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……俺を呼ぶ声がする。和泉さんの声だ。どうして――ああ、俺、あれから寝ちゃったんだ。
目を覚まして起き上がり、和泉さんの手を掴む。
「おはようございます、和泉さん」
「おまっ……」
何事もなかったように言った俺に、和泉さんは腹を立てたみたいだ。俺を睨んでいる。
「……オレと別れた後、何があったのか説明しろ」
「あ、はい。救急車に乗った後、俺はそこで治療してもらいました。両頬のガーゼはその時のものです。それで、病院に着いた時ロビーのソファに座ったら、その柔らかさに負けて寝てしまいました」
救急車には同乗者は一名だなんて、盲点だった。
「ばかっ……やろうっ」
ポカポカと、軽く握られた拳で胸を叩かれる。
「痛いですよ、和泉さん」
「当たり前だ。散々心配させやがって……」
和泉さんは涙を浮かべながら、ぽすん、ともう一度俺の胸を叩く。
「タクシーで病院に着いたら、悠真が倒れてて心臓が止まるかと思ったんだぞ」
「すみません。あれ、でも和泉さんは財布を持ってたんですか」
「おれが払った」
タクシー代を払えたのかと思っていたら、顎に大きなガーゼを這った貝崎がやって来た。
「達哉、少し席を外してくれないか。こいつと話がしたい」
「オレ、ちょっと顔を洗ってきます」
和泉さんは目元を拭いながら、その場を離れた。代わりに貝崎が近づいてくる。俺の正面にあるソファに、どかっと座った。
睨んでくる貝崎を、俺も睨み返す。でもそれは数秒で、貝崎はふっと力なく笑った。
「達哉のことは、潔く諦める」
「えっ」
「一週間ぐらい前から、達哉がおれに連絡を寄越すようになった。あいつが望むまま喜んで会ってたが、達哉はいつも暗い顔をしてた」
「一週間? その前の週からじゃないのか」
「どうして」
「だってあんた、二週間前ぐらいから朝海園に来なかっただろ」
「二週間前は単純に忙しかっただけだ」
貝崎は俺から目をそらす。視線は和泉さんが曲がっていった方向だ。和泉さんの姿を追っているんだろうか。
「頻繁に連絡を寄越すから、てっきりおれの気持ちが伝わったのかと思ってた。でもそうじゃなくて、あいつはいつもお前のことばかり話してた」
「俺のこと……」
「お前に思いを寄せているひよりちゃんがいる、だから離れなくちゃいけないって。どうすれば良いかって」
溜息をつき、貝崎は眉を寄せる。
「一週間、ずっとだぞ? 正直、そんな内容を聞かされて面白くなかった」
面白くないと言った貝崎の心情はよくわかる。逆の立場だったら、俺だって同じことを思う。
幸いにも、貝崎の立場にならなくて済んだ。
和泉さんが何を話していたのかを知って、顔の筋肉が自然と緩む。にやけてしまう。貝崎を目の前にして笑うのは不謹慎だとわかっていた。でも、止められない。
思わず貝崎を見る。貝崎は曲がり角を見たままだ。
「……そして昨日、達哉からおれの所へ行くと連絡が来た」
「昨日?」
「おれの恋人になるから、夜迎えに来てくれってな」
貝崎は目を細め、口元を緩ませる。
「今まで好きだと伝え続けたかいがあった。ついに達哉と恋人同士になれる。そう、思った」
口元を引き結び、貝崎は眉を寄せる。
「まだ心がおれに向いていなくても、傍にいられれば良かった。昔のようにおれしか眼中にないような状態に戻せると、自信があった」
貝崎は重たい溜息をつく。手を足の間にだらんと下げる。
「おれと会ってもあいつは、お前のことしか話さなかった。お前への気持ち、ひよりちゃんがお前に持つ気持ちを飲み会で確認。自分は入る隙がない。だからおれを選ぶってな」
貝崎は下げたままの手を握る。
「正直、ふざけるなって思った。でも、あいつはゲイだから、異性が絡むと元々の性格もあってかなり消極的になる」
「和泉さんが消極的だって、どうしてわかるんだよ」
「大学時代、あいつがおれを見ているって知ってたからな」
「和泉さんがあんたを好きだって気づいていたのか」
「まあな。あれだけ見つめられれば気づく。達哉は美人だし、男だとわかっても好かれて悪い気はしなかった」
「でも、あんたは浮気したんだろ」
「……そんなことも聞いてるのか」
貝崎は意外だというような目を向ける。
「やっぱりあいつは、お前に相当心を許してるんだな」
「どうしてそう思うんだ?」
「付き合っている当初、あいつはおれの前で感情を出さなかった。いつも笑ってばかりで、泣いたり怒鳴ったりなんてことは一回もなかった」
想われる基準の違いか。
和泉さんは俺に対して、初めから感情を見せていたような気がする。
「あいつはおれに合わせてばかりで、刺激を感じなかった。だから、他に目を向けた。わがままを言った」
「だったら、別れれば良かったんじゃないのか」
「まあ、そうすれば良かったんだろうよ。ただおれは、期待してたんだ。他の人間の影をちらつかせたら、理不尽な要求をすれば、あいつが感情を見せてくれるんじゃないかって」
和泉さんの話によれば、貝崎への想いが強すぎて全て我慢していたと言っていた。
「携帯を忘れたあの日、ようやく達哉が感情を見せた。でもそのまま別れて、着信拒否されて連絡が取れなくなった」
貝崎は立ち上がり、俺に背を向ける。背中から哀愁が漂っているように感じた。
「達哉と別れて、あいつがどれだけ尽くしてくれていたかわかった。何人かと付き合ったが、誰にも満足できなかった」
貝崎と初めて会った時、和泉さんから好意を寄せられると人生が狂うと言っていた。それはきっと、貝崎が和泉さん以外の人間に目を向けられなくなったからだろう。
やっぱり、心が狭い。でもそれだけ、和泉さんが魅力的だってことでもある。
「達哉から、おれと付き合うと言われた時嬉しかった。でもそれ以上に、逃げとして使われることに腹が立った」
貝崎は握った拳で足を叩く。
「達哉に、自分の恋が上手くいかないからっておれを逃げに使うなと伝えた。きちんと気持ちを伝えたうえで駄目だったのなら、その時は抱きしめてやると言って、今朝職場へ送り出した」
貝崎と付き合うと宣言された時、もし俺が拒絶していたら結果は違ったかもしれない。
誰かに見られるかもしれないなんて羞恥心を捨てて、気持ちを伝えていれば良かったのかもしれない。
そうしたら、和泉さんに心配をかけることもなかった。
「昼頃、携帯を確認したら達哉からメッセージが入ってた。おれと付き合うことにしたってな。すぐにかけ直して、事情を聞いた。そしたらお前には迷惑をかけたくないから気持ちを言えなかったって言った。そうじゃなくて、きちんと気持ちを伝えろって達哉に言った」
貝崎は口を閉じ、曲がり角を見た。俺もつられて目を向ける。
和泉さんがいた。
貝崎はくるりと振り返り、俺を見る。
「付き合っていた時、達哉はおれに尽くすばかりで感情を見せなかった。でも、今は違うだろ? しっかりとあいつの想いを聞いてやれ」
歩き出した貝崎は、戻ってきた和泉さんの頭をぽんと撫でる。そして一度も振り返らずに、去って行った。




