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射られなかった未来

 暁冠暦五一五年、黄葉月。


 ラウムベルクの秋は、夏の終わりを引きずらない。


 盛雲月の熱が引いてからしばらくすると、この地方都市の空気はすぐに乾き始める。朝の水路は澄み、石畳の継ぎ目に入り込んだ落ち葉は、まだ踏まれないうちからかすかな音を立てる。市場に並ぶ品も変わった。青い果実より貯蔵向けの根菜が増え、軒先には燻製用の網や冬支度のための油壺、毛織物の補修糸が目立つようになる。人々の話題も、旅より蓄えだ。どこそこの麦の出来がどうだ、今年は初雪が早いかもしれない、川沿いの畑はもう収穫を終えたらしい――そんな、季節の向こう側に冬を見据えた会話が、通りのあちこちから聞こえてくる。


 《暮れの星雑貨店》の店先にも、秋らしい品が並んでいた。


 厚手の手袋の補修革、灯火用の油、保存香草、乾燥茶葉、湯たんぽ代わりに使う小型の焼き石袋、窓の隙間を埋めるための布紐。旅人向けの品が消えたわけではないが、若陽月や盛雲月に比べれば、明らかに「家で冬を越すためのもの」が前に出ている。


 エルセリアは、いつものように静かに店を整えていた。


 銀髪は今日も背でゆるくまとめられ、褐色の肌に朝の薄い光が滑っている。黄葉月の光は春よりも低く、夏ほど強くない。そのせいか、彼女の輪郭はいつもより少しだけ柔らかく見えた。だが店の奥に目を向ければ、そこには以前と変わらず、布に包まれた長い弓が立てかけてある。意識して見ようとしなければ認識からこぼれ落ちるような場所に。だが、ずっと同じように。


 開店してまもなく、近所の老女が燻製用の香草束を買いに来た。

 次に、子どもの冬靴の紐を探す母親。

 鍛冶屋の若い職人が、金属の指輪を磨くための小布を求めて立ち寄る。

 雑貨店の午前は、いつもの通り淡々と進んでいった。


 だが昼に近づく頃、扉の鈴が鳴った瞬間、店の中の空気がほんの少しだけ変わった。


「……久しぶりだ」


 聞き慣れた声だった。


 けれど声の奥にある響きは、以前より低く、よく通り、疲れを隠す術も覚えていた。


 エルセリアが顔を上げると、店の入口に男が立っていた。


 カイルは三十歳になっていた。


 若さ特有の尖りが消えたわけではない。目の奥には、危険を前にした時にすぐ火がつく性質がまだ残っている。だがその火は、もはや周囲を焦がすだけのものではない。必要な時だけ抜かれる刃のように、抑えられていた。背はさらに伸びたわけではないが、全身の均衡が取れている。肩や腕、腰のあたりに積み重ねられた筋肉は目立ちすぎず、鎧の上からでも「長く生き延びてきた者」の重さが分かる。装備は実戦的で、派手な意匠は何ひとつない。それでも、一目で信頼できる手入れがされていた。腰の剣は飾りではないが、主役でもない。防衛や護衛を主としてきた者らしく、彼の立ち方そのものに「場を見る」癖が染みついている。


 そして、その顔には以前と同じものも残っていた。


 店の扉をくぐるたびに、ほんの少しだけ気まずそうにするところだ。


「また遅くなった」


 開口一番、彼はそう言った。

 前回とほとんど同じ言い出し方である。


「前来てから何年たったか覚えてないが、それでも遅いよな」


「八年ね」


「……数えるのやめろよ」


「数えなくても分かるわ」


 カイルは苦笑したが、すぐに真面目な顔に戻った。


「ちゃんと顔を出そうとは思ってたんだ。春の任務が終わったらとか、秋に入ったらとか、そのたび考えてた。でも気づいたら教会の防衛任務が続いて、今度こそ落ち着いたと思ったら別の修道院で呼ばれて、それで……」


「生きていたならいいわ」


「それで済ますんだな」


「死んでいない人間を叱っても意味がないもの」


「……その言い方、前にも聞いた気がする」


「言ったからでしょう」


 カイルは肩の力を抜くように息を吐いた。


 八年前よりも、さらに自然にこの店の空気に馴染んでいる。


 若い頃は、ここへ来るたび自分の中の何かがざわついていたはずだ。いまもエルセリアに対する畏れや測りきれなさは消えていないだろう。だがそれを無理に打ち消そうとはしなくなっていた。


「座る?」


「……ああ。今日は、報告もあるし」


 報告。


 その言葉の響きが、以前とは違っていた。


 昔は任務の成否を伝える意味合いが強かったが、いまは人生の節目を持ってきた者の声である。


 エルセリアが茶を淹れているあいだ、カイルは店内をゆっくり見回した。


 棚の配置は少し変わっている。季節ごとに前へ出る品が違うからだ。けれど全体の静けさは変わらない。


 店の奥の薄暗い壁際に、あの布に包まれた弓もまだある。


 カイルの視線はそこを一瞬通り過ぎたが、まだ何も言わなかった。


 茶が出され、二人は向かい合うように座った。


「で、報告って?」


「……先に明るい話からしていいか」


「構わないわ」


「そうか」


 カイルは照れたように鼻の頭を指でこすった。

 その仕草だけは、十代の頃とあまり変わっていない。


「結婚した」


 エルセリアはまばたきを一つした。


「そう」


「反応が薄い」


「続きがある顔をしているもの」


「……まあ、ある」

 カイルは観念したように笑った。


「聖ラディウス大修道院で共闘したアーチャーと結婚した」


「名前は?」


「ミレイナ」


「そう、ミレイナっていうのね」


「あの時、修道院の西壁で一緒になった弓手だ。修道院付きというより、教会側が呼んだ防衛要員で、当時は俺より年上だった」


 彼の声に、ふっと遠い夜の気配が混じる。


 聖ラディウス大修道院。

 ゴブリンの大群。

 石垣の切れ目、畑と塀のあいだ、崩れた荷車の陰。

 エルセリアが売った革袋と、その小石から学んだ「流れを決める」戦い方。


 その場にいた一人がミレイナだったのだろう。


「最初は怖かったぞ。腕が立つだけじゃなくて、言うことがいちいち鋭くてさ。俺が『こっちに誘導する』って言った時も、『根拠は?』って真顔で聞いてきた」


「答えられたの?」


「答えた。……たぶん、半分くらいは」


「半分」


「残り半分は、経験と勘だ」

 カイルは苦笑しながらも、その勘の一部がどこから来たのかは口にしない。


 代わりに、彼の声音が少し柔らかくなる。


「でも、終わってから分かった。あいつ、ただ疑ってたんじゃなくて、戦場で言葉を曖昧にするやつを信用しないだけだったんだ。で、そういうやつほど、自分の矢には責任を持つ」


「いい弓手なのね」


「いい弓手だ。俺よりよっぽど冷静で、遠くまで見てる」


 そこでカイルは一息置き、それから照れ隠しみたいに続けた。


「で、そのまま何回か同じ任務に入って、気づいたら一緒にいることが増えてて……まあ、そういう流れだ」


「自然だったのね」


「自然……だったんだと思う。たぶん」


 彼はそこでさらに言った。


「子どももいる」


「そう」


「男の子と、女の子。上が息子で、下が娘だ」


 その瞬間、彼の顔に宿る表情が変わった。


 戦場や防衛任務の話をしている時とも、結婚の照れを含んだ顔とも違う。親の顔だった。

 うまく説明できない柔らかさと、壊れ物を抱く者の慎重さが同時にある。


「何歳?」


「息子が八つ、娘が六つ」


「そう」


「二人ともよく喋る。特に娘」


「あなたに似たのかしら」


「やめろよ。似てたら大変だ」


「否定はしないのね」


「否定しきれないのが嫌なんだよ」


 エルセリアは、ごく薄く笑った。


 カイルは一瞬だけ目を見開いたあと、つられて口元を緩める。


 こういう時間が流れるのは、この店だけかもしれないと彼は思った。冒険者仲間の前でも、教会の神官たちの前でも、彼はもう少し肩肘を張っている。


「で、今の俺は――」


「C級」


「……ベルノか」


「ええ」


「ほんと、あいつは口が軽い」


「でも間違ってはいなかったわ」


「まあ、そうだけど」


 カイルは頬を掻いた。


 褒められること自体は慣れた。教会筋の防衛任務を主に請ける熟練者として、名前を知られるようにもなった。だが、その評価をエルセリアがすでに知っているということに、妙なくすぐったさがある。


「教会や修道院の防衛ばっかりやってきた。最初は一時的な仕事のつもりだったのに、気づいたらそういう依頼が一番しっくり来るようになってた。討伐もやるけど、俺は結局、誰かが後ろにいる場所の方が力が出るらしい」


「そういう人もいるわ」


「昔は、それが地味で嫌だったんだ。前へ出て、分かりやすく強い方が格好いいって思ってた。でも今は、壁が朝まで残ってる方がいい」


「いい変化ね」


「……前にあんたが言ったからだよ。守るべきものが朝まで残っていれば、防衛は成功だって」


「覚えていたのね」


「忘れるか」


 カイルはそこで、腰の荷を軽く叩いた。

「小石は、もうない」


「そう」


「聖ラディウスで使い切った。最後の三つまでちゃんと使った。あの時は、正直それで終わりだと思ったんだけどさ」


「終わらなかった」


「終わらなかった。……でも小石がなくなってからも、あの時の考え方だけは残った」


 彼は指先で卓をなぞるように、言葉を置いていく。


「敵を全部受けるな。流れを決めろ。崩れる時は崩れ方を決めろ。退路を消すな。そういうのが体に残ったんだと思う。だから今の俺は、剣の腕だけで生き残ってるわけじゃない。大人数を相手にするとき、どこで詰まるか、どこで視線が散るか、どこで人が怖がるか、そういうのを見る癖がついた」


「小石はなくても」


「なくても」


 その言葉に、エルセリアは静かに頷く。


「それで十分よ」


「十分?」


「生き残ることが大事だもの。道具はなくなっても、そこから得た見方が残ったなら、それでよかったのよ」


「……」


「あなたはそれで、ずっと次につないできたのでしょう」


「……ああ」


 カイルはその一言を、思ったより深く受け止めたらしかった。


 防衛任務を積み重ねる者の名声は、華々しく語られないことが多い。倒した敵の数ではなく、崩れなかった壁の数、守り切った人数、起こさせなかった惨事で評価されるからだ。

 だからこそ、自分がやってきたことを、真正面から「それでいい」と言われる機会は少ない。


「ありがとな」


「礼を言うことかしら」


「言いたい時には言う」


 そこまでは、穏やかな報告だった。


 だがカイルの顔には、まだ言うべきことを残している色があった。


「……で、ここからが相談だ」


「そうでしょうね」


「また分かるのか」


「あなた、明るい話だけをしに来た顔じゃないもの」


 カイルは苦笑する。そして少し言いにくそうに、視線を茶器へ落とした。


「ミレイナが、子どもたちに弓を教えてる」


「自然な流れね。アーチャーなら」


「そうなんだよ。俺も最初は別に反対じゃなかった。教会筋の弓手は食いっぱぐれにくいし、防衛任務にも就きやすい。何より、あいつ自身がそれで生きてきたから」


「でも?」


「……娘には才能があるんだ」

 そこまで言って、カイルはほんの少し苦い顔をした。


「矢が真っ直ぐ飛ぶとか、勘がいいとか、そういうのだけじゃない。立ち方も、引き方も、狙いをつける時の集中の仕方も、全部それっぽい。ミレイナが見ても明らかに分かるくらい」


「そう」


「でも息子には、それがない」


 店の中が静かになる。


 外では誰かが荷車を止め、馬を宥める声が聞こえた。秋の乾いた空気は音をよく通す。


「才能がないって、ミレイナは言わない。でも、思ってる。俺には分かる。娘には弓手の目がある。息子にはないって」


「それで?」


「二人ともアーチャーにしたいらしい。いや、正確には、“できるならそう育てたい”って感じだけど」


「息子にも」


「うん。たぶん、食べていける道としても考えてる。教会の弓手なら、俺みたいな冒険者よりずっと安定してるから」


 カイルは指を組み、少し考えるように言葉を選んだ。


「でも俺は……息子を見てると、どうも違う気がするんだよ。弓の稽古してても、的より先に射場のぬかるみとか、矢止めの土台の傾きとか、妹の立ち位置とかを気にする。ミレイナは『集中できてない』って言うけど、俺にはそう見えない。あいつなりに何か見てるんだ」


「なるほど」


「でも、それをうまく言えない。ミレイナは弓の人間だけど、俺は弓の専門じゃない。だから説得力がなくてさ」


 そこでエルセリアは、ようやく本題に触れるように言った。


「なぜ私に弓のことを聞くの?」


 当然の問いだった。


 彼女は雑貨屋の店主としてしか生きていないはずだ。

 少なくとも表向きには。


 カイルはその質問を待っていたようだった。


 ゆっくりと店の奥を指差す。


「あれ」


 視線の先には、壁際に立てかけられた弓がある。


 普段なら、多くの客は意識の外へこぼしてしまうもの。

 だが今、カイルはそれをはっきり見ていた。


「誰も気づかないけど、あれってすごいものだろ?」


 エルセリアは答えない。


 カイルは続けた。


「俺はよくわからない。弓の名工の品とか、そういう話なら、たぶんもっと分かりやすく飾るんだと思う。でも、あれは違う。店に置いてあるのに、店の物みたいじゃない。でも隠してるわけでもない。見てると、何かこう……怖いっていうか、静かすぎるっていうか」


「……」


「だから、あんたなら弓のことが分かるかもって思った」


 エルセリアは内心で、わずかに驚いていた。


 今まで、あの弓に明確な違和感を向けた人間はそう多くない。


 気配を感じる者はいても、それを言葉にしてここまで自然に指摘する者はさらに少ない。


 カイルは気づいたのだ。正体までは届かなくても、あれが「ただの飾り」でも「古い狩猟弓」でもないと。


 観測者としての視線が、また一段深くなっている。


 八年前の青年は、武器そのものではなく、戦場の流れに助けられていた。

 いまの彼は、その流れを生む側の“根”に、触れ始めていた。


「……そう」


 それだけ言って、エルセリアは席を立った。


 店の奥へ歩き、布に包まれた長弓に触れる。


 指先に、五百年前の感触が戻る。


 勇者一行の時代、夜の森、風を読む呼吸、仲間の背中、血と土と精霊たちの囁き。


 すべてが一瞬だけそこにある。


 だが彼女は弓を取らない。


 ただ布越しに撫でるだけで戻ってきた。


「弓の本質を知りたい?」


「俺が?」


「あなたのためでもあるし、子どもたちのためでもあるのでしょう?」


「……ああ」


 エルセリアは椅子に座り直し、しばらく考えるように目を伏せた。


 そして、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「弓は、真っ直ぐ飛ばすための技術だと思われがちね」


「まあ、普通はそう思う」


「半分は正しいわ。的に当てるには、姿勢も筋力も、呼吸も、感覚も必要だもの。でも、それは外から見える部分でしかない」


「残り半分は?」


「本当の弓は、どこを見るかにある」


 カイルは黙って聞いている。

 この声を途中で遮ってはいけないと、本能的に分かっている顔だった。


「矢を放つ時、人はつい、的の中心だけを見ると思うでしょう。でも優れた弓手は、それだけを見てはいない。風の流れ、相手の呼吸、足元の傾き、自分の恐れ、矢が届くまでのわずかな間に起きる変化。そういうものを全部見て、その上で“いま射るべきか”を決めている」


「当てることより、射るかどうか」


「そう。何を射るかより、何を射らないかの方が大事なことも多いわ」


 カイルの目が、少しずつ見開かれていく。

 弓の話をしているはずなのに、どこか自分の防衛の話にも聞こえてくるからだろう。


「才能の差も、そこに出る」


「どういう意味だ」


「早く当てられるとか、遠くまで飛ばせるとか、そういうのは訓練で伸びる部分が大きい。でも、その子が“何に目を向けるか”は、もっと根の深い資質よ」


「……」


「娘さんは、たぶん矢の軌道に向く才能がある。狙う対象に心を絞り、瞬間の収束をつくれるのでしょう」


「収束」


「弓は、一瞬で世界を細くする技術でもあるの。見るべきものを絞って、そこへ矢を通す」


「じゃあ息子は」


「違う方向を見ているのかもしれない」


 エルセリアの声は穏やかだった。


「息子さんは、的より先に地面や土台や立ち位置を見るんでしょう?」


「……そうだ」


「なら、その子は一点を射抜くより先に、場全体を見ているのよ」


「でも、それって弓には向かない」


「弓の“ある一面”には向きにくいかもしれない。でも、それを才能がないと言うのは違うわ」


 カイルは息を止めるように、じっと彼女を見た。


「弓手とは、本来、流れを読む者でもある。優れた弓手は、矢そのものだけではなく、“どこに立てば全体が見えるか”も知っている」


「……」


「でも、その資質がもっと別の場所で大きく育つこともある。たとえば、水の流れや、地面の傾きや、人の集まり方を見る方へ」


「……」


 そこでカイルは、はっきりと思い当たった顔をした。


 息子が庭先の稽古場で、弓そのものより排水溝の詰まりを気にしていたこと。

 大雨の後、裏庭の土の流れ方をずっと見ていたこと。

 妹が立つ位置より、一段高い石の縁が危ないと先に言ったこと。


 弓を引かせるたびに集中が足りないと叱られていたが、あれは本当に「集中していなかった」のだろうか。


「……才能がないんじゃなくて」


「向いている場所が違うだけかもしれない」


「……」


 カイルはゆっくりと息を吐いた。


 それは長年胸の奥に溜まっていた何かが、ようやく形を与えられた時の吐息だった。


「子どもに技を継がせたいと思う気持ちは、悪いことじゃないわ」


「ミレイナも、悪気があるわけじゃない」


「ええ。でも、技を継がせるより先に、その子が何に目を向ける子なのかを見ないと、折れてしまうことがある」


「……」


「娘さんが弓を選ぶなら伸ばせばいい。息子さんが別の流れを見ているなら、それを無理に絞らなくていいの」


「絞らなくていい」


「弓術は収束の技術だけれど、誰にでも収束を強いるものではないわ。広く見る資質があるなら、その広さを生かすべき時もある」


 カイルは両手で顔を覆い、しばらく黙った。

 泣いているわけではない。


 ただ、父親としてずっと言葉にできずにいたものが、ようやく別の形を与えられて、しばらく呼吸の仕方が分からなくなったのだ。


「……なんで、そんなことまで分かるんだよ」


 低い声で、そう漏らす。

 それは問いというより、感嘆に近かった。


「雑貨屋は、人と物を両方見る仕事だから」


「絶対それだけじゃないだろ」


「どうかしら」


「……はあ」

 カイルは顔を上げた。


 その表情には、納得と諦めと、少しの呆れが混じっていた。


 この人は結局、そうやって全部を言わない。けれど、それでいて欲しい答えは差し出してくる。


 昔から、ずっとそうだ。


「話してみる」


「ミレイナに?」


「ああ。息子に才能がないんじゃなくて、見てる場所が違うのかもしれないって」


「怒るかもしれないわね」


「怒るだろうな」


「それでも?」


「それでも。あいつ、理屈が通ればちゃんと聞く方だから」


 そこでカイルは、ふっと笑った。


「……たぶん、俺がうまく言えなかっただけだ」


「言葉が見つかってよかったわね」


「借り物だけどな」


「言葉は、使う人のものになるのよ」


 しばらくして、彼は立ち上がった。


 来た時よりも、顔が晴れている。

 悩みが消えたわけではない。それでも、どこへ向かって考えればいいのかが見えた者の顔になっていた。


「今日は、来てよかった」


「そう」


「毎回それ言ってる気がする」


「毎回そうなのでしょう」


「……否定できない」


 扉へ向かいかけて、彼はふと思い出したように振り返った。


「なあ、エルセリア」


「なに?」


「弓の話、どうしてそんなに分かるんだ」


「さっきも聞いたわ」


「今度はちゃんと聞いてる」


「私は雑貨屋の店主よ」


「……まあ、今さらか」

 カイルは諦めたように笑った。


 その笑い方には、もう若い頃の苛立ちはない。

 言わないことも含めて、この人なのだと受け止めている。


「また来る」


「今度は八年も空けない?」


「努力する」


「人間基準でお願いするわ」


「善処する」


 鈴が鳴り、彼は秋の通りへ出ていった。


 背中には、戦場を知る者の重さがあり、同時に家へ帰る父親の急ぎ方もあった。


 エルセリアはしばらくその背を見送り、それから店の奥へ目を向けた。


 壁際の弓は、相変わらず静かにそこにある。


 誰も気づかないわけではなくなってきた。


 少なくとも、カイルはそこへ視線を届かせるようになった。


「三十年、か」


 人間の一生の長さを思えば、まだ長くはない。


 それでも、観測者の視線がここまで育つには十分な時間だった。


 午後の光が店の床へ長く差し込み、落葉の影が揺れる。


 やがて常連客がまた訪れ、エルセリアは何事もなかったように包帯を量り、糸を選び、保存香草の束を売る。


 雑貨屋の一日は、そうして続いていく。


 その後、カイルは家へ帰り、ミレイナと長く話した。


 最初の反応は予想通りだった。


 ミレイナは優れたアーチャーであると同時に、家族の生活を現実的に考える女でもある。娘に弓の才があることも、息子にはそれが薄いことも、彼女はずっと前から見抜いていた。だからこそ、息子にも同じように弓を教え続けてきたのだ。生きるための道を、一つでも多く渡しておきたかった。


 だがカイルは、初めてそこで言葉を持っていた。


 息子は集中していないのではなく、違う場所に集中しているのではないか。

 弓の才がないのではなく、もっと広い流れを見る資質を持っているのではないか。

 場の傾き、足場、水はけ、人の立ち位置、崩れ方。

 それを先に気にする子どもに、一点へ収束する技術ばかりを強いても、根は育たないのではないか。


 ミレイナはすぐには納得しなかった。

 だが彼女もまた、戦場で生きてきた女だった。

 自分の子に本当に向いているものが何かを考え始めれば、感情だけで押し通すことはしない。


 結局、娘は弓を続けた。


 そして息子は、弓から少しずつ離れていった。


 代わりに彼が興味を示したのは、土地の高低、雨水の流れ、川沿いの土の削れ方、橋脚の沈み方、道のぬかるみといった、誰も子どものうちは本気にしないようなことだった。雨のあとには庭へ出て、どこに水が溜まり、どこから抜けていくかを飽きずに見ていた。村外れの小川に石を置いて流れを変え、小さな堤のようなものを作っては壊し、また組み直した。


 ミレイナは最初こそ呆れたが、カイルはもうそれを止めなかった。


 むしろ、余った木片や縄、古い測り棒のようなものを与えて、好きにいじらせた。


 息子はやがて読み書きを深く学び、数字と測量にも強い関心を示した。

 教会筋の伝手と、カイルが防衛任務で築いた信用もあって、彼は王国の土木部門に関わる書記補、のちに技官見習いとして採用される。


 そこでさらに頭角を現した。


 彼の名は、後に「治水大臣」ルーク・ヴァルトとして記録されることになる。


 ルークは弓手にはならなかった。


 だが王国の河川管理と治水計画において、比類のない働きを見せた。


 度重なる氾濫で人命と収穫を奪っていた中流域の大河に対し、彼は地形の癖と水流の逃げ道を精密に読み、堤防をただ高くするのではなく、流れを分け、遊水地を設け、支流と排水路の関係を組み直す計画を立てた。


 大雨のたびに壊れては継ぎ足されていた仮の堤を、彼は「壊れ方を決める」設計に変えた。

 水を止めようとするのではなく、通る場所を選ばせる。

 全部を受けるのではなく、流れを決める。


 それは遠い昔、カイルが小石から学んだ戦略眼と、エルセリアが弓の真髄として語った「何に目を向けるか」という思想が、別の形で結実したものでもあった。


 結果として、王国中央部では何十年も悩まされていた河川氾濫が大幅に減少し、幾つもの村と耕地が救われた。


 春の融雪、夏の豪雨、秋の長雨。

 そのたびに失われていた人と土と蓄えが、ようやく守られるようになったのである。


 もし、ルークが弓の才に恵まれぬことを「欠如」と決めつけられていたなら。

 無理にアーチャーの道へ押し込まれ、自分の視線の広さを叱責だけで折られていたなら。


 彼は凡庸な弓手として埋もれたか、劣等感の中で早くにその道を離れたかもしれない。


 王国はその後も氾濫に苦しみ、いくつもの村落と橋と穀倉地帯を失い続けていただろう。


 だがその未来は来なかった。


 ラウムベルクの小さな雑貨店で、銀髪の店主が一人の父親に「才能がないのではなく、向いている場所が違うだけかもしれない」と告げたからだ。


 弓の相談に見えたものは、実のところ次の世代の生き方を選ぶ相談だった。


 エルセリアはいつものように、正体を明かさず、偉ぶらず、ただ見方だけを差し出した。


 その小さな会話が、何十年後かに王国の河川を鎮める。


 《暮れの星雑貨店》では、その日も帳面が閉じられ、茶葉が量られ、灯りが落とされただけだった。

 けれど本人の知らぬところで、またひとつ。


 世界は静かに、別の災厄を回避していた。



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