5-49 槍と翼
レースの熱が通り過ぎて、観客たちの関心は岩塊が浮かぶ大空から濃霧に覆われた大海へと移り変わる。
冷えていくのは競技場だけではない。
選手たちの遥か上空で密やかに繰り広げられていた戦火もその勢いを減じていた。
天翔ける亜竜、クオア・リア・クロウサーは巨体を大きくよろめかせる。飛ぶことさえままならず、穴だらけの翼を畳んだクオアは硬い大地の上に倒れ込んだ。何かを言おうとして詰まり、喉から大量の吐血。潰れた片目は見えておらず、片足を引きずらねば歩くことさえままならない。すぐにでも治療しなければじきに命を落とすだろう。
「馬鹿、な。この私が、地を這うラフディの人形などに」
配下の翼竜騎士たちも半数以上が岩塊の上で骸を晒すか、あるいは果ての無い空の下へと墜ちていくかしていた。見るも無残な壊滅。それがかつてガロアンディアンの空で不敗を誇った蒼空騎士団の末路だ。
這いずり、蠢き、大気の中で溺れるようにじたばたともがく。
「調子に乗り過ぎぃ。お館様の援護がなかったら今頃おしまいだったよぉ?」
ふわりと、軽やかな足取りで現れる者がいた。
着地はしない。大きな羽飾りが目立つぶかぶかのブーツは大地を拒絶しており、窮屈そうな囚人服に包まれた小柄な身体がぷかぷかと宙に浮いている。
手錠と拘束具でほとんど動かせない両手の先をぱたぱたと開閉するたび、細い身体が移動し周囲を風が吹き抜ける。煽るような強風は倒れたクオアの頭部を執拗に襲っていた。
「ぐ、チッセ、貴様」
「忙しいお館様に助けてもらったのに辛勝とかダサ~。クオアは反省してぇ」
独力ではなかったにせよ、勝ちは勝ち。
アルト・イヴニルとクオアの戦いは、反逆した翼竜の勝利で終わった。
まさに赤子の手を捻るが如く、アレッテ・イヴニルが召喚した『軍勢』はダウザールの呪術によって大半が壊滅していた。
かの巨人がレース中に遥か上空へと解き放った呪術はまずエントラグイシュを焼き払い、その後に真下へと降り注ぎ障害物を破壊したのだ。
「さっきこのへんの岩塊群を『神経支配』で探査したんだけどぉ、けっこぉ討ち漏らしてるよぉ? クオアは大雑把すぎぃ~やるなら徹底しないとねぇ」
甘ったるい口調で辛辣な言葉を吐きながら、チッセと呼ばれた空の民は風を操る。
簡素な『空圧』の呪術基盤。岩盤の陰から奇襲を仕掛けようとしていた生き残りの人形が吹き飛ばされ、両断された。人形に縦に走った細い『線』が二本、三本と増え続け、嵐のように荒れ狂いながら対象を微塵に切り刻む。
これ以上は隠れ潜むのも限界であると判断し、エントラグイシュたちの生き残りがバラバラの方向へと逃走する。アルト・イヴニルの総体はほとんどの戦力を喪失した。この上、要であるエントラグイシュまで失うわけにはいかない。
「やっぱり逃げるよねぇ~でもボクはそのコが欲しいんだぁ」
空の民が気だるげに目を見開くと、額や側頭部でも同時に目蓋が開いた。ぎょろぎょろと視線を動かして、遥か蒼空に散らばり潜伏や撤退を試みている生き残りを全て見通す。
「クオア、ちょっとこの隣接異界を閉鎖するから、掌握者権限借りるよぉ? チッセ・ディパーシュ・クロウサーの名において空と大地に命ずる。閉ざせ」
宣名と同時、どこまでも広大な青空が一瞬にして縮む。
矮小に、窮屈に、圧縮された箱庭となって内部空間に存在する全てが『主』という中心に引き寄せられていく。呪縛されたエントラグイシュたちは抵抗を試みるが、一言たりとも発することは許されていなかった。邪視による浄界干渉と『静謐』の同時起動。
みしみしと拘束具が軋み、内側から肉体が膨張。無数の生命が躍動する気配は『軍勢』のそれだが、衣服が弾け飛んだことで露になったそれは『化身』だった。
クロウサー家は婚姻政策によりその権勢を強めてきた血族として知られている。
それは政治的思惑以上に、多様な種族の血を取り入れる混沌派血統術師としての思想に基づいた呪術的戦略としての側面が強い。
現代の四大血族がそうであるように、基本的には空の民としての形質を維持しつつ外部にクロウサーの血を混ぜていくという手段が主流だが、過去には外部の血を迎え入れることも積極的に行われていた。
なぜ廃れたのか。
それが行き止まりであり、極端な破綻を招くという事実が判明したからだ。
『チッセ』という忌み名はクロウサー家の内部でも当主をはじめとした上層部しか知らない恥部であり、同時に過ちを繰り返さぬための戒めとしてのみ記憶されている。
異形の人形たちによって構成された赤子人形の軍団、エントラグイシュが悲鳴を上げる。
『それ』があまりにも常軌を逸した生命体だったからだ。
それは浮遊する半アストラル体生命であり、疑似細菌で構成された模倣影であり、媒介物質に宿った妖精現象であり、蛸足と尾びれとエラを備えた海洋生物であり、物質に対する信仰を具象化する霊長であり、無重力の言葉と戯れる兎であり、千里を見晴らす戦士であり、燃える血の天使であり、己を信じる汗腺の発達した毛無し猿であった。
それは男であり女であり獣であり虫であり鳥であり草木であり豆腐であり納豆であり雲であり虹であり犬であり稲妻であり風であり雨であり雪であり川であり森であり山であり炎であり熱であり命であり心であり繋がりであり幻であり虚構であり現実であり世界である。
空使いダウザールは常人では全容を把握することさえおぼつかないチッセという赤子が生まれた瞬間、たったひとことでそれを定義付けた。
混沌。クロウサーと言う方向性の、ひとつの結末がそこにあった。
無数の生命が爆発するように躍動し、手足と触手の激流がエントラグイシュたちを絡めとり、内部へと引きずり込んでいく。
「エントラグイシュはこれで確保だねぇ。『夜空の獣が生む卵』の神話素、ラフディに漂着してたのは盲点だったよぉ。あとはマラードも確保しときたいところだけどぉ」
空使いダウザールは直属の特務親衛隊、『七つ風』を従えていたという。
彼らはかつてパーン・ガレニス・クロウサーの反逆を阻んだ壁であり、現代の基準で言えば全員が第七階梯、すなわち巨人位階に到達している高位呪術師集団であった。
チッセはその序列四位。空使いより『威風』の号を与えられた天空神の一角である。
「いまのところチッセちゃんはそんなに忙しくないからぁ、馬鹿でザコでダサダサなクオアを治療してあげるぅ。感謝してぇ」
浮遊する異形は膨張していた全身を再構成されていく拘束具と囚人服の中に圧縮、収納しながら気だるげに言った。
クオアに向ける視線は侮り混じりではあったが、微かな親しみも見て取れる。
ごく近しい関係性。親族に対する気安さだった。
それは翼竜の方にとっても同じで、自然体のまま棘含みの言葉が出ている。
「序列が一つ上なだけだろうが、偉そうに。今回は逆風が吹いていただけだ。順風ならそうそう負けはしない。それより、他の連中はどうした?」
「アルゾラ家とサンブル家も来てるよぉ。お館様がいつになく元気だしぃ、ちゃんとご令孫を迎えに行く準備しないとだからぁ終端血族は勢揃いだよ~」
「ち、祭司はともかく、あの馬鹿夫婦は好かん。ダウザール様もエンハドーラの穴埋めにあんな色物を選ぶことはあるまいに」
「陰口~悪い子~そんなふうに育てた覚えないよ~」
クロウサー。その巨大な家の主流は四つの血族である。
だが、それは現代における一般認識だ。
かつては違った。クロウサーとは、最も強大な空使いダウザールのことだったからだ。
神にも等しき巨人の死後、その権威を受け継ぐ四つの家が選定の儀を繰り返して当主の座を争ってきた。拡大志向の血族ゆえに、現代のクロウサーのほとんどは四大血族のいずれかを祖としている。だが、それはクロウサーの全てがそうであることを意味しない。
主流ではなくなった分家。四大血族が力を増すよりも前に権勢を誇っていた旧家。
歴史の流れに埋もれて廃れた行き止まりの血。それは存在しないはずの亡霊だ。
「チッセ。ディパーシュ家からは貴様だけか」
「クラウビューラ兄さまも久々に起きるって~。あとはステランプとネオレイン、バルヘリオンとフェジェンも来てるよ~。なんかぁディスケイムに先手を打たれたらしくてぇ、冥府を押さえられちゃったからいま偵察中~」
「怠慢だな。『下』でいったい何をしていた。こういう時のためにダウザール様はお前たちの血族を鈴国圏に潜り込ませていたのだぞ」
存在しない。知られていない。断絶しているはず。
古すぎるゆえに史料が乏しく、歴史からも忘却されたものたち。
だからこそ都合が良いと、『クロウサー』は考えた。
戦略的な忘却は、隠蔽と区別がつかない。
「ディスケイムの目もあるし、『上』ほど自由には動けないのぉ。目と耳を配置して情報を本家に送るのだって一苦労なんだよぅ。ていうかぁ、兄さまの水素水で治療してもらってるのに文句ばっかで生意気ぃ。もうあげないぞ~」
身体のどこから取り出したのか、浮遊する水筒が傾いて傷ついた翼竜に液体を注いでいた。一見してただの無色透明な水だが、触れた箇所の傷が見る間に癒えていく。水素水と呼ばれる霊薬の一種で、水素が溶け込んでいるため致命傷すらたちどころに治すという凄まじい効能を持つ水だった。消耗した体力を取り戻したクオアは安堵の息を吐く。
「リーヴァリオンも動いているようだ。大した数ではなさそうだが、ディスケイムの戦力次第では面倒なことになるぞ。先刻の人形のような有象無象も湧いている」
「わかってるよぉ。でもでもぉ、末妹選定の本番なんだから、他の座だって守護者の数を揃えるのは当然でしょ。戦争なんて予定調和なんだし、今さら慌てても仕方なくな~い?」
「貴様、緊張感がなさ過ぎるぞ。そんなだからあの女にグロソラリアの座を奪われるのだ」
「いーじゃん、あのコめっちゃ強いしぃ」
へらへらと笑いながら、チッセはクオアの巨体の上をふわふわと通過する。
鬱陶しそうに翼竜が身を捩らせる。毒づきながらもクオアはチッセの前で頭を下げたままでいた。その巨体で小柄な女を見下ろすことがないように気を遣っているのだ。
「それより聞いてぇ? 下の情勢かな~りピリついててヤバいんだよ~。こっちに来るのだけで大変だったもん」
「もったいぶらずに要点だけ話せ」
「んっとねえ~、情報が伏せられてるからここまで届くのは少し遅れると思うけど~」
クロウサー家の二人は話しながら岩塊から浮き上がり、移動を始める。
ダウザールの忠実なしもべである二人には使命がある。
全ては血族のため。空使いを守り、正しく導かねばならないのだ。
遥かな蒼空を見つめながら、未だ知らぬ『何か』を求めて。
「藍の天主セレクティが戦死したって~」
「ほお?」
影の血族は、密やかに空に沈んでいく。
闇の奥で巨大な気配が蠢き、言葉を交わす。
「手駒が無能だとイライラさせられるよ。君もそうじゃないかい、ダウザール?」
「さて。老いた身としては、たまに世話を焼きたくなるくらいがちょうど良い可愛げだとも思うがな。まあ落ち着け、ハグレスよ。外堀の工作は首尾よく進んだようではないか」
虚空。どこでもない、どこにもない遥かな上方。そこは空や天と呼ぶのが適当だが、具体的にどの国、どの地方の上方かと問われると、空間的なものではないと答えるしかなくなる。観念的と言うにはやや俗世に近すぎるから、これは『呪術的な上方』とするべきだろう。そんな『どこか』にいるのは、当然ながら尋常な存在ではない。
「この程度は造作もないさ」
神々が弄ぶ駒は無数にあり、その遊戯盤もまた複層的だ。
ハグレスとダウザールは世界を俯瞰しながら常に多面打ちを行っている。
とりわけ今は世界槍という九層に重なった遊戯盤が彼らの主戦場だった。
同盟者である二人以外の打ち手の姿はないが、その存在は確かに局面に影響を与えている。互いの隙を窺う神々の攻防が最も熾烈なのは中心部である第五階層で、ハグレスは幾つもの失着から持ち駒を失っていた。だが同時に、別の局面を有利に進めてもいたのだ。
「第八階層の趨勢はほぼ決した。魔軍はこれで終わりさ」
下方勢力、鈴国、ジャッフハリム、あるいは藍神彩域。
盤上で天主セレクティを模した女王の駒が砕け、魔軍の大駒が幾つも敗走していた。
『上』ではあまり知られていないことだが、現在の第八階層は内紛状態にある。
レルプレア教団、巨人連合軍、ジャッフハリム世界槍方面軍という陣営に分かれた三つ巴の散発的な戦闘。死人の森や祝祭を表向きの口実にしつつもセレクティが動けない実際の理由はこちらだった。天地の世界槍争奪戦は形式的な小競り合いに終始しているのみ。両勢力とも内部の派閥争いを治めるのに手一杯な状況というのが実態だった。
その膠着状況が一気に動いた。
セレクティの敗死。ティリビナ人勢力と古き神々という扱いの難しい反抗勢力をこれまで上手く抑えていたはずの天主が、予想だにしなかった形で盤上から取り除かれたのだ。
魔軍総司令官の地位を魔将筆頭であるマーネロアが引き継ぎ、彼が率いる境界動物解放戦線の主要メンバーを中心とした魔軍残党が立て直しを図っているが、劣勢は明らかだ。
「いくらあれがディスケイムの傑作とはいえ、無駄な抵抗さ。前線基地である『生ける藍域』は巨人連合が制圧した。いまや下方勢力の呪術的な権威を握るのは僕の駒たちだ」
それは鈴国圏における時代遅れの亡霊たち。
巨人連合軍とは主流になれなかった神々や天主に届かなかったものたち、堕ちた魔神族の末裔によって構成された敗者の勢力である。
そこに、『楽園』を名乗る異質な神が加わったことで状況が変化していた。
「見事な指し筋だ、ハグレスよ。クロウサーの駒は下へは運べぬ。歯がゆさを感じていたものだが、余計なお世話であったな」
「はは、お気遣いに感謝するよ、翼の王よ。君たちには上の方で世話になった分だけで充分さ。こちらの盤面ではかなり助けてもらった。おかげできっちり詰みだ」
歓談しつつ、二人の視線は第八階層の遥か上、第一階層に移る。
地上に広がる積層都市エルネトモラン。
松明の騎士団の本拠地でも、セレクティの死に匹敵する事件が起きていた。
上方勢力における要。頭脳にして心臓にも等しい大駒を、無数の鎖が絡め取る。
松明の騎士ソルダ・アーニスタは内乱予備罪の容疑で逮捕・拘束されていた。
これもまた上の内紛だ。中央と地方の世界槍における主導権争いである。
央都の決定。それはすなわち大神院の影響力が及ぶゼオーティア教圏の総意に等しい。
クロウサー家出身の枢機卿や大司教たちの意向。
ハグレスの代弁者たる一部の炎天使たちによる託宣。
それらが然るべき根回しと口利きを積み重ねれば、このようなことも可能になる。
「殺しはしないさ。『やりなおし』を試みることさえできない次元回廊に幽閉し続けるだけで最弱の修道騎士は無力化できる。なに、もとよりあれに大した影響力はない。個人としても、派閥としても脆弱な地方軍閥の長。切り崩すだけならいつでもできた」
それをあえてしなかったのは、適切な時期まで泳がせたかったからだ。
神々に比べて圧倒的に脆く儚い個人。
それを隠れ蓑にしている何者かの影を、ハグレスはずっと恐れていた。
「この局面に至って確信した。あれは徹底した『個』だ」
裏はない。無害であるという認識以上に、ソルダは誰かに操られるような存在ではないという確信がハグレスにはあった。
中央は地方を憎み、蔑み、侮っている。
だが同時に恐れ、警戒し、本来の実力よりもそのあり方の危険性を強く意識していた。
ゆえに、超越者としての霊感が答えを告げたのだ。あろうことか松明の騎士であるはずのソルダは、『上』の勢力図から孤立した政治的敗者でしかないのだと。
確かにソルダは幸運にも世界槍の秘密に触れ、槍神の名を掌握した。
この文明圏に限り、彼は神の代理人を僭称可能なほどに強大な存在になった。
使命を放棄した姉に代わって松明の騎士という立場を手に入れた。
謎めいた『穂先』を独占し、神具との適合を果たした。
それらは全て、言ってみれば偶然が重なっただけだ。
「あれは父祖と同じく凡庸な神具の担い手でしかない。本来なら名前さえ残らぬ一兵卒に過ぎないよ。短期的には英雄的な活躍ができるかもしれないが、神の視座で見下ろせば取るに足りない。僕の敵じゃないのさ」
「なるほどな。『穂先』への侵入はどうだ?」
「面倒なことにロックされているよ。ソルダの脳を洗うなり過去を視るなり手段は幾らでもある。こちらは時間の問題だ。心配は無用さ」
ハグレスには焦りがない。余裕をもって泰然と構えている。
あるいは、そのように見せているのか。
ダウザールはそんな友を興味深そうに眺めていた。
上下の盤面をほぼ掌握した邪神は、絶対の自信を持って宣言する。
「これより第九世界槍における掌握作戦は大神院が中心となって執り行う。全ては僕の『楽園』を地上に顕現させるために。愚かな人形どもを踊らせてやろう」
盤面が動く。
祝祭と救世主。選定レースと空使い。第五階層とトリアイナ。
その全てがたったひとつの結末に向かって収束していく。
神々の遊戯盤は、着実に槍と翼の勝利という絵図に近づいていた。
「ダウザール。我が親友よ。結局のところ君だけが頼りだよ。槍と翼の輝かしい未来のために、共に祝祭を盛り上げていこうじゃないか」
「ふむ。では少し頼ってもよいかな。リーナは順調に覚醒へと向かっているが、このままのぺースではやや不安が残る。夢界でアストラル体に少しばかり手を加えたい。ハグレスよ、いつもの手であの娘に『神の幻視』をもたらしてやってはくれまいか」
「お安い御用さ。それで彼女が天の御殿と共鳴できたら色々な手間が省けるしね。それじゃあ少し降りてくるよ。下界では化身体で会おう、ダウザール」
遍在する超越者たるハグレスにも存在の濃淡は存在する。
どこに個我というリソースを集約させるかによって『移動』という呪力の集約状態が生まれるのだ。ダウザールの目の前でハグレスの気配が霧散し、高密度の神威が下界に向かう。
それを見送ると、ダウザールはやや退屈そうに小さく息を吐いて自分を象った駒を動かした。濃霧に満たされた飛翔海域を危なげなく飛翔するダウザールは、選定レースから少しだけ意識を切り離していた。彼の意識はいま、別の領域に分散している。
「テセト、進捗はどうか」
「は。万事滞りなく。合図さえあれば、いつからでも始められます」
言葉を発したのはダウザールではない。
盤面はエルネトモランの北に位置する中原の心臓、央都近郊に移る。
栄華を誇る首都の喧騒からやや離れ、隣接した地区であるそこは神聖な静けさに満たされていた。清浄な空気に包まれた区画を、二人の空の民が並んで移動している。
先ほどからずっと、ダウザールは視線のみでその二つの駒を動かし、レースと並行してその局面に集中していた。
「元より過日の葬送式典で下準備はできております。あとはきっかけがあれば」
「開門は成る、か。思えば長かったな」
ダウザールであってダウザールではない老人が呟く。彼はクロウサー家の影響下にある大神院の上層部、信者たちの敬意を一心に集める枢機卿のひとりだった。
地上権力の中枢。至る所にクロウサーは浸透している。
支配血族クロウサーの起源を遡ると、彼らは厳密に言えば王族ではなかった。
王に神権を授与する特権を持つ者たち。
王の序列を定め、順番を与える『第一より前』に位置していること。
それが最初の王冠創造者であった『空使い』オブルディス・エジーメ・クロウサーが定めた血脈の位置。第零王権者という序列。
天帝であり、天主であり、神人であり、巨人であり、紀人であり、紀神であるもの。
その影響力は大神院にさえ及ぶ。枢機卿の三分の一はクロウサーの血族であり、幾つかの大司教管区はクロウサーの王国と呼べた。
第一の世界槍、天頂霊廟エルネ=クローザンド。
その接続域である大神院直轄領・聖地エルゼオートにクロウサーの本家はある。
義国アルセミットの心臓が央都なら聖地は魂だ。
央都と隣接してはいるが呪的に隔絶された秘匿文明圏。
光や雲、あるいは煙の柱とされる、最も霊的・概念的な十字世界槍の内側。
下方勢力と接続されていないこの世で最も安全な場所。
言語支配者である初代教皇・聖ポルポフォンが作り出した天使舞う楽園である。
過日の『禁呪テロ』によって内部からその守りが崩され、甚大な被害を受けたにもかかわらず、聖地は爪痕ひとつ残さず清らかな状態まで復元され、失われた命もまた補充されていた。絶対安全な聖域の名に傷は残らない。
ダウザールの代行者である枢機卿が大神院へと向かうと、どこかから数名の空の民が集い、ごく自然な形で追随する。彼らの額には輝く冠が載っており、なにがしかの呪的権威を宿していることは明らかだった。
「テセト。所定の位置で待機しておれ。我らはこれより聖典の確保に動く」
「お気をつけて、お館様」
最初から枢機卿の傍に付いていた男がふわりと飛翔して一団から離脱する。
完全なる天上の景色が、歪に捻じれた。
大神院の権力の象徴。空間を繋ぐ『扉』が開き、男は遥か天へと渡った。
そうして、聖地の上空に細身の男が再び現れる。
平凡な耳ながらその霊体は翼のような広がりを持っていた。
閉じているかのような糸目。目の上でまっすぐに切りそろえられた黒髪は兜を思わせる。身に纏うのは天宮神官の白い貫頭衣。
手にした鉄扇をぱちりと開き、閉じる動作を繰り返す。
男の名はテセト・アルゾラ・クロウサー。
ダウザール親衛隊・『七つ風』の序列七位。テセト転生三十七世。
今の表向きの立場は前当主サイリウスの秘書であり、アルゾラ分家の祭司長という立場だ。この分家は『空使い』の選定儀式を取り仕切る役割を担う特別な地位にある。
本来であれば選定レースを主催する立場だったはずの彼は、ガロアンディアンでの開催という特例を理由に現当主リーナによって任を解かれ本家待機の身となっていた。
『始祖』を奉じ、主要な血族たちとは独立した権限を与えられているアルゾラ家当主はその気になれば当主の意向を無視して強引に介入することもできた。
伝統、格式、分家たちの総意。そういった様々な『テセトが行使可能な権力』を用いればリーナを傀儡に仕立てることさえ難しくはなかっただろう。
だが彼はそれをしなかった。必要がないからだ。
彼は現代のクロウサー家における数少ない当主の真実を知る存在。
サイリウスではなく、クロウサーの血脈そのものに仕える忠実な下僕であった。
聖地を睥睨する彼の周囲に、いつのまにか燃える翼を持った美貌の戦士たちが集っていた。更には聖地の各所でクロウサー家の神官たちや協力者である燐血の民衛兵が油断なく抑えている。手抜かりはない。この日のため、テセトは入念に準備を重ねてきたのだ。
「いいですね。『藍神』の活性化は十分。喪失は救い手を求め、贄と痛みも足りている。『司書』たちの仕事ぶりには感心です」
過日の大規模なテロでさえ、必要な犠牲でしかない。
槍と翼の蜜月。それは長い時間を積み重ねたことで既に当たり前の前提となっている。
だからこそ成立する仕掛けがあり、テセトはその為の駒として用意された。
「サイリウス様。ダウザール様。ミブリナ様。そしてリーナ様。我らが始祖。我らが娘。四方に散った血族よ。融血混沌の儀、今度こそ成就させてみせましょう。全ては地獄の愚者どもの『藍域』を蹴散らし、正統なる『明藍』を奪還するため」
テセトの背後で炎天使たちが舞う。
巨大な『扉』が次々と開き、それらが連結して『門』となり、更には『回廊』と化す。
その向こうから、巨大な建造物がゆっくりと姿を現そうとしていた。
逆さまの城。天の御殿。魂が行き着く神々の居城。主なき玉座。意思なき神。
時空が歪む。世界が揺らぐ。当たり前の常識が覆されていく。
クロウサーが対峙しているのは、ゼオーティアという巨大な世界だった。
ひとつの世界という盤面を睥睨しながら、暗闇でダウザールが口を開く。
対峙する打ち手もまたダウザール。
複数の意識体がダウザールとしての形をとり、その全てがこの『上方』に集っていた。
ダウザール会議。参加人数は八人に及ぶ。
老人たちが口を開くと、立て続けに罵声と嘆きが飛び交う。
「既に議論の余地などありません。計画通り、引き潰すまで」
「ハグレスがなぜあそこまで『堕ちた』のか。文明圏、信仰圏の主神とはその世界を構成する人類の精神が反映された形で擬人化される。あやつがこうまで卑小な邪神となり果てた最大の原因は大神院の劣化。槍神教それ自体の腐敗に他ならぬ」
「昔の奴はああではなかった。数々の異邦を旅する不遜なる少年神。ダーカンシェルをはじめとする強大な邪神どもを前にして一歩も引かぬ征服者の勇猛さと、策を弄して窮地を脱する冒険者の機知をを併せ持つ、まさに勇者とでも言うべき傑物であった」
「されど勇気は傲慢へと腐り落ち、機知は卑劣さへと膿み爛れてしまいました。殺し、奪い、勝ち取る。その苛烈な戦意が必要とされた原初の理由は忘れ去られ、惰性による蹂躙を繰り返すばかり。かつて友と認め、英雄の槍を授かったからこそ私はあれの現状を憂いていますの。無惨な邪神。その姿のなんと嘆かわしいことか」
「あれはもはや不要だ。リーナが望む新たな世界に、老人どもの楽園なぞ不要。古びた信仰は血管を腐らせる。我らは常に新たな血脈を取り入れて未来へと進まねばならぬ」
「ハグレスよ。今度はお前が薪となるのだ」
それは決定事項だったが、ここ最近の醜態によってダウザールの決断はいよいよ揺るがぬものとなっていた。槍と翼の決別。それが意味するところは、上方勢力という従来の在り方の決定的な変化に他ならない。
「それよりさぁ、転生アプリってマッチングアプリみたく使えるじゃない? 既にウチとダーリンで運命の出会い演出の量産に成功してんだけど。サンブルから何人かは高い確率で成婚に至るって占術結果が出たのね。これマジでマレブランケのメンバーへの接触はしなくていいの? 何ならウチがじきじきにシナモリアキラを篭絡しても良いけど?」
会議は踊り、弾み、加熱していく。
ダウザールという総体の対話はクロウサーという血族全体の意思決定に等しい。
その膨大な意思の流れは、巨大血族の中枢が共有しているアストラル雲の会議室だ。
頭脳ダウザールと『七つ風』という手足が織りなす思考の融合過程である。
「落ち着けハニー。お前の推しアキラがマラコーダであることは理解するが、奴はいまイツノとの関係性が熱い。個人的な好みとしてはもう少し見守っていたい」
「然り。急いて目先の結果ばかりを求め、やれ席を奪うだの暗殺だのと剣呑な話に持っていくから関係がこじれる。それではまるで、物語の悪役ではないか」
「そうだよぉ。覇気を示してぇ、慈悲なき力によって捻じ伏せる~。それは悪に対して行うからこそぉ大衆から喝采をもって迎えられるのだぁ」
「粘り強く交渉し、話し合い、必要に応じて力や手練手管を用いる。財や能力を相手が求めるなら取引を行い、関係の基盤をゆるやかに築き上げていくのだよ。まさにいま、リーナが己の才覚で為そうとしていることではないか。あれで良いのだ。良き隣人、信頼の置ける友人、互いに利益を与えられる取引。現代は無理に婚儀を結び血の繋がりで呪縛する時代ではない。子は必要だが、それは強制ではなく自発的な愛の結果であるべきだろう」
「仕込みはやり過ぎぬ程度に。リーナの自由意志を大事にしてやらねば」
「このあたりで好感度を稼ぎ、親しみのあるおじいちゃんになっておかなければ後が恐い。流れを変えていくことは必要だ。どうせここに呼ぶわけだし、仲良くなれなきゃ損だ」
「いまはリーナの到達を祈りましょう。愛すべき娘に、天の加護がありますように」
ありますように、というのも変な話だ。
『天』とは、クロウサーそのものなのだから。
現世の裏、幽世の向こう側から魂の行き着く果てが降りてくる。
大神院の教えによれば、エクリーオベレッカは人格のない守護天使。
誰も住んでいるはずのない空っぽの城。
その扉が、内側からほんのわずかに開きつつあった。
小さな隙間からじゃらり、じゃらりと金属音が鳴る。
八人は期待するように天を見上げた。
鎖と錠が綻ぶ音だと、ダウザールたちにはわかっていたからだ。




