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石の雨と沈黙の革袋

 暁冠暦五〇七年、盛雲月の初め。


 ラウムベルクの空は、朝から少しだけ重たかった。


 夏に入りきる前の雲というものは、ただ暗いだけではない。まだ春の名残を残した風の上に、季節の向きを変える熱が静かに乗ってくる。旧市街の石畳は昨夜の湿り気を残しながらも、昼には乾いて白く光るだろう。水路の流れはいつも通り穏やかで、鍛冶場から立つ煙も、パン窯の香りも、吊り下げられた洗濯物の揺れ方も、表向きは変わらない。


 変わらない。

 そう、街は変わらない。

 少なくとも、人々の目には。


 《暮れの星雑貨店》の店先にも、いつもの朝が来ていた。


 布袋に詰めた保存茶、修繕用の金具、紐、針、包帯、乾燥香草、携帯用の小瓶。初夏から盛夏に向かう季節らしく、虫除けに使う葉束や、水袋の口に結ぶ目の細かな紐、旅先で湿気を吸いにくい火打石などが前に出されている。どれも派手ではない。けれど、必要な者にとってはありがたい品ばかりだ。


 エルセリアは、開店の前にいつものように店先を掃き、棚の位置を少しだけ入れ替えた。


 銀髪の長い束は今朝も背でゆるくまとめられ、褐色の肌に淡い朝の光が乗っている。五年前も、その前も、そのまたずっと前も、きっと同じような朝があったのだろうと、彼女を知らぬ者は思うかもしれない。


 だが実際には、その「ずっと」は人の尺度を超えて長い。


 裏庭の小さな水場で、彼女は水を替えた。

 目には見えぬほど微かな揺らぎが、水面の縁でひとつ、ふたつと弾ける。

 精霊たちに朝の挨拶をするような、ごく小さな所作だった。


「今日は少し騒がしいわね」

 誰に聞かせるでもなく呟いて、エルセリアは店に戻る。


 騒がしいといっても、通りの喧騒のことではない。


 盛雲月に入ると、ラウムベルクには遠方の噂が流れ込みやすくなる。商人が口にする話、巡礼が運ぶ話、教会筋の使いが立ち止まって交わす短い報告。南東の大都市方面で食糧の買い付けが増えていること、北方で群れを成すゴブリンの目撃が相次いでいること、修道院へ避難者が流れ始めていること。どれも、この地方都市の石畳からは遠い出来事に思える。けれど、遠いはずのものが、少しずつ街道に沿って近づいてくる匂いがあった。


 帳場に座ってからしばらくして、最初の客は主婦だった。

 次に、仕立て屋の下働きの少年が、ほつれ止めの糸を買っていった。

 鍛冶場帰りの若者が、火傷に塗る香油を求める。

 通りは穏やかで、雑貨店の午前は平常通りに進んでいく。


 その合間に、ベルノが顔を出した。

「おはようさん、エルセリア嬢。今日は荷は置いてかない。話だけだ」


 相変わらず日に焼けた顔で、行商人は店先から半歩だけ入ったところで立ち止まる。大きな荷袋は背負っているが、いつものような売り込みの目をしていない。今日は通りすがりの世間話のつもりらしい。


「話だけなら安いわね」


「その代わり、面白い話だ」

 ベルノは店内をぐるりと見回し、常連客の姿がないのを確かめるようにしてから言った。


「覚えてるか、あの若造」


「誰のこと?」


「最初は死にそうな顔で火打石を買っていったくせに、次に来た時にはD級だとか言ってたやつだよ」


「カイルのことね」


「そう、それそれ。あいつ、最近じゃ教会筋じゃかなり評判らしいぞ」


 エルセリアの指先が、帳場の上の帳面をめくる動きをわずかに止める。


「評判?」


「堅い、外さない、死人を出さない、ってな。神官だの書記官だの、教会の連中が移動のたびにあいつを指名することもあるらしい。ギルドじゃもうD級上位で、そろそろC級だろうって」


「そう」

 淡々とした返事だが、ベルノは肩をすくめた。


「そう、じゃないだろ。褒めてやれよ」


「本人の前で言うわ」


「来るのか?」


「そのうち」


「そのうち、ねえ」

 ベルノは愉快そうに笑い、それ以上は何も言わなかった。


 話を置いていくと、彼は本当にそれだけで去っていった。

 商人というのは、ときどき荷物よりも先に情報だけを街に置いていく。


 エルセリアは帳面を閉じた。


 五年。

 人間にとって短くはない歳月だ。

 彼女にとっては確かに長くはない。けれど、短くもない。観測者と呼ぶべき視線が、一人の少年の中でどう育つかを見るには、十分な時間でもある。


「来るなら、そろそろかしら」

 何となくそう思った、その日の午後だった。


 扉の鈴が鳴る。


 音は五年前と同じなのに、店に入ってきた人影は、もう少年ではなかった。


「……久しぶりだ」

 最初の言葉には、少しだけためらいが混じっていた。


 カイルは二十二歳になっていた。


 背はさらに伸び、体つきは細身のまま鋭く締まっている。冒険者らしく無骨な装備だが、五年前のような雑さはない。革鎧は何度も手入れされた跡があり、肩と脇腹には補強が加わっていた。腰の剣も短剣も以前より質の良いものになっているが、派手ではない。実用のために選んだことが一目で分かる。


 顔立ちは青年のものになっていた。年齢相応の苛烈さ――危機に対して即座に反応する鋭さ、すぐに火がつくような若さの熱――はまだ残っている。だが、その上に、周囲の命を預かる仕事をしてきた者の静かな抑制が乗っていた。


 エルセリアは彼を見上げ、ほんの少しだけ目を細めた。

「生きていたのね」


「会って最初の言葉がそれなの、相変わらずだな」


 そう返しながらも、カイルはどこか安堵したように笑った。

 そしてすぐに、その笑みを引っ込める。


「……悪い。ずいぶん間が空いた」


「そうね」


「もっと早く来るつもりだった。ちゃんと報告しようとは思ってたんだけど、そのたびに次の依頼が入って、それで気づいたら……」


「五年」


「……五年」

 彼は気まずそうに鼻の頭をかいた。


「ほんと、悪い」


「長命種には昨日みたいなものよ」


「人間基準では長いだろ」


「ええ、長いわね」


「じゃあ怒れよ」


「怒るほどのことでもないもの。謝れるなら元気だったのでしょう」


 カイルは一瞬、言葉を失ったように黙り、それから肩を落として笑う。

「そういう返し方、ずるいんだよな」


「商人だもの」


「便利な言葉だな、それ」


 五年前よりも、彼は無理に背伸びしなくなっていた。

 礼を言うべきことは言う。謝るべきことは謝る。

 そういう落ち着きが、言葉の端々に見える。


「座る?」


「……ああ。今日はちゃんと相談もある」


 彼女が茶器を二つ運ぶと、カイルは以前より自然に椅子へ腰を下ろした。

 それだけでも、この五年の重みが分かる。昔なら、こうして店の奥に通されること自体を妙に意識して落ち着かなかっただろう。


 湯気の立つ茶が出され、静かな香りが店に広がる。

 カイルはその香りを吸い込んだ後、自然な仕草で茶を口に含み、そこで大きな息を一つついた。ようやく本題に入る前の息を整えたようだ。


「……で、何から話せばいいのか分かんないんだけど」


「最初から順番にでいいわ」


「じゃあ、そうする」


 彼は茶器に指を添え、少し目を伏せる。


「前に来たあと、言ってた通り教会関連の依頼をずっと受けてた。最初は若い神官の護送とか、小さな教会間の文書便とか、巡礼の付き添いとか。大した仕事じゃないって言うやつもいたけど、俺にはちょうどよかった」


「失敗しなかったのね」


「一度も」


 その言葉には、自信と、少しの疲れが混じっていた。

 無敗というのは、ただ誇らしいだけではない。続けるほどに重くなる。


「最初に護衛した若い神官の話、覚えてるか? 地方神殿から隣領の修道院まで運ぶ依頼」


「ええ」


「あれ、無事に終わった。そいつが戻ってから、別の神官に話したらしい。それで次の依頼が来て、その次も来て……気づいたら教会筋で顔を覚えられてた」


 カイルは苦笑した。


「最初は『教会の荷物番』みたいに言われたけどな。でも、やってみたら分かった。ああいうの、地味に見えて、ちっとも地味じゃない」


「どう違ったの?」


「運ぶのが物だけじゃないんだよ。人も、文書も、事情も、ぜんぶ一緒に運ぶことになる。黙ってる神官もいれば、怖くて眠れない巡礼もいる。文書箱ひとつ落としただけで、町と町の揉め事になることもある」


 彼は一口茶を飲み、それから小さく息をついた。


「何より、一回でも失敗したら終わりだって空気がある。討伐なら、武器が折れたとか、相手が強かったとか、そういう言い訳をするやつもいる。でも教会筋の護送は、着かなかった時点で駄目だ。理由はどうでもいい。そういう仕事だった」


「それでも一度も失敗しなかった」


「……運がよかった」


「それだけじゃないでしょう」


「運も含めて実力、って言われる」


「嫌い?」


「嫌いじゃない。でも、都合がいい言葉だとも思う」


 彼の声には、少しだけ苦みがあった。

 運だけで片づけられない場面が、いくつもあったのだろう。


「《旅人の杯》、まだ持ってる?」


「持ってる」

 その返答は即答だった。


 カイルは腰の荷の一つに手を伸ばし、丁寧に布に包まれた小さな杯を取り出した。くすんだ白銀色のその器は、五年前よりもわずかに磨耗していたが、手入れは行き届いている。使われ続けてきたことが一目で分かった。


「これ、何回も俺を助けた」

 その言葉には、もう半信半疑の響きはなかった。


 神話級アイテムの正体を知らなくても、自分の命運を支えた品だと分かっている者の声だった。


「一番やばかったのは三年前だ。山あいの古い修道院に、若い助祭を三人送り届ける依頼だった。雨が続いてて、途中の宿場も一つ潰れてて、野営するしかなくなった夜があった」


「ええ」


「その時、谷沿いに古い井戸があったんだ。見た目は普通で、水も澄んでた。喉は渇いてるし、みんな安心してた。俺も最初はそうだった。でも、あんたの言葉を思い出して、最初の水をこの杯に注いだ」


 彼は杯の縁を指でなぞる。

 その時の感触を思い出すように。


「そしたら、水面が妙に曇った。油膜みたいに、薄く光がねじれて見えた。最初は俺の目がおかしいのかと思った。でも、嫌な感じがして、全員に飲むなって止めた」


「止められたのね」


「止めるの、大変だったよ。神官って思ってるより頑固だぞ。『清めの祈りをすれば大丈夫だ』って言い出してさ」


「そういう人もいるわね」


「でも押し切った。上流を見に行ったら、崩れた斜面の陰に、魔物の死骸が何体も溜まってた。腐って、雨で流れ込んでたんだ。あれ飲んでたら、熱と腹壊しで一人は確実に動けなくなってた」


 カイルは自嘲気味に笑った。


「その夜、助祭の一人に『どうして分かったんです』って聞かれてな。答えに困った」


「なんて答えたの?」


「昔、目利きのいい雑貨屋に教わったって言った」


「ずいぶん簡単に言うのね」


「本当だろ」


 それから彼はもう一つ、別の話をした。


「あと、霧の深い夜。巡礼の一団を連れて古い分かれ道に出た時だ。道標が倒れてて、どっちが本道か分からなかった。杯を地面に伏せろって、あんた言ってたろ」


「言ったわ」


「あの通りにした。縁の傷が深い方を、たぶんこっちだろうって思う方角へ向けて置いたら……変な話だけど、片側だけ土が冷たく感じたんだ。湿ってるとかじゃなくて、嫌な冷たさで」


「避けたのね」


「避けた。翌朝、通りすがりの荷馬車引きに聞いたら、そっちの道は夜のうちに崩れてた。崖際の道ごと落ちたって」


 彼はそこで茶を飲み干した。


 五年前のように、ただ不思議な品として頼っていたわけではない。もう彼は知っている。この杯が、常識では説明できないやり方で、自分の進むべき道を時々示してくれるのだと。


「……正体は、今でも分からない。でも、これがなかったら何回か本当に終わってた」


「そう」


「だから、顔出せてない間も、ちゃんと持ってた。手入れもしてたし、野営の時は必ず一番上に入れてた」


 その報告は、何かの義務を果たすような口調ではなく、ごく素直なものだった。


 エルセリアは杯に一度だけ目を落とし、静かに頷く。

「大事にしてくれたのね」


「……まあな」


 カイルが少しだけ目を逸らしたところで、エルセリアは話題を変えるように言った。


「ベルノから聞いているわ」

「何を?」


「教会筋でずいぶん信頼されているんですってね。護衛は一度も失敗していないし、D級上位で、もう少しでC級だとか」


「……あいつ、余計なことを」

 言いながらも、カイルの顔に一瞬だけ、抑えきれない嬉しさが浮かんだ。


 褒められることに慣れていないわけではもうないだろう。ギルドでも、教会でも、それなりに評価されているはずだ。それでも、エルセリアの口から出た一言はやはり特別らしい。


「すごいことよ」


「……そうかな」


「一度も失敗していない護衛は、名声に値するわ」


「……」


 カイルは笑おうとして、うまくいかなかった。

 ほんの短い間だけ明るくなった表情が、すぐに曇る。


「……でも、そのせいで来たんだ」

 声の温度が変わる。


 ここからが本題だった。


「次の依頼?」


「うん」


 カイルは両手を組み、視線を茶器の底へ落とした。


「ラウムベルクから北東、百三十キロくらい先にアウレリアって大都市があるだろ」


「ええ」


「その郊外の聖ラディウス大修道院で、防衛任務の応援を募ってる」


 アウレリア。

 宗教と交易で栄える大都市。

 高い石壁と複数の鐘楼を持ち、周辺の領域から人も物も集まる、ラウムベルクより遥かに大きな街だ。そこに付属する聖ラディウス大修道院は、信仰と学問、そして周辺の避難民受け入れの拠点として名高い。


「防衛?」


「近隣の森と荒地で、ゴブリンが増えてるらしい。小さな集落はもう何度か襲われてて、修道院に人が逃げ込んでる。今のところ本隊みたいなのは見えてないけど、斥候やら小群れやらが増えすぎてて、近いうちにまとまって来るって見られてる」


 カイルの指先に、わずかに力が入る。


「想定される敵は、ゴブリンの大群だ」


「……そう」


「護衛じゃない。誰か一人を送り届ける仕事じゃない。壁と門と人を守る、防衛戦だ」


 彼はそこで一度言葉を切り、唇を噛むようにしてから続けた。


「俺、一対一とか、少数の襲撃ならまだ何とかなる。護衛しながら逃がすとか、地形を見て避けるとか、そういうのは経験積んだ。でも……大群は違う。押し寄せてくる数を、一定の場所で受け止める戦いなんて、やったことがない」


「……」


「教会筋は俺を信用してくれてる。たぶん、それで声がかかった。でも、信頼されてるからって、それに応えられるかは別だろ」


 苦い声だった。

 弱音というより、すでに実績を積んだ者の冷静な自己評価だ。


「ゴブリンなんて単体なら大したことないって言うやつもいる。でも群れになると違う。あいつら、弱いくせに数で押すし、火も石も投げるし、穴掘るし、夜にも来る。俺みたいな中途半端なのが行っても、結局は壁の一角で潰されるだけじゃないかって……」


 そこで彼は顔を上げた。


 青年の目だった。

 若い頃のように、怖さを覆い隠すための反発だけではない。怖いと知ったうえで、それでも行くかどうかを選ばなければならない者の目だ。


「……情けないこと言ってるのは分かってる」


「情けなくはないわ」


「でも、こんなこと、ギルドじゃ言えない。教会でも言えない。『一度も失敗してないカイル』に期待してる人間がいるから」


「ここには言いに来たのね」


「……うん」


 その「うん」には、五年分の信頼が詰まっていた。

 観測者は、何かを見てしまう者だ。

 だがそれだけでは足りない。

 見てしまった先で、自分の弱さまで差し出せる相手に出会えたとき、初めてその視線は成熟する。


 エルセリアはしばらく黙っていた。

 答えを探しているようにも、すでに知っていることをどの順番で話すか考えているようにも見える沈黙だった。


 やがて彼女は立ち上がり、店の奥へ入っていった。


 カイルは何も言わず、その背を目で追う。


 軋まないほど静かな足取り。

 銀髪が背で揺れるたび、店の薄明かりが冷たく返る。


 しばらくして、エルセリアは古びた革袋を一つ持って戻ってきた。

 手のひらに乗るくらいの大きさで、口は細い紐で結ばれている。色は日焼けして褪せ、ところどころ擦れていた。中にはごろごろと、小石がいくつか入っているような音がする。


 カイルは袋と彼女の顔を見比べた。


「……何それ」


「売り物」


「いや、見れば分かるけど」


「先日、石工から買い取ったの」


「小石の詰め合わせにしか見えないぞ」


「そう見えるわね」


「見えるっていうか、そうだろ」


 エルセリアは革袋を帳場の上に置いた。


 石工が持ち込んだ時、確かにそれはただの端材袋にしか見えなかった。現場に紛れ込んでいた小石、切り出しの際に出た半端、川石みたいに丸まった欠片。だが彼女の鑑定眼には別の像が見えていた。


 陣地制御系統。

 旧魔王城外郭、防衛補助儀。

 群体侵攻時の流路偏向、視認誤差誘導、狭窄路形成。

 単体の破壊力はなく、ゆえに見過ごされやすい。


 しかし正しく用いれば、少数が多数を相手にする際の「場」そのものを決定づける。


 神級の戦略アイテム。

 使い方を誤ればただの石。

 理解できるのは、今のところ彼女だけ。


「これを持って行きなさい」


「……本気で言ってる?」


「本気よ」


「ゴブリンの大群だぞ。投げ石ごっこじゃない」


「倒すために使うんじゃないもの」


「じゃあ何のために」


「流れを決めるために」


 カイルは眉をひそめた。


 エルセリアは革袋の口紐をほどき、中の石を一つだけ掌に出して見せる。

 灰色の、不揃いな小石。装飾も魔力の光もない。だが、その表面には自然のものにしては説明のつきにくい細い筋が走っていた。見落とす程度の違和感だ。


「よく聞いて」


「……ああ」


「まず、これは絶対に全部いっぺんに使わないこと」


「うん」


「敵が見えてから投げるのでは遅い。来る少し前に使う」


「少し前」


「ええ。それから、壁の上や門の真ん前で使わないこと。必ず、敵が絞られる場所に置くか撒くの」


「絞られる場所?」


「通路、石垣の切れ目、畑と塀の間、壊れた荷車の陰、井戸柵の脇。何でもいいけれど、一度に並んで来られない場所」


「……」


「石は三つずつ使う。きっちり等間隔に置かなくていい。片側を狭くするように、少し偏らせる」


「三つ」


「最後の三つは、自分たちの退路に使いなさい」


「退路?」


「防衛は、立っている場所を守るだけじゃないわ。崩れた時に、崩れ方を決められるかどうかが大事」


 カイルは目を細めて革袋を見た。

 理解はできない。だが、言われていることが無茶苦茶ではないことは分かる。


 いや、むしろ理にかなっている。


「これ、ただの石じゃないのか」


「ただの石みたいなものよ」


「みたいな、ってなんだよ」


「石工はそう思っていたわ」

 エルセリアは平然と答える。


「いい? 敵を全部止めようとしないで、流れを決めるの。群れっていうのは、全部を一度に相手にすると負ける。でも、通る場所を選ばせれば、数は勝手に削げる」


「……俺一人で、大群を倒す必要はないってことか」


「そう。あなた一人で勝つ戦いじゃないもの」


「でも、防衛ってそういうもんか?」


「そういうものよ。守るべきものが朝まで残っていれば、防衛は成功」


 その言葉は、カイルの胸の奥にまっすぐ落ちた。


 彼はずっと、防衛とは押し寄せる敵を正面から受け止めることだと思っていた。


 けれどエルセリアは違う。

 彼女は、戦うとは場の形を決めることだと言っている。


「……」


 青年はしばらく黙ったまま、革袋を見つめていた。


 やがて、ふっと息を吐く。


「俺、たぶん勘違いしてた」


「何を?」


「大群相手の防衛って聞いて、勝たなきゃいけないんだと思ってた。押し返して、全部倒して、それで守るんだって」


「そういう時もあるわね」


「でも、俺には無理だ」


「ええ」


「……即答するなよ」


「無理なものは無理でしょう」


「そこはもう少し励ますところじゃないのか」


「励ましてほしいの?」


「いや……」


 言いよどむ彼に、エルセリアは少しだけ口元を緩めた。

「でも、無理なことを無理だと分かるのは悪くないわ」


「……」


「怖いのね」


「……怖いよ」


 カイルは観念したように言った。


「一度も失敗してないって言われるたびに、次に失敗するのが怖くなる。護衛ならまだ、動けた。見て、選んで、避けて、連れて行けばよかった。でも今度は違う。修道院には避難民もいる。神官も、修道女も、子どももいるらしい。もし崩れたら、一人や二人じゃ済まない」


「だから怖い」


「うん」


「それは悪くないわ」


「……そうか?」


「守るために怖がれるなら、それはただの臆病とは違うもの」


 静かな断言だった。

 誰かの恐れを、ここまでまっすぐ肯定される機会は、カイルにはそう多くなかっただろう。ギルドでは恐れは隠すものだし、教会筋では信頼される側が弱音を吐ける場は少ない。


「失敗しない人間なんていないわ」


「……」


「でも、あなたは備えに来た」


「……うん」


「それなら十分よ」


 しばらく、二人のあいだに沈黙があった。

 通りの向こうで馬車の車輪が跳ねる音がする。

 店の中では、吊るした乾燥薬草が微かに揺れていた。


 カイルは革袋を手に取った。

 ずしりとした重みではない。だが、中の石の一つ一つが妙に存在感を持っていた。


「これ、いくらだ」


「安くていいわ」


「またそうやって」


「石工から買い取った端材みたいなものだもの」


「それ、本気で言ってないだろ」


「半分はね」


「半分だけかよ」

 そう言いながらも、カイルは素直に代金を払った。


 以前の彼なら、もっとごねたかもしれない。あるいは遠慮しすぎたかもしれない。

 いまの彼は、エルセリアがこういう売り方をするとき、値段の多寡よりも「自分が持つべき時」なのだと理解していた。


「アウレリアまで何日?」


「急げば四日、普通なら五日」


「道中では杯を使いなさい。防衛が始まる前の水と場所は、それで見ること」


「……分かった」


「石は、修道院に着いてから周囲を歩いて決めるのよ。敵が来るまで待たない」


「来る前に使う、だったな」


「ええ。通る場所を選ばせること」


「最後の三つは退路」


「そう」

 カイルは一つ一つ、確かめるように繰り返した。


 その声音は、もう不安に飲まれているだけのものではない。怖さは消えていない。だが、やるべきことが見えてきた者の声に変わりつつあった。


「……なあ」


「なに?」


「もし、これで本当に何とかなるなら、あんた……」


「私は雑貨屋の店主よ」


「そう言うと思った」

 苦笑しながらも、その返しを懐かしむ余裕が彼にはあった。


 五年前なら苛立っていたかもしれない。今は、そこに含まれる「言えないことがある」という気配ごと受け止めている。


「戻ったら報告する」


「ええ」


「今度は五年も空けない」


「人間基準では、その方が助かるわね」


「長命種基準だと?」


「二週間くらい?」


「適当だな」


 立ち上がったカイルは、以前よりもずっと堂々としていた。


 それでも、店を出る直前に一度だけ、ためらうように振り返る。

「……エルセリア」


「なに?」


「褒めてくれて、嬉しかった」


 その言葉は、二十二歳の青年には少しだけ率直すぎるものだった。


 だが彼は、言わずには出ていけなかったのだろう。


 エルセリアはほんの少しだけ目を和らげた。

「そう」


「……だから、失敗したくない」


「なら、なおさら備えなさい」

 それが最後の答えだった。


 カイルは頷き、扉を開けた。


 夏へ向かう風が一瞬だけ店の中に入り込み、彼の背を押すように通りへ抜けていく。


 五年前、彼は最初の観測者として、この店の静かな異常に目を向けた。


 いま彼は、その異常を完全には理解しないまま、けれど自分の人生を賭けるに足る場所として、この店へ帰ってきている。


 扉の鈴が鳴り、青年の背が通りへ消えていく。


 その姿を見送りながら、エルセリアはしばらく立ったままだった。

「今度は街道ではなく、陣地の揺れ方なのね」


 小さく呟く。


 石工が持ち込んだあの革袋に紛れていた石片は、本来なら魔王城の防衛補助機構に属する遺物断片だった。地上に出てきた経路までは分からない。だが、ラウムベルクの地下に眠る構造と、遠くアウレリアの大修道院防衛とが、見えないところで同じ系統の技術に繋がっているのは間違いなかった。


 彼女は帳場へ戻り、革袋の代金を帳面につけた。


 本当に、ただの端材でも買えそうな廉価で。


 それでも十分だった。


 価値とは、値段だけで決まるものではない。


 午後の客が二、三人続いた。


 靴紐を買う老人。

 虫除けの葉を求める行商人の妻。


 何の変哲もない相談と売り買いのあいだで、エルセリアはまた日常へ戻っていく。


 世界の分岐になりうる品を送り出した直後でも、やることは変わらない。


 茶葉を量り、金具を揃え、帳面をつける。


 それが彼女の選んだ生き方であり、呪いにも似た役目でもあった。


 夜、店を閉める頃には、盛雲月らしい重い雲が西から広がっていた。


 ラウムベルクの上空に雷鳴はまだない。


 だが、遠く離れたアウレリアの方角では、きっともう少し濃い雲が垂れ込めているのだろう。


 エルセリアは二階の窓から街を見下ろした。


 この地方都市の灯りは控えめで、小さい。

 それでも人々は、その小さな灯りの下で笑い、眠り、次の日の仕事を思いながら暮らしている。


 守るべきものが朝まで残っていれば、防衛は成功。


 カイルはその言葉を、これから何度も思い返すはずだった。


 そして実際に、彼はアウレリアへ向かう。


 聖ラディウス大修道院の外周を歩き、夜明け前の湿った土を踏み、塀と畑のあいだ、崩れた荷車の陰、石垣の切れ目を見て、エルセリアに教えられた通りに石を三つずつ置いていく。


 敵が見える前に。

 流れを決めるために。

 最後の三つは、自分たちの退路のために。


 その時点で、彼自身はまだ知らない。


 その革袋が、ただの足止めや小細工の道具ではなく、群れの進行を“場の認識ごと”ねじ曲げる戦略遺物であることを。


 夜半、ゴブリンの大群は修道院へ押し寄せる。

 数は想定を超え、斥候の報せよりも多い。


 そのまま正面から門へ殺到していれば、粗末な外柵はあっという間に崩れ、避難民を抱えた修道院は一晩で呑み込まれていただろう。


 だが石が置かれていた。


 狭く見える場所と、広く見える場所。

 通りやすいと思い込む路と、なぜか足がもつれる路。

 群れは無意識に偏り、道を絞られ、互いの足を引っ掛け、塀と畑のあいだに何重にも詰まる。


 少人数の守備側は、その“流れ”に沿って槍を構え、火を投げ、鐘を鳴らし、崩れる前に一段ずつ後退できる。


 最後の三つが置かれた退路は、避難民と神官たちを内郭へ逃がす細い生路となる。


 夜明けまでに、修道院は持ちこたえる。

 外壁の一部は壊れ、負傷者も出る。


 だが、全壊はしない。

 避難民は生き残る。


 そこに保管されていた聖ラディウス大修道院の古文書庫も、炎上を免れる。


 もしあの夜、ゴブリンの群れが真正面から雪崩れ込んでいたなら。


 修道院は陥落し、避難民と聖職者は多数が命を落とし、失われた古文書の中には、後の時代に第十代観測者の系譜へ繋がる決定的な記録も含まれていた。


 教会勢力の一角が崩れたことで周辺領は混乱し、街道は寸断され、後年の観測者たちが辿るはずだった道のいくつかは、そこで断たれていたかもしれない。


 だが、その災厄は起きなかった。


 地方都市ラウムベルクの雑貨屋で、銀髪の店主が、石工の端材にしか見えない革袋を一人の青年へ売ったからだ。

 本人はただ、客の相談に応じ、使い方を教え、安い値をつけて送り出しただけのつもりでいる。


 それでも、またひとつ。

 本人の知らぬところで、世界は静かに災厄を回避した。


 《暮れの星雑貨店》の灯りは、今夜も穏やかに消えていく。

 その小さな日常の延長に、時代の針路が置き換えられていることを知る者は、まだ誰もいない。


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