十三章・1
「……ただいま」
「お帰りお兄ちゃん。あれ? 美弥子ちゃんは?」
家に帰ったのは、もう日も沈んだ頃だった。
「美弥子は、自分の家に帰ったよ」
「……え? か、帰ったって? な、なんで!?」
「知らねえよ」
「し、知らないってことはないでしょ! 何があったの!?」
「知らねえって言ってんだろうが! しつけえんだよ!」
「お、お兄ちゃん……」
「……怒鳴って、悪かった」
「いや、それは別に。そんなことより」
「悪い。自分の部屋にいるから、ちょっと一人にしておいてくれ」
俺はそれだけ言うと、階段を上がって自分の部屋に行った。
部屋に入ると、ベッドの上にある大きなレッサーパンダのぬいぐるみが目に入った。真っ暗な部屋の中から、寂しそうにこちらを見ている気がした。
俺はそのぬいぐるみを抱きかかえ、ベッドで胎児のように丸まった。
「……くそっ。なんでだよ、ちくしょう……」
○
「ねえ、お兄ちゃん。ご飯、食べないの?」
「……今はいらない。そこ、置いといてくれないか?」
「……わかった」
ドアの向こうの足音が、だんだんと遠ざかっていく。
美弥子と離れてもう三日。
俺はずっとこんな調子だった。
○
それからさらに一週間が経った頃。
家に一本の電話があった。
美弥子の父親からだった。
美弥子が、亡くなったという報せだった。
病死、だという。
三園 美弥子。享年十六歳。
あまりにも、早すぎる。
○
俺は美弥子との最後の会話を思い出した。
美弥子に、ひどい顔をさせた。
怒鳴りつけまで、してしまった。
最後が、あれかよ。
「くそっ……」
○
美弥子はあのファンシーで子どもっぽい手帳に、行った場所や、話した人たち、世話になった人たちの名前なんかを、丁寧に記録していたそうだ。
日記、だったのかもしれない。
そこに書かれていた住所や電話番号なんかを頼りに、美弥子の父親は連絡をしたのだと言う。
美弥子がそうした記録を残したことが功を奏したのか、葬儀には、決して少なくない人たちが来ていた。
美弥子が入院していた病院の医者と看護師。
本屋の辰巳。
あれは、父さんと一咲子がよく行っていたラーメン屋の店主と奥さんか。
そして、母さんと一咲子。
それに、俺。
家族以外、誰も葬儀にいない、よりはよかった気がする。
皆一様に、悲しそうな顔を浮かべている。
母さんも一咲子も、ずっと泣いている。
俺は?
俺の顔は今、どんな感じだ?
なあ、美弥子。教えてくれよ。
「最後に、お顔を見て、最後のお別れを」
葬儀屋に促され、俺は美弥子の顔を見に行った。
棺の中の美弥子は、綺麗で、可愛い顔をしていた。
一週間ほど前と、何も変わっていない顔だ。
本当に、ただ眠っているみたいだ。
「……なあ、おい。寝てんのかよ」
話しかけてみたが、返事は返ってこなかった。
「起きろよ。まだ行くところがあるだろうが。まだあと、神社と寺と教会が残っているだろう。山にも行っていない。海は行ったけれど、あれは見ただけだ。泳いでいないから、行ったことにはならないだろ。動物園にも、もう一度、行こうって、言っていたじゃないか……。なあ、行きたかったんじゃなかったのかよ。なあ、おい、応えろよ……」
俺がどれだけ言ってみても、美弥子は何も言ってくれなかった。
人の気も知らないで、ただ穏やかに、眠っているだけだった。
○
「美弥子さんは、生まれた時からすでに難病を患っていました。現代の医学では、延命すら難しい病気です」
葬儀が終わった後、俺は美弥子の担当医に呼び止められた。
俺が、最後の一か月を、一番長く一緒にいたと聞いたから、美弥子のことを少し話したかった、らしい。
「そして私は一月ほど前に、美弥子さんにある辛い報告をしなければなりませんでした。来月の十六歳の誕生日を迎えることは、おそらくできない、と」
それはつまり、余命宣告だ。
余命一か月。
それを聞いた美弥子は、いったいどんな気持ちだったんだろう。
わからない。
「私は、伝えるべきかどうか迷いました。ただいたずらに恐怖を与えるだけではないのかと。ですが、やはり伝えるべきであると思いました。正しかったかどうかは、わかりません。きっと、余命を伝える医師は、全員が迷いを抱えていると思います」
「……それは、俺に関係あるんですか?」
「ああ、すみません。話が逸れましたね。それで、私が美弥子さんに余命を伝えた次の日です。退院させてくださいと頼まれました。外の世界を見に行きたいから。連れて行ってくれる人がいるから、と。それがあなただったのですね」
そうか。
俺が死のうとしていたあの日。
その日は、美弥子が余命を宣告された日だったんだ。
「私が美弥子さんと最後に話したとき、彼女は笑顔で言っていました。とても楽しい一月でした、と。……私が伝えたかったのはそれだけです。では、これで」
そう言って、彼女は立ち去った。
それからしばらく、俺はその場を動くことができなかった。
○
一咲子は、知っていたのだそうだ。
美弥子に残された時間は、もう少ないのだと。
俺が美弥子を家に連れてきてしばらくしたころに、打ち明けられたらしい。
美弥子はきっと、怖かったのだろう。
普段は明るくふるまっていても、徐々に死が近づいてくることが怖くないわけがない。
美弥子は、普通の女の子なんだから。
だから、一人にだけ、打ち明けた。
恐怖を少しでも和らげるために。
同性で、なおかつ年が近かったから、話しやすかったんだろう。それに、あいつは美弥子の姉のような感じだったから。頼りやすいというか、甘えやすかったのかもしれない。
俺は一咲子にそのことを聞かされたあと、礼を言った。
「ありがとう、一咲子」
「え? なんで? あたし、怒られると思ったのに。こんな大事なこと、黙っていたから」
「怒るだなんて、とんでもない。一咲子は美弥子の心の支えになってくれたんだ。俺にはできなかったことだ。ありがとう」
そうだ。
一咲子は美弥子の心の支えになることができた。
でも、俺は。
俺は何もできなかった。
何も、してやれなかった。
○
葬儀が終わって、しばらく経ったある日。
美弥子の両親が、家を訪ねてきた。
何の用だ? 恨み言でも言いに来たか?
まあ、でも言われたって仕方がない。
俺はあんたらの娘を、そこら中連れまわした男だ。NPOだのと嘘をついて、あんたらの娘の最後の時間を使った男だ。
「すみません、急にお邪魔してしまいまして」
「いえ。それで、どういった用件で?」
美弥子の父親は、鞄から一つ、封筒を取り出した。
「これを、伊嶋 一輝さんに」
「俺に?」
「美弥子の部屋を整理していたら、出てきたものです」
受け取った封筒のあて名には、『伊嶋 一輝様』と書かれていた。
「これはきっと、美弥子があなたに宛てたものだと思います。中は見ていないので何とも言いにくいですが。受け取ってもらえますか?」
「……ええ」
俺は突然のことに戸惑いながらも、何とかそれだけを返した。
「では、これで失礼させてもらいます」
「ああ、すみません。わざわざ、どうも」
美弥子の両親は軽く頭を下げると、家を出た。
俺の手に、封筒だけが残された。
○
俺は自分の部屋で、封筒を開けた。
中には、何枚かの便せんが入っていた。
封筒を開ける手も、便せんを取り出す手も、震えていた。




