その十一
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通勤の経路、私はよく空を見上げます。開けている場所もありますが歩く道の多くは左右に建物が並んでいますから、建物に拠って区切られた空ですが。でも不図思いました。私が空を見上げる時というのは如何なる時なのだろうかと。私は家に、私の生まれた家に帰りたい時に空を見上げるのでしょうか。それもあると思います。けれども若い日に旅に出たその時の事を想っている時もあります。だから必ずしも私の故郷に帰りたい時ばかりという訳でもありません。そのうちに思いました。私は昔子供だった頃の、一番本来の私に戻りたい時に空を見上げるのではないかと。生まれた家に帰る時も、念願の遠い旅に出ていた時も、そして仕事が嫌だと思う時も、これなら全部理屈に合います。本当にそうなのかも知れません。
しかしここで最も大事なのは、私は現在の暮らしの中で本来の自分で居る事が出来ている時間というのがまだ多くないという事でしょう。だからそういう自分を取り戻したいと思って空を見上げるのだと思います。従って私の生活はまだ改善されなければならない、そういう事なのだと思います。まだ大事な部分が『間違っている』のでは。斯ういう事を通じて私は時々自分の事を反省するのです。
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よく鉄道ファンが線路に入り込んだり他人に迷惑な場所に陣取って写真を撮ろうとしますね。時々問題になっていますが。どうしてあんな事をするのでしょうか。鉄道の好きな私ですが、あれは阿呆かと思います。そんな事を敢えてしなければならぬ切実で切羽詰まった理由が解りません。別にいいではありませんか。写真一枚撮る事が出来なくても。自分の心に蔵い込むという事が出来ないのでしょうね。
写真を見て後で懐かしむ、その慰めは私も知っているつもりです。ですが大事な大切なものは写真にでも録音にでも留める事が出来ません。それはその時の自分の気持ち、不安、願い等の主観と、それらの映像情景や音声更には匂いや明るさまでもが全部一つとなって、自分の心の中に納める事が出来るだけです。人の心に残る『記憶』とはそれです。既に映像と音声だけではありません。それらの客体のみならず自分の主観が大きく混じっています。そしてそうであるからこそ自分の中で死ぬ事をせず、消えて無くなる事がなく、ずっと生きてそれを抱く人に慰めを与え続けるのです。私は記憶というものをそんな風に思います。何かの証拠を示す様な、所謂『情報』を伝える物証としての写真ならばいざ知らず、何かを心残す為の行動は、人が切なく、愛情を込めて、惜しむ心いっぱいに、それを見詰める事ではないですか。先ずそれが出来ぬ事を嘆くべきです。
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私は宝籤のみならず当てものは全然駄目なのです。子供の頃から当たった事がありません。全部外れでした。ところが努力した結果というのはあまり無駄になっていません。何らかの成果に結び付いています。
そんなものでしょうか。いや、何か感じます。私の感覚が何か言いたそうにしています。面白いでしょう。
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コマーシャル、宣伝広告の世界、或いは流行を追ってそれを文章にしていく作家の世界、何んなものでしょうか。現状の把握と未来の予測、そして自らの観点の絶えざるアップデート、そういう事で毎日へとへとなのではないでしょうか。これらの仕事は流行に乗りまた新たな流行を創る仕事です。休みなど無いのが当然なのだと思います。意義というものは後方に消え去って最早見えません。必要ありません。その仕事の成果たる、大きな収益の為には。
私ならその忙しさも然る事乍らその感覚、そういう事に懸命になる価値観に従いていけません。収益収入の為には人生を『犠牲にしても可い』のでしょうか。それで数億数十億のお金を手にしたら、自分の人生の時間も労力もその事に用いた甲斐があると後になって顧みる事が出来るのでしょうか。不思議と謂うより不可解です。私が憧れたものはそんな機械的な顔をしていませんでしたから。もっと愛情と切なさの涙に濡れたものでした。もっとずっと感情的なものでした。私は自分が小さな子供の頃にして既に大切な事を教え伝えてもらっていた事に衷心から感謝します。それは私の一生の方向を強力に確実に決めました。それも私自身の心からの納得と共にです。私は私に与えられていたそれが『間違っていなかった』事をしょっちゅう思います。これの上にであれば私は自分が納得するものを建てようという気持ちが起こります。
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