十一章・4
「……ん? おう! 久しぶりの客だ。おい、キヨ! 客だぞ客!」
「え? あら本当! いらっしゃいませ」
お店の戸を開けると、そんな騒がしい声に迎えられた。
「……」
でもその時のあたしは、不貞腐れて、愛想がなくて、元気がなくて、挨拶の一つもなくつっ立っていた。
「どこでもいいから、座ってね」
奥さんはそんなあたしにも優しく接してくれた。でも、その時のあたしには、優しさなんて煩わしいだけだった。
「これメニューだから、決まったら呼んでね」
「……全部」
「え?」
「全部、ください」
「ぜ、全部って、描いてあるの全部!?」
奥さんが驚いたように言った。そりゃそうだ。
あたしもなんだか上の空だった。別に困らせてやろうなんて思っていなかった。口と喉だけが勝手に動いている感じだった。
「うん。そう。全部。お金なら、あるから」
「お金があるって言っても、で、でも……」
「わかったよ。俺は構わない。作ってやる」
奥さんが困っていると、おじさんが厨房から出てきてそう言った。
「あ、あなた……」
「ただ、約束してほしい。作ったものは、全部食べること。それが守れるのなら、作ってやろう」
「わかった。食べるから、作って」
あたしがそう言うと、おじさんは厨房にこもった。
きっとこの時おじさんは、あたしに何か事情があることを、察していたんだと思う。
でもおじさんは、何も言わずに料理を黙々と作ってくれた。
「はい、お待ちどうさま。まず、中華麺と炒飯、それとから揚げ」
しばらくすると、奥さんがお盆に料理を乗せて運んできた。
「……どうも」
「まだまだ出てくるけれど……」
「大丈夫です」
心配そうに言った奥さんにあたしはそう言って、食べ始めた。
「いただきます」
まずあたしは、背脂が驚くほど浮いているラーメンのスープをすすった。
それは、お父さんの拘りだった。お父さんはいつも、スープを最初に口にして、そうして食べ始めた。
そのスープが口に入った瞬間、あたしの目から涙が一つこぼれた。
「まずはスープにこんにちは、をしないと。それが僕のポリシーだ」
お父さんがそう言って笑っていたのを、思い出した。
「あ、あらあら! だ、大丈夫? お口に合わなかったかしら?」
奥さんは慌てたようにおしぼりを持ってきてくれた。
「ち、違うんです。そういう……わけじゃ……」
一粒の涙が呼び水となったのか、あたしの目からまるで湧き出すように涙が出てきた。
まるで走馬燈のように、お父さんとの思い出があたしの頭の中を駆け巡っていった。
お父さんと遊んだ。お父さんと話した。お父さんとケンカした。お父さんとご飯を食べた。
それら一つ一つの、何でもない思い出が、素朴な味のスープが鍵となったようにして、頭の中に次々と浮かんでいった。
「ご、ごめんなさい……困らせてしまって。ごめんなさい。……全部は、食べきれません。でも、お金は払います。本当に、すみませんでした。ご迷惑を……」
「だめだな、嬢ちゃん。お金で解決しようだなんて、そいつはだめだ」
あたしが奥さんに謝っていると、両手に大量の料理が乗ったお盆を持ったおじさんが厨房から出てきた。
「で、でもあなた。この子にはきっと、何か事情が」
「事情があろうが約束は約束だ。それに、作ったものを捨てるわけにはいかねえ」
おじさんはあたしの目の前に次々と料理を並べ、置ききれないと見るや、別のテーブルを引きずってきて横に並べ、そこにも料理を並べた。
「……そう、ですね。約束だから、あたし食べます。時間かかるけど、食べます」
無理やりにでもお腹に詰め込んで、食べないと。ご飯を粗末にしたら、それこそお父さんに怒られちゃう。
「む、無理だわ。こんな量、一人でだなんて」
「おいキヨ、誰が一人でだなんて言ったよ?」
おじさんはそう言うと、椅子を持ってきて座り、そして箸を持った。
「俺たちも一緒に食ってやるよ。……ついでに話くらい聞いてやる」
「え……?」
「キヨも座れ」
「わかったわ」
奥さんも、椅子をもってきて座った。
「……嬢ちゃん、伊嶋さんとこの子だろ?」
突然そう言ったおじさんを、あたしは目を丸くして見た。
「どう、して?」
「伊嶋さんは、ここの常連だったんだ。唯一のな。それである日、写真を見せてくれた。嬢ちゃんと、伊嶋さんの奥さんと息子さんが写っている写真だった。伊嶋さんは、これは僕の宝物なんだ、って嬉しそうに言ってた」
「あ、この子がそうだったのね。大きくなったわね」
「この写真では、まだヒナみたいだからな」
おじさんはそう言うと、ポケットから小さな紙を取り出した。
「伊嶋さんが亡くなる前、最後にこの店に来たときだ。伊嶋さんは俺にこの写真を渡した。君に持っていてほしい、って言われてな。……くそっ。断っときゃよかった。まるで形見みたいに残していきやがって」
おじさんは歯を食いしばって、写真に目を落としていた。
その目には薄っすらと、涙が滲んでいた。
「こんなかわいい嬢ちゃん残して、あの人はいったい何考えてんだ。伊嶋さんは、生きなきゃいけない人なんだ。なのに……」
おじさんはうつむいて肩を震わせていた。奥さんも、ハンカチを目に当てていた。
「……ありがとうございます」
あたしの口から、自然とその言葉がこぼれた。
「お父さんのこと、そんなに思ってくれて。悲しんでくれて」
「何言ってんだ。当たり前のことだ。礼なんかいらねえ」
「そうよ。この人の言う通り。ほら、せっかくの料理が冷めちゃうわ。たくさん、食べてちょうだいね」
「そうだな。悲しい時はたくさん泣いて、たくさん食う。泣いて、食って、それでまた笑う。それが人間ってもんだ」
そして、あたしたちはお父さんの思い出話に花を咲かせながら、ゆっくりとご飯を食べた。
あたしの知らないお父さんのことを、いっぱい聞けた。
「ごちそうさまでした」
「おう。ありがとな」
「お粗末様でした」
「いえ、全然そんな。おいしかったです。また来てもいいですか?」
「ええ。もちろんよ」
「ああ。いつでも来てくれ。待ってるからよ」
○
「そうして、あたしはここに通うようになった。二人に子どもはいないから、あたし、ここの娘みたいな扱いをされるの」
「もう一つの、お家があるということですね。素敵です」
美弥子ちゃんはそう言って笑った。
「あたしがここに来られたのも、偶然じゃなくて、お父さんが連れてきてくれたんだなって思えるよ」
偶然で済ますより、そっちの方が素敵だしね。
「今あたしたちが食べたこのメニューは、お父さんが来たときにいつも頼むメニューだったんだって」
おじさんが最初に出してくれたのも、これだった。たぶん、おじさんは最初から、気づいていたんだ。敵わないなあ。
そうして美弥子ちゃんと話をしながら食べて、あたしと美弥子ちゃんはほとんど同じタイミングで完食した。美弥子ちゃんが残さずに全部食べていたから、少し驚いた。
「どうだった?」
「とても美味しかったです。一咲子さんのお話も聞けましたし」
「よかった」
「特にこのラーメンと言うもの。初めて食べました。もっと早く知りたかったです。それくらい美味しかったです」
「……また、食べに来られたらいいね」
「そうですね。また、ぜひ」
「……おじさーん! 清美さーん! ごちそうさま! お会計お願い!」
あたしは大きく明るい声を出して、そう言った。
「おう。また来てくれよな!」
「またね。一咲子ちゃん。美弥子ちゃん」
「うん。またね」
「とてもおいしかったです。また、来ますね」
あたしたちが店を出てからも、二人は見送ってくれた。
ずっとずっと、大きく手を振って、見送ってくれた。
○
「ふう、楽しいね。美弥子ちゃんはどう? 楽しい?」
「はい。とっても楽しいです!」
あたしたちは食事のあと、いろいろなところを回った。
服屋さんでは、あたしが美弥子ちゃんに服を選んであげた。美弥子ちゃんは顔かわいいし、体も細めで、いろんな服が似合った。しばらく美弥子ちゃんは、あたしの着せ替え人形みたいになっていた。選ぶこっちの方が楽しんでいたかもしれない。
そこでは何着かの服を美弥子ちゃんに買ってあげた。お兄ちゃんと出かけるときに着る用だ。お兄ちゃんの鼻の下を伸ばした顔が目に浮かぶ。
ゲームセンターにも行った。美弥子ちゃんはもちろん入ったことがなくて、爆音の渦とライトの雨に目を回していた。
あたしたちはそこでプリクラを撮った。二人でいろんなポーズを取って、落書きだっていっぱいした。美弥子ちゃんは、出てきたプリクラを大切そうにかばんにしまっていた。もちろんあたしも、これは本当に大事にしたい。一生の宝物になると思う。
そして今は、喫茶店に入って休憩している。さすがに疲れた。
「本当に、今日はありがとうございます! つっきーとお出かけするのも楽しいですけど、一咲子さんとお出かけするのも、わたし大好きです!」
美弥子ちゃんは百万ドルの笑顔であたしに言った。やっべちょーかわいんですけど。惚れる。まじ惚れる。やばい。
まったく、本当にお兄ちゃんにはもったいない子だよ。
「……お礼を言うのはこっちだよ、美弥子ちゃん」
「え? わたしは何もしていませんよ?」
「してくれたんだよ。美弥子ちゃんが、お兄ちゃんに出会ってくれた。それだけで、お兄ちゃんも、あたしもお母さんも救われたんだよ」
「それは、いったいどういうことですか?」
あたしは不思議そうに問う美弥子ちゃんの目をまっすぐ見て、言った。
「お兄ちゃんに、笑顔を取り戻してくれてありがとう」
一月ほど前のお兄ちゃんは、全く笑わなくなっていた。
仕事とか人間関係とか、いろいろあったんだと思う。そういうので、お兄ちゃんはちっとも笑わなくなった。
いや、笑わないどころじゃない。
まるで、不治の病にかかった人や、多額の借金を抱えた人みたいに、絶望的に真っ暗な顔をしていた。
目には光が無くて、口数も極端に少なくなっていて、足取りもなんだか危うくて、あたしは見ていられなかった。
家族なのに、妹なのに、何もできなかった。
見ていることさえ、できなかった。
お母さんも、どうしていいのかわからないようだった。
それくらいにお兄ちゃんは、どん底だった。
「でも、どん底にいたお兄ちゃんを、美弥子ちゃんが引き上げてくれたんだ」
お兄ちゃんが美弥子ちゃんを初めて家に連れてきたとき、あたしは目を疑った。
お兄ちゃんの顔に、薄っすらと笑顔が浮かんでいたから。
だからあたしはあの時、お兄ちゃんに冗談を言えたんだ。
どれくらいかわからないくらい久しぶりに、あたしはお兄ちゃんをからかうことができた。
「美弥子ちゃんは、お兄ちゃんだけじゃない。あたしもお母さんも、救ってくれたんだよ。あたしたち家族に、美弥子ちゃんは笑顔をくれたの。本当に、ありがとう」
「いえ、そんな! わたしこそ、たくさんのものをもらいました。つっきーからも、お母様からも、それに一咲子さんからも。わたしからも、ありがとうございます」
「それじゃ、あたしと美弥子ちゃんはおあいこってことだね。いや、交換かな。幸せを交換したってことだね」
「それは素敵ですね。幸せの交換ですか。なるほど……」
そしてあたしたちは顔を見合わせ、笑いあった。
「お待たせしました。パンケーキになります」
すると、店員さんが、クリームがたっぷり乗ったパンケーキを二つ持ってきた。
「こ、これはいったい?」
「パンケーキって言うんだ。要はホットケーキだね」
女子高生はなぜかホットケーキって言わない。パンケーキって言う。女子高生語は異音同義語が多いから困る。女子高生語検定とか、不合格者続出だぜ。
「上に乗っているのは?」
「生クリームだよ。黄色いのはハチミツ」
「こ、こんなにクリームが!?」
「これを食べると、次の日から節食生活が始まるんだよねー。さて、食べようか!」
「は、はい。……どうやって?」
あたしは、目の前のパンケーキに悪戦苦闘している美弥子ちゃんを見て、思った。
ありがとう、美弥子ちゃん。
本当にありがとう。
元気でね。
さよなら。




