3.7 和水静歌(なごみしずか)
最低だ最低だ最低だ最低だ最低だ最低だ。あのボケジジイ最低なことをぬかしやがった。ふざけるな。犬に喰われて死んじまえ。地獄に墜ちろ。
何故あんな奴に財産を分けなきゃならないんだ。あんなポッと出の奴に。何の疑問も無く幸せを享受してきたような奴に。何故奪われなければならないんだ。
何故だ。あたしは十分苦しんだ。いい加減その苦労に見合う分、報われていいはずだ。なのに何故。何故あたしばっかりこんな目に遭うんだ。何故だ……何故だ何故だ何故だ何故だ何故何故何故何故!
「そうだ。ワタシの遺産全てを我が愛犬、ジョナサンの面倒を見ている者に遺贈する。言ってる意味は分かるな五十嵐」
「はい。承知しております。ですが本当に宜しいのでしょうか?」
「何のことだ?」
「いえ、奥方様や一郎様達には遺されないのでしょうか? 間違いなく禍根を残すと思いますが」
「フン。余計なお世話だ。彼奴らに遺してやろうなど微塵もおもっとらん」
「お言葉ですが、そもそもこの行為に一体何の意味があるのでしょう? どうせ――」
「その先は言うな。ワタシが楽しみを最後まで取っておく主義なのは貴様もよく分かっておろう」
「……承知しました。ではこちらの遺書、大切に預からせていただきます」
「くれぐれも内密にな。いずれワタシの口から本人に伝える。ジョナサンの面倒を見ている者、高橋大樹に我が遺産を全て遺贈するとな」
和水静歌が昨日の夜、盗み聞きした夫と五十嵐の会話だ。一般的に考えても常識的に考えても倫理的に考えてもあり得ない。あり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ないあり得ない――
「ぅヲイ! 聞ぃてんのかぁボケが」
耳に当てた携帯電話から甲高い叫び声が聞こえる。静歌は不倫中の相手との電話の最中だった。そのお相手の名前は佐々木紀夫。見た目悪し。声も悪し。性格も最悪。息も足もあそこも臭う最低男。
「ごめんなさい。聞いてなかった」
「ごめんで済むならポリ公はいらねぇんだボケが! ボケボケボケ!」
佐々木は壊れた再生機のようにボケと連呼する。時折裏返る声が酷く耳障りだ。
何でこんなボケ男と不倫しているのだろうか。自分自身のことなのに不思議に思う。それでも正宗よりはましだが。そうだ。正宗以外なら誰でもよかった。ただそれだけのことだ。
「それでよぅ、どぅーすんだよぅ」
「どうするって、何の話?」
「ボケが! ぁた話聞いてなかったのかボケ! 今言ったろぅボケ!」
別のことを考えていたことは確かだ。でも、今度はちゃんと佐々木の話に注意を払っていた。だからハッキリ言える。この男はまだ何も言っちゃいない。言ったと思い込んでるだけだ。静歌は急に腹が立ってきた。
「ちゃんと聞いてました。ですが佐々木さんはまだ何もお話ししてません。あなたが勘違いしてるだけ――」
「ボケエエエエエエ!」
一際強烈な怒鳴り声が佐々木から発された。その声は音割れを起こしながら静歌の耳に届く。
「ボケボケボケ! 死なすぞボケエ! テメエ立場わぁってんのかボケエ! ボケボケボケエ!」
「わ、分かりました。怒鳴らないで下さい」
その余りの剣幕に、煮えはじめていた腹が急速冷却された。
「いいか! もう一度だけ言うぞボケ! じゃねえとテメエも殺させるからなボケエ! だからな、始末すんだよ。そいつらを。正宗、それと高橋っつう奴を。そうすりゃ遺産を全部受け取れんだろ」
「し、始末……何言ってるんですか?」
「ボケエ! 分かんだろ。殺し屋に依頼すんだよ。いぃーかぁ。よぉ聞けよ。おらあテメエに殺し屋の連絡先を教える。テメエは電話を掛ける。正宗と高橋を殺せと依頼する。はい終わり。バカでも分かる単純な話だるぅ」
今この男何て言った。殺し屋? 依頼?
「じょ、冗談、ですよね……」
「ボケエエエエエエ! んなわきゃねえだろボケエ! いいかぁ。おらあ親切心からテメエに教えてんだぞ。それを冗談とか何様だボケエ! いいか。おれと凄腕の殺し屋はマブなんだ。だからおれが頼みゃあすっ飛んでくれんだよぅ」
「だったらあなたから連絡を取れば」
「テメエん所の問題だろボケエ! 勘違いしてんじゃねえぞボケエ! 死なすぞボケエ!」
「わ、分かりました……」
「おう。分かりゃあいーんだ。ったく手間取らせ過ぎだボケ」
佐々木はもう3度ボケと言った後、少し間を置いてから件の連絡先を告げる。
「いいか。番号は一度しか言わねえぞ。よく聞けよ」
「ちょ、ちょっと待って。いまメモの準備を」
静歌は自室の机の上に置いてあったペンを手に取る。だが、いつも使っている手帳が見つからなかった。
「番号は……」
静歌は日捲りカレンダーを数枚破り取り、そこに言われた番号を書き込んだ。
それから3日後、静歌はまだ連絡を取れないでいた。静歌にとって正宗と高橋は邪魔な存在であり、死んで欲しいことは確かだが、自ら引き金を引くことは躊躇われた。何より、殺し屋という裏社会に住む者と関わりたくなかった。この番号に電話を掛けたら、もう戻って来れなくなるかもしれない。漠然とした恐怖が、静歌を境界線の手前側に留めていた。
それと電話するにしても、自分の携帯電話から掛けるのはかなりの抵抗があった。相手に自分の番号を教えてしまうことになるし、GPSとかそういう技術で自分の居場所がばれてしまうのではないかという不安があった。
携帯じゃなく、家の電話なら非通知設定にすることで身元が割れる心配をしなくて済む。だが、外線に繋がるコードレスは正宗の部屋にしか置いてない。その為、電話するためには居間へ降りる必要があるのだが、家には正宗と複数の使用人がいるため、姿を見られる可能性が高い。それに、普段自室に籠りっきりの私が部屋を出て電話を使うのは酷く目立つ。万一内容を聞かれたら一巻の終わりだ。
でも、一度も電話を掛けないまま放置していたら、佐々木から何を言われるか分かったもんじゃない。いや、言われるだけならまだいい。佐々木はこの家の場所を知っている。もしあんな奴が乗り込んで来たら……静歌はブルリと身を震わせた。
「静歌様。いらっしゃいますか?」
突如、扉の向こうから声を掛けられ、酷く驚いた。静歌は動揺を悟られないようにと、一つ深呼吸をし、気持ちを落ち着かせてから応対した。
「五十嵐さん? 何の御用でしょうか」
「いえ、これから正宗様と所用で外出するのですが、今申し付けておきたいことはございますか。屋敷に誰も居なくなってしまいますので」
「誰も? 他の使用人はどうしたのですか」
「わたくしを除き休暇中でございます」
「全員がですか? シフトの調整がなってないのでは」
「いえ、旦那様が労いとして1週間の慰安旅行を下さったのでございます」
あたしには何一つ、何もしてくれないのに。ふつふつと、静歌のはらわたが煮え始める。
「なるほど。普段から真面目で献身的に働いている者たちです。時には休息も必要でしょう。あたしも彼女達にはとてもお世話になっています。機会がありましたら、ゆっくりと旅行を楽しんできてと伝えて下さいますか」
これは静歌なりの精一杯の嫌味だった。正宗は使用人に静歌の身の回りの世話をさせていない。だから彼女達と顔を合わせたことは殆どない。
「……ありがとうございます」
察したのか、五十嵐はそれ以上何も言わなかった。
「それでいつ頃帰って来る予定でしょうか」
「14時過ぎになると思われます」
現在の時刻は11時。電話するには十分過ぎる時間だ。
「そうですか。分かりました。あたしから頼むことはありません。正宗のことをお願いします。あたしの方は大丈夫ですから、焦らずゆっくりと帰って来て下さい」
「承知しました」
五十嵐が立ち去り、暫くしてからガレージから高級車が出ていくのが見えた。高級車が完全に見えなくなるのを確認すると、静歌は自室を飛び出し居間へと駆け下りた。
受話器を乱暴に取り上げ、一心不乱に佐々木から聞いた番号を入力する。最後の番号を入力する直前で、非通知の設定し忘れていたことに気付き、慌てて受話器を置いた。一つ深呼吸し気持ちを落ち着かせから、184と電話番号を入力する。
トゥルルルル……トゥルルルル……トゥルルルル……
呼び出し音が繰り返される。普通なら繰り返されるその音に苛立つのだが、今はその逆で、呼び出し音が聞こえる度に何処か安堵を覚えていた。
この呼び出し音が途切れるとき、それはすなわち、自分が裏社会への入口を開いてしまったことを意味する。できたらこのまま誰も出ないでくれと、矛盾した気持ちが静歌の中にあった。だが、自ら電話を切ることはできなかった。
トゥルルルル……トゥルルルル……トゥルルルル……ガチャリ
呼び出し音が途切れた。静歌の体が緊張で強張る。
「大変お待たせ致しました。こちら五六四八銀行サイトウで御座います」
そして酷く脱力した。間違い電話。自身のおっちょこちょいさ加減に声を出して笑ってしまった。
「お客様? どうなさいましたで御座います」
静歌は何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。間違い電話をして置いて何だが、最近の行員は言葉遣いがなってない。どうなさいましたでございますか。笑っちゃう。そこは「どうなさいましたか?」だろう。
折角だから指摘してやろうと思いつつ、静歌は受話器を口に当てた。
「申し訳ありません。掛け間違えちゃったみたいです」
「いいえ。間違えて御座いません。サイトウで御座います」
「いえ、ですから……」
「本日はどのような殺人依頼で御座いますか?」
弛緩していた筋肉が一瞬で強張った。息が詰り、口から小さく悲鳴にも似た息が漏れ出た。
「お客様。ご利用は初めてで御座いますね。では、当行のシステムについてご説明させて頂くので御座います」
サイトウは静歌の返答を待たず、一方的に続ける。
「まず、お客様から殺したい相手についてお聞かせ頂くので御座います。この時点では、住所氏名等の個人情報は必要御座いません。年齢、性別、人種、職業、趣味、家族構成等、個人を特定できない範囲で結構で御座います。殺したい相手が複数でしたら、一人一人の情報をお聞かせ頂くので御座います。次に、お客様が何故その方を殺したいのかお聞かせ頂くので御座います。怨恨、隠蔽、保険金目当てそして――」
サイトウは少しだけ間を置き、
「"遺産目的"、等々で御座います」
最後の言葉を明らかに強調して言った。
「あ、あんた、どうしてそれを……佐々木から聞いていたの!」
「直感で御座いますお客様。この仕事を長く続けておりますと相手の声を聴いただけで大体のことが分かってしまうので御座いますお客様。それと、佐々木、と仰りましたか。この時点で個人の名前を出す必要はないので御座いますお客様。もし知人の名前で御座いましたら、以後お気を付けになられた方が宜しいかと思いますお客様」
電話を切ってしまいたい衝動に駆られた。今ここで切ってしまえば、性質の悪い悪戯に遭ったと処理できる。
「お客様。その行動はお勧めしないので御座います。お客様は既に裏口の扉を開いてしまっているので御座います。電話を一方的に切るのは、我々の顔に泥を塗るという行為で御座います。どうかご理解頂きたく思うので御座いますお客様」
全て見透かされている。きっとこの悪魔相手には非通知設定も意味が無いのかもしれない。
「そんなに怯える必要はないので御座いますお客様。お気が変わられたのであれば、ちゃんと手順を踏んでお断りして頂ければ問題ないので御座います。お客様。まずは殺したい相手をお聞かせ願えますか?」
「そ、その、1人は72歳の男性。日本人。職業は一応画家。家族は妻が一人、子供が三人」
「フムフム。一応画家、というのはどういうことで御座いましょうか」
「その、詳しくは知らないのですが、絵で稼いだお金で投資とかを行っているみたいで、今はそっちがメインらしいんです」
言ってから後悔した。"サイトウ"は個人を特定できない範囲でと言っていたが、ここまで伝えたら誰のことを指しているのか特定できてしまうのではないか。
「成程成程。画家兼資産家ということで御座いますね。安心してくださいお客様。よくあるパターンで御座いますお客様。この程度で身元特定は難しいので御座いますお客様」
寒気を覚えた。この男はどこまで見透かしているのだろう。いや、男かどうかは分からない。酷く慇懃無礼で事務的な口調だが、起伏に富んでおり、感情豊かな所は女性的に思える。電話口から聞こえてくる声も、男にしては高い声、女にしては低い声と、どっちとも取れる声だ。ボイスチェンジャーを使ってる可能性だってある。
「それで、次に理由だけど……」
「お客様。まずは殺したい相手を全員お聞かせ頂けますか。もう一人いらっしゃるのでしょうお客様。ちゃんと手順を踏んで頂けなければ困るので御座いますお客様」
「ヒッ! ご、ごめんなさい」
「謝罪は不要でございますお客様。お客様は初めてのご利用で御座います。間違えてしまうのも無理御座いません。ささ、もう一人の特徴をお聞かせ願えますかお客様」
「もう一人は、20歳の男性。日本人。大学生。家族は、分かりません。ただ、身寄りがないと聞いたことが有ります」
「フムフム。身寄りが無いので御座いますね。それは昔からで御座いますか? それともつい最近からで御座いますか?」
「えっと、昔からだと、聞いています。確か、ですが」
「成程成程。その方は捨て子で御座いますね。きっと苦楽哀愁伴う人生を送られて来たので御座いましょう。泣かせるでございますお客様」
サイトウの発言を聞き、ここで初めて静歌は高橋の境遇を想像した。
そうだ。彼は小さい頃から身寄りが居ないのだ。明るく天真爛漫な様子からは連想しがたいが、彼は彼なりに苦労を積み重ねている筈なのだ。
「さてさて。お客様。それでは動機をお話頂けないで御座いましょうかお客様」
「もう分かってると思いますけど、遺産です」
「念のために確認させて頂きますお客様。どちらの方の遺産で御座いましょうか?」
「ま……」危うく実名を出し掛けてしまい、慌てて言い直しす。
「72歳の方です」
「はいはい。やはりそちらの方ですね。確認で御座いますが、20歳の方も遺産関連ということで宜しかったで御座いましょうか」
「……はい。でも、何でそんなことを聞くんですか」
「ではでは。ここで当方のシステムについてご説明させて頂きますのでございます。当行はお客様の要望、状況に合わせて最適な預金のプランを提案させて頂くのでございます」
「よ、預金? あなた一体なにを言ってるの」
「まあまあ。まずは話をお聞きくださいお客様。お客様には、短期型大口殺人定期預金をお勧めさせて頂くので御座います」
短期型大口殺人定期預金? とてもダサく下らない冗談みたいな名称。だが、電話先の"サイトウ"は本気だ。本気で言っている。
「この預金は殺し屋の指定が可能なので御座います。実例を挙げて説明させて頂きます。以前、夫の不倫相手を殺したい。かつ、可能なら夫との仲を取り戻したい。というご要望が御座いました。この預金者には冤罪屋を派遣させて頂きました。冤罪屋とは、名前の通り対象に冤罪を擦り付けて死に至らしめるプロでございます。不倫相手に連続殺人の濡れ衣を着せた後、自殺に見せかけて殺害したので御座います。夫は何て恐ろしい相手と交わってしまったのだろうと深く傷つきました。依頼者である妻は傷ついた夫に優しい言葉を投げかけてあげれば、もうイチコロ。あっという間に夫婦仲を取り戻せたので御座います。あ、此処でのイチコロとは殺すと言う意味ではなく、心を捉えるという意味で御座いますよお客様。さらにもう一つ例を上げさせて頂くので御座います。殺害依頼で多いのは怨恨の類いで御座います。この場合、預金者に自殺屋を派遣させて頂くことが多いので御座います。自殺屋とは、自殺に見せかけて殺害を行う……のではなく、自殺するまで対象を追い込むプロで御座います。悪戯電話、手紙、コンプレックスの刺激、イジメ、解雇もしくは退学、人間関係の破壊、破産ギャンブル散財借金酒犯罪等々ありとあらゆる手段を駆使して対象を徹底的に追い詰め自殺に至らしめるので御座います。お客様? 聞いていらっしゃいますかお客様」
酷く気分が悪くなってきた。おぞまし過ぎる話の内容もそうだが、井戸端会議に花を咲かせる主婦の様に、嬉々として殺しを語るサイトウという人物が何よりも恐ろしかった。
依頼なんか早く取り下げて、この異常な会話を終わらせたい。だが、依頼を取り下げたらこの悪魔は何かしてくるのではないか。
「お客様。先程も申し上げましたが、ちゃんと手順を踏んでからお断りして頂ければ、当行からお客様に危害を加えることは一切ないので御座います。ご安心下さいませお客様」
またもや人の心を見透かすような発言をしてきた。静歌は怖くて怖くてしょうがなかった。
「さてさて、短期型大口殺人定期預金の説明が終了した所で、お客様に最適な殺し屋を提案させて頂くので御座います。ズバリ! お客様に派遣する殺し屋は轢き屋で御座います」
「轢き屋? 一体なんですかそれは」
「轢き屋とは、対象を轢き殺すプロで御座います」
「人を、轢き殺す……何でそんな回りくどい真似を。銃とかで殺すんじゃないの?」
「お客様は遺産問題でお困りと話をお伺いしたので御座います。ですから対象を事故で殺害するのがベストアンサーで御座います。保険を掛けているのであれば、お客様の懐はより暖かくなるので御座います。心配する必要は御座いません。お客様は殺害に関して何の関与もないので御座います。だって事故死で御座いますから。事故なので御座います。不幸な事故なので御座います。お客様が罪悪感を覚える必要など何もないので御座います。お客様は何の疑いも掛けられることなく、極めて自然に遺産を受け取ることができるので御座います。身内の方の名を穢すことも無いので御座います。だって事故死で御座いますから」
グラリと、心動かされるものがあった。だが話を聞いてて正気に戻った。これは鬼畜の所業だ。
断ろう。そう決意すると不思議と恐怖が薄れ、おかしな話だが、正義感に似たものが静歌の内に湧き上がってきた。
「さてさて。お客様。どうなさいますか」
でも、何と言い訳しようか。ただ単に止めますと言っただけでは、ではこの"サイトウ"という輩は食い下がってきそうだ。
「……そう言えば、依頼料はどれぐらい掛かるのですか?」
「お客様。依頼料では御座いません。正しくは最低預入額で御座いますお客様」
「そ、そう。それで、その預入額はいくらなのですか?」
「短期型大口殺人定期預金の最低預入額は3000万で御座います。なお、預入期間は1ヶ月または3ヶ月で御座います」
ここで静歌は純粋な疑問を抱いた。サイトウは短期型大口定期預金と言っている。つまりそれは……
「えっと、サイトウさん? これって預金なんですよね」
「はい。その通りで御座います」
「解約したらお金が戻ってくるってことですか」
「勿論で御座いますお客様。全額キッチリお支払させて頂きます。ただしお利息は付きません。中途解約は受け付けておらず、満期解約のみとなります」
つまり、3000万を用意できれば、実質無償で殺人を依頼できるということだ。利息の代わりに殺人を請け負うということになるのだろうか。
普通に3000万の定期口座を開設した場合の年利を1%と仮定すると、1ヶ月で利息は約2万5千。つまり、2万5千円で殺人を殺人を依頼できるということになる。殺人依頼の相場がいくらなのか想像もつかないが、どう考えても破格の値段だ。
だが、果たしてそんな旨い話があるのだろうか。サイトウがお金を返してくれる保証も無い。短期型大口殺人定期預金という名称も、中学生が1日で考えた様なネーミングだ。静歌はこれが性質の悪い悪戯のように思えてきた。もしくは詐欺。
「確かに詐欺と思われるのも無理御座いません。3000万渡したらドロン、何て事になりましたら目も当てられないので御座います。ですが御安心下さい。何と、現在新規ご契約者様向けのキャンペーン期間中なので御座います。当キャンペーン期間中に限り、預金口座開設前に殺害させて頂きます。お客様が遺産を受け取った後に預金口座を開設して頂ければ宜しいので御座います」
「あなた……本気で言ってるの」
「本気も本気で御座いますお客様。このサイトウ。冗談は一切申し上げておりません」
寒々としたものが全身を駆け巡る。何故かサイトウが嘘吐いていると思えない。
3000万と聞いた時、今すぐそんな大金準備できないという理由で断ることを思いついた。だが、先程のキャンペーンでそれが封じられた。資産家の遺産目的であるということも知られているから、大金を準備できないという言い訳もできない。
それに正宗は大量の現金を隠している。たとえ遺産相続の手続きに手間取ったとしても、現金でなら直ぐに支払うことが可能だ。
「大分お悩みの用で御座いますね。お客様。よくお考えの上で、また改めて電話を頂ければ宜しいので御座います。五六七八銀行は決してお客様に無理強い致しません」
意外だった。サイトウは無理矢理にでも契約を迫ってくるものだと思っていた。下手したら脅されるのではないかとも思っていた。
「ですが、お客様は当行に必ず預金口座を開設するので御座います。お客様は必ず当行に正宗様の殺害を依頼するので御座います。必ず、で御座います」
「無理強いは、しないんじゃなかったの……」
「はい。決して無理強いは致しません。脅しもしません。お客様に危害を加えることは決して致しません」
サイトウの真意が分からない。
「先に申し上げたのは只の予言で御座います」
予言? 現実味のない言葉が出てきて、ますます混乱する。
「そうそう。因みに携帯電話でも非通知設定は可能でございますお客様。次からは居間ではなく自室から御掛けになる事をお勧めいたします」
その言葉で背筋が凍りついた。
「あ、あなた、まさか見ているの? 何処から!」
「それでは今後とも五六四八銀行をどうぞ御贔屓に」
その言葉を最後に、プツリと声が途絶えた。電話を切られた。それも一方的に。
一度受話器を置き、震える手でもう一度同じ番号にダイヤルする。だが最後の1ケタを入力する直前で、背後に何者かの気配を感じた。静歌は恐る恐る振り返る。
そして、その正体を理解し、強張った体が弛緩した。
「ジョナサン……驚かせないでよ」
ジョナサンが居間に入ってきていた。犬らしくないふてぶてしい視線を静歌に向けている。
「あんた何時からそこにいたの?」
ジョナサンは気怠そうに一つ欠伸をしてから、高級ソファーの上に移動し、うつ伏せに丸くなった。そのまったりとした様子を見て、毒気が抜かれた。
気持ちが落ち着くにつれ、先程のサイトウとの会話が悪い夢のように思えてきた。
「轢き屋、かあ。本当にそんなものが存在するのでしょうか。ねえジョナサン」
当たり前だが返答はない。ただ、ジョナサンはうつ伏せのまま、顔だけをこちらに向けていた。
「人を轢き殺すプロ、ねえ。でもまあ確かに正宗のことを殺してくれたら万々歳だけど。誰か本当に轢き殺してくれないかしら」
――お客様は必ず当行に正宗様の殺害を依頼するので御座います。
サイトウの言葉を思い出し、静歌は自らの鬼畜じみた思考を恥じた。それと同時に気付いた。
あたし、正宗の実名を出したっけ? 言ったような気もするし、言ってないような気もする。記憶が定かじゃない。もしかして、自分は余計な事までサイトウに話してしまったのではないか?
背筋が寒くなり、静歌は駆け足で自室へ戻った。
ジョナサンは静歌が立ち去るのを見届けてから、再度欠伸を一つしてから眠りについた。
この時、ジョナサンは静歌の話を碌に聞いていなかった。人間の女が何か喚いている程度の認識だった。
ただ、轢き屋という殺し屋だけは頭にこびり付いていた。もし、この時ジョナサンが静歌の話をよく聞いていたのなら、これから起きる悲劇を回避できたのかもしれない。




