5-50 空に架かる虹
中継整備所は騒然としていた。
ミルーニャの話では、虫王の庭に設営された選定レース用の基地には、祝祭を妨げるような不測の事態に対応するための備えが幾つもあるということだった。緊急時に用いられるはずの大型輸送箒や戦闘用ドローンなどが一斉に稼働を開始したことから、異常事態が起きていることに疑いの余地はない。
部外者である私たちチョコレートリリーが焦げ臭い闘争の気配に気付くほどだ。
運営サイドの緊張感は相当なものに違いない。
だが施設職員たちに対して下った指示は『予定通り選手たちを万全な態勢で受け入れてね!』という普段通りのものだけ。
取り繕うような説明も白々しいカバーストーリーも用意されていない。
その事実から推測可能な裏側は、逆に職員たちの危機感を煽ったようだ。
機械女王が油断ならない相手だという負の信用があるため、『今の機械女王には市民をコントロールする余裕がない』という不安が生まれているとハルベルトは分析していた。
私ことアズーリア・ヘレゼクシュも似たような不安を抱えている。
混乱度合いで言えば、レースが始まってから私はずっと目を回していた。
最低限の説明はされたが、完全に状況を把握できたとは言い難い。
不測の事態を受けての予定変更やアドリブが多すぎたのだ。
ミルーニャの偽装死と転生、リーナの中から現れたダウザール、レース中の反則行為からの戦闘、更には遠くに立ち上る黒煙と呪波汚染による広域通信妨害、それを受けて即座に大型輸送箒で飛び立ったハルベルトたち。
あれからしばらく経つが、もうそろそろ第二の隣接異界である白翼海でのレースが終盤にさしかかろうとしている。つまり、次はこの虫王の庭に選手たちがやってくるのだ。そわそわしないほうがおかしい。
現在、チョコレートリリーのメンバーは散り散りになって行動している。
負傷した黒檀の民マリナと一緒にいたエストは状況を把握しようと整備所に併設された医療棟の入口前で私と合流したのだが、そこでもたらされた聖姫セリアック=ニアからの情報はとんでもないものだった。
「つまりそのライラってひと、いや犬にニアちゃんが襲われたってこと?」
エストの問いかけに頷き、私はすぐそばに座り込んでいる『動物』を睨みつけた。
見た目に反して、『これ』は極めて危険な敵だ。
ハルベルトと行動を共にできない理由のひとつでもある。
ライラ・ラプス。『槍の民』なる存在を統べるハグレス神に対しての共闘を持ち掛けてきた不死なる虹犬の超越者。
「同期した記憶が正しければそうなるね。申し開きはある、ライラ?」
「カプゥ! カプカプゥ!」
私の言葉に追従するように、黒衣の肩に乗った小さなペリュトンが鳴く。デフォルメされた謎生物を見たエストが小さく「なにこれ」と呟いたが説明は後。
私はふわりと広がった耳が愛らしいパピヨン犬を油断なく観察した。金鎖はいつでも砕けるように準備してある。
こちらの警戒を意に介していないかのように、それは流暢に人語を操った。
「濡れ衣です。あの場面で私が彼女を襲撃する意味はありません」
「なら、どうして襲われたんだと思う?」
鋭い追求に対し、犬は首を振ってみせた。
舌を出しながら、アストラル体経由の呪術行使で大気を振動させて音声を出力。
「襲撃者の予想がつかないことには何とも言えませんね」
目の前に横たわっているのは不審と疑念、そして燻る火種のような敵意。
言葉だけでそれを取り除くことは困難を極める。
理想を掲げる呪文の座であっても、それは変わらない。
誰もが次の手を探る中、更に事態は混迷を極めていく。
「ライラに騙されちゃ駄目! そいつは皆を利用してるだけ!」
新たにその場に現れたのは、聞き覚えのある声だった。
すらりとした背丈、頭部の右側で揺れる特徴的な亜麻色のサイドテール、胸当てと手足を覆う軽装甲に騎兵用キュロットという出で立ちの少女が、抜き身の短槍を構えて臨戦態勢をとっている。穏やかそうな垂れ気味の目は珍しくきりりとライラを睨み据えていた。
メイファーラ・リト。彼女は私の部隊に派遣されている騎士修道士だが、いまは本来の所属である『知神の盾』の任務で別行動中である。きのう連絡した時にはまだ第五階層の中央区画にいたはずだが、いったいどうしてここにいるのだろう。
私はメイファーラに説明を求めようとしたが、おかしな光景を目にしたことで絶句してしまう。畳みかけるような異変がメイファーラの背後で発生していたのだ。
エストもまた目を丸くして『それ』を凝視している。動揺しながらも、メイファーラの背後を指さしながら問いかけた。
「えっと、これってどういうことなの?」
メイファーラはこちらの反応を怪訝そうにしつつ振り返った。
驚愕の度合いとしてはこちらよりも遥かに大きかったに違いない。
新たな闖入者は、豪奢なドレスを身に纏った貴婦人だった。
だが襟と裾から覗いた素肌は生者のものではありえない。
白骨の再生者は指先で銀貨を弄びながらこちらを空虚な眼窩で見据えている。私は混乱のあまり今度こそ頭がどうにかなりそうになった。
彼女は、誰がどう見てもメイファーラだ。
「メイが二人? アズーリアみたいに分裂するわけないし、本物はひとりだけよね?」
不安そうに問うエストも激しく混乱している。
無理もない、私もどういう状況なのか、全くわけがわからない。
「どうしようエスト、ぜんぜん見分けがつかない」
「どちらかが本物のはずなんだけど、うーん」
つやつやお肌のメイファーラと白骨死体のメイファーラを見比べて唸る。
わからない。どっちもメイファーラにしか見えない。
私が夜の民だから天眼の民の顔立ちを判別するのが難しいというのもあるけれど、それ以上に本物オーラがどちらも凄いのだ。この難問に即答できる人はそういないと思う。
エストが腕組みしながら自信なさそうに口を開く。
「本物感があるのは骨ばった方のメイファーラだけど。ほら、前にどんなに食べても太らない体質とか言ってたじゃない? スリムだし多分あの骨ファーラが本物じゃないかな」
「待って! あたし、ちゃんと本物だよ! 合流が遅れたのは上からの命令で要人警護任務があったってだけだし、レース会場で後任に引き継いだ時に虹犬の工作員たちの情報を入手したの。それで急いで知らせなきゃってここまで来たんだよ。チョコレートリリーとしての思い出だってある。疑うならなんでも質問して!」
そう言って次々とかつての思い出を並べ立てるメイファーラ。聞く限り嘘や間違いはないように思える。いったいどう判断すればいいのかと私とエストがあわあわと混乱する一方、後からやってきた骨っぽいメイファーラは落ち着いた様子でもう一人の肉付きのよいメイファーラ(言ってて混乱しちゃうけどどっちもそっくり!)に冷ややかな声を浴びせた。
「わきまえなさい、召喚士。豹変幻術で取り繕えるのは表層だけ。帰ってお前の主に伝えるといいわ。呪文の座と手を結びたいのなら、虚飾よりも虚構を用いるべきだと」
メイファーラの顔は頭蓋骨だから表情がよくわからないけれど、その声に込められている意思の強さは直に相対していないこちらにも伝わってきた。
圧力。優れた呪術師は眼差しに呪力を込めることができるというけれど、骨ファーラは虚ろな眼窩だけでありもしない世界観を構築しているかのようでひどく恐ろしい。そう、これは恐怖だ。単純な言葉にしてみたらしっくりときた。要するにこの魔女は畏怖を纏い、操っているのだろう。
恐い。『このひと』は、『とってもこわいまじょ』だ。
自分の記憶の奥にしまい込んでいた『怯える子供』が蘇る。
それはヘレゼクシュではありふれた、他愛ない脅し文句。
『いい子にしてないと、キュトスの魔女がやってきて森の奥に攫われちゃうよ?』
私は『星見の塔』に所属する徒弟であり、『妹』を目指す魔女のひとりだ。いまさらそんな言葉を怖がる理由なんてどこにもない。
ないはず、なのに。
呪わしい迫力を宿したまま、どう見てもメイファーラであるはずのそのひとは続けた。
「わかる? みすぼらしく取り繕うよりも、無謀な大言壮語を自信たっぷりに垂れ流す方がまだ望みがある。うちの妹たちを口説きたいのなら、まずは本人が足を運ぶのが筋というもの。言いたいことがあるのなら、きちんと向き合ってご覧なさい」
有無を言わせないというのはこういうことなのだろう。
明らかにどちらもメイファーラに見える。
同じ役を演じている。そのはずなのに、『役者が違う』という事実がはっきりわかった。
技巧派で売り出し中の若手役者が、大物女優に一瞬で呑まれた。
これは多分、そういうオーディションの一幕みたいなもの。
「わかった。お前の言葉、正論。帰って伝える」
最初に現れたメイファーラ、じゃなくてメイファーラの演技をしていた何者かはすうっと感情を消して、ぶつ切りの口調でそう答えた。あまりにも偽物であることを潔く認めたものだから、私は咄嗟に相手が悪意ある敵であるということが呑み込めなかったほどだ。
こちらが何かを言う前に偽ファーラは緑色の鬼火じみた呪術光に包まれて姿を消してしまったから、結局その正体はわからずじまい。謎の幻術の達人がメイファーラに化けて私たちに接近しようとしていたことは確かだけど、背後にどんな陰謀が蠢いていたのかは謎だ。
「つまり、本物のメイファーラはこっち、だよね?」
自信なさそうにエストが骨ファーラさんを見る。
私も同じ気持ちだった。消去法でこちらが本物ファーラだと思うのだが、それにしてはあまりにも違和感が巨大すぎる。なんかこう、超大物女優さんが『これがメイファーラの正統解釈だ』っていう具合に自然体で素の振る舞いをお出ししてきたので、『確かにこういう解釈のメイファーラもありだなあ』って納得させられてるっていうか。
もうこういうこと考えてる時点でメイファーラじゃないと理性は判断してるはずなんだけど、目の前に存在する再生者の白骨メイファーラに本物感があり過ぎて『元々こっちだった気がする』みたいになっちゃってるとこがある。
『いまここ』の現実認識が、記憶や理性を超越しているというべきだろうか。
納得しつつ混乱していると、不意に髑髏の貴婦人が指先のコインを弾き飛ばす。
放物線を描く銀色の軌跡。その動きを目で追いかける。時が緩慢に流れ、その狭間に差し込まれる『お姉さま』の呪文が私たちの心に突き刺さった。
「アズーリアがチョコレートリリーによって編まれた幻想であるのなら、お前の中には既に『メイファーラ』が存在している」
骸骨貴婦人の姿をした『だれか』と私の間を、『メイファーラ』が飛んでいく。
飛翔する私の友達は、銀貨の形をしているはずだ。
けれど、それはただの『メイファーラという名前』でしかなかった。
見知らぬ骸骨さんは、それを教えようとしてくれている。
「アズーリアが本物であるのなら。その心に住む『メイファーラ』もまた本物でしょう」
『メイファーラ』を受け止める。
手のひらの上で、すうと銀貨が溶けるように消えていった。
私の中に沈み込んだ名前。それは最初から私と、私たちチョコレートリリーの内側にあったものだ。だからこれは、パズルのピースがあるべき場所に収まっただけ。
「その『メイファーラの銀貨』を大事になさい。希望を残しておきたいのなら、ね」
いまや私がメイファーラだ。けど、私のその認識はひどく薄っぺらい。
アズーリア・ヘレゼクシュはチョコレートリリーによって成り立ち、チョコレートリリーを構成するメイファーラ・リトはアズーリアの一部でもある。そういう建前だ。
実際には違う。少なくとも、今はまだ。
かつてガルズによって『死という世界認識』が私に刻まれたとき。
アズーリアという存在はチョコレートリリーの語り直しによって蘇った。
けれどその呪文にメイファーラは含まれていない。手伝ってはくれたけど、彼女は自分が新参者だからと遠い黒百合宮での思い出を紡いではくれなかった。
それは、本当の理由だったんだろうか。
今さらだけど、そんなことを思った。
私はメイファーラであるはずだ。私はメイファーラにもなりたい。
けれど、そのためには彼女の存在はどこか手が届かないようで。
早く合流できればいいのに。
そう思う一方で、それを否定する奇妙な予感がある。
私の中に溶けたコイン。どのような理由かわからないけど、白骨死体の貴婦人が渡してくれた『メイファーラの銀貨』はとても恐ろしいものである気がした。
「さてライラ。本題に入りましょう。お前も気付いているわね? ハグレスが動いた。こちらで多少は力を削いであげたけど、『塔』の力をもってしても大神院の動きを全て抑えきるのは困難よ。あの愚か者を封じるためには、あと一工夫して虚を突く必要がある」
話が急にライラに戻ってきたので私は慌てて小さな犬の使い魔に視線を向ける。
驚くべきことに、あの怪物のような虹犬は身を強張らせていた。
遠隔操作の使い魔ごしでもわかるほどの警戒と敵意。
そして、ほんのわずかな恐れ。
死をも恐れぬ魔犬は、明らかに目の前の相手を脅威として認識している。
「私よりも古い小女神。それでいて呪力の規模は私以下。九姉ではない? なのにこの妙な感覚はまさか」
「じきにレースの先頭グループがこの異界に到着する。仕掛けるならそこしかない。そしてあれを殺しきることは不可能。だから私たち不死者に共通の弱点を突く」
思考に沈み込むライラと、それに構わず言葉を続ける謎の魔女。
ほとんど話についていけないが、レースについて話していること、そしてハグレスという邪神がそれに関わっていることだけはなんとなく把握できる。
ハグレスは私とライラを『槍の民』という眷属種に仕立て上げた上で『駒』にしようとしているらしく、マロゾロンドやレメスといった紀神の名を騙って干渉してくる危険な存在だ。確かに対処しなければならないが、どうやら謎の魔女には妙案があるらしい。
じっと考え込んでいたライラは、相手の言葉で何かの確信を得たようだ。
続く言葉は、私とエストにとっても意外なものだった。
「『末妹選定』の宣名者、『封印者』クレアノーズ。確かにお前なら我々が用意している結界儀式よりも優れた封印を施せるのでしょうね。同格の紀神の神威を用いた封印術ならば」
私は言葉を失った。
『塔』の魔女でその名前を知らない者はいない。
キュトスの七十一姉妹たちを統括する守護の九姉はもちろん偉大な女神様だけど、その下にいる六十二の妹たちだって世界中に名前を残す小女神である。
その中でもクレアノーズの存在感は際立っていると言っていい。
結界の六十二妹。守護の九姉と対をなすその名は、ひとりの『妹』によって命名された。
それが封印者クレアノーズ。またの名を、結界維持者クレアノーズ。
十一女であるクレアノーズは『妹』たちの取り纏め役だ。ゆえに『未知なる末妹』を選定する計画は九姉評議会の決定の下、彼女を中心に進められてきたと聞いている。
なんというか、このへんの『姉』とか『妹』とかの切り分けはけっこう呪術的に重要らしく、『結界』というのもキュトスの姉妹のあり方に関わる重要な単語なんだとか。
ただ正直、紀神まわりの話は色々と複雑で私も正確に把握できてないところがある。
黒百合宮で教えてもらった時にもっとしっかり勉強しておけばよかったが、言葉で説明されても感覚的に掴み切れないというのもあったので、今も理解はふわふわだ。
リーナは「つまりキュトスファミリーのボスが九姉で若頭がクレアノーズお姉さまってことでしょ?」とか言ってたけど、この威圧感を前にするとわりとそれっぽさがあった。
その若頭が口にした不死者の弱点、すなわち封印術については私も良く知っている。
『塔』の魔女が最初に教わる戒めに、彼女にまつわるエピソードがあるからだ。
『塔』にはこんなルールがある。同胞である姉妹とその見習い徒弟は、星見の塔の秩序に従う限りにおいて全てを試行錯誤し、呪術を探求していい。その過程での私闘、殺害、蘇生、洗脳、その他あらゆる呪わしい出来事は懲罰を恐れぬのであれば許される。
ただし、キュトスの姉妹という存在を否定することは許されない。
かつて、引き裂かれた地母神のかけらであるキュトスの姉妹すべてを喰らい尽くし『一なるキュトス』に戻ろうとした者がいた。その名は十女ルスクォミーズ。現在も『塔』において一定の勢力を誇る『統合派』の源流とも言える思想はルスクォミーズを狂気に導き、姉殺しへと向かわせた。
完全な女神に至らんとしたルスクォミーズは、七女である『七つの風の主』シャーネスを喰らい尽くした。シャーネスが統べる明藍の空は砕け、その破片は奈落に墜ちてルスクォミーズの支配する藍色の海へと変わったという。女神の司る世界の理が変わり果てるという一大事にキュトスの姉妹たちは騒然となった。その後、残る八人の姉によって敗れ去ったルスクォミーズは亜大陸への追放刑を受けるのだが、その際に彼女は全ての力をクレアノーズによって封じられたという。
神話に語られるこのエピソードから分かる通り、封印者としてのクレアノーズは姉妹の中でその異称の通りの役目を担う女神だ。
けれど、私がその話を聞いて本当に恐ろしいと思ったのはそこじゃなかった。
実はクレアノーズは反逆者ルスクォミーズが姉殺しの大罪を犯すよりも前に単身でルスクォミーズに挑んで返り討ちにされている。
聞く人によっては、彼女を弱いと侮ることもあるかもしれない。
けれど私はむしろ逆の感想を抱いた。
このクレアノーズという人は、守護の九姉を喰い殺してしまうほど強い格上の相手に挑んでしまえるのだ。万全を期して八人揃って反逆者を討伐した姉たちとは対照的な蛮勇ぶりと言えるだろう。それって、とてつもなく異様なことではないだろうか?
聞けば、当時の七女シャーネスが無防備な状態を狙われるのを防げなかったのは、キュトスの姉妹内部で意見が割れていたからだという。『姉妹の維持』と『一なるキュトスへの統合と回帰』というテーマはそれほどの重大な議題で、女神たちを悩ませる難問だった。だからこそ九姉のひとりが殺害されるという決定的な出来事が起きてしまうまで、狂気を増大させる十女を止めることはできなかったのだ。
だが、クレアノーズは問答無用で潰しにかかった。
九姉たちの『身内への擁護』を意にも介さず、悪鬼の軍勢を率いる女王ルスクォミーズに単身で挑み、敗北した。当時のルスクォミーズはまだ過激思想を掲げて王国を作って邪神と契約して禁呪を研究して軍備を拡張していただけだから、塔には彼女を罰する正統な理由がない。私は『上』側の神話で説明されたけど、『下』や亜大陸にはルスクォミーズを善神とする信仰があるというから、実際にはもっと複雑な事情なんかもあったんだと思う。
だが、クレアノーズは姉妹の総意や当時の情勢などお構いなしだった。
理由はシンプル。キュトスの姉妹というあり方を否定したから。
姉妹という形を維持するためなら、彼女は姉妹の総意だって無視してしまえる。
結界維持者。彼女の本質はたぶんこちらの異名に表れている。
ある意味で彼女は九姉よりもずっと苛烈で、制御不能だ。
対峙しているライラとクレアノーズを見ていて、わかったことがある。
多分、ライラの方が強い。
それでもライラは封印者を恐れているし、結界維持者は己がライラより弱いことなんて問題にしていない。クレアノーズの行動原理はそこにないからだ。
「ライラ。既に本選は始まっている。お前が今回の守護者として立つなら私は承認しましょう。さあ、選びなさい?」
文脈が掴めない。けれど間違いなく全ては繋がっていて、私もまた無関係ではない。
クレアノーズの言葉も同じ。
彼女が口にした『本選』という言葉。これは空使い選定レースのことのように聞こえるし、状況を考えればそのはずだが、同時に姉妹に関わることでもあるという確信がある。
これは末妹についての話だ。おそらく、その二つに矛盾はない。
ライラは聞えよがしに舌打ちをして、大きく溜息を吐いてから言った。
「お前たちキュトスの絞り粕どもの『我々こそが正統な大地の管理者である』とでも言わんばかりの態度、前々から不愉快だと思っていました。セルアデスを手懐けた程度で、泡沫のごとき『塔』が我ら天空と対等に渡り合えると本気で思い上がっているのですか?」
「渡り合う必要性を私は感じていない。選定レースをご覧なさい。競い合いの本質は未来への前進と過去の更新。現在ばかりに気を取られ、妨害に注力するのは本末転倒でなくて?」
「下らない呪文遊びは沢山です。お前の手管に惑わされ、争いのただ中でよそ見をした瞬間に私の背を刺すのはどの陣営なのかしら。近年の『塔』の動きで最も警戒すべきは太陰への接近だと誰もが知っていてよ。どんな餌でシプトツェルムを誘ったの? それとも外縁隣界に潜んでいるフィーリィとの接触に成功したとか? いずれにせよこれ以上の問答は不要。競い合いの本質? 本質などない。戦争。殺戮。暴力。実在するのはそれだけです」
「その物分かりの悪さはともかく、やる気になったのなら結構。アズーリア、次にハグレスが狙うのはリーナよ、守りなさい。ライラと協力してどうにか隙を作ってくれたら、あとは私がどうにかする」
なんだかよくわからない話が続いたが、私に選択の余地はないことだけはよくわかった。
『槍の民』というラベルを剥がさないと第五階層に入ることはできない。グレンデルヒによって言い渡された進入禁止令はライブの障害になるし、個人的にもマロゾロンド神の偽物なんて気分が悪い。更にリーナが危険となれば戦う理由には十分だ。
「あの~、私はど」
「プリエステラは待機。さっきの偽物が何を目的としていたのかについて、よく考えてみなさい。もっとも、今の状態では警戒そのものができないでしょうけどね。いずれにせよ現実と矛盾に直面するまでお前にできることなど皆無よ」
おずおずと手を挙げたエストはショックのあまり硬直していた。
クレアノーズおねーさま、なんかエストに当たりが強くない?
なんだろう。何か気に障ることをしちゃったんだろうか。
「アストラル知覚を広げる術は習得しているわね? アズーリアの目でも借りて見学してなさい、プリエステラ。お前はこれから、家と血の呪いを目の当たりにする。リーナの選ぶ道がいかなる形をしているのかを見届け、よく考えることね。自分にとっての家族の意味を」
あっ、怒ってはいるっぽいけど、それはそれとして気にかけてくれてる気配を感じる。
エストにもその気持ちは伝わったのだろう。言葉の意味はさっぱりわからないが、とにかく私たちは視線を交わして頷き合う。やることは決まった。あとは実行するだけだ。
「さて。まだお日様は高く、夜は遠い時間ですが。世界を夢に誘うといたしましょう」
ライラの言葉を合図に、世界が静かに変容していく。
異界『虫王の庭』が震えている。
緑溢れる長閑な自然や巨大な昆虫たち、瘴気混じりの黒い暴風が、淡い朱色に包まれていく。それは既にある現実に重ねられたもう一つの『世界認識の層』だった。
浄界に近いが、それよりもずっとふわふわしている。
それでいてずっと確かで、『あって当たり前』という感覚もある不思議な世界。
私はこの感覚を知っている。
いいや、誰だって知っているし、来たことがあるはずだ。
ここは夢。眠りの中で漂う、確かに実在する幻想の世界。
尋常ではない規模で実行されたライラの術は、あらかじめガロアンディアンによって準備されていた『夢界コース』の制御を奪取し、その現出を前倒しにするというものだ。
朱の色号が表現する夢の世界はライラが最も有利な戦場だ。
レースに介入しようとしたハグレスは予定外の環境に戸惑いわずかな隙を見せるはず、という作戦らしい。それはいいんだけど、こんなことして選定レースに影響しない? 確かこの虫王の庭を半日がかりで飛び回った後に機体をピットインさせつつ選手と観客を夢の世界に誘ってレースを継続、というプランだったと思うんだけど。
現実を侵食する夢の世界、というのも理解が難しい。
それって結局、心身の負担とか機体の限界とか選定レースの継続とかは大丈夫なの?
いろんなことがわからない。とはいえ都合よく解説してくれる人は周囲にいないので、流れでやっていくしかないみたいだ。うーん、物知りハルが恋しい。
考え事をしているうちに世界はすっかり朱色に染まっていた。
彼方に見える円形のゲートから勢い良く機甲箒が飛び出してくる。
次々と現れる選手たちの姿を認めたライラがふわりと浮き上がると、私も慌てて飛び上がった。ここは夜に近い。スキリシアのように自在に空を飛翔できると感覚的に理解できた。エストに手を振って移動していると、遥か上空に気配を感じた。
知っている。肌に馴染む。とても懐かしい存在がそこにいるという確信。
マロゾロンド神。物言わぬ黒衣。静謐なる模倣者。「やあ、アズーリア。久しぶりだね」馬鹿みたいな饒舌さ。不自然を不自然と思わせない。さっきのメイファーラと同じだ。
空を覆う夜の黒衣は、夜の民にとっての崇高だ。
私は無言のまま影を斧にかえて、勢いよく振りかぶった。
どこかで、巌のような声が轟いた。
「おうおう、とうとう始まったみてえだなあ! おらたつもうかうかしてられねえぞ! そら急げ、やれ急げ! トラロスの王を掘っくり返せ! そうらキニス、次はおめえだ!」
双頭の呪術師が、深い地の底でげらげらと笑う。
『盤面』を眺めつつ、様子見の一手。その両手は一心不乱に土を掻き出し掘り進む。
ノゴルオゴルオ・ディスケイムはじっと機を窺い、動き出す時を待ち続けていた。
そことはまた別の場所で。蕩けるような美声が鳴り響いた。
「これで詰みだ、アルルフの王カシューティス。クナータの裏切りは意外だったかい? ああ、私の本命がプレア=エステラだと思っていたのかな。もちろん、どちらに切り替えても選定を勝ち抜けるようにしているんだよ。当然の備えだろう?」
超越者同士の激闘。未来を巡る時間分岐戦闘は片方の勝利で幕を下ろした。
華麗なるティリビナ人の英雄が、濃い霧に紛れて巨人を食い殺す。
聖女を支配下に置き、選定レースにも介入を試みていた『麗蝶の翼翅』。北辺の残党たる古き妖精王の浄界は、その軍勢ごと大輪の薔薇に呑み込まれた。カシュート・ノーグの終端邪視は、テテリビナの時間樹の前に敗れ去ったのである。
「やっと手に入れた。散逸したミェスのレガリアを! 賢天主には感謝しなくては、あの忌々しい北辺皇帝を終わらせてくれたのだからね!」
歓喜の声と共に妖精王の全てを奪いながら、男はその在り様を変質させていく。
北辺の地で急速に失われつつある信仰。その形を引き継ぐように、新たな解釈で再び蘇らせようとしていた。このタイミングであれば、それは異端ではなく新たな正統になりうるという確信に基づいて。蕾は蛹に、花は蝶に。美は麗に転じ、彼は転生を果たす。
「ずっと目障りだったんだ。この美しくも麗しい私を差し置いて、美の神を僭称する紀人が。だからこそ私が喰らえば矛盾は消える。今この時より、私こそがミェス・リヴァ。華麗なる紀人スーリウム・ミェス・リーヴァリオンだ」
そして、夢に沈む世界で。
選定レースを続けるリーナ・ゾラ・クロウサーに手を伸ばそうとする邪神ハグレスの前に、一匹の犬が立ちふさがる。
その小さな体躯は見る見るうちに膨れ上がり、ぽんと軽い破裂音と共に犬型風船が弾けて散った。中から現れたのは犬頭の貴婦人だ。
冥府から帰還した、完全なる『傘の魔女』がそこにいた。
「さて、終わりにしましょうか、偽りの神ハグレス」
「馬鹿だね、ライラとアズーリア。お前たちが組んだからといって何ができる? この僕とダウザールを同時に相手にして勝てるわけがないだろう!」
レースは継続している。
選手たちの大半は異変に戸惑いつつも、上位次元からの干渉には気づいていないため、ハグレスとライラの存在を認識することはできていなかった。
ダウザールは違う。彼は受肉していながらも現実を俯瞰する上位の視点を持つ。
ゆえに彼はレース中でありながら遥か遠方のライラに気付いていた。
「それはそうですわね。なので、可愛らしくおねだりでもしてみましょうか」
ライラ・ラプスはひとつの事実を受け入れた。
ここまで隠し通せた。油断を誘えた。策が上手くいったという確信を得られた。
彼女は、自分の勝利を信じて笑う。
「ライラ、邪神の心臓が欲しいなあ。ね、おじいさま。可愛い孫娘のおねがいです」
「仕方ない子だ。そら、おじいちゃんがご褒美をあげよう」
ダウザールは無造作に『手』を振るった。
ざくり、と何か致命的なものが断ち切られる。
それは魂であり、呪いであり、信頼であり、関係性であり、真実だった。
現実に干渉し、存在の濃度を増しつつあったハグレスの背が抉り取られる。
『背』というのは概念だ。背後から襲われたという事実が反映されて、ハグレスの認識に重大なダメージを与えた。これはそういう意識と思考の戦いだった。
「は?」
状況が理解できないまま、ハグレスは本来なら意にも介さぬアズーリアの斧をまともに受けて痛みに呻き、更に叩きつけられた傘の魔女による怒涛の連撃に圧倒される。
虹弓から放たれた色とりどりの矢。線の嵐。雷撃。雨雲の縛鎖。
それを手助けするように、ダウザールの呪術がハグレスを打ちのめした。
レースに参加しているダウザールではない。天空という絵に描かれた雲が、空の色が、絵具となって巨大なダウザールを夢と神話の中に描き出している。
神々の対峙。それは虚構であり、夢であるからこそのスケール感で非現実を実現する。
クロウサー家の巨人がその手に握っているのは弓だ。
巨大な老人が天に手を伸ばし、しかと掴んだ天空の輝き。
空の支配者は、虹を掴んで弓にしている。
「ありがとう、大好きよおじいさま」
心からの笑みと共に、女は家族への親愛を口にした。
ハグレスは、まだ何が起きているのかを理解できない。
だから否認した。目の前の現実は嘘だ。夢だと。
その途方もなく巨大な存在が、少しずつ縮んでいくことに気付きもせず。
「ダウザール特務親衛隊『七つ風』筆頭、ライラ・プラパーシュ・クロウサー」
虚飾をはぎ取ったまことの宣名が空を震わせ、風が四方へと流れて巡る。
瞬間、夢に満たされた世界が姿を変えた。
虫王の庭という自然の残滓が粘土細工のように歪み、荒唐無稽な空想によって奇々怪々なオブジェとなっていく。この夢は既にライラの王国だ。
「覚悟なさいハグレス。我らクロウサーの竜母リーナはじきに目覚める。彼女を空使いに導く末妹候補の使い魔として、ここでお前を殺します」
末妹選定は、四つの座が競い合うレースのようなものだ。
杖の座はトリシューラ。邪視の座はコルセスカ。呪文の座はハルベルト。
それぞれが異界の世界観を内面化した転生者の使い魔を従え、未知なる女神を目指してそれぞれの道を歩むというのがその概要である。
未だその全容を明らかにしていない最後の座、使い魔の座。
魔女の名はトライデント。あるいは、その心臓トリアイナ。
それは未だ存在しておらず、祝祭の日に竜母なる存在によって産み落とされる救世主であるという。その伝承は古く、神話の源流には無数の文脈が重なり合っている。
「キュトスの姉妹、結界維持者クレアノーズの名において、異界転生者クロウサーを末妹の使い魔として認めましょう」
古い小女神の役割は裁定者であり、選定儀式の運営者だ。
その声に応じるように、空使い選定レースは本来の姿を取り戻す。
銀翼で空を舞うクレアノーズの宣言が、空に架かる虹を祝福していた。
「これよりクロウサー、ディスケイム、リーヴァリオンによる使い魔の座トライデントの最終選定を始めます。役者は揃った。槍を砕き、己が道を拓き、未知なる地平を見出すがいいでしょう。競い合いの果てに、救済の未来があると信じるのならば!」
ライラ・プラパーシュ・クロウサーの本質とは何か。
虹犬の神話に登場する最初の女。クロウサー家の空使いダウザールの孫娘。
救世主を欲する野心家にして、父神レメスをハグレスから奪い返そうとする義士。
答えはいくらでもある。
だが、末妹選定を巡る物語においてその役割はもっとシンプルだ。
シナモリアキラがそうであるように。
アズーリア・ヘレゼクシュがそうであるように。
ライラは己の主とその未来を守るために戦う、魔女の使い魔である。




