七章・2
「ま、マンボウ!」
「マンボウだな」
水族館に入った俺たちを最初に出迎えてくれたのは、独特のフォルムのマンボウだ。
「マンボウ知識は何かあるのか?」
「話せば長くなるくらいには」
「じゃあ、厳選してくれ」
「わかりました。……マンボウと言う漢字は知っていますか?」
「漢字?」
俺は泳いでいるマンボウを眺めながら考えたが、全くわからなかった。魚偏の横にいったい何がつくのだろうか?
「翻る車の魚、で翻車魚です」
「魚偏ですらなかったか」
「インターネットではよく、史上最弱の魚としてネタにされているそうですが、そこまで弱くはないですよ。それなりに弱いですけど」
「弱いのは弱いんだな」
「すぐ水槽に体をぶつけてけがをしますし」
「ぼうっとした顔をしているからかな」
すると俺たちの目の前で、マンボウがちょうど体を水槽にぶつけそうになって、慌てたように方向転換していた。
○
「順路がわかりにくいな」
「どっちから行きますか?」
「それじゃあ、外を全部見て回った後に館内にあるものを見ようか」
この水族館は屋外の展示と、館内の展示の二つに分けることができる。まず初めに屋外をぐるりと回った後に、館内を見ることにした。
「それじゃあこっちだな」
俺は美弥子の手を引いて歩き出した。
「こっちは……おお、見てみろ美弥子」
「こここれは! イ、イル、イルカさんです!!」
大きな水槽の中を二頭のイルカが泳いでいた。
「わっわ! 早いです! すっごく早いです!」
「すごく早いな。どのくらいの速さで泳げるんだ?」
「普通は時速五キロから十一キロですね。ですが短時間なら時速四十五キロ出せます」
「水中で車並みの速度か。すごいな」
「ちなみにシャチは時速六十キロから七十キロと言われています。最高速度は八十キロ後半まで出たとか」
「とんでもないやつだな、シャチ」
「でしょう!」
美弥子はなぜか得意げだった。
「あれ? あの階段は何だ?」
俺たちが見ている水槽の横に、上に上がるための階段があった。
「行ってみましょう」
「そうだな」
俺たちは階段を上った。
「ここは?」
「ああ。なるほどな」
そこには階段状に並べられたベンチがあり、その前には俺たちが眺めていた水槽があった。
「さっき言っていたイルカショーはたぶん、ここでやるんだ」
「こ、こんなに近いのですか!?」
「ま、まあ、けっこう近いな。大丈夫なのか?」
水しぶきがまともにかかりそうだ。
ベンチの近くには看板が立てられていて、そこにはショーの時間が書かれていた。
「ショーはまだみたいだな。ぐるっと回ってきた頃には見られると思う」
「あとのお楽しみですね!」
「そうだな」
俺たちは階段を下り、先に進んだ。
○
「これが、海……」
「今日は穏やかだな」
俺たちの目の前には、どこまでも広がる日本海がある。いつも荒々しい日本海には珍しく、穏やかな表情を俺たちに見せていた。
「海……」
「美弥子?」
美弥子のほほを、一筋の涙が流れていった。
「あ、あれ? なんでしょう、これは?」
美弥子は目をそっとぬぐったが、また静かに涙がこぼれていった。
「不思議ですね。海を見ていたら、なぜか涙が出てしまいました」
「……不思議だな」
「どうしてでしょうか?」
「わからない。……わからないけど、気持ちはわかる」
「そうですか。この世界にはまだまだ、不思議なことがあるみたいですね」
「そうだな。不思議なことだらけだな」
「もっと、見てみたいですね。この世界の、不思議なものを、不思議なことを」
俺の手を握る美弥子の手に、ぎゅっと力が入った。
「……もっと、見ようか。いろいろなことを、これから」
俺も、手に力を入れた。
「お願いしてもいいですか?」
「何を?」
「わたしに、いろいろなことを見せてください」
「それは、俺の生きる意味だからな。今さら頼まれることでもない。けど、わかった」
「ありがとうございます」
俺たちはしばらくその場で、海を眺めていた。
海は、何も言わずに、ただただそこにいてくれた。
○
「ゴゴゴ、ゴマ、ゴマ!?」
「どうした?」
「ゴマフ、ゴマフアザラシです!」
俺たちの前には、飼育員の手から魚をもらっているゴマフアザラシがいた。本当に、触れるくらいの距離である。白い台の上で、もぐもぐと食べている。ちょうどエサやりのタイミングだったようだ。
「どうぞ~優しく触ってみてください」
「さ、触れるのですか!?」
「そうですよ。さあ、どうぞ~」
美弥子は恐る恐る手を伸ばし、アザラシの腹に手のひらを優しく当てた。
「どうだ?」
「き、気持ちいいです~」
「そうかよ」
美弥子は当てた手を、ゆっくりと動かした。
「うわ~いいです~、いいですよ~」
美弥子はうっとりとした声でアザラシをなでていた。
「それではお食事タイムは終了です。引き続き、館内をお楽しみください」
飼育員の合図で、アザラシはプールの中に帰っていった。
「すごかったです! すごかったです!」
美弥子はその場でぴょんぴょんと跳ねながら喜びをあらわにしていた。
「そうかよ。よかったな、触れて」
「はい!」
「さて、それじゃあ次に……ん?」
「どうしました?」
「いや、こっちには何があるのかな?」
アザラシにプールの横に、ちょっとした通路があり、それはプールの奥に続いていた。
「行ってみるか」
美弥子がうなずいたので、俺は手を引いて奥に入っていった。
「ここにもプールが? お!」
「あ、あれは、アザラシの、赤ちゃん!?」
小さめのプールの外で、真っ白な大福のような生き物が転がっていた。
俺たちが驚いていると、フェンスがガチャリと空き、そこから先ほどエサやりをしていた飼育員が入ってきて、その大福の横に座った。
飼育員が小さな魚を出すと、大福は口を大きく開け、それを口に入れてもらっていた。
「アザラシの赤ちゃんの、エサやりか」
「これは、なかなか見られるものではないですよ」
俺たちは顔を寄せ合い小さな声でそう言った。赤ちゃんをあまり驚かせてはいけないと俺は思ったし、きっと美弥子も思ったのだろう。
「かわいいですね」
「そうだな」
それを最後に、俺たちは黙って赤ちゃんの食事を見守っていた。
食事が終わると、赤ちゃんは眠そうに目を細めた。
飼育員がフェンスを開けて出るときにこちらをちらりと見て、少し頭を下げてきた。
俺たちも、慌てて頭を下げた。
飼育員は微笑むと、フェンスから出て行った。
「俺たちも行くか」
「そうですね。お昼寝の邪魔をしてはいけませんね」
最後に赤ちゃんの方を見ると、赤ちゃんは、大福に戻っていた。
○
「あれは?」
「フラミンゴ、ですね……」
「ここって水族館だよな」
「そのはずです」
アザラシのプールから離れ、しばらく歩くと大きな檻が見えた。そしてその中には、ピンク色の大きな鳥が立っていた。
「まあ、いてもいいんだけどよ」
「そうですね。お得ですね」
何とも言えない何かを抱えながらフラミンゴを見た後、さらに奥に進んだ。
するとすぐに、円形の建物が見えた。
「ここには何がいるんだろうな」
「大きな水槽ですね。あ!」
美弥子が指さす先には、大きな甲羅を背負ったカメが泳いでいた。
「ウミガメです!」
「大きいな」
「ん? これはなんでしょうか?」
美弥子の視線の先には、自動販売機のようなものが置いてあった。
「……レタス?」
その中にはカットレタスがかごに入れられていて、一つ五十円ほどだった。
「あ、つっきー、これですよ」
美弥子は横にかかれているポスターを指した。
「なるほど、エサか」
そこには自動販売機の中のレタスはウミガメのエサであり、自由にあげてもいいということが書かれていた。
「あの、つっきー」
「いいぞ。買おう」
俺はすぐに五十円を入れた。すると下からゴトンと言う音とともに、かごに入ったレタスが出てきた。
「そこの階段を上って、水槽の上からあげるんだな。そのトングを使うのか」
俺は自動販売機の横に掛けられたトングを美弥子に渡した。
「じゃあ、行ってきますね!」
「気をつけろよ」
美弥子は階段を上り、レタスを一切れトングでつかむと、そっとウミガメの方に近づけた。
ウミガメは水面から首を伸ばし、ばくっと食いついた。
「す、すごいです! 見ていましたか?」
「ああ」
「あごの力が強いですね。トングごと持っていかれそうでした」
「大丈夫か?」
美弥子の体は軽いから、カメに引っ張られて水槽に落ちでもしたら大変だ。
「はい。もう一つ……」
美弥子はもう一度ウミガメにレタスをあげた。ウミガメは同じように食いついた。なかなかの迫力だ。
「ふふふ~、これですか? これが欲しいのですか~?」
「いったいそれは誰の真似だ?」
どこで覚えるんだ、そんなの。
○
「あ、これは知っている」
「ドクターフィッシュですね!」
「こんな小さな水族館にいるものなんだな」
有名な水族館にしかいないものだと勝手に思っていた。
「さっそく手を入れてみましょう!」
「そうだな」
俺は腕まくりをして手を水槽の中に入れた。
美弥子も俺の隣でわくわくとした顔で手を入れていた。
「おっ、おっ」
なかなか変な感覚だ。こそばゆいような、気持ちいいような。
「あっ、んん、あん、やん」
美弥子も横で手をドクターフィッシュに突っつかれ、こそばゆいのか、色っぽい声を出していた。
「変な声を出すな」
「変な声?」
「わかっていないならいい」
「それにしてもつっきーの手にはよく集まっていますね」
たしかに美弥子の手に寄ってくる魚よりも、俺の手に寄ってくる魚の方が少し多かった。
「よっぽど汚れているのですね」
「違う。美弥子よりも手が大きいだけだ。その面積分多く寄ってくるだけだ」
「では比べてみましょう」
美弥子は片手を水槽から出し、俺の方に手のひらを広げて向けてきた。
俺も手を出し、美弥子の手に当てた。
「あはっ、やっぱり男の人ですね。大きな手です」
美弥子はなぜか嬉しそうに言って笑った。
「……もういいか?」
「そうですね。そろそろ違うところに行きましょうか」
そういうつもりで言ったのではないのだが。
美弥子は俺の手から手を離し、立ち上がった。
「手を洗わないといけませんね」
「そうだな。生臭くなってしまう」
「あ、決してつっきーの手を触ったから手を洗うというわけではないですよ?」
「わかっている」
むしろそれは言った方が失礼だ。
俺と美弥子は同じ部屋にある手洗い場で石けんをつけてよく手を洗った。
「美弥子、腹、減らないか?」
「そういえばもうそんな時間ですね」
美弥子は俺の手首に巻かれた時計を見て言った。
「昼飯、食べに行こうか」
「はい! どこに行くのですか?」
「ついて来い」
俺は会えて美弥子に何を食べるのかを伝えなかった。
驚く顔が見たくて。




