伐採に関わる男だった。倒木の処理の際、古い作業小屋の床下から出てきたといって、埃だらけの道具類をまとめて持ち込んだのだ。錆びた鉈、割れた木皿、使い物にならない縄、そして一本の、くたびれた木製の笛。
木こり自身は「熊避けのまじないか、昔の狩人の忘れ物だろう」と笑っていた。吹いてみても、まともな音は出なかったと。
だがエルセリアの鑑定眼には、別のものが見えていた。
魔王城第二防衛線付属補助具。樹界の呼子。
森林・群体攪乱・道筋偏向。
森に慣れた群れの「戻る感覚」「合流する感覚」「抜けやすい感覚」を、一時的にずらす器具。
音で獣を操る笛ではない。森そのものの流れに、一瞬だけ別の癖を与えるもの。
使い方を誤ればただの木笛。
正しく使えば、森に慣れた側の優位を外せる。
神級。
けれど、見た目は古びた作業用の笛にしか見えない。
戻ってきたエルセリアの手には、短い木笛があった。
「これを持っていきなさい」
「……笛?」
カイルは目を瞬いた。
彼の想像の中では、罠道具や薬草、あるいはせめて地図片くらいはあり得たかもしれない。
だが笛はなかった。
「コボルト退治に?」
「ええ」
「いや、待て。森での殲滅任務だぞ」
「知っているわ」
「俺に弓でも罠でも火薬でもなく、笛を持たせるのか?」
「火薬は扱っていないもの」
「そこじゃない!」
思わず声が大きくなってから、カイルは自分で苦笑した。
だが動揺は本物だった。
木笛は、色褪せて摩耗している。節のある古木から削られたような質感で、口元は擦れ、穴の縁も欠けていた。山仕事の者が腰に差していても不自然ではない。
そう、まるで「よく分からないけれど昔から道具箱に入っているもの」そのものだ。
「見た目はそうね」
「見た目だけじゃなくて、実際――」
「使い方を間違えれば、ただの古い笛よ」
エルセリアは静かに言った。
その返しに、カイルは言葉を止める。
今までだって、そうだった。
火打石も、杯も、小石も。
彼女が渡すものは、最初から答えの形では寄越されない。
「名前は?」
「樹界の呼子」
「……また、いかにも何かありそうな名前だな」
「名前だけなら、古い狩人道具にもありそうでしょう」
「言い方がもう怪しいんだよ」
カイルは笛を受け取り、ひっくり返したり光に透かしたりしてみる。
何の彫刻もなければ、魔法道具らしい輝きもない。
だが手に持つと、軽いのに奇妙な存在感があった。
木なのに、湿り気と乾き気の両方を覚えているような感触だった。
「どう使う」
「よく聞いて」
エルセリアの声が少しだけ低くなる。
商談というより、使い方の伝授に近い響きだった。
「まず、吹くのは敵が見えてからでは遅い。森へ踏み込む前か、包囲を狭める前」
「先に、か」
「ええ。それから、高い場所で吹いても意味は薄い。谷へ落ちる手前、獣道が交わるところ、斜面がゆるく変わる場所。人と獣の流れが切り替わる場所で吹くの」
「流れが切り替わる場所……」
「谷風が溜まる手前、足元の土が少しだけ柔らかくなるところ、葉の裏返り方が変わるところ。あなたなら見れば分かるはず」
「……」
「一度に長く吹かない。三息まで」
「三息」
「長く吹くと、味方の感覚までずれる」
「味方、まで?」
「そういうものもあるの」
カイルは木笛を握る手に少し力を込めた。
完全には理解できない。
だが「危険な使い方がある」ことだけは伝わってくる。
「吹いた後は、自分たちがすぐ動かないこと。相手が動くのを待つ」
「待つ?」
「ええ。こちらから追うために使うんじゃないもの」
「じゃあ何のために」
「相手の戻りやすい道、合流しやすい道を、ほんの少しだけ外すため」
エルセリアは笛を指差した。
「コボルトは森に慣れている。でも、それは森の流れを“正しく感じている”からよ。群れは、匂いと足跡だけで動いているわけじゃない。戻りやすい傾き、通りやすい抜け、合流しやすい窪み、そういうものを身体で知っている」
「それを外す」
「一瞬だけね。森を全部味方にしようとしないこと」
「……」
「あなたたちが森を支配する必要はない。森の中で一番慣れている者の感覚を、一瞬だけ狂わせればいいの」
「殲滅なのに、真正面から勝つ話じゃないんだな」
「殲滅っていうのは、斬り尽くすことだけじゃないわ。群れとしての形を壊すことでもある」
その言葉に、カイルは息を飲んだ。
いままで、殲滅という言葉を彼は「全部倒すこと」だと思い込んでいた。
だが、群れの強みが連携と帰路と再集合にあるなら、それを壊すこと自体が殲滅の始まりになる。
「……群れの形を壊す」
「そう。森の中で一番危険なのは、一度散ってもまたすぐ集まれることよ。戻る感覚を失わせれば、ただの小さな群れに崩れる」
「それなら……」
「あなたのやり方で戦えるでしょう」
カイルは木笛を見つめた。
そこにいきなり自信が生まれるわけではない。
けれど、何をすべきかの輪郭が見え始める。
「撤収の時には使わないこと」
「え?」
「退路まで歪めるから」
「……それ、怖いな」
「だから長く吹かないの。三息まで」
「分かった」
彼は何度かうなずき、それから眉を寄せる。
「でも、笛なんて……俺、まともに吹けるか分からないぞ」
「綺麗な音を出す必要はないわ」
「そういうものか」
「必要なのは音楽じゃなくて、息の長さと切り方」
「……いつも思う。あんた、ほんとに雑貨屋か?」
「雑貨屋よ。森仕事の道具を売るのも商売」
「そういう返しが来ると思った」
カイルは小さく笑ったが、その笑みには少し本気の安堵が混じっていた。
彼はようやく理解し始めていた。
守る戦いにしか向かないと思っていた自分にも、森の中で使える“流れを見る眼”があるのだと。
そしてこの笛は、その眼を森林戦に繋ぐための橋なのだと。
「……俺、勘違いしてたかもしれない」
「何を?」
「殲滅って言われて、全部を狩らなきゃいけないと思ってた。森に入って、見つけて、追って、斬って、逃がさない。それができないなら役に立たないって」
「そういう人も必要でしょうね」
「でも俺は、そうじゃない」
「ええ」
「……やっぱり即答するんだな」
「あなた、自分でも分かっているもの」
「まあ……そうだな」
彼は笛を布で包み、荷の中にしまいかけて、また取り出した。
慎重に、結局一番取りやすい場所へ差し込む。
そういうところに、道具への信頼がにじむ。
「これで本当に、何とかなると思うか」
「何とかするために持っていくのでしょう」
「質問に答えてない」
「答えているわ」
「……ずるいな」
「商人だもの」
「本当に便利だな、その言葉」
少しの沈黙のあと、カイルは真顔に戻った。
「怖いのは、やっぱりある」
「そうでしょうね」
「森の中で、姿の見えない相手に囲まれるのは、壁の上で数を受けるのと違う。北域回廊の護衛なら、少なくとも道はある。前と後ろがある。でも森の中じゃ、それすら怪しい」
「怖いなら、その分だけ備えなさい」
「……うん」
「殲滅でも流れはあるわ。あなたが全部を斬る必要はない。群れの形が壊れれば、それで勝てる」
「……」
カイルは、その言葉を何度か心の中で繰り返している顔をした。
それから、ふっと肩の力を抜く。
「なあ」
「なに?」
「あんたの店に来るたび、武器じゃないものを持たされるな」
「雑貨屋ですもの」
「でも、それで何とかなってきた」
「それならよかった」
「今回も、たぶんそうなんだろうな」
それは半分独り言で、半分信頼だった。
彼は立ち上がった。
来た時より、目線の定まり方が変わっている。
不安が消えたわけではない。むしろ、やるべきことが見えた分だけ、怖さも具体的になったかもしれない。
だが、具体的な恐れは扱える。
名も分からぬ恐怖より、ずっとましだ。
「出るのはいつ?」
「明日の夜明け前」
「早いのね」
「冬が来る前に片をつけたいらしい。回廊沿いの補給が止まると、北側の砦が面倒になる」
「当然ね」
「だから、今日ここに寄ってよかった」
「そう」
「毎回言ってるな、これ」
「毎回そうなのでしょう」
「……否定できない」
店を出る前、カイルは一度だけ店の奥を見た。
壁際の弓は、今日も静かにそこにある。
何も言わない。
だが、その沈黙まで含めて、この店にはずっと何かがあるのだと、彼はもう知っている。
「また戻ったら報告する」
「ええ」
「今度は五年も空けない」
「人間基準でお願いするわ」
「善処する」
鈴が鳴り、彼は秋の終わりの通りへ出ていった。
北域回廊を幾度も巡り、生き残り、壁を守り続けてきたC級上位の熟練者。
けれどいまから向かうのは、壁のない戦場だった。
エルセリアは扉が閉まってからもしばらく、その余韻を聞いていた。
それからゆっくりと帳場へ戻り、帳面を開く。
樹界の呼子の代金を、やはりほとんど端材同然の値で書き込む。
「今度は森の流れ、ね」
小さく呟いた。
その笛が木こりの手に渡るまでに、どれだけの年月があったのかは分からない。
だが一つだけ確かなのは、それが大樹岳地帯と深く結びついた品だということだった。
ラウムベルクの地下と、遠い森の気配が、やはりどこかで繋がっている。
それはまだ、彼女以外には見えない筋道だった。
午後の客が二人ほど来て、香油や干し茶を買っていった。
エルセリアはいつも通りに応対し、品を包み、釣り銭を渡す。
世界の針路を左右しうる道具をまた一つ送り出した直後であっても、彼女の一日は雑貨屋の店主として進む。
夜になると、北寄りの風が少し強まった。
窓辺の香草が揺れる。
大樹岳地帯の方角から、木々のざわめきが遠く聞こえてくるような気がした。
カイルは翌朝、教会と軍の合同隊に加わって北域回廊を東へ進み、大樹岳地帯の南縁へ入った。
伐採地の外れには、切り株と木屑の匂いが残っている。そこを越えると森は急に深くなる。人の手が入っているのは入口だけで、その先はすぐに獣道と岩場と湿った斜面が入り混じった別の世界になる。
コボルトはその森をよく知っていた。
人の匂いが強くなると散り、夜になると合流し、食糧庫や補給箱を狙う。足跡を追えば途中で消え、焚火の痕を見つけても翌朝には空になっている。
森へ踏み込む前、カイルは樹界の呼子を手にした。
最初は、自分でも何をしているのか分からない気分だった。
だがエルセリアの言葉を思い出し、谷へ落ちる手前、獣道が二本交わる場所、葉の裏返り方が変わる湿った境目を見つける。
そこで三息まで。
音楽ではなく、息の切り方だけを意識して吹く。
出た音は、美しくはなかった。
むしろ乾いた風が木の腹を擦るような、短く不思議な響きだった。
けれどそのあと、森の空気がほんのわずかに変わる。
同行する兵には分からない程度に、谷風の向き、鳥の飛び立ち方、落葉の流れがずれる。
カイルはすぐに動かなかった。
待った。
相手が動くのを。
その日の夕刻、最初の兆候があった。
小規模なコボルトの斥候が、いつもなら合流するはずの窪地を外し、別の獣道へ散ったのだ。
翌日には、二つの群れが互いの位置を読み違えて罠地帯の手前で交錯し、連携が崩れた。
さらに夜には、戻り道を誤った群れが自分たちの予備食糧の隠し場へ集まれず、小隊ごとに孤立した。
カイルはそこで初めて理解する。
これは敵を眠らせる笛でも、命令を与える笛でもない。
森そのものを少しだけ“いつもと違う”場所にして、森に最も慣れている側の感覚を狂わせるための呼子なのだと。
彼はその機能を言葉では知らない。
だが十分だった。
自分の役割が分かったからだ。
以後、カイルは剣より先に流れを見た。
群れが戻りたがる窪み、合流しそうな獣道、再集合に使いそうな伐採跡の脇。
全部を追わない。
全部を殺さない。
戻り道を失わせ、群れの形を壊し、孤立した小隊だけを確実に潰す。
軍はそこへ槍を差し込み、教会側の護衛兵は補給路を確保し、森の中で“コボルトの群れ”だったものを、“ばらばらに迷う小さな害”へ変えていった。
最終的に、任務は成功する。
大樹岳地帯南縁の主要拠点群は潰され、回廊沿いの伐採地と祈祷所への襲撃は激減した。
軍の報告書には、合同隊の冷静な追撃と地形判断が勝因と記される。
教会筋の記録には、北域回廊の補給が冬前に守られたことが簡潔に残る。
そしてカイル・ヴァルトの名は、そこでまた一段、北域回廊を支える冒険者として重みを増した。
だが、その勝利の裏には、もっと大きな回避があった。
もしあの時、コボルトの群れが群れのまま生き残っていたなら。
冬の初めに北域回廊南東部の補給線は連続して切断され、教会の小修道院群と軍の前哨要塞は互いに孤立し、北域中央の外周は一冬を越えられなかった可能性が高い。
そうなれば人流も物資も滞り、後の世代の観測者たちが行き来するはずだった道は寸断され、北域に残る記録や伝承のいくつかは、そこでもう途絶えていたかもしれない。
大樹岳地帯の南縁が“人の回廊”ではなく“森の縁”へ後退すれば、その影響は一地方の被害では済まない。王国北部そのものの形が変わっていた。
だが、その災厄は来なかった。
ラウムベルクの小さな雑貨店で、銀髪の店主が、木こりから買い取った古びた木製の笛を、一人の熟練冒険者へ渡したからだ。
彼女はまたも、自分ではただ「客の相談に応じ、使い方を教え、売っただけ」のつもりでいる。
それでも、世界の見えない均衡は、その静かな売り買いによって保たれた。
《暮れの星雑貨店》の灯りは、その夜も変わらず穏やかに消える。
茶葉は量られ、帳面は閉じられ、銀髪の店主はいつものように戸を締める。
そして誰にも知られないまま、またひとつ。
世界は、森の側から来る大きな災厄を回避していた。




