第6話 成る
八代の“怒り”が技術なら、伊織の“無”は本能だった。
伊織は演技をしている時より、何もしていない時の方が美しい。
笑っているようで、何も映していない目。
言葉の裏にも、呼吸の裏にも、まるで仕掛けがない。
作為のない人間なんて、存在するのか。
俺は手を止めて、ノートの端に指を押しつけた。
ページがしわになる。インクの黒い滲みが広がった。
――八代は“演技”の極地。
――伊織は“素”の極地。
その二人の間に立つ俺は、どっちでもない。
観察する側。真似る側。永遠の模倣者。
机の上の鏡が、わずかに俺を映した。
その中の顔は、八代でもなく、伊織でもなく、俺でもない。
「……誰だこいつ」
そのときスマホが鳴った。
メッセージは伊織からだった。
《明日、稽古前にちょっと来て。話したいことある》
短い文なのに、何かを見透かされた気がした。
その日は寝つけなかった。
翌朝、早めに稽古場へ行くと、まだ誰もいなかった。
冷たい空気が残っていて、蛍光灯の白がやけに鋭い。
鏡の前に立つ。
「誰だこいつ」
声に出した途端、喉が乾いた。
でも、そう言葉にした瞬間、昨日までは無かった妙な快感があった。
“俺じゃない”ということが、少しだけ救いに思えた。
その時、ドアの開く音がした。
「透、早いね」
伊織が入ってきた。
光に包まれて、目だけが異様に静かだった。
「話って?」
「透は真似するのがうまいよね、そんで八代は演技がうまい」
いつもと変わらない調子で、そして満面の笑みで――満面の笑みの演技で、伊織は告げた。
「八代ばっかりじゃなくてさ、僕の真似もしてみてよ」
俺は息をのんだ。
八代の「演技」じゃなく、伊織の「素」の模倣――もし、それを真似できたら。
俺は、心の底から引きつった笑みで応える。
「真似じゃない、成ってやるよ」
もう完全に俺ではなくなる。
それでも、やってみたいと思ってしまった。




