十二章・2
「着いたぞ」
「これが、旅館!」
俺たちが着いたのは、木造平屋建ての旅館だ。見た目は少しぼろいように見えるが、それが趣だと思えなくもない。
小さい頃家族と来た時から何も変わっていない外観に、俺は少し安心した。
「和! って感じですね」
「そうかよ。早速入るか」
「はい!」
旅館に入ると、玄関口でおかみさんが出迎えてくれた。着物の似合う和風美人だ。たしか小さい頃もこのおかみさんが出迎えてくれたんだ。……十何年前と見た目が全然変わっていないのは気のせいだろう、たぶん。
「ようこそおいでくださいました。お名前をお伺いしても?」
「予約していた伊嶋です」
「伊嶋様ですね。承っております。さあ、どうぞ」
おかみさんに案内され、俺たちは今日泊まる部屋に向かった。
この旅館は小さいが、有名なホテルや旅館に引けを取らないくらいに、サービスが丁寧だ。おかみさんの一つ一つの所作が上品だし、廊下も隅々まで掃除が行き届いているように感じる。母さんが気に入ったのは、きっとこういうところだろう。
「こちらがお部屋になります」
「ありがとうございます」
「お食事は十九時に、こちらのお部屋にお持ちいたします。何かあれば、どうぞご遠慮なくお申し付けください。それでは、ごゆっくり」
おかみさんはそう言ってしずしずと去っていった。
「とりあえず、一息つくか」
さすがに長い運転で疲れた。
俺は部屋の隅に荷物を下ろし、座布団の上に腰を落ち着けた。
「いいお部屋ですね。なんだか、落ち着きます」
美弥子も自分の荷物を下ろすと、テーブルを挟んで俺のちょうど真向かいに座った。
「これはなんですか?」
美弥子はテーブルの上に置かれたお茶の袋やお菓子に目をつけた。
「それは自由に食べたり飲んだりしていいんだ。お茶、飲むか?」
俺はお茶を二人分用意して、一つを美弥子に渡した。
「熱いから」
「はい。ありがとうございます」
俺と美弥子はお茶に口を付け、そしてふうと息を一つはいた。
「さっき案内してくださった方、綺麗な方でしたね。それに、あれは着物ですか? とても素敵です。わたしも着てみたいです」
「着物はちょっと難しいけれど、浴衣なら着られるぞ」
「着てみたいです!」
「よしわかった。ちょっと待ってろ」
俺は洋服棚の方に向かい、扉を開けた。そこにはいくつかの浴衣が掛けられてあった。
大きさ的にはこれくらいか。
俺は一つの浴衣を手に取った。
いやしかし、これは風呂に入った後に着るものなのか? それとも、部屋に入った段階で着替えてもいいのか? わ、わからん……。
「どうしたのですか? もしかして、着られない……ですか?」
そう言う美弥子の悲しげな顔を見て、俺は細かい順序とか決まりとかはどうでもよくなった。
まあ、別に誰か見るわけではないし。うるさく言う人もいないだろう。
「いや大丈夫だ。着られるぞ。安心しろ。ほら、これだ」
俺は美弥子に浴衣を手渡した。
「わはー! これが浴衣なのですね!」
「そうだ。それが浴衣だ」
「じゃあ早速着てみますね」
美弥子はそう言うや否や、穿いていたズボンに手を掛けた。
「おいこらちょっと待てこら」
「なんですか?」
「馬鹿ちょっと待て馬鹿俺いる。俺いるから」
美弥子は俺の言ったことを聞くと、数秒ほど停止し、そして再起動した。
「きゃー! な、なんでいるのですか!?」
「いるに決まっているだろ! お、俺早く出て行くから!」
俺は急いで部屋の外に出て、勢いよく戸を閉めた。
……疲れる。
さっきのは何だ、わざとか? それとも本気で俺がいることに気づかないで着替えようとしていたのか?
……俺がいることが、当たり前になっているのか。
もしそうなら――
「つっきー……」
「お、着替え終わったか? 入るぞ」
「あ、ちょっと――」
俺が戸を開けると、そこには浴衣の前が半開きで、帯を持ったまま固まっている美弥子の姿があった。
「い、いやー!」
美弥子は悲鳴を上げてしゃがみ込み、両腕で体を抱くようにして体を隠した。
「な、何で着ていないんだ!?」
「なんで入ってくるのですか!?」
美弥子は涙目で俺を睨みつけてきた。
「それは、美弥子が呼んだから」
「着方がわからないから、聞こうと思って呼んだのです! 入ってきていいとは言っていないじゃないですか!」
「そ、そうか。悪かった」
「早く出て行ってください!」
「お、おう……」
俺はさっきと同じように急いで部屋を出た。
……誰か呼んでこよう。着付けなんて、全くわからないし。
おかみさんなら、やってくれるかな。
○
「浴衣はいつ着て頂いても結構でございます。決まりはございません。お好きなようにどうぞ。では、私はこれで」
「すみません、ありがとうございました」
俺は美弥子に浴衣を着せてくれたおかみさんに礼を言い、部屋に戻った。
「つっきー、どうですか?」
部屋では浴衣を着た美弥子が嬉しそうに、くるくると回っていた。
「ああ、よく似合っているよ」
さすがおかみさんだ。着付けが上手い。
「そ、そうですか? ……あ、ありがと、ございます……」
美弥子は回転を止めると、前髪をいじりながら小さな声で言った。
「ところで、つっきーは着ないのですか?」
「浴衣?」
「はい。せっかくですし、着ましょうよ。お揃いですよ?」
「そうかよ。じゃあ、俺も着るよ」
「どうぞどうぞ」
「……」
「……」
「あの、美弥子さん? 俺、着替えるから」
「ん? あ! わ、わかりました。し、失礼しました」
美弥子はようやく気がついてくれたようで、顔を赤くして部屋を出て行った。
「……ま、いても構わないんだけどな」
俺は浴衣を取り、少し急いで着替えた。あまり美弥子を一人で外にいさせたくない。
「……こんなもんか」
多少不格好だが、まあいい。
「美弥子、もういいぞ」
俺は戸を開けて、待っていた美弥子に言った。
「おー! つっきー、似合っていますね」
「そうかよ。ほら、もう入っていいぞ」
「あの、つっきー」
「ん?」
「まだ時間はありますか?」
俺は携帯を見た。まだ夕食にも風呂にも少し早い。
「別に大丈夫だけれど?」
「じゃあ、お散歩しませんか?」
「散歩?」
「さっきここを旅館の方が通られたので、どこか散歩にいい場所はないか聞いたのです。そしたら、ここは庭が広いからちょうどいいだろうって。どうですか?」
「いいよ。行こうか?」
「はい!」
俺は美弥子の手を取り、ゆっくりと歩き始めた。




