第5話:せめて、人間らしく
人間でありたい。
その切実な渇望は、唐突に脳裏をよぎった。
いや、違う。この世界に降り立った瞬間から、あるいはあの暴走トラックに跳ねられた時から……いや、もっと前から、僕の心の奥に澱のように溜まっていた、本能的な悲鳴だ。
マモルはいつものように、定点観測の如く丘の上の虚空に浮かびながら、ぼんやりと思考を巡らせる。
触れれば、万物は塵となる。
動けば、世界は滅びを迎える。
ここは、僕という「異物」を許容するには、あまりにも脆すぎる器なのだ。
(……でも、せめて。パンツくらい、履きたいんだ)
贅沢は言わない。
それは、僕が神ではなく人間であるという最後の砦。
最低限かつ、最優先のプライバシー。
僕は意を決して、テレパシーを飛ばした。
(ルリ)
「なに?」
(パンツ、履きたい)
「……なにいまさら。もっと高尚な相談かと思ったんだけど」
ルリはマモルに【物質生成】で作らせたポップコーンを口に運ぶ。
(いや、ずっと……。一分一秒、欠かさず思ってたんだよね)
重苦しい沈黙が、丘の上を流れる。
「……そっか。そうだよね。ごめん、知ってたはずなのに。デリカシーなかったね」
「つまり」
ルリが地面に座り込み、小枝で地面に図形を描き始める。
「マモルが自分の意思で動くと、その運動エネルギーだけで世界が消し飛ぶ。だから、自分の手で履くのは物理的に不可能、ってことだよね」
(そうだね。僕の指が布に触れた瞬間、それは分子レベルで分解されるから)
「じゃあ、動かずに履けばいい」
(論理的には、そうだけど)
「どうやって? 魔法?」
(……)
マモルは、演算能力をフル回転させる。
この世界に来て培った、【空間操作】による繊細な調整。
少しでも間違えると世界が滅ぶデリケートな操作は、かつて人類が月へ向かった時よりも、遥かに高度で緻密な計算を必要とした。
(パンツを、前と後ろで分けるしかない)
「……分ける?」
(パンツを、前面パンツと、後面パンツに分ける。それを【空間操作】で僕の腰の位置に持ってきて、その場で再結合させるんだ)
「すごい……そんなパンツの履き方、私知らない」
(そして重要なのは、肌に触れさせないことだ。触れた瞬間にパンツが滅ぶ。
だから、肌から数ミリの間隔をあけて、パンツを常に浮遊させるという状態を目指す)
「それ、本当にパンツなの……?」
(それでも、結果的に僕の下半身を守れれば、それはパンツだよ。僕にとってはね)
【物質生成】。
マモルの意志に呼応し、虚空に純白の布が編み上げられていく。
丈夫で、それでいて肌触りはシルクのような、至高のパンツパーツ。
前面パンツ。
後面パンツ。
(これを……空間を歪めて、前からスライドさせる。同時に、後ろからもスライドさせて……中央で、合体する)
「……これ難しくない? 一発で針の穴に糸を通すよりずっと難しい気がするんだけど」
(僕ならやれる。やれる……と思う。ただ、一つ重大な問題がある)
「なに?」
(現在、僕の股間は、僕自身の両手によってガードされている)
「うん」
(パンツを装着するためには、一瞬、手をどかさないといけない)
「…………あー」
ルリは、苦虫を噛み潰したような顔をして、視線を泳がせた。
「それは……ちょっと、問題あるね。いろんな意味で。物理的にも、人権的にも」
(……あるよね。非常に、ある)
再び、気まずい沈黙。
ルリが意を決したように、ローブのフードを深く被り直した。
「私、目閉じるから。絶対に開けないから。……いいよ、やって」
(……ありがと、助かる)
マモルは、固定していた【空間操作】の一部を解除した。
腕を動かすのではない。腕が位置する空間そのものを、ミリ単位で少しずつ入れ替え、ずらしていく。
股間から、手が……離れる。
その一瞬。
世界が、悲鳴を上げるように軋んだ。
大気が激しく震え、遥か彼方で雷鳴が轟き始めた。
(耐えろ……世界、耐えてくれ……!)
前面パンツを、繊細なガラス細工を扱うような慎重さで接触させる。
ほんの少しずつ空間を歪め、皮膚に触れるか触れないかのフェザータッチの臨界点で押し当てる。
(いい感じだ。摩擦係数、許容範囲……。行ける! 守るんだ。僕の股間を……人間としての尊厳を、守るんだ!)
後面パンツも同様に。
ゆっくり。
真綿を扱うように、しかし精密にお尻を包み込む。
(あと少し……ここで前後を【物質生成】で結合すれば……)
合体。
――しない。
(あれ)
空間の歪みに、わずかな「揺らぎ」が生じた。
前面パンツがずれていたのだ。
ほんのコンマ数ミリ、マモルのマモルのポジションが悪かった。
物理法則のいたずらか、純白の前面パンツが、ひらりと力なく落ちていく。
(あーーーーーーーーっ!!)
あまりの事態に、マモルの「思考」が乱れる。
次の瞬間。
顔を覆ったルリの指の隙間から、二人の視線が交わった。
マモルの思念を拾ったルリが、うっかり目を開けてしまったのだ。
一瞬の沈黙。
状況の理解。
そして次の瞬間、マモルの羞恥は臨界点を突破した。
パンツは粉々に弾け飛び、世界は光に包まれ無へと還った。
丘の上。
マモルは、完璧に元通りの全裸で股間を隠したポーズで浮かんでいた。
(…………)
「…………」
ルリは地面に座り込んだまま、一言も発しない。
(……見た?)
「……見た」
(ごめん)
「いいよ。私こそごめん。……災難だったね、世界も。マモルも」
ルリは気まずそうに笑い、ポップコーンの箱で口元を隠した。
「……ちょっと、びっくりしただけだから。その、形状というか。神様だけに神々しいっていうか」
(やめて、死にたい。……これ無理だな。僕がパンツを履くという行為自体が、この世界の理に反しているみたい)
「この世界、マモルにパンツを履かせるようにできてないんだよ」
(……普通の人間には、戻れないのか)
「どんまい」
(……パンツは、重要なんだ。僕が人間であるための、最後の尊厳なんだ)
「うん……わかるよ」
ルリは立ち上がり、マモルと背中合わせで歩み寄った。
ポップコーンを空に放り投げ、ぱくっと口で器用にキャッチする。
「でもさ。パンツを履いてても、履いてなくても。……マモルは、マモルだよ。私に名前を教えてくれて、ポップコーンを作ってくれた、変な破壊神」
(うん……ありがとう)
でも、一人じゃない。
それが今のマモルの確かな救いであり、パンツよりも大事なもののように思えた。




