5-40 アルト・イヴニルと五人の騎士③
ラフディとの連絡が途絶した。
その事実に気付いたラプンシエルとミヒトネッセが致命的な隙を晒した瞬間、敵から致命打を受けなかったのは幸運と言うほかない。
二人が対峙する緑竜騎士団の長ハタラドゥールを存在ごと乗っ取ったティリビナ人、サンデリアーナとの戦いは熾烈を極めたが、その瞬間だけは完全に戦場が静止していた。
ガロアンディアンからの救援が割って入ったからだ。
隠し病院の中庭で襲撃者と対峙していたラプンシエルとミヒトネッセは一瞬だけ視線を交錯させたが、釘を刺すような声が二人の機先を制する。
「状況は理解できているな、ラプンシエルとミヒトネッセ。持ち場の放棄は許さん。アルト・イヴニルの救援に向かえば即刻この連中の自我を堕とす」
空中に立つ蓬髪の男は厳しい表情で戦場を睨みつけていた。
縦縞の背広に道化のメイクという異様な出で立ちの男、グレンデルヒは救援であると同時にラフディ陣営である二人の魔女を監視するためにこの場を訪れている。
この時点で、第六階層で異常が起きたことはトリシューラも把握している。だが広域に展開された異常な強度の精神干渉波によってあらゆるアストラル界経由の探知が疎外されており、偵察用ドローンもことごとく破壊されていた。
ラフディ壊滅の報はまだもたらされていない。よって、ラプンシエルとミヒトネッセは決断を迷っていた。
グレンデルヒという着ぐるみの『中身』は五人。
幻像である道化を透かして見ればその奥に眼鏡をかけた黒い背広の男と、強面の四人がいることがよくわかる。背中の翅をはじめとした特徴から虫態アヴロノとわかるが、ラプンシエルたちは男たちが黒蟲騎士団の最精鋭であることを最初から知っていた。
本来なら精強を誇る虫態アヴロノの騎士たち。
だが、彼らはこの状況に至る直前にハタラドゥールと交戦し、消耗を強いられていた。
グレンデルヒはそこに救援という口実で付け入ったのだろう。
人体を媒介に顕現するグレンデルヒ=アルレッキーノは恐るべき支配力で黒蟲騎士団の意識を掌握しきっていた。男たちはいずれも男性総合誌『男の暴君』を手にしており、網膜投影されたネット記事まとめサイトが思考を誘導し続けている。
グレンデルヒの性質上、本来であれば虫騎士たちが彼を演じ、なり切っているという状況のはず。しかし傷ついた彼らの心に滑り込む『強すぎる思想』は毒だ。
『強い男』の皮を被ることで、逆にグレンデルヒ性に呑み込まれてしまっている。
二人の魔女が命令を拒否した場合、おそらく一人ずつ極端すぎる思想を発信する動画に染まってグレンデルヒ化してしまうだろう。
「幾らなんでも」「最悪過ぎる」
思わずラプンシエルとミヒトネッセは本心を吐露してしまった。アルト・イヴニルの配下をそんな形で失うのはあまりにも残酷だ。
ハタラドゥールは会話を無視して両手から生やした葉刃を振るう。
グレンデルヒはそれを平然といなしながら、二人の魔女に語り掛けた。
「機械女王の基本方針はドラギニャッツォの座を名無しの王にくれてやることだが、この計画には不確定要素が多い。そしてお前たちは保険を欲しているはず。アルト・イヴニルが敗北した場合、ドラギニャッツォとして転生させてやってもいい」
「それ、口約束?」
「名無しの王が浮くが、必要なのは現ガロアンディアンがアルト王に認められているという形式だ。ドラギニャッツォに収まったアルト・イヴニルがこの国を承認しろ」
「選択肢はないってわけね」
ラプンシエルは方針を即座に定めて髪の毛を亜竜化させた。ミヒトネッセは未だに迷いを残していたようだったが、不承不承と言った様子で苦無を構える。
もともと二人はこの可能性を想定していた。予想よりも早いタイミングではあったが、直面してしまった以上、迷っていられる猶予はない。
「さっさとこの戦場を片付けろ。レースや襲撃の騒ぎに乗じて五大騎士団がガロアンディアンに侵入しようとしている状況についての弁明はその後でしてもらう。無論、休戦協定を破ってゲームを再開するつもりであればこちらとしてはかまわんがな」
緑竜騎士と一体化したティリビナ人テロリストの戦力は飛躍的に向上していたが、二人の魔女に加えて黒蟲騎士団と共にあるグレンデルヒからの猛攻を受けきるのは明らかに無謀だった。サンデリアーナと名乗った男は瞬く間に劣勢を強いられるが、樹皮に覆われた表情は余裕を失っていない。
何らかの切り札を隠し持っている。
グレンデルヒがその奥にある秘密を探り出そうと精神感応の指先を伸ばそうとした時だった。同時に進行していた別の戦場で異変が起きた。
大規模な呪力の膨張。同時に、中庭の端で風の障壁を展開しつつ周囲を警戒していた黒蟲騎士のひとりが不自然な移動をしていた。
風の障壁は最初から存在していなかったかのように消失し、黒蟲騎士はこの場に現れた時のように反対側に移動している。まるで、彼一人だけ時間が巻き戻されたかのように。
別の戦場で起きた異変。一定範囲内の時間を巻き戻すというティリビナ魔女モーリュの召喚術の影響がこの場にも届いていたのだ。
ちびシューラからの通信でその事実を知ったグレンデルヒたちは全く同じ危機感を抱く。
ティリビナ人は自然と調和する、使い魔呪術を得意とする種族。
すなわち、目の前の相手も召喚士である可能性があった。
「召喚」
追い詰められたサンデリアーナが選んだ奥の手は予想通り。
だがそれがどれほど致命的な事態をもたらすかを予想できた者はいなかった。
決定的なアドバンテージを有するティリビナ人の除いては。
「麗しき九祖、黒き死を呼ぶ蝶、おぞましきカズキスよ。忠孝の徳を見失った子供らに、正しき父祖の威容を示したまえ」
原始妖精の始祖たちはいずれも歴史の中に埋もれていった。
忘却と死。超越者たちですら滅びの理からは逃れられない。
神話や伝承の中で眠るそれらを掘り起こせるのは、血の楔に呪われた継承者だけだ。
サンデリアーナの血には神権が眠っている。
ティリビナ人がアルラウネ断章と呼ぶ血の魔導書が脅威の技を実現していた。
原始妖精とはアヴロノたちの始祖神である。
かのスーリウムが『花のアヴロノ』という始祖神の意思を受け継いでいるように、サンデリアーナもまた異なる始祖神の意思を受け継いでいた。
グレンデルヒが『静謐』を合わせ、ラプンシエルが人形と化した両手から二色の呪いを放ち、ミヒトネッセが巨大化した手裏剣を投擲した。
その全てが黒い霞を運ぶ不吉な風に遮られて消える。
「運べ、『黒死蝶』」
黒霞の中から出現したのは、何のひねりもなく巨大な黒蝶の翅だった。
だがその中心にあるのは美しい少年の形だ。
浅黒い肌と黒髪、蝶の紋様が刻まれた頬。
白と黒が入り混じった貫頭衣、虫のような脚と亜竜のような腕、酷薄な瞳。
ティリビナ人の召喚士が呼び出したのは神話の住人だった。
それだけならば予想通り。だがより最悪なのはその系譜と関係性である。
カズキスと呼ばれる存在は、中原全域にたびたび登場する古い伝承の登場人物だ。
言語支配者ダーカンシェル、亜竜王アルトらの父祖として知られる原始妖精カズキスは、あまりにも広範な地域に影響力を及ぼしたがゆえに、妖精王や始祖吸血鬼、古竜や巨人など様々な姿で語られる神話世界の住人である。
「平伏せ」
傲慢に言い放つその力だけでも脅威であり、ラプンシエルとミヒトネッセは瘴気の風に押されて攻め込むことさえできない。
しかしより深刻な状況に見舞われているのはグレンデルヒのほうだ。
場の流れを俯瞰し、自在に支配することさえ可能なこの男がこのような窮地に追い込まれることなど普通ならあり得ない。更に言えば、よりにもよって彼は自ら状況を悪化させてしまっていた。この場に黒蟲騎士団を連れてきてはならなかったのだ。
「何をしている、シダリス。貴様をダーカンシェルのように甘やかした覚えはない。速やかに余に従え。我らの敵を駆逐せよ」
黒蟲騎士団の長、虫騎士シダリスは言語支配者ダーカンシェルの異母兄弟。
すなわち、亜竜王アルトの叔父にあたる。
血縁関係に基づく忠義と結束は理想に糊塗されたガロアンディアンにおける数少ない史実だったが、逆に考えればその点さえ突き崩せれば亜竜王と五人の騎士という幻想は脆くも瓦解していく。古代世界における道徳と忠孝は、父祖を敬う心。虫騎士シダリスが亜竜王に示していたのはあくまでも父祖の血統に連なる者に対しての忠義だった。
ならば、父祖である当人が現れた時に彼が選ぶ道はただひとつ。
「すまねえオヤジ。俺たちは、大切なことを忘れちまってた」
「気にするな。子の不始末くらい、鷹揚に受け止めるのが親の度量だ」
何よりも強固な血のつながり。
親子の絆が、グレンデルヒの支配を打ち破った。
霊媒を失った英雄は張りぼてとなり、存在としての強度を急速に劣化させていく。
「ハッサルガーニャの血統だと。馬鹿な、そんなピンポイント過ぎるメタカードを」
愕然とするグレンデルヒの全身に、五人の黒蟲騎士が操る暴風が叩きつけられた。
ラプンシエルとミヒトネッセにとってもこれは看過できない事態だった。
緑竜騎士団と黒蟲騎士団、アルト・イヴニルが従えていた戦力が同時にティリビナ人によって奪われてしまっている。
「で、どう始末をつけるつもり?」
ラプンシエルは事態を悪化させた『救い主』を睨みつけた。
逆さまの道化は渋い表情になっている。彼がこのような顔を見せるのは珍しい。
「恐らく、敵にとって都合のいい流れを見切られている。この召喚士は私が黒蟲騎士どもを連れてくることを前提にこの場に配置されていたのだ。敵が決まり切った勝ち筋をなぞっている以上、確定型占術や未来視と戦う際の定石を選ぶしかあるまい」
「視覚先行? 事象認識型だったらどうするの?」
「片端から試す。ラプンシエル、身代わり人形は用意してあるな? 稚拙なものと呪力に乏しいものを混ぜて濃淡をつけろ。念のため、ミヒトネッセは空蝉からの偽装死、変化で名無しの王になる準備をしておけ。私が流れを作る。可能な限り自然な死闘を演じ、相手が勝つ未来を見せてやれ」
相手に悟られぬよう『心話』による通信で作戦を練り直す。
大勢は決した。
この戦場はティリビナ人たちの圧勝で、既にラフディには勝ち目がない。
景色がわずかに暗くなり、視点が遠ざかる。
少女は、遠見の水晶に映った戦場から目を離した。
あらゆる可能性の分岐を時間の大樹として知覚し、未来の秘密を完全に知り尽くした神の子スーリウム。時間認識が逆転し、未来を既に起きた過去として回想する聖女クナータ。
わずかな例外を除いて、全知にも等しいその手の上から逃れる術はない。
戦況を俯瞰しながら、聖女クナータは揺らぐ記憶をじっと見つめていた。
傷ついた右手に巻かれた治癒呪符を隠しながら、無事な方の左手で隣の生き物を撫でてやる。大きな牙の虎がごろごろと喉を鳴らして聖女に媚びた。
時を視る聖女と時を喰らう虎。その構図そのものは以前と同じ。
しかしハルベルトの反撃によって使い魔は命を落としている。
ゆえに、違っていたのは猫科魔獣の種類だ。
その組み合わせを、護衛のアルティウスや黒檀の民たちが不気味そうに眺めていた。
「ごろにゃ~ん。にゃんにゃん。クナータ様、もっと撫でて欲しいにゃん」
黄色い髪を逆立たせた上半身裸の大男が、猫なで声を出しながら自分よりも遥かに小さな体格の少女に全力で媚びへつらっている。異様な光景だが、男は死に物狂いだ。
彼の名はクヘーバ。黄獣騎士団を率いる猛将である。
この男はつい先刻、アルト・イヴニルを裏切って隠し病院に侵攻しようとしたばかりである。名無しの王がいるという情報によってまんまと誘き出された彼は、その動きを完全に読み切っていたクナータたちの奇襲を受けて完全敗北していた。
「あなたはもう逆らわなかった。ずっとわたしのペットだったの」
「そうにゃん、ペットにゃん! 可愛がってほしいにゃん! にゃんはにゃんでもいうこと聞くにゃん! この世は弱肉強食、自分より強い相手には絶対服従するのが正義にゃん!」
弱い主君は裏切り、強い主君には媚びる。それがクヘーバという男の性質だ。
屈強な隊長が恥も外聞もなく少女に痴態を晒す光景を、クヘーバの部下たちは泣きそうな顔で眺めている。彼らを捕縛している黒檀の民たちも哀れみを隠せずにいた。
「おら、てめえらも腹出してクナータ様に服従しろや! 舐めた真似してっとぶっ殺すぞ! にゃ~ん、おっきい声だしてごめんだにゃん、かわいいにゃんに免じて許してほしいにゃん。にゃう~んにゃにゃん」
「へい、親分! ごろにゃ~ん!」
黄獣騎士団は山賊とその子分たちといった風体の荒くれたちだ。
そんな男たちが揃ってごろにゃんせざるを得ない状況は、端的に言って尊厳の破壊。
全てを当然の予定調和として受け止めて、クナータはじっと先を見据えた。
「私が視たあなたたち、もっと恥を捨てていたわ。どうしてまだ人語を操ってるの?」
「にゃあ? うにゃああん、ふにゃ~ご」
「えらいね。あなたたち、もう完全に使い魔だね。それじゃあ、わたしのちからを分けてあげるね。他の騎士たちにも負けないしるし。リーヴァリオンの祝福だよ」
「にゃわいいにゃんはにゅ~っとクナータ様にごろごろにゃ~ん」
かくして、アルト・イヴニルが従える五人の騎士たちはそれぞれが決定的に道を違えた。
ガロアンディアンとラフディに連なる呪い、その矛先を失ったまま。
所詮は操り人形のままごとでしかないと、糸を手繰る超越者たちの前に敗れ去る。
第五階層という盤上遊戯における絶対の法則は、魔女たちに抵抗を許さない。
盤上の駒のままで、盤外の遊戯者に勝利することは不可能なのだ。
可能性があるとすれば、方法はひとつ。
クナータの瞳は遥か遠方を見据えていた。
どこまでも広がる可能性。その更に向こう側を。
闇の中、あるいは舞台裏、もしくは土の下にある彼岸。
紅紫のグラデーションを寝台に、王の装いに身を包んだ球体関節人形が目を覚ます。
人形は自分の意識が表に浮上していることにまず驚き、それから予想外の人物が自分を見下ろしていることに気付いて息を呑んだ。
正確に言えば、それは特定個人でありながらひとりではなかった。
服装や雰囲気が異なる同一人物が五人、気絶していた人形を取り囲んでいたのだ。
非常識な状況に何か文句を言おうとして、それを言える立場にないことに気付く。
なにせ人形は、アルト・イヴニルとして個我を無数に分割していたのだ。
この相手がやっているのはそれと同じこと。それでも対峙すると異様さが際立つ。
「目覚めたようだな。自己紹介しておくと、私はロウ・カーインという」
「君を護衛していた黒蟲騎士団は緑竜騎士ハタラドゥールとティリビナ人テロリストたちの奇襲によってほぼ壊滅状態に陥った」
「無事な団員は散り散りになり、筆頭騎士である暴風の五王はグレンデルヒによって『保護』された。あくまでも名目上は、だが」
「ああ、なぜ私が五人もいるのかについては気にするな。君の救出に必要だっただけだ」
「本来は六人だが、一人は急用でね。全員で自己紹介できないことを許してほしい」
「畳みかけるように話さないでくれ。頭がどうにかなりそうだ」
「それは失礼した」
ゆっくりと立ち上がり、包囲からのそのそと抜け出す。同じ顔の男に囲まれているのは幾らなんでも抵抗があった。
辺りは一面の真っ暗闇で、どこか非現実的な雰囲気に満ちていた。
あるいは、自分は既に死んでいるのかもしれないと人形は思う。
それから人形は己の状態を確かめ、どうしてここにいるのかを理解した。
『守ってやらねばならない』と感じたからだ。
それは哀れみや同情であり、彼女が求めていた真の愛情ではなかった。
だが、情は情だ。経緯はどうあれ、既に彼女は他人ではない。
心に刻まれていた、いつの間にか現れていた耳飾り。
十字を囲む円の意匠は大地に轍を刻む車輪であり、同時に天に輝く太陽の象徴。
ルバーブが賢者に指南されたという王権交代術。
マラードは、その神秘によって主人格アレッテと入れ替わっていた。
「さてマラード。落ち着いたようだが、話を続けても?」
「ああ、まずお前が何なのかを問いただしたいところだが、いちおう助けてもらったようだし礼は言っておこう。確か、前に第五階層で見たな。ガロアンディアン側の人間であれば、さっさと私を見捨てるべきだったのではないか? それとも、そちらの陣営にいるラプンシエルやミヒトネッセに対する人質にでもするつもりか」
「記憶や知識はアレッテ・イヴニルと共有しているのか。状況判断も正常と。思っていたよりもマラードとしての君がそのまま残っているのだな」
ロウ・カーインと名乗った男は問いにも答えずマイペースに何やら思案している。
同時に、複数の目がじっとマラードの表情を観察していた。
研究対象の小動物を見下ろすような、真剣さと無機質さの入り混じった瞳。
ふと、白い情景が脳裏をよぎる。
わけのわからない居心地の悪さに、思わずマラードは語調を強めた。
「他の俺、いやアルト・イヴニルはどうなっている?」
「存在を分割したアルト・イヴニルのうち黒蟲騎士団と同行していた六体が戦闘で破壊され、バラバラに逃げたうちの三体はティリビナ人の精鋭によって各個撃破されている。君は残りの一体だ。別のアルト・イヴニルたちが敗北した場合、最後の一体になるだろう」
マラードが表に出てきているということは、アルト・イヴニルの分割した個我が損耗し、意識レベルを低下させているということだ。
融血呪によって統合された二人は命を共有しているが、同時に別々の個我を維持した他人同士でもある。行動の主導権は常にアルト・イヴニルが握っていたため、人形師として他の自分の状況を把握することも、魔戦人形師団を招集することもできない。
状況は絶望的だった。
今のマラードにできるのは、このまま弱り切ったアルト・イヴニルを肉体の内側に住まわせた状態で逃げ回り、どうにかして回復を待つことくらいだ。
ラプンシエルやミヒトネッセと合流できればもう少しましかもしれないが、現在の第五階層の状況では機械女王の虜囚となって首輪をつけられる未来しか見えない。
そうなれば、二人のラフディはたとえ存続を許されたとしてもガロアンディアンのお情けで命脈を繋ぐ属国か衛星国家のような立ち位置に成り果てるだろう。
そしてそれは、愚かしい歴史の再演に過ぎない。
「しょせん、我らはガロアンディアンの月に過ぎぬか」
ラフディの始祖王ディルトーワは、亜竜王アルトの娘バーガンディアを与えられることで国土と王権、偉大なる王の血を手に入れた。国家の始まりからして、ラフディはガロアンディアンの子供でしかない。
人形たちの王国。どこにも行けない哀れな咎人。ほんとうの愛を追い求める理想郷。
全て、一夜の夢でしかなかった。
そんなこと、最初から理解している。
だからこそ、マラードは自分を攫ったアレッテを憎みきれなかった。
強引な融合は悲鳴で、縋りつくような懇願だ。
忠実なる従僕はマラードがマラードであることを望んだ。
美しい王としての姿を、マラード自身もまた選んだ。
その選択を否定した人形姫を憎むべきではあるのだろう。
だが今のマラードが感じているのは、悲しみだった。
「アルト・イヴニルを助けてやりたい。どうにかできないだろうか」
「もはやあの人形姫に勝ちの目はないだろう。何か違う未来を求めるのなら、他の人形たちの手を借りるか、あるいは君自身が異なる可能性を見つけるしかない」
カーインは何かを期待するような目でマラードを見ていた。
思えばさっきからずっと、奇妙な五人の男たちはアルト・イヴニルというよりもマラードに対して語り掛けているようだった。
その事実がどうにも奇妙に感じられてならない。
「私を、俺を、なぜ助けた?」
「アルト・イヴニルに興味はない。だが、マラードには訊いてみたいことがあった」
「それは?」
「君は入れ替わりの王として育てられた。ゆえに実際には文盲であったそうだが。この文字は読めるだろうか?」
ロウ・カーインが指先を虚空に走らせると、燐光が中空に固定され文字が記された。
マラードはうんざりして文字を睨みつける。
ラフディの文字でないことだけは確かで、現世に蘇ってからも目にしたことのない形をしていた。ルバーブに聞けばわかったかもしれないが、いずれにせよわかるはずもない。
「なんだそれは、馬鹿にしているのか、読めるはずが、いや待て」
何かの嫌がらせかと苛立っていた思考に、奇妙な波が立ったような気がした。
知らない。そのはずなのに、マラードの口は自然と音を発していた。
「イネク、シュネ? 何だったか、確か、どこかで」
「読めるのだな。太陰の図書館にも記すことを許されなかった、この文字を。そのことばの本質を」
「記憶。いや、記録、なのか?」
マラードは自分が何を口にしているのか、何を考えているのか理解できない。
ただその文字を視たことで紐づけられた言葉が反射的に口を突いて出た。
果たしてそんなことがあり得るだろうか?
更にロウ・カーインは淡々と問いを投げかけてくる。
「こんな言葉に聞き覚えは? 『プレヌーナ、ケノーランド、ウル、バルバラ』」
「はあ? 適当な音を羅列しているだけじゃないだろうな」
「ではこれは? 『白衣の神々』『レストロオセ』『ハース・アル・ガニヤ』『グールイェン・ドゥル・ウーフィ』『ネーベロン』」
「何の話だ? レストロオセはさすがにわかる。最後のは大昔の英雄譚とかに出てくる闇の妖精王とか吟遊詩人が歌っていた気がするが、他は知らん」
「では『アダム・カドモン』『最終始祖イネクシュネ』『原初の沼ヒュールサス』『クロウサーの土』『記録代替者』『ハース型レゴン細胞』『人工疑似細菌』『影子共振器』『擬心暗鬼』『心的群体ホムンクルス』ならどうだろうか?」
「何なんだ、知るわけがな」
マラードは、自分が自分でなくなってしまったような恐ろしさに震えた。
全ての意味が分からない。文脈もわからなければ、どういう使い方をする言葉なのかも判断できない。だというのに、記憶の中に確かにひっかかる何かがある。
「いや、どこかで、聞いたことが? 何故だ。完全に同じではないが、断片的に聞き覚えがあるような気がする。どこで耳にした?」
「なるほど。やはりクオール神殿の遺児か」
カーインは納得したように頷いた。
説明を求めても何かを思案するように目を瞑り、隣り合う自分自身となにやらアイコンタクトで意思疎通をするばかり。
マラードはいい加減に苛立ちはじめた。
この男はいったいなんなのだ。
「もう用がないなら俺はこの場を去ろうと思うのだが」
「失礼、ただこれで私が君を助けた理由がはっきりした。確証が得られたというべきかな。これは先ほど言った、君自身の可能性についての答えでもある」
カーインの言葉を信じるなら、マラードには何らかの秘密があり、それはアルト・イヴニルの窮地をどうにかできるかもしれない、ということだ。
半信半疑で耳を傾ける。
どうせ他に道もない。ここがどこかもあやふやなのだから、ひとまずは話くらい聞いてやろう。そんな気分になっていたマラードだが、直後そうした寛容さは全て消えた。
「マラード。君は私の兄弟にあたる」
「は?」
「いや、これは言い過ぎか。この言い方だと完全祝福者や塔の人造姉妹なども含まれてしまうかもしれん。同類? 同郷? 民族的なルーツが同じ、は不適当か。こう、『紀』が内包する属性? が分岐する以前の形質に類似点が、違うな。同じ釜の、いやいや同じ土の???」
マラードはだんだん、目の前にいる男が何かの説明を試みたが自分でもわけがわからなくなってきた間抜けな少年に見えてきた。見たところそこまで幼いわけでもないのだが、自分の言葉で混乱しているあたりが奇妙な滑稽さと愉快さを発生させているのだ。
まさか自分自身のことを正確に理解できていないという真相ではあるまいな、という最悪の想定をひとまず脇に置く。そうしなければ恐ろしすぎて耐えきれなかった。
「カーイン、お前は秘密主義者なのか、人を煙に巻こうとしているのか、それとも単に説明が下手なだけの男なのか? 俺の従僕ならもっと端的にわかりやすく整理できると思うぞ。というか、ここまでのやりとりは本当に必要だったのか?」
半眼となったマラードがそう言うと、カーインは虚を突かれたような表情になった。
五人のカーインが顔を見合わせ、首を傾げ、まさかという驚き顔になる。
悪い冗談にもほどがある。マラードはどこなのかもわからない黒い世界で天を仰いだ。
どうやら、恩人はかなり厄介な人物のようだ。
「私は説明下手なのか?」
「自覚が無いのか?」
突如、カーインのうちひとりが『ぱん』と両手を打ち合わせた。
それからすうっと幻像が重なり合い、五人のシルエットが一人になる。
「まずは混乱した状況を整理すべきだったな」
「混乱していたのは人数ではなくお前の思考や言動ではないのか?」
「まあ、これからのことはじっくりと考えればいい」
誤魔化したな、と思いつつもこれ以上の追撃をしない優しさがマラードにはあった。
それはアルト・イヴニルという夢見がちな少女と一体化し続けたことで培われた年長者としての視点だったのかもしれない。
マラードはふと、自分を見守っていたルバーブもこのような気持ちだったのだろうかということを考えてしまい、奇妙な感慨に囚われた。
「この空間は現在のスキリシアとは似て非なる異界でね。私にとっては庭のようなものだ。ひとまず安全と考えてもらって構わない」
「何だそれは。影の中ではない、真っ暗な異界? まさかあの世とか、冥府とか、地獄とかではないだろうな」
「それは解釈によるが、ある意味で正しい。大断絶の前、ジャッフハリムに天獄という観念が成立する前には『下方』に広がる闇の異界こそが地獄だった。それらは文化圏によって様々に姿を変えるが、ここは極めて素朴で原初的な性質を持つ」
カーインの口調には脅かすような響きと同時に、なぜか少し得意げな響きが混じっていた。彼は楽しそうに口の端を持ち上げて小さく笑みを作る。
招待客を導く主人のように、その佇まいには優雅さがあった。
マラードは王としての経験から気品や風格といった雰囲気には慣れている。
その彼から見ても、カーインはこの闇にぴったりとはまっていた。
「最も古い奈落にようこそ。地獄の貴種が君を案内しよう」
男たちの目の前で、蠢く闇が口を開いた。




