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白嵐の越境と繋ぎ止める紐

 暁冠暦五三〇年、終雪月。


 ラウムベルクの冬は、北域の最南端らしい顔をしていた。


 雪は降る。

 凍る。

 吐く息は白く、夜明け前の石畳は踏み固められた氷のように固くなる。


 けれど、北域のさらに北東にある都市や要塞のように、街そのものが雪に埋もれて動かなくなるわけではない。南から届くわずかな暖かさと、北から押し寄せる冷気がこの土地でぶつかり合うせいで、ラウムベルクは冬でさえ、ぎりぎり人が暮らしを回し続けられる顔を保っていた。


 屋根に積もる雪の厚みは、北部の厳寒地ほどではない。

 だが、水路の縁は朝ごとに薄く凍り、店の扉には夜露が白い筋を引く。

 大通りに比べて日当たりの悪い旧市街では、踏みしめられた雪が灰色に固まり、昼になってもなかなか融けない。

 市場では保存の利く根菜、干し肉、獣脂、乾燥豆、灯火用の油、暖炉用の炭や薪が主役になり、旅人たちの顔にも「次の宿へ着くまでに日が落ちるかどうか」を気にする冬特有の緊張があった。


 《暮れの星雑貨店》の店先にも、季節の変化ははっきり表れている。

 厚手の手袋に縫い足す革、凍傷を防ぐための香油、小型の火打石、雪中用の外套紐、荷を雪から守る油紙、足首を締める毛織り紐。

 どれも華やかではない。だが、人が冬を越すために必要なものばかりだ。


 エルセリアは朝のうちに、店先へ積もった雪を静かに掃いていた。

 銀髪は背でゆるく束ねられ、白い息の向こうで細く揺れている。冬の空気は輪郭を明瞭にする。だからこそ、褐色の肌と銀髪の対比は、いつもよりいっそう鮮やかに見えた。

 近所の者はもう見慣れている。見慣れているのに、それでも時折、この店の女主人だけは、寒さの中で別の季節を纏っているような錯覚を覚えることがある。


 彼女は箒を立てかけ、水路側の窓辺に吊るした香草束を入れ替えた。

 目に見えない程度の微かな揺らぎが、そこでひとつ、ふたつとほどける。

 冬は人の気配が濃くなるぶん、隙間に沈むものたちの気配もまた、濃くなる。だからエルセリアは、季節が厳しくなるほど、朝の手入れを丁寧に行う。


「今日は風が強いわね」


 そう呟いたのは、天気のことでもあり、もう少し別のことでもあった。


 開店してほどなく、二人の客が続いた。

 一人は北壁の見張りに出る兵士で、氷で裂けた指先に塗る油を買っていく。

 もう一人は、教会の炊き出しを手伝う主婦で、干し茶と小袋入りの塩を求めた。

 終雪月のラウムベルクは、冬の終わりという名に反して、まだまだ冬の只中である。むしろ蓄えが減り、忍耐がすり減り、人も物資も一番傷みやすくなる時期だ。春を待つには、まだ長い。


 昼近くになって、エルセリアはふと店先へ目を向けた。

 通りを渡っていく背中に、見覚えのある影を探したわけではない。

 ただ、最近はそれがないのだと、今さらのように思う。


 ベルノが、もう来ない。


 来ない、というのは正確ではなかった。

 まだ生きているし、時々は旧市街のどこかを歩いている。

 けれど、もう昔のようには来ない。

 大きな荷袋を抱え、陽に焼けた顔をして、「面白い話だけ置いていく」と笑うような行商人の顔では来ないのだ。


 高齢になり、認知の灯がところどころ消え始めている。

 昔は一度聞いた地名も人名も、まるで地図を記憶したように頭へ入れていた男が、今では自分がどこの道から来たのか分からなくなることがある。

 甥だか息子だかが店の始末を少しずつ進めている、と、近所の者が話していた。

 ベルノ本人はもう、「暮れの星雑貨店」の前を通っても、エルセリアに気づかない日があるらしい。


 それを聞いた時、エルセリアは驚かなかった。

 驚かなかったのは、こういう日が来ることを知っていたからだ。

 けれど、知っていることと、実際にその空白を受け入れることは違う。


 ベルノは観測者ではなかった。

 それでも、時代と時代のあいだを流れる小さな川のように、外の動きをこの店へ運び込む役目を果たしていた。

 その川が、いま静かに細っている。


 店の鈴が鳴ったのは、そんなことを考えたすぐあとだった。


「……また来るのが遅くなった」


 その声を聞いた瞬間、エルセリアは少しだけ目を細める。


 カイル・ヴァルトは四十五歳になっていた。


 若い頃の熱が消えたわけではない。

 危険を前にすれば、いまでも一瞬で体の芯に火が入るだろう。

 だがその火は、もう自分を焼くためのものではなかった。

 背丈や体格が劇的に変わる年齢ではない。むしろ変わったのは、立った時の静かさだ。

 無駄な力みがない。

 腰の剣も短剣も、以前より質はよくなっているが、彼の強さの中心はそこにはないと分かる。

 重心が低く、外套の動かし方が少なく、荷具の位置ひとつに無駄がない。

 護衛、防衛、移送、撤退、持久。そういう時間を長くくぐり抜けてきた者だけが持つ身体の使い方が、彼には染みついていた。


 目元の皺は増えた。

 だが老けたというより、経験が皮膚に刻まれたような顔つきだった。

 四十五歳。

 冒険者としては、若手どころか、もう明らかなベテランである。

 それでも彼は、店へ入ってくるなり、昔と同じように少し気まずそうにしていた。


「今度は、本当に顔を出す余裕がなかった」


「そう」


「気づいたら冬になってた」


「10年ね」


「数えるのはやめろ」


「数えてはいないわ。見れば分かるもの」


「その言い方、前にもされた気がする」


 カイルは肩をすくめた。

 白い息が、店の暖かい空気の中でゆっくりほどけていく。


「座る?」


「……ああ。今回は、ちゃんと話したいことがある」


 エルセリアは茶を淹れるために奥へ下がる。


 そのあいだ、カイルは店の中を見回した。

 棚の位置は少し変わっている。季節ごとの前後はあっても、この店の静けさは変わらない。

 けれど今、彼の胸の中にある感覚は、これまでとは少し違っていた。


 ベルノがいない。

 それを、エルセリアは知っているのだろうか。

 いや、たぶんまだ詳しくは知らない。

 いつもなら、自分のことも、北域の噂も、どこからか先に彼女のところへ届いていた。

 今回はそれがない。

 それだけで、時間がひとつ進んだのだと分かる。


 茶器が運ばれ、二人は向かい合って座る。


「ベルノのこと、知ってるか」


 カイルは、座るなりそう切り出した。


 エルセリアは少しだけ間を置いた。


「噂では」


「……そうか」


 その一言に、彼の顔に複雑な表情が浮かぶ。

 同情でもなく、説明しづらい寂しさでもなく、その両方に近いものだった。


「この前、北壁の方で見かけた。俺のこと、最初は分からなかった」


「……」


「しばらく話してたら、途中で昔の名前を混ぜてきたよ。もう死んでるはずの隊商頭と俺を取り違えてた。笑ってたけどな。あの人らしいって言えば、あの人らしかった」


 カイルは茶器を手に取り、湯気の向こうに目を落とした。


「昔みたいに情報を拾って歩くのは、もう無理だ。家族が店を畳みかけてる。たぶん、そのうち完全に姿を見なくなる」


「そう」


「……時代って、そうやって動くんだな」


 その言い方は、四十五歳の男らしかった。

 自分もまた、かつては若手だったことを知り、いまは真ん中を過ぎた側へ立っている者の口調だ。


 エルセリアは静かに頷いた。


「あなたのことも、今回は何も聞いていないわ」


「そうか」


「だから、いま初めて見る」


「何を?」


「ここまで生き延びたあなたを」


 カイルは茶器を持ったまま動きを止めた。


 エルセリアは続ける。


「たくさんの人を助けたのは、素晴らしいことよ」


「……」


「でも何より、ここまであなたが生き延びたことが、誇るべきことだわ」


「俺が?」


「ええ。あなたが初めてこの店に来た時の、私の投資が無駄じゃなかったってことだもの」

 エルセリアは冗談を言うかのようにわずかに微笑みながら言った。


 カイルにとって、その言葉は不意だった。


 カイルは褒められること自体には、もう昔ほど慣れていないわけではない。

 B級冒険者の中堅。

 北域での護衛・防衛任務の第一人者。

 教会筋からも軍からも、必要な時に真っ先に名が挙がる。

 それなりに称賛も評価も受けてきた。

 けれど、「助けた人数」でも「上げた功績」でもなく、「生き延びたこと」そのものを、これほど真正面から肯定されたことはあまりなかった。

 16歳の頃、初めて店の敷居を跨いだ頃の記憶が朧げに蘇る。

 それは、もしかすると彼の人生を今まで支えてきた支柱のようなものだったかもしれない。


「……それ、ずるいな」


 彼はぽつりとそう言った。


「何が?」


「そう言われると、今までやってきたこと全部ひっくるめて報われた気になる」


「報われてはだめなの?」


「だめじゃないけど……」


「ならいいでしょう」


 カイルは苦く笑い、それから息を吐いた。


「……ありがとな」


「どういたしまして」


「そういう顔するんだな」


「どんな顔?」


「いや……別に」


 うまく言えないらしい。

 それもまた、昔から変わらないところだった。


 しばらくして、カイルは姿勢を正した。

 彼が話すべき本題は、まだこれからだ。


「今の俺は、北域じゃだいたい“護衛と防衛ならヴァルト”って扱いだ」


「聞いていないけれど、見れば分かるわ」


「便利な言い方だな」


「本当だもの」


 カイルは苦笑する。


「B級になってからは、もう単純な依頼の取り方じゃなくなった。教会の重要人物の護送、軍の補給線護衛、北域回廊沿いの要塞補助、主要都市の防衛線の再編、貴族出身将校の冬季の退避路確保……そういうのばっかりだ。戦うってより、“崩れないようにする”仕事の方が多い」


「向いているのでしょう」


「そうなんだと思う。たぶん、剣で前に出るより、後ろが崩れないようにしてる方が結果的に生き残る」


「あなたらしいわ」


「らしい、か」


 その「らしい」という言葉に、カイルは少しだけ自分の人生を振り返るような顔をした。

 若い頃は、もっと別の“らしさ”を想像していたかもしれない。

 だが今となっては、自分が何者で、何のために現場へ呼ばれるのかをきちんと知っている。


「でも今回の任務は、その俺でも頭が痛い」


「聞かせて」


 カイルは茶を一口飲み、両手を組んだ。

 報告ではなく、相談へ入る時の手つきだ。


「ラウムベルクから、北域北東の地方都市フロストミアへ物資を送る」


「フロストミア」


「知ってるか」


「名前だけなら」


「大樹岳地帯の外周から少し北東へずれたところにある、寒い土地だ。冬は補給がきつい。回廊から完全に外れてるわけじゃないが、雪が深くなると一気に行きにくくなる」


 エルセリアは静かに聞いている。

 カイルは続けた。


「そのフロストミアで火災があった。倉庫と配給所の一部が焼けたらしい。冬の最中に。都市全体の物資が足りなくなって、領主はまず兵と市街の維持を優先した」


「当然といえば当然ね」


「その結果、孤児院への配給が真っ先に切られた」


 店の空気が少しだけ冷える。

 外の寒さとは別のものが、言葉の中にあった。


「教会が怒った。正確には、怒るより先に動いた。ラウムベルクから一冬を越せるだけの物資を送ることになった。ここが、北域の南側じゃ一番大きい都市だからな」


「でも、それが難しい」


「難しいどころじゃない」


 カイルの眉間に、深い皺が寄る。


「孤児たちの消耗がかなり激しいらしい。暖房も食料も足りてない。病人も出てる。四日か、遅くても五日以内に着かなきゃまずい」


「夏場の正規ルートだと?」


「一週間はかかる」


「なら、最短経路」


「そうだ」


 カイルは言葉を切り、それから嫌なものの名前を口にするように続けた。


「大樹岳地帯の一角をかすめる、冬山越えだ」


 大樹岳地帯。

 北域の中央に広がる高大な山岳と深い森林。

 夏でも道を選ぶ場所を、真冬に越える。

 それがどれほど無茶かは、説明するまでもない。


「猛吹雪が出る。視界は消える。雪庇も割れる。谷風も強い。しかも、その冬山には――」


「グレイファング」


「……知ってたか」


「予想はつくわ」


 グレイファング。

 北域の雪林を根城にする大型の群狼型モンスター。

 単体でも厄介だが、本質は群れで動くことにある。

 疲れた者、はぐれた者、荷馬を優先し、無理に襲いかからず、じわじわと包囲して崩す。

 雪中で相手をするには最悪に近い。


「確実に襲われると思っていい、って斥候も言ってた。グレイファングは、この季節の山じゃ人間よりずっと賢い」


「ええ」


「しかも悪いことは重なる」


 そこでカイルは、少しだけ言いにくそうに目を逸らした。


「今回のパーティに、娘が入る」


「……そう」


 エルセリアはまばたきを一つした。

 娘の存在は前に聞いている。

 母ミレイナ譲りの弓の才を持つ子だと。


「リアナが、養成学校を卒業した」


「二十一歳」


「そう。初めての本格任務だ」


 カイルは顔をしかめる。


「弓は悪くない。養成学校に行ったから、表面上の技術はしっかりしてる。射撃、座学、野営、連携訓練、全部それなりにできる。ミレイナが見ても、撃つだけなら通用する」


「でも?」


「でも、それだけだ。冒険者の本質なんて学校で身に付くもんじゃない。そもそも俺たちの時代には――」


「そういうのが老害って言うのよ。」


 エルセリアが即座に言った。


 カイルは見事に黙った。


 数拍の沈黙。

 それから、彼は両手で顔を覆った。


「……ぐうの音も出ない」


「でしょうね」


「今、自分でも言いかけてる途中で嫌な感じしたんだよ」


「止めておいてよかったわ」


「助かったような、傷ついたような」


「傷つくくらいなら、まだ間に合うってことよ」


「それ、慰めになってるか?」


「なっていないかしら」


「……半分くらいは」


 カイルは観念したように息を吐いた。

 そうして少しだけ笑う。

 若い頃なら、むっとして反発したかもしれない。

 今の彼は、自分が“昔はよかった”側へ足をかけ始めていたことを、ちゃんと自覚している。


「リアナが未熟なのは分かってる。未熟なのは当然だって頭では分かってる。でも、それでもな……」


「父親なのね」


「……そうだよ」


 その一言には、戦場での冷静さとは別の重さがあった。


「ミレイナは平気な顔してる。『初任務なんて誰でもそうだ』って。正しいよ。正しいけど、俺はどうしても考えるんだ。吹雪の雪山で、グレイファングの群れがいて、荷馬と物資を連れて、四日で着かなきゃならない。そんな場所に、初任務の娘を入れるのが本当に正しいのかって」


「外すことはできない?」


「人手が足りない。あと、リアナ自身が外れる気がない。教会筋の任務で、孤児院の子どもたちが関わるって知ったら、余計に」


 エルセリアは頷いた。

 その気持ちはよく分かる。

 観測者の血を引くだけでなく、カイルの娘ならば、そういう性質を持っていてもおかしくない。


「なら、問題は娘の才能ではなく、パーティが吹雪の中で繋がっていられるかどうかね」


「……ああ」


「一人が未熟でも、隊が崩れなければ到着できる」


「その通りだ。でも、それが一番難しい」


 カイルは低く言った。


「吹雪の中じゃ声も届かない。姿も見えない。一本道ならまだいいが、冬山じゃ雪庇で道が消えるし、谷風で足跡も埋まる。グレイファングはそういう時を狙ってくる。誰か一人でも切れたら終わりだ」


「だから、切れないようにするものが要る」


「……あるのか?」


 エルセリアは答えず、立ち上がった。


「ちょっと待って」


「……ああ」


 店の奥へ消える背を、カイルは見送る。

 彼女が何を持ってくるのか、もう昔ほど予想しようとはしない。

 予想しても無駄だと知っている。

 火打石、杯、小石、笛。

 彼女が渡してきたものは、いつだって“それが今どうして必要なのか”を、最初からは説明しない形で現れてきた。


 しばらくして戻ってきたエルセリアの手には、色糸を編んだだけの腕紐が束になっていた。


「……ミサンガ?」


「そう見えるわね」


「また随分と戦いに向かなそうなものを出してきたな」


 カイルは呆れたように言ったが、完全には否定していない。

 その見た目に反して、とんでもないものが出てくることをもう知っているからだ。


 腕紐は、旅人の験担ぎや若者の飾りにでも見える。

 細い糸を幾重かに撚ってあり、色合いも地味だ。深い藍、灰、白、褪せた赤。派手ではなく、どこか古い祭礼の名残のようでもあった。


「一ヶ月前、反物屋が持ち込んだの」


「反物屋?」


「古い荷をほどいたら、祭礼用の結い紐に混じっていたそうよ」


「それを買った」


「ええ。あなたのパーティ人数分あるわ」


 カイルは黙って本数を数えた。

 自分、リアナ、補給担当、荷馬係、もう一人の護衛、教会の若い司祭補。

 確かにちょうどそのくらいだ。


「これ、何なんだ」


「使い方を教えるわ」


 エルセリアは一本を手に取り、指先で軽く伸ばした。

 見た目にはただの編み紐だが、力をかけると一瞬だけ、糸の編み目の奥に別の規則が覗く。普通の人間なら気づかない程度の違和感だ。


「出発前に、全員が同じ場で腕につけること」


「全員」


「ええ。そして必ず、誰が最終判断を下すかをその場で明言しておく」


「……隊長を決めるってことか」


「そう。曖昧にすると逆に乱れる」


「俺、だろうな」


「そうでしょうね」


 カイルは少しだけ苦い顔をした。

 それを引き受けること自体は構わない。

 だが娘もいる隊で、父親としてではなく隊長として判断しなければならないことが、たぶん怖いのだ。


「吹雪に入る前に、一度全員で互いの紐を見せ合いなさい」


「見せ合う?」


「ええ。誰がどこにいるか、目で知っておくため」


「……」


「そして、はぐれたと思ったら叫ばないこと」


「え?」


「まず立ち止まって、一呼吸置くの」


「そんな余裕あるか?」


「叫ぶと、怖がりが連鎖するわ。雪山ではそれが一番危ない」


「……」


 カイルはうっすら理解し始めた顔をする。


「誰か一人が倒れたら、隊列を縮めること。物資より先に、人を切らない」


「物資を優先しない?」


「孤児院へ届けるための物資なのでしょう。でも、届ける人が崩れたら終わりよ」


「……」


「雪山では、足の速さより隊の形の方が大事」


「それは、分かる」


「最短で着くためには、崩れないことが最優先よ」


 エルセリアは腕紐を卓上に広げた。


「これは、そのための紐」


「そんなので?」


「そんなの、じゃないわ」


 声の温度は高くない。

 けれど、そこには確かな重みがあった。


 その腕紐の正体を、彼女だけが知っている。


 古名は《霜路の連環》。旧聖教会光輪司教団の上級聖職者専用装備。

 神級アイテム。

 本来は雪中巡礼や山岳祭礼において、神官団や守役が吹雪の中ではぐれぬように用いた連結の遺物。


 単なる位置共有ではない。

 視界が遮られ、声が潰れ、雪と谷風が距離感を狂わせる場所で、身につけた者同士の“切れそうな感覚”を繋ぎ留める。

 誰かが立ち止まれば、ほんの微かな違和感が他にも伝わる。

 隊の形が乱れれば、進むべき方向の感覚が鈍く警告となる。

 吹雪の中でこれほど有用なものはそうない。

 だが使い方を誤れば、判断が二つに割れた瞬間に逆に混乱を増幅する。だからこそ、最初に“誰に繋がるか”を決めておかねばならない。


 カイルは腕紐を一本手に取り、しばらく眺めていた。


「……娘の分も、これをつけるんだな」


「当然でしょう」


「初任務でこんなものまで使わせるの、甘やかしじゃないかって一瞬思った」


「それ、さっきの老害の続き?」


「やめろ」


 カイルは呻くように言ったが、自分でも否定しきれないらしい。


「養成学校で基礎を覚えたなら、それはそれで意味があるわ」


「そうだな」


「現場でしか身につかないものがあるのも本当。でも、基礎があるから現場で折れずに済むこともある」


「……」


「あなたの時代に学校がなかったからといって、今の子たちがそこから学ぶことまで否定しなくていいのよ」


「ほんと、耳が痛いな」


「でしょうね」


「ミレイナにも似たようなこと言われそうだ」


「たぶん言われるわ」


 カイルは顔をしかめ、それからふっと笑った。

 そうしているうちに、自分の中の偏りが少しずつほどけていくのが分かる。


「リアナは、弓は悪くないんだ」


「ええ」


「撃つだけなら通る。座学も野営も、養成学校で叩き込まれてきた。俺より最初の形はよっぽど整ってる」


「それでいいじゃない」


「……まあな。問題は、俺が“それだけじゃ足りない”って知ってることなんだよ」


「足りないのは当然でしょう。初任務だもの」


「そうなんだけど」


「初任務で完成していたら、あなたたちの仕事がなくなるわ」


「……それは困るな」


 その返しに、二人のあいだに少しだけ笑いが生まれる。

 冬の任務の話をしているのに、不思議と空気は重くなりすぎなかった。


 カイルはミサンガ――いや、腕紐を一本ずつ整えながら、静かに言った。


「俺、怖いんだと思う」


「何が?」


「任務そのものも怖い。吹雪の冬山も、グレイファングの群れも、時間がないことも。全部怖い。でもそれだけじゃなくて、娘を“仲間として扱わなきゃいけない”のが怖い」


「父親だから?」


「そうだ。もし何かあった時に、隊長として切る判断をしなきゃならないかもしれない。そんなの、考えたくもない」


「でも考えておかないといけない」


「……ああ」


 カイルは認めた。


「だからこそ、全員で繋がっていなさい」


「この紐で」


「ええ。形を崩さないこと。誰かを先に英雄にしようとしないこと。リアナも、あなたも、全員が着くことが最優先」


「……」


 その言葉に、カイルは長く息を吐いた。

 彼の顔に刻まれた皺が、少しだけ深くなる。

 それは疲れではなく、覚悟の形だった。


「本当に、これで吹雪の中でも何とかなるのか」


「何とかするために使うの」


「またそれか」


「いつものことよ」


「……確かに」


 彼は一本、娘の分と思しき腕紐を手の中で転がした。

 ほんの短い時間だけ、その視線が父親のものになる。

 次の瞬間にはもう、隊長の目へ戻っていた。


「全員で手を重ねるんだな」


「ええ」


「最終判断者を決める」


「そう」


「はぐれたと思ったら、まず止まる」


「叫ばずに、一呼吸」


「誰か一人が倒れたら、隊列を縮める」


「物資より人」


「……分かった」


 それは、もう決意の声だった。


 カイルは立ち上がる。

 四十五年の人生と、数えきれない任務をくぐり抜けてきた男の動きだった。

 けれど、帰り際の一瞬だけ、彼は昔の若さを残した顔になる。


「今までで一番、到着すること自体が戦いかもしれない」


「そうね」


「グレイファングより、吹雪の方が厄介かもしれない」


「でも孤児院の子どもたちを春まで生かすには、あなたたちが行くしかない」


「……ああ」


 そして彼は、腕紐を丁寧に荷へしまいながら言う。


「そういう任務のために、ここまで生き延びてきたのかもな」

「そうよ」


 エルセリアは迷わず答えた。


「全員で着きなさい」


「……」


「帰り道まで、ちゃんと連れて帰るのよ」


「分かってる」


 カイルは頷いた。

 その声には、もう迷いより重心があった。


「また報告に来る」


「待っているわ」


「今度は――」


「四年以内にお願い」


「そこはせめて三年って言えよ」


「長命種基準だと甘すぎるわ」


「……善処する」


 鈴が鳴り、彼は白い町へ出ていった。

 終雪月の風が一瞬だけ店の中へ入り込み、戸口の隙間で細く鳴る。


 エルセリアはしばらくその音を聞いていた。

 それから、ゆっくりと帳場へ戻る。

 腕紐の代金を、やはり相場以下の値で帳面につける。

 ただの祭礼紐として見れば、それで十分すぎる価格だ。

 だがこの店でつけられる値段と、本当の価値はいつも一致しない。


「ベルノがいなくても、ちゃんと来るのね」


 小さく呟く。

 行商人の老いによって、外の世界からの噂の流れは一つ弱くなった。

 けれど観測者自身は、こうして自分の足でこの店へ戻ってくる。

 それを少しだけ、彼女は安堵として感じた。


 夜が近づくにつれて風はさらに強まり、空には雪雲が集まり始めた。

 ラウムベルクからフロストミアへ。

 夏場でも一週間はかかる道を、四日か五日で越えねばならない。

 冬山。

 吹雪。

 グレイファングの群れ。

 そのうえ物資の遅れが許されない孤児院。


 普通なら、出すべきではない任務だ。

 それでも、出さねば死ぬ者がいる。


 翌日の夜明け前、カイルはラウムベルクの北東門を出た。

 パーティは六人。

 カイル自身。

 娘のリアナ。

 教会から派遣された若い司祭補。

 補給担当の女。

 荷馬を扱う男。

 そして北域回廊で雪中行軍経験のある護衛が一人。

 物資は、孤児院の子どもたちが一冬を越すための乾燥食、塩、薬草、毛布、灯火用の脂、小さな炭袋。

 重い。

 無駄なものは一つもない。


 出発前、カイルはエルセリアに言われた通り、全員を一度輪にした。

 腕紐を配り、互いに見せ合わせ、最後に言う。


「最終判断は俺が下す。吹雪に入ったら、はぐれたと思っても叫ぶな。まず止まれ。誰かが倒れたら、物資より先に人を寄せる。全員で着く。そこを間違えるな」


 リアナは真剣な顔で頷いていた。

 母ミレイナに似た鋭い目をしている。若さがあるぶん、その集中はまっすぐだ。

 だがカイルは、その目の奥にまだ現場の寒さを知らぬ部分があることも見ていた。


 四日目の夜。

 彼らは本当に吹雪の冬山でグレイファングの群れに襲われる。


 谷へ抜けるはずの雪面で視界が白く潰れ、足跡が消え、荷馬が怯え、グレイファングの遠吠えが風に紛れる。

 普通なら、誰かが先走り、誰かが見失い、誰かが叫び、その連鎖で隊は崩れる。

 だが腕紐があった。


 吹雪の中でも、自分だけが置き去りになっていないという微かな感覚が残る。

 誰かが一歩遅れた時、その遅れが“切れた”のではなく“重くなった”ように伝わる。

 リアナが一度だけ雪壁の陰に足を取られた時も、カイルは振り向くより先にその違和感を感じ取り、隊列を縮めさせた。

 グレイファングは確かに荷馬を狙い、側面から削ろうとした。

 だが隊は切れない。

 叫ばない。

 切れない列は、群狼の包囲を許さない。

 カイルは隊列を斜面側へ寄せ、風下へ火を流し、狼が飛び込める角度を潰して進んだ。


 四日目の夜更け、彼らはフロストミアの孤児院へ到着する。

 ぎりぎりだった。

 暖房は落ち、子どもたちの顔色は悪く、配給の切られた日数を考えれば、あと数日遅れていたら耐えられなかった者もいたはずだ。


 その中に、一人の小さな女の子がいた。

 痩せ細ってはいたが、まだ目の光を失っていない子だった。

 後に彼女は教会に引き取られ、シスターとなり、さらに何年も先――第二代観測者となる少女を育てることになる。

 その時、彼女自身は知らない。

 自分が真冬の夜に届いた毛布と乾燥食のおかげで生き延び、その命がまた次の観測者へと繋がることを。


 もしあの時、物資が間に合わなければ。

 もし吹雪の中で隊列が切れ、グレイファングに喰い破られ、カイルたちが山に散っていれば。

 フロストミアの孤児院では複数の子どもが冬を越せず、教会の北域救済網は大きく損なわれ、その中の一人の少女もまた未来へ辿り着けなかった。

 そうなれば、後に第二代観測者を育てるはずだった手は、最初からこの世に残らなかったことになる。


 だがその未来は来なかった。


 ラウムベルクの小さな雑貨店で、銀髪の店主が、反物屋から買い取っただけに見える腕紐を、必要な人数分だけ渡したからだ。

 彼女はまたしても、自分ではただ「使い方を教え、客に売っただけ」のつもりでいる。

 それでも、その小さなやり取りが、真冬の雪山で隊を繋ぎ留め、孤児院の命を繋ぎ、さらにその先の時代まで密かに繋いでいく。


 《暮れの星雑貨店》の灯りは、その夜もいつも通りに消えた。

 帳面は閉じられ、茶葉は片づけられ、銀髪の店主は寒い窓辺に手を触れて、ただ静かに一日を終える。

 誰にも知られぬまま、またひとつ。

 世界は、次の観測者へと続く運命を守られていた。



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