3.6 高橋大樹
和水家の人間が俺を殺した……か。正確には依頼された轢き屋こと佐々木紀夫が、だが。この探偵事務所の推理ではその可能性が一番高いらしく、もし俺が第三者の立場ならその推理に納得しただろう。
だが、いまいち実感が持てなかった。遺産の話はキッチリと付けた。当事者間だけでなく、弁護士にも話を通した。例え俺の気が変わったとしても、俺は遺産を受け取ることはできない状態だった。
それに、あの時弁護士は遺留分についても話していたじゃないか。あの場にいた全員がその話を聞き理解していた。考えれば考えるほど、和水家が犯人だとは思えない。動機が無いのだ。
「では、高橋君は何故殺されたのか。動機は何だったのか。それについて私の見解を述べましょう」
北山が凛とした声で言った。彼等は高橋自身のことを話しているはずなのだが、何処か他人事のように聞こえた。時折西空が気を遣うような視線を送ってくる。その視線に気づく度に、大丈夫だ心配するなと伝えた。
「まず、高橋君の話ばかりでスルー気味だったのだけど、和水正宗も"ヒキガヤさん"と思わしき人物に殺されているってことは覚えてる?」
「モチロン。ウチがジョナサンから聞き出したからバッチリ覚えてます」
「さすが南ちゃん。その後裏付けは取った?」
「う、裏付けっスか……その、糊付けならしましたけど……」
「何だその言い訳」
「すんません。ホンとすんません」
「と、いうことで私の方で裏を取っておきました」
北山が折りたたまれたA4用紙をテーブル上に広げる。
転落事故か? 資産家の不審死続報。
3月12日午後14時頃、資産家である和水正宗の遺体が鉤鳥町近隣の森の中から発見された。遺体の状況から、当初警察は入山中クマに襲われたものとみて捜査していたが、検死の結果、車に轢かれた可能性が高いことが判明した。
警察によると、和水正宗は轢かれた事が直接の死因とはなっておらず、怪我した状態で暫く森の中を彷徨い、運悪くクマと遭遇したものと見ている。
中央警察署は轢逃げの疑いもあると見て捜査している。同署によると、和水正宗は車に轢かれた勢いで山から転落したのではないかとの見解。
「"ヒキガヤさん"の手口まんまだな」
東海が率直な感想を述べた。
「そう。まさに"ヒキガヤさん"の仕業ね。ということは依頼者がいる。さて、とりあえず依頼者の目的が和水正宗の遺産だと仮定すると、誰が一番怪しいでしょう?」
「もしかして、奥さん……とかですか」
南地が眉を顰めながらそう言った。
「その通り。恐らく、というかほぼ確実に正宗殺害の依頼者は妻の和水静歌ね」
南地は自分の推理が珍しく当たった事に驚いたが、嬉しくは無かった。妻が夫を殺すと言うのは、南地の倫理観では信じられないことだったから。
「ちょっと待て理屈に合わない。可能性が高いのは分かるが、何故確実だと言い切れる。正宗は金持ちなんだから、恨みの一つや二つ買ってるだろ。そういう奴らの仕業ってこともあり得るんじゃねえか」
「東君。もし和水静歌が正宗を殺害したら、正宗の遺産を受け取れると思う?」
「え? まあ、そりゃあ受け取れねえんじゃねえの。常識的に考えて」
北山が満足そうに頷いた。
「その通り。和水静歌は遺産の相続権を剥奪される。和水静歌としてはそんな事態は絶対に避けたい。可能なら事故として素早く処理されて欲しい。だから"ヒキガヤさん"なの。銃殺とか撲殺、刺殺なら別の人が依頼者である可能性も十分あったでしょうね。でも今回は"ヒキガヤさん"というプロを使った轢逃げ殺人。しかもつい最近まで長いこと活動を停止していた"ヒキガヤさん"に依頼した。事故死として処理されて欲しい思惑が透けて見える」
北山は間を置かずに続ける。
「そして、静歌は高橋君の殺害も依頼していた可能性についてだけど、もし静歌が高橋君への負担付遺贈について知っていたら、ありえるでしょうね。静歌が遺留分について把握していたかどうかは分からないけど、少なからず遺産分配の障害になる事は間違いない。ならば一緒に消してしまおう。そう考えても不思議じゃない」
少し間を置いてから、東海が言い辛そうに切り出した。
「……なあ北ちゃん。北ちゃんは正宗と高橋を殺したのは"ヒキガヤさん"の仕業だと思ってるんだよな」
「あら。どういう意味かしら」
「あのよ。確かに僕は高橋を殺したのは佐々木紀夫だって言った。でも、正直佐々木は"ヒキガヤさん"じゃねえと思うんだよ。あれが"ヒキガヤさん"だとは到底思えねえ」
「あら奇遇ね。私も同じ考え」
呆気からんとした様子で北山は答えた。
「ちょ、ちょっと東先輩も北さんも何言ってんスか。北さんの推理では、奥さんが"ヒキガヤさん"に2人を殺す依頼をしたってことっスよね。そうですよね」
「正宗さんについてはそうだけど、高橋君については五分五分って所ね。依頼したかもしれないし、してないかもしれない」
「でも、高橋先輩も轢き殺されましたよ。"ヒキガヤさん"の佐々木紀夫が轢き殺したんじゃ」
「確かに佐々木紀夫は高橋君を轢き殺しました。でも、彼は"ヒキガヤさん"ではない」
北山が諭すように続ける。
「あのね南ちゃん。高橋君の事件は今までに"ヒキガヤさん"が起こしてきた事件とかけ離れているの。何て言うか、雑。ターゲットを路上放置。事件は直ぐ発覚。轢逃げに使用した車もあっさり発見。目撃者までいる。ハッキリ言って、プロの仕業とは思えない」
「た、確かに、言われてみるとそうですね。でも、そもそもどうして佐々木紀夫は高橋さんを轢き殺したんですか? 只の不運な事故だった? 話を聞く限り、ウチはあれが事故だとは思えないですけど」
「ええ事故じゃない。佐々木紀夫は意図的に高橋君のことを車で轢き殺した。佐々木は"ヒキガヤさん"の仕業と見せかけるために、つまる所"ヒキガヤさん"に罪を擦り付けるために"ヒキガヤさん"の手口を真似た。そう考えている」
だが南地は納得いかない表情を見せる。
「でも、ジョナサンは轢き屋が高橋先輩を殺したと言ってました。ウチの能力に置いて、動物は嘘を吐きません」
「南ちゃんはジョナサンが何て言っていたのか、ちゃんと覚えてる?」
「覚えてます。ビックリする内容だったから一字一句漏らさず覚えてます。ジョナサンはこう言ってました。
『我はこの耳でしかと聞いたのだ。正宗のジジイを殺したのは轢き屋の仕業らしい。高橋大樹も轢き屋の仕業にしよう』
……あ」
「気付いたみたいね。轢き屋の仕業にしよう、だなんて明らかに轢き屋に罪を擦り付けようとしている発言。しかも、正宗のジジイを殺したのは轢き屋の仕業らしい、ってことは、高橋君の殺害を依頼したのは正宗殺害を依頼したのと別の人物」
北山が教壇に立つ講師のように教鞭を振う。
「すなわち、和水静歌以外の、和水家にいた誰かが『轢き屋の仕業にするために、高橋大樹を轢き殺してくれないか』と佐々木紀夫に依頼した。その会話をジョナサンは偶然耳にし、轢き屋の存在を知った」
「ちょっと待って下さい。何でそうなるんですか」
今度は西空が声を荒げた。
「佐々木紀夫本人には高橋大樹を殺す動機が無い。ならば和水家が殺しを依頼したって考えるのが筋でしょう」
「それは和水家も同じです。彼等に高橋さんを殺す動機がありません」
「では本人に聞いてみましょう。ねえ高橋君。そこにいるんでしょう?」
「え? あ、はい」
急に声を掛けられ、高橋は大層驚いた。思わず返事をしてしまったが、当然北山の耳に届くはずもない。だが北山は、まるで返事が聞こえているかのように話を続けた。
「高橋君は一月から散歩のバイトをしていたって聞いたけど、それは本当ですか?」
「ああ、そうだぜ」
西空がその通りだと北山達に伝える。
「当時、正確に言うと和水正宗の存命中、一郎二葉三郎は屋敷で暮らしていたかしら?」
「いや、居なかったぜー。あの人達は普段自分達の家に住んでる筈だ」
西空が驚き、それを伝えると南地と東海も同様に驚いた。北山は「やっぱりね」と呟いた。
「北さん何でそんなこと分かったんスか?」
「和水邸に行ったとき、私が一郎さん達に向けて言ったことを覚えてる?
『散歩用のリードが無造作に置いたままでしたよ、餌皿を出しっぱなしにして置くようなご家庭なのでしょうか』
そう言った。でもこれ有り得ないから。普通使用人が片付けているはずだから。万一片付け忘れていたとしても、普通なら使用人を叱りつけているはず。でも一郎さん達にはその素振りすらなかったし、私が言ったことに対して疑問すら抱かなかった。つまり、彼等は普段は和水邸で暮らしてないということ。でもまあ、これについては割とどうでもいい。さて、高橋君。質問を続けるけどいいかしら?」
北山は高橋からの返答を待たずに続ける。
「高橋君が和水静歌に最後に会った日を覚えてますか? それとも一度も会ってないかしら」
「最後に? うーん……」
和水静歌とは2、3度しか会ったことがなかった。
普段、静歌は自室に籠りっきりで、滅多な事では出てこない。偶に人知れず外出し、しばらくしたら何事も無かったかのように戻ってくる。と、五十嵐から聞いていた。
だから、和水静歌に出会ったのは偶然の出来事だった。彼女が何をするために部屋から出ていたのかは分からないが。
「最後に会ったのは、確か……3月23日だったかな」
西空が北山達にそう伝える。それを聞くと、今度は北山だけが驚いた顔をした。
「あら本当に? だとしたら当てが外れちゃった」
「どういうことだ?」
北山が一度咳払いしてから話を再開する。
「私の推理では静歌は既に死んでいて、和水家の子供達がそれを隠蔽していると思ってた」
「何でそう思ったんですか。っていうか既に死んでる?」
「まあ聞いて。まず、一郎さん達は正宗の実の子供じゃない筈」
「そうなのか?」
「だって似てないじゃない」
「それだけの理由で、ですか」
「勿論それだけじゃない。遺産っていうのは、よほどのことが無い限りは法律に則って分配される。割合で揉めることはあるけどね。でも、再婚しているにも関わらず、子供が遺産を相続できないケースが有る。それは継子の場合。継子っていうのは、再婚したけど養子縁組してない母方の子供のこと。この場合、父親の遺産相続権が無い」
「でも和水一郎って名乗ってましたよ。苗字を変えるには、養子縁組しないといけないんじゃ」
「改姓手続きで苗字だけ変えることは可能。養子縁組は必須ではない。一郎達は多分そのケース。でも、ある条件下で正宗の遺産を間接的に相続することが可能になる。何だと思う?」
「……正宗さんが静歌さんより先に死亡すること、ですか。北さんの言いたいことが何となく分かってきました」
「その通り。正宗が死亡すると、その遺産は静歌に相続される。そして、その後静歌が死亡すれば、静歌の遺産は一郎達に相続される。じゃあ逆の場合は? 静歌が正宗より先に死亡した場合は?」
「一郎さんたちは正宗の遺産を受け取れねえ……!」
「その通り。2人とも冴えてるね」
「待って下さい。それがどうして高橋さん殺害の動機になるんですか? 高橋さん全然関係な――」
「高橋大樹は静歌が正宗より先に死亡しているという事実を知ってしまった」
西空の反論を遮り、北山は続ける。
「静歌が正宗より先に死亡したという事実は、正宗の遺産を受け取りたい一郎達にとっては何が何でも隠蔽したい事柄。動機として十分」
「……推理が飛躍しすぎです。想像の域を出ていません。北山さんは犯人ありきで推理しているだけで、辻褄が合うように妄言を語っているに過ぎません」
「そうね。でも捜査ってそういうもの。犯人の目星を付け、捜査方針を固め、証拠を集め、推理が正しいことを証明する。途中、無実の証拠が出てきた場合は推理を白紙に戻し、始めからやり直す。この繰り返し。そして今はまだ証拠集めの段階……だったのだけど」
北山は肩を落としうな垂れる。
「そっかぁ。高橋君は3月23日に静歌と会ってたのかぁ。正宗が死亡したのは3月11日だから、当てが外れたなあ。推理のやり直しね。でもだとすると静歌さんはいつ死んだのかしら?」
「今も自室に引き籠ってるだけなんじゃないですか。そもそも何で静歌さんが死んでるって決めつけてるんです?」
「あの家から死の臭いがしたから」
「死の臭い? どういうことですか」
「それについては追々ね。あれ? でも3月23日って高橋君の命日じゃ……高橋君、静歌さんと何かあった?」
だが、高橋は返事しなかった。たとえ返事したとしても、北山がその声を認識することはないが。
「高橋さん?」
西空が声を掛ける。だが高橋は西空にすら返事しない。できなかった。
「西空君? どうしたの」
高橋は考えていた。
3月23日。直美の誕生日当日だ。確かその日もジョナサンの散歩の予定が入っていて、いつも通り早朝に和水家に向かった。散歩のバイトを終えて、午後に大学の研究室へ向かい、夜に直美の家で誕生日を祝う。何一つおかしなことなんてない。だが、頭の隅のもやもやとしたものが妙な存在感を放っている。
「高橋さん……高橋さん!」
「どうしたの? 何が起こって……ッ!」
西空が叫ぶと同時に、北山が苦悶の声を出し、その場に蹲る。
「北ちゃん!」
「な、何なんスか……まさか!」
東海が北山に駆け寄り介抱する。南地もそれに続く。
「北ちゃん。もしかして来ちまったのか?」
「まさかこのタイミングで! だ、誰っスか? 一体誰が」
北山は頭を押さえつつ、手の平を2人に向け、ちょっと待ってのポーズを取る。
「高橋さん! どうしたんですか。何か言って下さい」
西空は高橋のことを呼び続けた。だが、高橋は何も答えない。答えれなかった。答える余裕が無かった。
3月23日に、俺は静歌さんと会ったはず。でも、何を話したのか全く覚えてない。
まて、俺は本当に静歌さんと会ったのか? そういえば、どうしてその日は午後に大学へ行ったんだ。いつもなら、バイトが終わったらすぐ大学へ向かっていたはず。おかしい。午前中の記憶がない。いや待て、そもそも俺はその日大学に行ったのか? おかしい。記憶が混濁している。思い出せない。思い出すな、考えるなと警鐘が聞こえる。
頭の奥がジクジクと痛む。胸がムカムカと気持ち悪い。視界が黒く淀んでいく。淀みの中に、和水静歌の顔が浮かんだ。それともう一人、名前も知らない男の顔も同時に浮かんだ。2人とも、俺のことを責めるような目つきだった。
『ヨクも、ヨクモワタシのカラダを……ユルサナイ……』
和水静歌が奇怪な声で高橋を詰る。
『ド、ウシテ。オレは、ナニモしテナイのに。ドウシテ』
名も知らぬ男が悲痛な声で高橋に訴える。
『モトニ、モドシテよ。モドセ。モドセモドセモドセ』
静歌の頭がポロリと落ちる。頭だけじゃなく、腕が、足が、胴体が、乱暴に扱われたプラモデルのようにバラバラに崩れていく。
『ドウ、シテ。ヒドイヨ。ヒドイヒドイヒドイ』
男が高橋に向けてアルバムを突きだした。アルバムには大量の写真が飾られており、そこには何匹もの犬が写っていた。犬だけじゃなく、"イヌ"もいっぱい写ってた。沢山の、首輪を繋がれ、四つん這いになった"イヌ"が……
「ごめん、なさい……」
不意に、口から謝罪の言葉が漏れた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
何故だ。何故俺は謝っているのだ。誰に向けて? 何のことで?
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
壊れた再生機の様に、何度も何度も何度も何度も謝罪を繰り替えす。
臭い。鼻が腐って落ちてしまいそうなほど酷い悪臭だ。
悪臭の元は何処だ。
分かった。自分の手だ。
手が異様に臭い。
手だけじゃない。部屋全体がむせ返るように臭い。
服にも臭いが染み付いている。
洗っても洗っても臭いが落ちない。洗っても洗っても洗っても洗っても臭い臭い臭い臭い臭い臭い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――




