十章・4
それから美弥子は、再び本棚の間を行き来しながら本を探し、そして選んだ一冊を持って、俺の傍にやってきて、真剣な顔で本を読んでいた。
美弥子はこれを何度も繰り返していた。
美弥子は、驚くほど読むのが早い。
俺がさっき三時間で読み終えたのと同じくらいの厚さの本を、美弥子は三十分ほどで読んでしまっていた。
それで内容が頭にちゃんと入っているのかと思って、読み終えた美弥子に感想を聞くと、美弥子はすらすらと答えた。このページのこの行がどうだった、この時の主人公はこうだったと、よどみなく答えていった。
美弥子は笑顔で感想を言い、それが満足すると、また新たな本を求めて本棚の森に旅立って行った。俺はそれを見送った。
本を選ぶ美弥子は、とても楽しそうだった。
静かに本を読む美弥子は、美しかった。
感想を語る美弥子は、眩しいくらいに笑顔だった。
美弥子は、俺なんかよりもよほど、人生を楽しむのが上手だろうな、と思った。
でも、さっきの美弥子の様子は、何かありそうな感じだった。
美弥子が、何を抱えているのか。
何を、背負っているのか。
俺にはわからない。言ってくれないとわからない。言ってくれても、わからないかもしれない。
無理に聞こうとも思わない。しつこく問うたりもしない。
でも、それでも俺は、何かできるのなら。
美弥子のために何かできるのならば。
……これは、美弥子のためではないのかもしれない。
俺のため。
何も持たない俺のため。
美弥子がいるから、俺がいる。
美弥子がいてくれるから、俺は今日を生きられる。
美弥子はもう、俺にとって、俺の生きる意味だ。
「美弥子」
「ん? 何ですか?」
俺が小さな声で呼ぶと、美弥子は顔をこちらに寄せて小さな声で言った。
「美弥子は、誕生日はいつだ?」
「わたしの、誕生日ですか? …………ちょうど、来週です」
「そうか。……十六になるんだよな?」
「はい、そうです。……あっ! つっきーもしかしてあれですか!? 巷で噂のサプライズパーティーとかいうのですか!? やだもう、わたしは普通にしてくれればそれでいいですよう!!」
「うるさい。図書館だ。静かに」
「あ、す、すみません……」
「まあとにかく、わかった」
用意を、しなくては。
○
「美弥子ちゃん、念願の図書館はどうだった?」
「すっごく本がいっぱいありましてですね! どれを読もうかすっごく迷ってですね! 迷う時間ももったいないから片っ端から読みまくりましたです!!」
「美弥子ちゃんが興奮しすぎて言葉がちょっとおかしい……」
夕食後。
美弥子と一咲子はテーブルでお茶を飲みながら、今日のことを話していた。
「それで、何冊くらい読んだの?」
「そうですね……。二十冊くらいですね」
「……え?」
「あ、二十四冊でした」
「え、あ、え? ちょ、ちょっと待って。き、今日一日で?」
「はい、今日一日で。でも、もう少し読みたかったです」
「その辺に昨日買ってきた本と、今日借りてきた本がまとめて置いてあるから好きに読め」
俺はソファにだらしなく寝転がりながら適当に言った。
「ありがとうございます、つっきー」
「うっそ美弥子ちゃんまだ読むの? すごっ……」
「読める限りは読みたいですから」
「そうなんだ。……ところで、あたしとお話するのと本読むの、どっちが楽しい?」
「うっわ、めんどくさいな、一咲子は……」
将来男ができたら困るぞ。よし、そうならないように俺が目を光らせようそうしよう。これは断じて相手のためだ。一咲子のためではない。
「な、なかなか答えにくい質問ですね……」
美弥子も苦笑いを浮かべていた。
「だってだって! 美弥子ちゃんとお話しできるの夜だけだし! なんやかんやでいつもお兄ちゃんと一緒にいるから、あたしと二人でお話ってあんまりないし!」
一咲子は駄々っ子のように手を振って言った。いくつだ、まったく。
「わ、わたしは、その、同年代の女の子とお話するってほとんどありませんでしたから、楽しいですよ! 一咲子さんとお話、楽しいです!」
「読書とどっちが楽しい?」
「うっ、そ、それは……」
美弥子は答えに詰まったように声をしぼませた。
「うわーやっぱりー! でも美弥子ちゃん素直でかわいいから許すー!」
一咲子はそう言って美弥子に抱きついた。もうどっちが年上だか年下だかわからない。
まあ、もうこの二人の間には、歳なんて関係ないだろうけれど。
「ところで美弥子ちゃん、次はどこに行くの? 今までは確か、遊園地、動物園、水族館、映画館、美術館、本屋さん、それで今日の図書館だよね?」
「はい、そうです」
「それで、次は?」
「次は、えっと……」
美弥子は自分のカバンからピンクの手帳を取り出し、確認した。
「次は旅館ですね」
「りりりりょ、旅館んんんんっっっ!?」
美弥子が手帳を見ながら言うと、一咲子は大声をあげて大仰に驚いた。
「何だ一咲子? 夜に大声を出したらご近所さんに迷惑だろう」
「ででででも! 旅館って、その、二人、きりで?」
なぜ一咲子は二人きりなどと言うんだ? 二人でいいだろうに。
「そのつもりだが? 何だ、来たいのか?」
なら日程を調整して土日にしないといけなくなる。
「いや、そういうことじゃなくって……、あたしが言ったらむしろ二人の夜の邪魔というか……じゃなくって! ……えっと、日帰り?」
「せっかく行くんだ。一泊してくるつもりだ」
「あ、そうなんだ。へえ……そう……」
一咲子は蚊の鳴くような声で言うと、どうしてか顔を赤らめて下を向いてしまった。
「もじもじしてどうした? らしくないな。まあ、とにかく次は旅館だな。そう言えば、どうして美弥子は旅館に行きたいんだ?」
旅行に行きたいならまだわかるが、どうしてピンポイントで旅館なんだ? 宿泊することが目的の旅行って、あんまり聞かない気がするが。
「えっとですね。まずですね、旅館というところには、泳げるほど大きなお風呂があるそうです。温泉と言うところがあるそうなので、そこに行ってみたいな、と」
「なるほど。確かにでかい風呂は、いつもとはまた違って気持ちがいいからな」
足を伸ばして入る風呂の魅力は、ぜひ知ってもらいたい。
「あと、その土地のおいしい料理がたくさん食べられるとか」
「山の近くなら山の幸。海なら海の幸。うまいものが食えるところに行こう」
「それと、浴衣? なるものが着られるのも魅力ですね」
「まあ普段着るものじゃないしな。よしわかった。でかい風呂があって、美味い料理が食えて、それで浴衣が着られる旅館を探しておく」
「お願いします!」
「予約とか準備があるから、行くのはたぶん明後日かもっと先くらいになるけれど、いいか?」
「大丈夫です!」
「わかった。明日何日か空くけど、我慢してくれ。……あ、そうだ。一咲子」
「お兄ちゃんと、美弥子ちゃんが、大人の、階段を……ああ……」
一咲子は頭を抱えたまま、何事かを唱えていた。
「一咲子、どうしたんだ? さっきからブツブツと……」
「え? ああ、えっと、なんでもない。で、何?」
「明日俺は用事があって美弥子の傍にいてやれないから、一咲子がいてくれないか? 明日休みだろ?」
「え、あ、うん。わかった」
「頼んだ」
俺は俺で、結構やることがあるからな。
ああ、忙しい忙しい。
ついこの前まで、死のうとしていたことが嘘みたいだ。
まったく、誰のおかげだろう。




