5-51 新時代の風
「これ友達が知り合いの記者から聞いたらしいんだけど」
「マジ? 大神院やばいじゃん」
「ソースはエーラマーン速報、解散」
風聞。伝え聞いた風のたより。世間で取りざたされる噂。
人から人へ、空間から空間へと流れていく情報は時に風に喩えられる。
風は噂で、噂は風。
アナロジーが作用する限り、それらは限りなく近しい呪文となる。
中世から近世にかけて発達したラジオ放送や心話共感網はもちろん、特権的な言語支配者たちが占有していたアストラルネットが近代に入って解放された事件は極めて重大な契機ではあるが、それでも情報の中心は慣習と権威に縛られている。
古典的なマスメディアとは何か。新聞、出版、水晶テレビ。連綿と続く巨大な報道機関の根幹にあるのは実のところ『神官の託宣』であった。
神々の代弁者。天に耳を傾ける祭司。
その中で最も古く、最も巨大で、最も広く世に浸透した血族がいる。
呪文を、ことばを、風を、大気の震えを支配するゾラの血族は魔導書技術や航空・雲上業界に強いことが知られている。その一方で、彼らはマスメディアにも深くその血脈を食いこませている。ただし、本家ではなく分家に任せるという形で。
アルゾラ・クロウサー。
それは最古のゾラ分家の名だ。薄く広い血の交わりを多方面で維持し続けるこの家系は、報道機関や各出版社との密接なコネクションを持つ。
彼らが紡ぐ『風』はどこにでも存在している。
空気のように、言葉のように。
流れて移ろう、風聞のように。
物質世界における大気の流れが、それに引きずられるように激しく渦を巻く。
何かを恐れるように、空を舞う大型昆虫たちが一斉にその空域から逃げ出していった。
浄化祈祷を推力に変換する箒レースにおいて、上空を駆け巡る瘴気混じりの大気は追い風に等しい。理論上、黒風を浄化し続ける限り際限なく加速することが可能だからだ。
これまでのレースでは乱気流や濃霧といった『障害としての気象』に対処することが求められたが、この異界を吹き荒れる風は起爆剤だ。
更に言えば機甲箒の制御機構は魔導書に起源を持つ。
大気を震わせる音声を文字に変換することは、穢れた風を吸い込んで呪力に変換する箒のはたらきと似ている。
アナロジーの呪術はその起源に近づけば近づくほど本質的な意味と強度を増していくため、この空域は機甲箒にとって『性能を発揮するのに最も適した環境』だ。ゆえに、効率よく黒い風が流れるルートを把握することがそのまま優位に直結する。
そんなわけで選手たちは必死で黒い風を探すのだが、すぐに異変に気付く。
足りない。
事前に得ていた情報と比べて、あまりにも大気中に含まれる瘴気の量が少なすぎた。
高密度の瘴気や砂塵、虫の死骸などが混ざったこの世界の風は色付きだ。
明らかに量に偏りがあれば誰の目にもはっきりとわかる。
異変の理由はすぐに判明した。
風の流れが一点に集中している。
たったひとりが小異界に満ちる穢れの大半を引き寄せ、浄化しようとしていた。
呪術行使の気配はない。選定レースという場は特別で、記録にない異常気象と考えるには都合が良すぎる。そして風が集まっているのは豪運の持ち主たるクリーナーではない。
「リーナだ。リーナ・ゾラ・クロウサーに、風が集まっている」
風向きが変わった。
夢界と融けたこの小異界は、より大きな流れを反映している。
偏り続ける黒風は誰の目にも明らかな比喩表現だった。
加速。劣勢だったリーナの快進撃が始まる。
下界の異変に呼応するように、より上位のレイヤーでの闘争が形を変えていた。
クロウサーという巨大な血脈が荒ぶる。
その暴威を受け止めきれず、逃げ惑う矮小な影がひとつ。
「だっ、誰かっ! フルグントの六柱群が揃えば貴様らなどっ! アダス! セロナ! レナリア! 僕の呼び声に応えろ! 今すぐ助けに来い! 来い! はやくっ!」
いくら叫べども返る声はない。四方で待機していたはずの守護の九槍、フォルス、ネッスス、アレッシオはおろか、レースの開会式に参加していたはずのカーズガンでさえ無反応を貫いている。今のハグレスは孤立無援だ。
過剰なほど切実な叫びはいっそ滑稽でさえあった。
盟友と信じたダウザールの裏切り、その本性を露にしたライラ・ラプスの猛攻。
荒れ狂う天空を前にして、超越者であるはずの彼はただ逃げ惑うことしかできない。
「何だ、なぜ反応しない? どういうことだっ! さっさと助けに来い、のろまども!」
ハグレスがいる『そこ』は実世界から切り離されたレイヤーであり、紀人や紀神といった存在を便宜的に解釈可能な対象として記述するための『余白』だ。ある意味ではテキストベース・サーキットと似たようなものであり、ページの枠内に記されているか枠外に記されているか、という程度の差でしかない。
群体型の紀人としてハグレスが集めた槍の民たちであれば、主の招きに応じて馳せ参じることくらいは容易いはずだった。ゆえに、幾ら呼びかけても現れないという現状が示す事実はひとつしかない。
「どうやら見限られたようですね、落ち目の偽神には相応しい末路です」
ライラの嘲るような言葉を受け入れることはできない。
ハグレスは「そんなはずはない」と弱々しく否定した。
相手にとっての絶対者に化けるという常套手段をとる余裕さえ既にない。
「どうしてなんだよ、ダウザール!? 僕は君を怒らせるようなことをしてしまったかい? ずっと上手くやってきたじゃないか! 僕たちは互いに力を合わせてずっと鈴国圏と戦ってきただろう? 利害以上の友情があった、そうじゃないのか?」
「それはいま、必要な問答か?」
老人は縋るような言葉を切って捨てる。
どことも知れぬ空に浮かぶ巨神の醒めた瞳に、情は微塵も浮かんでいない。
ハグレスの媚びた笑みが崩れる。ありとあらゆる神の顔を持つ異形の表情は、いまや唐突に怒り出した大人にわけもわからずに怯える小さな子供のようだった。
「レメスのことを、まだ怒っているのかい? あの件は君も納得してくれたはずだ! 仕方のないことだった! 配慮もした! 列聖して名誉を回復して僕が託宣を代弁して」
「うちの可愛いライラは、それがどうにも我慢ならなかったようでな」
「そっ」
感情の暴発を抑えようとして失敗し、そのままハグレスは絶句した。
理不尽だと表情で悲鳴を上げながら、言葉をどうにか繋げようともがく。
「っれはしょうがないだろう!? 無茶苦茶だ! その怨恨は不当だよ!」
だがダウザールの行動に一切の容赦はない。
納得がいかないと抗議をしても、状況は何も変わらなかった。
神とは本来ならば万物を圧倒する存在であるはずだ。
しかし今のハグレスは絶対的な流れに翻弄される弱者だった。
「馬鹿な、この僕が、ありえない、こんなものは現実じゃないっ!」
「ええ、その通り。これは夢。私が描き出した、新時代へと続く夢の光景」
ライラ・ラプス。あるいは、ライラ・プラパーシュ・クロウサー。
傘を広げた犬頭の魔女は目を閉じて空想に浸る。
夢に溶けた世界を浴槽に見立てるように脱力しながら漂い、鼻先から息を吐いた。
朱色の色号を操る夢界の呪術師にとって、現実と非現実の境界を歪めることなど容易い。
そして彼女が操る夢は現実と完全に切り離された虚構ではなかった。
人類の意識と無意識。精神と心象。常に現実と相互に作用する、もう一つの世界の相。
朱の色号使いとって夢と現は近しいもの。深海か海面かという違いはあるにせよ、理論上は相互に干渉が可能だ。もちろん限界はある。深海から波を起こしたとて、海上の船を転覆させることは至難の業だろう。
だが、ここにいる傘の魔女は尋常ならざる怪物だ。
そしてその血統の祖たるクロウサーもまた凪を嵐に変えるほどの巨人である。
風向き。波。流れ。夢の相。その先にあるのは現実であり、その変容だった。
リーナが加速する。クロウサーが生み出した血の終端が勝利に近づく。
始まったのは選定レースにおける主役の快進撃。
破竹の勢いを見せるリーナの姿に観客席が沸く。
だが、テキストベース・サーキットにおいて『演出された主役』はどんな意味を持つだろうか。より俯瞰的に状況を見れば、それがリーナにとって良い未来をもたらすとは限らない。『仕組まれた英雄』はその内実が露見した時、決定的に破綻する。
当人はその意味を理解できていない。ただ困惑の中で意図せぬ加速を必死に制御しようと足掻くだけだ。ひとり追い抜き、ふたり追い越し、遂には姉の仇と見定めたパーンさえあっけなく抜き去ってしまう。何のドラマも駆け引きもなく、熾烈な競り合いもない。
ただ一瞬、怯えと困惑混じりの視線が交錯し、風のように飛び去っていく。
パーンは舌打ちし、呪うようにリーナの後ろ姿を睨みつけた。
「俺を抜くならせめて勝ち誇れ。ダウザールめ、下らん小細工を。興覚めもいい所だ」
ライラとダウザールが勢いづき、ハグレスが劣勢を強いられているからリーナが加速している。夢界の深層で起きている事象だけを見ればそう解釈するのが正しい。
だがレースを観戦している人々には別のものが見えていた。
そして、現実世界における認識が夢の世界に反映されていく。
どちらが先、という話ではない。
呪術世界においては、どちらも先である。
双方が双方の原因であり結果。
現実のリーナが勝つからこそ夢のクロウサーが勝つし、夢のクロウサーが勝つからこそ現実のリーナが勝つ。そこに破綻はなく、ただそういうものとして成立している。
当然、手品の種はある。
クロウサーと言う巨大な勢力が長い時間をかけて植えてきた種。
圧倒的なマンパワー、物量、財力、権力の全てがそれを可能にしていた。
リーナの快進撃に歓声を上げる観客たちは、口々に噂していた。
「おい、このニュースまじかよ」
「クーデター?」
「大神院、これが本当ならヤバいじゃん」
社会情勢の劇的な変容。
祝祭に浮かれる人々の目に飛び込んできたそのニュースは、タイミングを見計らって拡散されたクロウサー家による渾身の呪文操作。
上方勢力の中心である槍神教、その総本山たる大神院が崩れようとしていた。
旧時代の槍神教を象徴するハグレスが劣勢に立たされている現状は、実世界における社会情勢の反映そのものである。すなわち、今の大神院が独占する権力基盤が揺らいでいる。
他ならぬ、クロウサー家の手によって。
「リーナの覚醒に合わせ、大神院内部の病巣を切除せよ。森を焼き亜大陸を弄んだ罪人たちを裁きにかけ、聖絶に加担した人道罪戦犯どもに過去を清算させるのだ」
それは地上の人々が積み重ねてきた運動、社会潮流、歴史のうねり、それら全てを巻き込んである一定の方向へと進んでいく世界の転換点。
では、なかった。
これは歴史、運動、潮流、そう呼ぶことが憚られるほどの剛腕でしかない。
ささやかな欲望によって突き動かされる暴力的な破壊。変革は屍の上にある。
正常な秩序が保たれていれば、そんな暴挙は通らない。
世界の改変を可能とする邪視でさえ、極めて局地的な変容をもたらすだけだ。
広大で複雑な世界の全てを意のままにする試みはたいてい失敗に終わるし、神が乱立する世界では更なる混乱を生むだけの蛮行だ。
だが、クロウサーはそれを実行した。
この巨大血族は途方もなく長い歳月をかけて社会に浸透し、技術、文化、宗教、その他ありとあらゆる領域に自分たちの血を残し続け、ついにひとつの可能性を生み出すに至っていた。そしてたとえ正史と矛盾していたとしても、『もしも』という分岐点さえあれば矛盾史を並行する形で歴史の横に配置することは不可能ではない。
権力と大量動員は教育とメディアを支配し得る。
『数』は現実を変容させる呪術だ。
限定的な形ではあるが、特定の領域を狙い撃ちにして呪文を紡ぎ続ければ世界を球形から平面に変えられるように。このゼオーティアがいま、平面世界解釈を主流に創造されているように。権力と物量が噛み合った時、虚構は現実と化す。
「『空使い』リーナ・ゾラ・クロウサーの名において、ティリビナ人問題の抜本的解決を図る。機械女王はこの提案を拒否できまい。ガロアンディアンを中心とした平和的秩序の構築。主導権を握るのは我らクロウサーとなるだろう」
ダウザールの目論見は単純だ。
反抗期の孫娘に飴をくれてやる。これはただそれだけの祖父らしい気遣いだ。
リーナの目指す『善き未来への改革』をクロウサー家の総力で後押しする。
当然だ、リーナもまたクロウサーと言う総体の一部なのだから。
ゆえに『塔』やガロアンディアンと敵対する意味はない。
同じ陣営として動きつつ、クロウサー家の利益が最大化するように影響力を強める。彼らが長年にわたってそうしてきたように、当たり前の動きをしていればよかった。
ティリビナ人が居住するのはガロアンディアンであり、諸々の問題に直面するのは機械女王とシナモリアキラだ。ハイリスクな矢面に立つことなく、クロウサー家は『正しい側』でいられる。リーナと言う若く活力に満ちた象徴が頂点に立っているだけで、イメージ戦略では既に勝利していると言っていい。
ダウザールの手のひらの上で槍を持った神官たちが逃げ惑う。
それは大規模な政争の顛末であり、クロウサー陣営の勝利がもたらした結果だった。
機甲箒が央都上空を覆い尽くす。
『大掃除』と銘打たれたその暴挙は、しかし巷で騒がれているようなクーデターではなく大神院内部での自浄作用が働いた結果であると発表された。
クロウサーの血は大神院の支配層、有力な枢機卿たちの中にも浸透している。
この事件によって市井の人々の生活に影響が及ぶことはない。
なぜなら、義国圏を支配する大神院という権威や槍神教が失われるわけではないからだ。クロウサーはこの巨大なシステムの一部として社会を正常に回し続けるだけだ。
『裁かれるのは聖絶という悪行に加担した卑劣な腐敗神官たちのみ』とクロウサー家は喧伝し、ハグレスの信仰基盤である枢機卿たちは頑迷な価値観を振りかざす守旧派陣営として処理されていた。『正しい槍神教』は守られ、『一部の悪』は切除される。
「馬鹿な、聖剣『切断処理』だと?! フォルスまでもが裏切ったのか?!」
「剣聖フォルスをはじめとした天使部隊を押さえておくのは当然だろう? 炎天使どもの厄介さは骨身に沁みている。もっとも、あっさりとお前を見限ることに決めてくれたのには驚いたが。よほど嫌われていたようだな」
ハグレスの激昂とダウザールの嘲笑。まるで盤上遊戯の結果に一喜一憂する老人たちの喧嘩。あるいは茶番。それらは所詮、世界の変容を反映した勢力図の擬人化でしかない。
槍神教とクロウサー家という巨大な陣営を擬人化した風刺画があるとすれば、それはちょうどこのような光景になるだろう。だがそれは権力者たちの足の引き合いでしかない。
対照的に、下界で紡がれるのは英雄譚だった。
人々はすぐさま理解した。
リーナ・ゾラ・クロウサーの熱意がクロウサー家と世界を動かしたのだと。
過日の葬送式典におけるガルズの引き起こしたテロを世間はまだ忘却していない。それに立ち向かい解決のために尽力したリーナを多くの人が目撃している。
これまで、地上社会そのものである大神院とクロウサー家の歪み、その悪性から誰もが目を逸らし続けてきた。
だからこそマウザ・クロウサーの後継者でありながら体制に暴力で風穴を開けようとしたガルズの存在は衝撃的だったし、それを否定して穏健に改革を推し進めると宣言したリーナにはそれ以上の期待が寄せられていた。
公言できなくとも、彼女が何かをやってくれるのではないかと思っていた者は多い。
リーナという英雄の卵は少しずつ、だが着実に注目を集めていたのだ。
若さ。容貌。注目されるタイミング。『塔』の魔女という肩書。
それらと共に演出された『歴史が動く瞬間』が道を舗装すれば、あとは簡単。
レース展開を後押しする『風』なら幾らでもあった。
あとは勢いに乗って旧世代を抜き去るだけ。
リーナの意思も技量も関係なく。お膳立てされた勝利が彼女を栄光に誘うのみ。
空っぽな操り人形の完成だ。
「新時代の風、か。任せてみるべきなのかもしれんな。若木たちの可能性に」
遠い目をしながら、レースに参加しているダウザールの化身が呟く。
それを聞き咎めたパーンが忌々しそうに吐き捨てた。
「俗物め。派閥抗争を大衆のガス抜きに利用しただけだろうが」
併走してはいるが、もはやレースの真剣さは消え去りつつある。
全ては茶番に堕した。これは八百長以下の学芸会でしかない。
「得てして統治とはそうしたもの。低俗なポピュリズムへの迎合と結託、その繰り返しに過ぎぬ。それがわからぬからお前は血族を失ったのだ」
ガレニスの血族が断絶するに至ったのは、パーンが無謀な反逆を試みた結果である。
ダウザールはその性急さを指摘するが、反抗の意思そのものについては否定しない。
愚かなのは思慮の足りない手段であり、より正しい方法がこちらだと示していた。
「当座のティリビナ人問題はこれで解決に向かう、という演出ができる。『上』を変革したリーナはガロアンディアンでの発言力を増すだろう。実際にティリビナ人問題に対処するガロアンディアンの舵取りに口を出す権利をな」
「美名はリーナに。汚れ役はガロアンディアンに、というわけか」
スーリウムやロードデンドロンに対する意識を窺わせず、ダウザールは空虚な言葉を紡いでパーンを翻弄する。視点の差、情報量の差を漠然と感じ取り、パーンは舌打ちした。
六王の目は高次のレイヤーに届き得る。だが、彼は全能の俯瞰者ではない。
あくまでも見上げる立場であり、上位者を引きずり下ろすまでが彼の限界だ。
パーンは自分なりのやり方で対抗するしかなかった。既にレースの流れは奪われてしまった。今の彼は主役にはなりえない。かといって、主役がリーナかと言えば違う。
「操り人形が真の意味で物語の主役になることはない。ダウザール、お前はリーナから流れを取り上げて、誰に空を委ねるつもりだ?」
「知れたこと。我が正統なる後継に」
ダウザールは遥か遠くを見据えている。
その先にあるのは、遥かな天空。より高い次元、目に見えぬ頂点だ。
「リーナは生贄か?」
「人聞きが悪い。あれも大切な器よ。クロウサーの女たるもの、しっかりと次の世代を生み育てるという役目を果たしてもらわねばならぬ。それまでは大事にするさ」
「祝祭の竜母と救世主のことなら、ゾラの血統では代役になるはずがない。いやまて、虹の見立て? なら天空の竜蛇を」
言いかけて息を呑む。何かを察して、パーンが眉根を寄せた。
「青い血があれば資格は不要になる。ダウザール、貴様。リーナを正統な竜母と融け合わせるつもりか。あの時のように」
「止められぬよ、お前には。あの時のように」
吹き荒れる風が戦意の火を更に煽り立てていく。
レースという直線の周囲で、無数の運命が複雑な曲線のように絡み合いながら激突し、消滅を繰り返しながら更なるうねりを生じさせていった。
その規模は既に第五階層という小世界だけに留まらない。
義国圏が軋む。槍神教という権威にひびが入り、真っ二つに割れようとしていた。
クロウサーの裏切りにある者は混乱し、ある者は激昂し、ある者は絶命した。
暗殺。謀殺。不自然な病死。
あらゆる破滅が央都を襲う。
『持病の悪化』に抗おうと巨人化し、ハグレスを讃える浄界を広げた枢機卿はクロウサー家の精鋭たちに取り囲まれた。秘匿された『扉』から脱出しようとした大司教は『不運な転移事故』によって永久に世界の外側へと追放された。『時十字の秘宝』によって状況を巻き戻そうとした写本義人はページを破られて初期化された。
流れはクロウサー家の側にある。
それでも、大神院は地上に君臨する覇者だ。
反逆者たちの討伐に動き出した宮殿騎士団は即座に態勢を立て直し、強襲してきたゾラの風使いたちを蹴散らしていく。
そして槍神を奉じる古き巨人たちの多くは元々武官である。
異民族を征伐し、異教徒を虐殺し、異端者を抹消してきた生まれついての侵略者。
槍を振るって敵を殺し、奪い、勝ち取ることがその本領。
かつて亜大陸で『キャンプファイヤー』を楽しんだ彼らは、それまでにも世界各地で同じようなことを続けてきた。長く生きながらえ、あるいは魂を移し替え、もしくは転生を繰り返し、あさましく欲望のままに信仰を貫いてきたのだ。
膨大な時を戦場で過ごしてきた巨人たちが吼える。
老いた身体を若返らせ、己の全能域を拡張し、常識を改変しながら槍を振り回す。
突出した力を持つ超越者が君臨する世界。
それが呪術世界におけるひとつの結論である限り、巨人たちを滅ぼす武力がなければ社会構造を覆すことなどできない。世論や細かい根回し、政治的な勝利など圧倒的な武力と現実改変能力があればどうにでもなる。
ゆえに、クロウサーにはあと一手が足りなかった。
第五階層に化身を顕現させた状態のダウザールは巨人の群れに対処できない。
ゆえに彼は盤面に新たな駒を置く。
否、それは最初から存在していた。
隠されていた秘密を、暴いただけだ。
「御殿の主よ、蒼天を撃ち抜け」
厳かな呼び声に応えたのは、一条の光。
槍神を崇める神官たちは、天を仰いだ。
居並ぶ巨人の一体を、脳天から貫いて一撃で屠ったのは上空から降り注いだ矢である。
恐ろしく正確な狙撃。巨人さえ屠るその一射を、信仰篤き者たちは知っていた。
いいや、聖典を知らぬ者であってもその崇高さ、その偉大さを理解できぬはずがない。
それはあまりにも明白な自然現象として現れている。
誰もがその名を知っていた。それがある紀人の代名詞であるという知識がなくとも、空に架かった鮮やかな光に驚異を感じぬ者は少ない。
様々な文化圏で橋、竜蛇、あるいは弓などに喩えられるそれを、虹と呼ぶ。
「この聖なる弓、まさか封印が」
矮小な民から見上げられる立場の巨人たちは天を仰いだ。
このときだけ、彼らは己が上位者であるという確信を失っている。
無人の城、霊魂の行き着く先である逆さ城エクリーオベレッカ。
空の民の守護天使であるにもかかわらず、天空城はたった一柱だけ非人格神であることが良く知られている。例外的な紀神。槍神が定めた紀元神群の高みは、霊魂の行き着く建造物である、というのが聖典に記されている唯一の真実だ。
少なくとも、ハグレスが構築した槍神教秩序ではそういうことになっている。
では、最も有力な空の民であるクロウサー家が構築する秩序では?
その答えが、いま明らかになろうとしていた。
巨大な扉が軋む。ゆっくりとずれていく。
じゃらり、じゃらりと金属音。
鎖と錠を引きずりながら、何かが姿を現そうとしている。
途轍もなく巨大な弓。天空の虹をその手で掴んだ、驚異の存在が。
「こちらフリグ家、蹄隊より報告。中原空路の主要回廊を制圧完了。当主様によろしく」
「サンブル家も順調。私とダーリンの愛の浄界できっちり央都を包み込んだわ! これでいっぱい仲良しオーケー! ラブラブチュッチュな絆パワーでもうすぐ大家族完成よ!」
「アルゾラ家より本家へ。『風聞』の全部隊を展開してデマゴギーチェーンの連結工作を実行中。矛盾史ヴェールの全構築まであと60秒。大業の準備、滞りなく完了しております」
「ディパーシュ家より報告~。第六階層で偵察中のクラウビューラ兄さまがディスケイムを発見したので監視してまーす! それからウチの若いコがハグレスの依り代を発見~お手柄! たぶんアダスとかレナリア入りなんで、サクっと封印しちゃうってさ~。クオア拾ったんでぇこのまま加勢に向かいます~」
指先から脳に伝播した『過去』を通して無数の言葉が巡る。
ユディーアが読み取った断片的な記憶はクロウサー家が大規模な動きを見せていることを示していた。だがそれ以上に今は状況が切迫しており、情報を整理する余裕がない。
押し寄せてくる呪術を回避するため、咄嗟に掴んでいた肉体を盾にする。
闇に包まれた第六階層を裂くような閃光。目の前で空の民が焼き焦がされる。
『神経支配』の応用だろう、瞬時に魂と脳が破壊されてそれ以上の情報を探ることができなくなっていた。当然のように人質は通用しない。執着せずに死体を手放し、その場を離脱。
「ニアちゃん、背後の警戒と迎撃おねがい!」
「にあ、まかされた!」
ちびニアを肩に乗せて走りつつ、視界の隅で倒れているアテンプレク=チリアットを確認する。生きているのかどうかも不明だが、この状況では置いていくしかない。
ユディーアのかわりに『同居人』であるメートリアンが激しく毒づいた。
『なんなんですかもう! あなたの前世がアルト王ってことが判明しただけでもいっぱいいっぱいなのに! 盗賊王ゼドとか暗殺者レナリア、こいつらさっさと追い出せないんですか?! この状況っておおむねこいつらのせいですよね?! リーナを助けに行くどころじゃないんですけど!!』
おおむね同意しつつ、あらゆる思考を先送りにして目の前の脅威に対処する。
真っ先に気配を消して背後から襲ってきた一人目は中々の手練れだった。だが追撃してくるのは同等かそれ以上の使い手。上空に三人、側面に回って挟撃を狙うのが二人、真後ろに五人。距離は遠いが、巨大な呪詛を構築している集団もいる。
必死で抗う。『鉤爪』と『吐息』をフル活用して軽い体躯を引き裂き、大地に叩きつけ、炎で焼き焦がす。だが敵集団は決して深追いしてこない。傷を何らかの水薬を飲んで癒しているようだが、経口摂取だけでたちどころに傷が癒える霊薬など『塔』の外では極めて珍しい。高級呪符に匹敵する治癒力だ。つまり相手はかなりしぶとい。
装備もだが、数と練度がただごとではない。
ユディーアはクロウサー家の精鋭集団に完璧に目をつけられている。
このまま捕まればただではすむまい。口ぶりからすると対立するハグレスの手駒であるアダスとレナリアが目当てのようだが、その過程でユディーアたちが無事な保証はない。
なにより、尖兵のひとりを倒した時に見えた過去が致命的だった。
襲撃者は記憶の中で誰かと話していた。彼が所属するのはディパーシュ分家。ダウザール直属の特務部隊である彼らを指揮するのは、ディパーシュに君臨する超人たちだ。
その場にいたのは最低でも八人。ほぼ確実に浄界レベルの邪視を有する強者であり、そのうち何名かは巨人と呼ばれる神に匹敵する使い手だった。
中央にいる禿頭の壮年男性が、空中で胡坐をかきながら部下を見下ろしている。
その瞳は無数。金を除くありとあらゆる色彩の眼球がびっしりと頭部で蠢き、ぎょろぎょろと蠢いて千里先を、あるいは目に見えぬ運命や未来を探り続けている。
「ディスケイムの器。純性の紀竜巫女か。確保しておきたい」
「ハグレスの部下を始末するのはともかく、良いのですか? ディスケイムと正面からぶつかるのは、この時点では避けた方が良いのでは。ただでさえクラウビューラ様が別行動中です。主力のステランプ様とフェジェン様もあちらにおりますし」
記憶の持ち主が問うと、百の目を持つ空の民は厳かに頷いた。
「ダウザール様に知らせればそう判断するだろうな。だから報告させなかった」
眼球のひとつがぐぐ、と肥大化し、虚空に立体幻像を投影する。
そこに映し出されているのは、第六階層に送り込まれたばかりで混乱しているユディーアの姿だった。男はその内側を透かし見るように目を爛々と輝かせる。
「血統もだが、内包している魂がかなり複雑だ。アダス、レナリア、そして恐らくは亜竜王アルト。ほぼ間違いなくあの娘は覚醒前の転生者だ。そして、決定的なのが最後のひとり」
ユディーアの輪郭が揺らぎ、その内実が露になる。
男の視界は心の中さえ暴くことができるようだった。そして、彼が忌々しそうに睨みつけているのは小さな部屋でアダスとレナリアを縄で縛っている小柄な少女だ。
「ミルーニャ・アルタネイフ。汚らわしい血族の異物め。パーンと結託して死を演出し、このような冥府に潜んでいようとは。あれはリーナの運用の妨げとなるかもしれぬ」
「姫君が役割を果たせなくなる、と?」
部下の問いを肯定し、百目の男は冷徹な意思を露にした。
「こういう時、私の勘はだいたい当たる。あれはクロウサーの癌だ。切除せよ」
「信じましょう。それがイナータルゴ様の霊感ならば!」
集団に意思はそれで統一された。
ゆえに投降はありえない。
ユディーアの立場や出自以上に、同居人であるメートリアンの安全のために。
なんとしても、クロウサー家の追撃から逃げ切らねばならない。




