十二章・5
「夜は夜で、お月様に照らされたお庭がきれいですね」
「そうだな」
今夜は雲も全くなく、月がよく見える。おまけに、満月だ。
月がきれいですね、という言葉を翻訳したのは、誰だっただろうか。
俺たちは手をしっかりとつないだまま、昼間に来た庭を、ゆっくりと眺めながら歩いていた。
「日本の庭園と、お月様というのはよく合いますね」
「……そうだな」
「ん? つっきー、なんだか元気がないですね。お腹でも痛いのですか?」
美弥子は心配そうな顔をして、俺の顔を覗き込んできた。
「いや、違うよ。心配するな」
「そうですか? でもなんだか、返事が上の空ですし、それに難しい顔をしていますよ?」
顔に出ていたか。抑えているつもりだったんだが。
やっぱり緊張しているんだろうか。
「……実は少し、美弥子に話があってな」
「お話ですか?」
「ああ。少し長くなるかもしれないけれど、聞いてくれるか?」
「はい」
俺が真剣な口調で言ったからか、美弥子は表情を少し引き締めた。
「まず、美弥子に礼を言いたい」
「お礼?」
「美弥子と出会っていなかったら、今の俺はない。きっと、堕ちに堕ちて、堕ち切って、周りに迷惑をかけて、それで、人間として命がもう、終わっていたんじゃないかと思う。あの時美弥子が声をかけてくれなかったら、俺はあの時、あのまま死んでいた。自殺して。いや、きっと自殺していなかったとしても、人として死んでいたと思う。美弥子は、俺にとって命の恩人だ」
「そんな。わたしは、別に」
「美弥子にそんなつもりはなくても、結果としてそうなったんだ。ありがとう、美弥子。出会ってくれて、ありがとう」
俺は美弥子の手を握る力を、少し強めた。
「俺を支えてくれてありがとう。崖っぷちだった俺を救ってくれて、ありがとう。だから俺は、恩返しがしたい」
「そんな、恩返しだなんて。わたしのほうこそ、つっきーにはお礼を言っても言い足りないくらいなのに」
「それでも、俺は美弥子に何かを返したい。俺は、美弥子のこの先の人生をずっと、ずっとずっと支えていきたい。今度は俺が、美弥子を支えたい」
「つっきー……?」
俺は美弥子の手を離し、懐に手を入れ、小さな箱を取り出した。これを準備していたから、俺は昨日一日忙しかったのだ。
「俺は、美弥子とこの先もずっと一緒にいたい。俺は美弥子を支えるし、それに美弥子にも、弱い俺を支え続けてもらいたい。ずっと、ずっと……一生」
俺は取り出した箱を、美弥子に向けて開けた。
「少し早いけれど、誕生日プレゼントだ」
誕生日プレゼントになるといいんだけど。
そして俺は、美弥子に告げた。
「美弥子、俺は美弥子が好きだ。人として、尊敬している。そして一人の女性として愛している」
箱の中には、白く輝く一つの指輪が収まっていた。
「美弥子。俺と、結婚してください」
やっと、言えた。
ずっと抱えていた、本当の気持ち。
俺の、本心からの気持ちを伝えることができた。
相手は十六歳の少女で、ともすれば俺はとんでもなく異常なやつなのかもしれないが、それでも俺は告白できたことを、よかったと思った。
美弥子が自立して俺から離れて、学校とか社会とか、どこかに行ってしまう前に、伝えられてよかった。
「……美弥子?」
しかし、美弥子は俺の告白を聞いた途端、肩を震わせ、うつむいてしまった。顔が前髪に隠れてしまったせいで、表情はうかがえない。
「どうして、何も言ってくれないんだ? 返事を、聞かせてくれないか?」
「……わ、わ、たし、は」
美弥子は両手で顔を覆うようにして、そして絞り出すような声で言った。
「ごめん、なさい……。わたしは、つっきーとは……結婚、できません」
その言葉は不思議と引っかかることはなく、俺の耳を通った。
何を言ったか理解できない、なんてことはなかった。
「……そっか」
「ごめんなさい」
「謝るなよ。美弥子は何も悪くない」
「でも、わたし…………本当に、ごめんなさい」
「いいから。もういいから。謝るなって」
「ご、ごめんな――」
「だから! 謝るなって! 言ってんだろうが!!」
「――っ!」
全くそんなつもりはなかったのに、俺は美弥子に怒鳴りつけてしまった。……かっこわりい。苛立ちを、美弥子にぶつけるなんて。
美弥子は声になっていない悲鳴を上げ、大粒の涙をぼろぼろと流し始めた。
「……部屋に、戻ろう」
「……はい」
俺たちは、来た道を戻って部屋に帰った。
ただ、手はもう、つないでいなかった。
○
「おはようございます。昨夜はよくお休みになられましたか?」
「ええ、まあ……」
朝食を持ってきてくれたおかみさんが、穏やかな微笑みを浮かべてそう聞いてきた。でも俺は、おざなりな返事を返すことしかできなかった。
昨夜、庭から部屋の方に戻ってきた俺たちは、言葉も交わすことなく、目を合わせることもなく、すぐにそれぞれの布団に入った。
布団に入ってからも、後ろから美弥子のすすり泣く声がずっと聞こえてきていた。しかし泣き疲れたのだろうか、しばらくすると、それは静かな寝息に変わっていった。
俺は俺で、頭の中がずっと重たくて、胸の中でいろんなものがごちゃ混ぜになっていて、一睡もすることができなかった。
「そうでございますか。それでは、失礼いたします」
おかみさんは昨日と同じように、何ら変わることはなく、静かに退出した。
「…………」
「…………」
朝食中、俺たちは一言も話さなかった。起きてから今まで、必要最低限の会話しかしなかった。昨日の夕食の時は、もっと楽しく食事ができていたのに。
……こんなはずじゃ、なかったんだけれど。
「……ごちそうさまでした」
そして、静かな朝食が終わった。
「ここを出る準備だけしておけ。あと少ししたら帰るから」
「……わかりました」
俺たちはそれぞれ、荷物をまとめ始めた。
昨日まで、俺は美弥子とどうやって話していたんだろう。わからない。普通に話そうとしても、喉に何かが引っかかっているようで、言葉が上手く出てこなかった。
俺は懐から指輪の入った箱を取り出した。
それを俺は、鞄の一番奥にしまい込んだ。
「準備、終わったか?」
「はい……」
「じゃあ、帰ろう」
俺たちは、旅館の部屋を後にした。
最後に部屋を見回したが、忘れ物は何もなかった。
○
「今回は当旅館をご利用いただき、ありがとうございました。またのお越しを、お待ちしております」
「はい。ありがとうございました……」
俺はチェックアウトを済ませ、自分の車に乗り込んだ。
「……出るぞ」
「はい」
俺は美弥子にそれだけ言うと、車を発進させた。
「……あの」
しばらく走っていると、美弥子が控えめな声で言った。
「何だ?」
「わたしの家に、向かってください」
突然そう言った美弥子に、俺は少し動揺したが、すぐに落ち着きを取り戻した。
いつかは、美弥子は帰るはずだったんだ。
それが、今日ってだけだ。
「そうかよ。どこだ?」
美弥子は自分の家の住所を言った。俺はそれをナビに入力した。
そこから美弥子の家まで、感情の無い音声案内だけが、車内に響いていた。
○
「ここです」
「……ここが、美弥子の家か」
美弥子の家は、真っ白な壁に覆われた立派な一戸建てだった。
普通の家族が、普通に暮らしていそうな、そんな家だった。
「……あの、つっきー」
「何だ?」
助手席で美弥子は俺の方に体を向け、深く頭を下げた。
「今まで、本当にありがとうございました」
その礼の言葉が、一番心に痛かった。
もう会えないということが、はっきりとわかったから。
「お母様と一咲子さんに挨拶ができなくてごめんなさい。すみませんが、お二人によろしく伝えてください」
美弥子の声は、涙に濡れている気がした。だけど、本当に気のせいかもしれない。
美弥子の顔を、俺は見ることができていないから。
「わかった」
「……それでは、さようなら」
美弥子はそう言い残し、車から降りて行った。
そのまま美弥子は一度もこちらを見ることなく、家の中に入っていった。
俺は、何をするわけではないので、自宅に車を走らせた。
一人での運転は久しぶりだった。
しばらく走っていると、視界が少しずつぼやけていった。
このまま走っていると、事故を起こしそうだな。
俺は車を路肩に寄せた。




