5-39 アルト・イヴニルと五人の騎士②
その日、第六階層は陥落した。
もともと時間の問題だった。この地は『ほんとうの愛情』を夢見る王女様が美しい王様を攫って囲うために作り出した、欲望と切望がどろどろに融け合った飴細工の王国。
甘く、脆く、儚い幻。吹けば飛ぶような一夜の空想。
壊れる時も一瞬で、最初からそうなる運命だったかのように蕩けて崩れた。
奪うような口づけで始まった世界は、壊すような嘔吐によって押し流されていく。
長い首がゆっくりと持ち上がると、大きな口から滝のような水が落ちていった。
それは現代に蘇った古代亜竜の一種だ。
首長亜竜。遊泳用の平たいヒレを大きく動かし、円錐形の胴体から伸びた尾を優美にくねらせて水中を駆ける水棲の亜竜である。
「お寝坊ブランチはとうもろこしに納豆! 数学のテストが十時ってどういうこと?!」
甲高い金切り声を発しながら、赤眼騎士団を率いる異形の怪物ソムワムンが警戒を促した。周囲を飛翔するジンメンイナゴたちが敵襲を知らせ、シンバルを持ったお知らせサルが各種防衛設備を起動させていく。ソムワムンは意味不明な言葉を悪臭を放つ体液と共に撒き散らした。精神を汚染する呪力の波が、第六階層にわずかに存在していた探索者たちを追い払う。祝祭期間中は第六階層に立ち入るなという通達があったにもかかわらず、こうした者たちは必ず出てくる。それが死を招く迂闊さだとも気付けずに。
「ツルツルの納豆! カチコチの豆腐! おやつは面接、特技は水泳とありますが?」
再構築されたラフディは当時の地理を正確に再現しているため、王都ドルスタームを通り抜ける球神大河もまた都市の交通と輸送基盤を担うインフラとして存在していた。
防備は万全であったはずだが、結果的にそこは敵の侵攻ルートに選ばれた。
人形たち以上に、彼らは水中という領域を知悉していた。
「いけませんお客様! キーパーのオウンゴールです! 絶食するならロープとイスも!」
ラフディを強襲し、本陣を守っていた赤眼騎士団と交戦しているのは外敵ではなく、あろうことか味方であるはずの五大騎士団だった。
突然の裏切り。第五階層の隣接異界で待機していたはずの白海騎士団が突如として第六階層に出現したことで、ラフディは大混乱に陥った。
反乱を率いる水棲亜竜が吐き出す水は無尽蔵で、たちまち川は氾濫して市街地は水没、周囲は池に、あるいは湖に変貌していく。
あまりにも急速な環境の変化は杖的な理路に基づいたものではありえない。
昔話の大げさなホラ話、そうでなければ荒唐無稽な起源神話だ。
『ガロアンディアンの大きなハツワシュ湖がどうやって出来上がったのかって? それは巨大な首長亜竜アルバダオバが吐き出した水があまりにも多すぎて、そこらじゅうが水浸しになってしまったからさ!』
アルト王に仕えた五人の騎士。その一人であるアルバダオバ・ハツワシュは古代ガロアンディアンにおける四つの海軍戦力の中で最強と目された白海騎士団の統率者である。
精強なるジヌイービ海上警備隊、百戦錬磨の魚人烈士団、百旗を掲げる無頼海賊団といった兵力で上回る軍勢と比べて白海騎士団が優れていた点は、主に二つ。
ひとつは巨大さ。
数の少ない水棲亜竜の騎士団員たちは、いずれも見上げるような巨体である。
大きさとは強さだ。首長亜竜はただ存在しているだけで周囲を威圧し、その重みであらゆるものを捻じ伏せることができた。
新生ラフディを防衛する人形兵団と比較すればその差は歴然。
亜竜たちに針のような槍を突き立てようと微動だにせず、小さな囁きのような呪いをぶつけても少し痒そうにするだけ。彼らは水没した第六階層を泳いで突き進む。それだけで波に足を取られた人形たちは悲鳴を上げて蹴散らされていく。
しかし、白海騎士団が有する真の脅威はもうひとつの特性だった。
首の長い亜竜たちが大きく息を吸い込み、すぼめた口を前に突きだす。
吐き出された息は破壊そのものだ。濁流の如き大河の氾濫が世界を砕く。
波濤の吐息。抵抗を許さぬ膨大な質量が周囲を薙ぎ払った。溢れ出した水の総量は既に亜竜の体積を超えている。
亜竜が得意とする『吐息』の呪術基盤。圧倒的な火力を誇るその呪術による一斉掃射は大抵の盾を押し流し、あるいは壁を迂回して流れ込む。
対峙した人形たちの被害は甚大だった。逃げ遅れた後方支援要員たちはひとたまりもなく激流に呑み込まれ、飛翔能力を持つ人形たちも上空への吐息によって撃墜されていく。
全ての騎士団員がこの吐息を使用できるという優位があればこそ、白海騎士団はガロアンディアン最強の海軍としてその名を轟かせてきたのだ。
「誰もがまなざしに針を隠してる。僕たちが見つめ合う限り、剥き出しの心は傷つかずにはいられない。だって瞳に映る世界はまるで刃に照らされた僕たち自身」
その時、劣勢かと思われた人形たちが反撃に打って出た。
どこか幼さを残した甲高い声が響くと、アルバダオバの巨体の至る所から無数の棘が突き出す。内部から対象を貫くという恐るべき攻撃を行った何者かの姿は見えない。
「なんて脆く儚いのだろう。ああ、世界はこんなにも美しいのに」
それは不可視の存在だった。
自分は視る者であって視られる者ではない、という確信。
刺すような視線で外からの視線を押し返し、あらゆる者からの知覚を拒絶する。
視線の攻撃性を極限まで研ぎ澄ました邪視者の到達点のひとつ、透明化による視線迎撃を無意識に実行しながら、あらゆるものを視線で貫く。
「『絢爛小片硝子世界』。ああ、綺麗なものほど、壊れることが真実になる」
周囲の時空を穿孔して傷つける広域殲滅用の邪視空間。
かつてカシュラムの軍勢をかき混ぜて肉片のモザイクに変えたと言い伝えられている恐るべき浄界が激流を割り、亜竜の全身を棘で埋めつくす。
総勢一万体の魔戦人形師団の中でも特に突出した力を持つ十二体。
その中には、戦史に名高いラフディ第九代国王を再現した人形がいた。
棘の王カルメダージはオルヴァ王と幾度となく争い、多くのカシュラム人を殺戮したというラフディ大元帥にして筆頭戦士であったとされている。
ラフディの守護者が現れたことで人形たちが歓声を上げる。
回避もできずに棘まみれになった首長亜竜を見て勝利を確信していた人形たちは、しかししばらくして異常に気付いた。
全身を体内から貫かれて即死しているはずの亜竜が、その動きを止めていない。
「おお、これは恐ろしい。他の者たちに任せていたら死んでいましたな。よかったよかった、死後の生とはいえ、部下たちには長生きしてほしいものです」
何事もなかったかのように、少ししわがれた男の声が響く。
カルメダージの浄界は術者の眼球から放たれる投射型邪視を、術者の周辺に展開された半球状の領域内で自在に発動可能にするというものである。
棘として具現する鋭い視線は全てを貫くため、肉体を透過する。
この浄界内部では誰も逃げ隠れできず、脆い体内を鋭い視線に晒すことになる。
必中にして防御不可能な破壊と殺戮の世界。
だが波打つ湖面は最初から透き通っていた。
どんな守りも貫く無数の棘は、不定形の水を抜けてただ濡れていくだけだ。
「ハツワシュ湖はですな。当時から透明度の高さで知られていまして。調べたところ、なにやら現代でも観光名所として知られているとか。環境保護団体の方々が綺麗な状態を保ってくださっているそうですが、ありがたいことですなあ」
穏やかな声はそれこそ余生の慰みに観光地を訪れた老紳士のよう。
針山のようだったアルバダオバから、突如としてすべての針が引っ込んでいく。
何事もなかったかのように全ての害意を体内に格納すると、全方位から突き刺さる必殺の視線をことごとく通過させていく。老亜竜は迷うことなく優雅に泳ぎ、何も無いように見える一点に辿り着くと大きく口を開いた。
「どうかゆっくりとご覧ください。ガロアンディアンが誇るハツワシュ湖の景観はいかがでしょうか。このひと時が、あなた様の心にわずかでも潤いを与えられたなら幸いです」
言葉と共に吐き出されたのは透き通るような水。
滝、川、そのような形容ではとても足りないほどの量。
アルバダオバはさながら大きな湖だ。
カルメダージの突き刺すような邪視はあらゆる視線を押し返す優先度を誇る。
それでも、全てを素通りさせる透明な水を刺し殺すことはできない。
どんな視線でも傷つけられない棘の王は、夥しい量の水に呑まれて水没した。
冷たい湖はどうしようもなく深い。第六階層に本来あったはずの地面、その下限を越えて更なる底まで沈み、光の届かない彼方で小さな粒になって消えていく。
ぱたん。カルメダージが掌握するはずの浄界内部に小さな扉が開き、彼を招き入れる。
ごくり。アルバダオバが喉を鳴らすと、長い首を何かが通り過ぎていく。
やがて腹の中に収まったそれは断末魔の呪詛を炸裂させると共に体内から無数の棘を炸裂させたが、先ほどと同じく流水のような水棲亜竜には全くの無意味。棘は次第に小さくなり、体内に吸い込まれていった。
「さて。難敵を仕留めはしましたが、どうにも数が多い。皆様の頑張りに応えたいところですし、老骨に鞭打ってもうひと頑張りするとしましょう」
群れをなす人形たちは亜竜を包囲しながら身構えた。
彼らの強みは軍勢としての数だ。
最高峰の人形師が作り上げた現代の軍勢と、精鋭の力を軸にした古代の軍勢。
一万体近い人形と数百体の亜竜が対峙すれば、最終的には疲弊した亜竜側が敗北する。
ゆえに、アルバダオバはそのような常識的なルールを変容させるべく動き出した。
邪視者の塗り替えた世界は、当たり前の道理をいとも簡単に覆す。
棘の王が展開していた見えない浄界は術者の敗死によって消滅している。
既にアルバダオバの描き出す世界を妨げる者はいなくなっていた。
「それでは次の行き先へと参りましょう。ガロアンディアンが誇る美しき水の名所はハツワシュ湖だけではございません。我ら白海騎士団が守護する大海、白翼海もそのひとつ。これより皆様を遥かな大海原の旅にご案内いたします」
言いながら、アルバダオバは両手足を翼のようにはためかせる。
すると巨体がゆっくりと浮き上がった。
水棲のはずの巨大亜竜が、空を泳いでいた。
それは飛翔ではない。跳躍でもなければ浮遊でもなく、滑空や牽引の類でもなかった。
空中に広がる大量の水の中を、そうするのが当たり前のように泳いでいるのだ。
アルバダオバが泳ぐことができるのはそこに水があるから。
なら、空に水があれば空を泳ぐことができるという理屈だ。
そして、ゼオーティアには空に浮かぶ海が実在する。
「このアルバダオバの身体は『白翼海への扉』にございます。海、それは遥かな世界への出入口。航海の果てに待つ宝は得難い経験、はたまた新たな友人かもしれません」
ゼオーティア広しと言えど、確認されているのは世界にたった四つだけの飛翔水域。
渡り海洋。翼ある海は南東海から飛び立ち、旧ボロミアや旧キャラクラを抜けて亜大陸境界である大山脈と大竜河に流れ込み、反時計回りの遷潮流がエルネトモラン付近を通過して南東海に戻っていく。
心の中の原風景を映し出す浄界と、大量の水を転送する扉や召喚術にも似た謎の呪術。
高度な複合呪術を操る脅威に相対すべく、赤眼騎士団は一気に勝負を決めようと集結する。大軍を指揮するのはアルト・イヴニルから掌握者権限を預かっている側近人形ガルラ・クオール。人形たちの前に立って先鋒を担うベルグ・ベアリスが巨大な戦槌を振り上げて突撃する。万物を存在ごと忘却させる一撃が膨大な量の水を消滅させようとしていた。事象改変に対する全力の妨害によって、完成途中だったアルバダオバの浄界が破綻しかける。
「到着でございます」
ラフディの終わりが決定したのは、その瞬間だった。
人形たちの敗因は二つ。
ひとつはカルメダージの敗北から本体への攻撃を早々に諦めてしまったために、アルバダオバの浄界を阻止することのみに全力を尽くしたこと。
もうひとつは、この亜竜が並行して準備していた別の呪術が本命だったことに気付けなかったこと。呪術師によっての奥義である浄界を囮にするという発想に至れなかったのは、相手の実力を侮っていなかったということだが、それでも致命的な迂闊さだった。
最も不幸だったのは、誰もその古い繋がりを知らなかったということ。
それでも予想していなければならなかった。
来訪者の血族がどれほど古くからこの世界に根を張っているか。
その脅威の深さを、正しく恐れていなくてはならなかったのだ。
「それでは足元にお気を付けて。はるばるセインディアの博物城からようこそいらっしゃいました、ディスケイム家の皆様がた」
アルバダオバの浄界が砕け散る。
自己の心が砕かれる痛みに耐えながら、水棲亜竜は悲鳴のかわりに口を大きく開く。
その奥にあったのは口腔内ではなく、異界である。
亜竜の口を『扉』がわりにして、その集団は現れた。
そして、全てが終わった。
十二の精鋭人形。異形の魔戦人形師団。そんなものは何の問題にもならなかった。
棘の王を一方的に捻じ伏せるアルバダオバという脅威が可愛らしく思えるほどの、それは生きて動く災厄そのもの。自ら吐き出したその姿を見て、老亜竜は涙を流す。
「このアルバダオバ・ハツワシュ・ディスケイム。長き時を超え、アゥルメイアお嬢様のお役に立てて光栄にございます。ああ、お嬢様の作品が、子供たちがこんなにご立派になられて。じいは、じいは嬉しゅうございますぞ」
人形たちの王国が、破滅に呑み込まれていく。
浮遊絨毯に乗った双子がいた。そっくりな三角耳の少女たちによる上空からの爆撃が炎の雨を降らせると、半球屋根や編み髪柱が目立つ美しいラフディの街並みが無惨に破壊されていく。逃げ惑う戦士人形たちが絶叫しながら溶解し、一番槍を担っていたベルグ・ベアリスは赤熱する藍色の鎧の中で泣き叫ぶ。
「うわあああん、嫌だ、こんなの嫌だよう! 助けてガルラ!」
亜竜たちよりも遥かに巨大な城砦があった。柱の如き脚が水浸しの市街地を踏み砕き、複雑怪奇な外装があらゆる呪詛を放射する。竜鱗の壁、猫招きの柱、海神の像、地上太陽のオブジェ、納豆の屋根、眼鏡の大門、甲虫のレリーフ、『坂本』という表札。精緻な彫刻によって飾られた、前衛あるいは俗悪な芸術的移動建築。視覚的な暴力は精神に対する冒涜で、恐るべき密度の呪力砲撃そのものだった。轟音が全ての呪文を掻き消して、芸術的な爆発が赤眼騎士団の防御施設を強引に破壊していく。
防衛側の人形、自鳴琴のキーキゼリスは楽想の世界に誰も誘うことなく粉砕され、濡れ髪のハヴィシンタは己の死と引き換えに呪詛を返すも無駄に終わった。巨大な移動建築はそれ自体が膨大な量の怨念で動く霊廟で、返しの呪詛さえ燃料に変える怪物的な『化身』だったからだ。
動く屍のような軍勢を率いる蒼い肌の青年がいた。
ラフディの処刑者スメーキフは伝説に語られる通りに立ちはだかる全てに死を与えたが、最初から死んでいる軍勢が止まることはない。
噛みつくことで感染し、人形すら亡者に変えていく軍勢の勢いは止まらず、処刑人形は腐った肉の大波に呑み込まれて押しつぶされた。
それは災厄の津波だった。異形という点ではひけをとらない魔戦人形師団は、しかしその怪物的な見た目が所詮は趣味的な飾りでしかなかったことを思い知らされることになる。
戦奴虫人の軍勢が全てを引き裂く。豆腐の皇女を従えた聖騎士が駆ける。戦乙女の女装をした美貌の槍使いが静止時空の中を悠然と舞う。逆さの悪夢を握った羊人が酩酊する。
そして、神が重い石を持ち上げる。もはや何者も破滅に抗えない。
赤眼騎士団を率いる毒吐き喇叭のソムワムンは、自軍の敗北が決定的になったと見るや即座に撤退を決断した。飛翔する異形の肥満体は人形姫に忠誠を誓った騎士団の柱だ。掌握者権限を持つガルラを第五階層に逃がし、アルト・イヴニルと合流させることさえできれば必ず再起は可能だと信じて動き出す。
「ねえ聞いてよ、昨日の晩ご飯がね、練習のドームで待ち合わせしてたのにレッテが一緒のラプンシエルとネッセだけは無事ならいいのよ適当で」
支離滅裂な言葉を吐き連ねる怪物の意図は誰にも汲み取れない。
直属の配下にだけ通じる符丁を交えて密命を下し、あらゆる心理探査を拒絶する自己催眠と内向きの精神汚染呪詛で発狂した愚者を演じる、それがソムワムンの忠義である。
誰にも理解されずともかまわない。愚直な忠義を主に捧げていた彼に迷いはない。ガルラを逃がし、自身はこの場に踏みとどまって最後まで時間を稼ぐ覚悟だ。
だが、その決意はあまりにもあっさりとへし折られる。
いざという時のために用意されていた逃走経路。
そこに意識を向けた瞬間、『読まれた』ということがわかった。
否、理解できるようにしてもらったのだ。
それは慈悲であり、同時に虫の翅をむしるような残忍さでもあった。
「戦場の喧騒。入り乱れる感情。ああ、心地良い。これは素敵なざわざわですね」
声はすぐそば、あるいは体内から響くようだった。
知らない意識が、いつの間にか肩の上、耳の真横に乗っている。
それはずっと内側からソムワムンの全てを見ていたのだろう。
「悲しみと怒り。それから諦観。ことばの混線はジャミング。わたしのような術者への見事な対策と言えるでしょう。ざわざわが大きくて、私はとても満足しています」
間近で響く涼やかな肉声。自分の口が動いている。知っているのに知らない声。異常な事態だった。相手を知覚しないように意識をずらして思考誘導を拒絶。瞬時に対抗策を練り直す。ソムワムンの手札は三つ。巨体を生かした突撃。異界監獄から召喚するジンメンイナゴの軍勢。そして『心話』の高度な応用である精神干渉技術である。
「晩御飯が晩御飯が晩御飯がねドームで聞いておいしいってことはこの精度で私の精神ににゅるにゅる撤退用の回廊が既に汚染されている、学歴は重要な地下の二番倉庫に急げ! 予備の泡が起動できればまだガルラ様を逃、待て、何だこれは」
混乱に次ぐ混乱。ソムワムンは己の言葉と精神が制御不能になっていることを自覚し、自己診断さえ欺瞞されていることで絶望し、その感覚さえ即座に失う。
敗北した。決定的な認識から目を逸らし、使命感だけを頼みにただ動く。
「はい、ざわざわを頂きました。と、調律はこんな感じでしょうか。まだ少しノイズ混じりですけど、おおむねわかるようになったと思うのですが」
誰かの言葉が聞こえてくる。誰が喋っている? すぐ近くだ。
ソムワムン自身の肉体を震わせて、ソムワムンの口が言葉を発している。
異なる意思、敵対する呪術師が、自分の言葉をソムワムンに喋らせているのだ。
「ああ、他にも退路とシェルターが? 七階層への逃走プランもあったのですね。製造中の人形はあのあたり、と。これで全部ですね」
ソムワムンは、心の全てを暴かれていることに気付きながら気付けていない。
自分はいま、他者の言葉をしゃべっている。
致命的な事態。完全な終わり。最悪の場合、この状況が周囲に影響する。
「このままではいかん! 一刻も早く、術者を倒さねば全てが終わる!」
ソムワムンが言うべき言葉を発したのは、目の前に現れた鎧姿の戦士だった。
誰かの言葉を強要されながら、ソムワムン自身の言葉は奪われている。
「貴様、私の精神を完全に掌握したつもりか!」
激昂し、問いただしたのはソムワムンではなく目の前の敵だ。
その事実が途方もなく恐ろしい。
反射的に心に壁を作り、一切の精神干渉を遮断した上で事前に構築しておいた仮想使い魔から遅延呪文を一斉に展開。常人なら数秒は思考がフリーズするであろう思考呪詛を投射しながら、本命の『深層心話』を仕込んだアストラルワイヤーを相手の反撃に合わせるようにして待機させる。直接お互いの精神を繋いで共倒れ覚悟の拮抗状態を作ろうとした直後、入念な準備の全てを嘲るかのようにソムワムンのアストラル体が致命的な損傷を負った。
「馬鹿な、私の汚染防壁さえ無意味だというのか?!」
信じられない、とそれを行った当人が叫ぶ。
いつ仕込まれていたのかもわからない。ソムワムンが常駐させているルーウィスパ型の防火壁を容易く掻い潜って、論理爆弾が起動したのだ。
純粋に、精神感応型呪文使いとしての技術が為せる芸当だった。
「か、格が違い過ぎる! あら、どうもありがとうございます」
圧倒した相手の思考を読み取りながら、敵への賞賛に照れた様子さえ見せていた。
ソムワムンは目の前の相手を凝視することしかできない。
アルバダオバの口から現れた恐るべき怪物たち、その一団を率いていると思しき人物は、血のように赤い亜竜人だった。
特徴的な紀竜兜と真っ赤な鎧、見事な虫翅飾りが柄と護拳部を覆う細剣。
柔らかく耳に心地の良い声、細身のシルエットと兜の隙間からわずかに覗く素肌から、赤蜥蜴人か赤亜竜人の若い女と判断可能。そして蜥蜴と亜竜の差は強さによって決まる。
ソムワムンの口が勝手に動き出した。
「これですか? いいでしょう、自慢の逸品なんですよ。旧エィル王国の国宝・全身甲冑『血の鎧』とレイピア『蚊の一刺し』。ああ、どうぞご自由に。最後まで足掻くことが騎士の誉れ、まったく素晴らしい心の在り様です。あなたの精神構造はとてもきれいで、私の心までなんだかざわざわしてきますね」
思考も行動も全てが読まれている。あらゆる行動は事前に潰され、いかなる奇襲も意味をなさない。それはひとつの絶望だった。
包囲し、数で攻め立て、無数の思考で処理を圧迫しようとしても無意味。
それを実行しようとする精神が既に掌握されているからだ。
数千の人形たちは、まるで本来の主によって糸を手繰られているかのように踊り続ける。
その口は敵の言葉を紡ぎ、敵は悲鳴を上げる人形たちの心を暴く。
赤眼騎士団の奮戦は一向にその女には届かず、軽やかに閃く細い刃が人形たちを優しく撫で、ちくりと突き刺す。ソムワムンは死の苦痛と共に、自分自身に別れを告げた。
「さようなら。晩御飯が、晩御飯がね」
ソムワムンの巨体が、細剣に一刺しされただけで見る見るうちに萎んでいった。
『生命吸収』の呪術が刻まれた呪具なのだろう。
呪力や生命力を血液になぞらえ、蚊がそうするように吸血する。
たとえ人形であっても、その先に待つ結末は同じだ。
人形としての生を終えた忠義の騎士を見下ろしながら、赤亜竜人は嬉しそうに血の滴る細剣を持ち上げ、切っ先を己の口に運んだ。
その呪いと命を味わい、嚥下し、体内に取り込む。
そして慈母のように嫣然と、娼婦のように愛情深く、屠った戦士の血に酔いしれる。
「お昼寝の講義中は麦茶を飲んで、呑んだのに二軒目ですぐに帰っちゃうからね、だから雑巾だって晩御飯の準備をしてたのにね、お昼寝のね、お昼寝がブランチよりディナーでしょって怒ったら将来のこと考えたら今すぐ動かなきゃ、申し込み期限は昨日!」
圧倒的な実力の勝者が唐突に異常な言動を吐き連ねていく光景を見て、生き残った人形たちは凍り付いた。己の精神に汚染呪詛を取り込むソムワムンの絶技を、この亜竜人は完璧にものにしている。兜から覗く瞳は正気を喪失していながら同時に理性を維持していた。
ありえない矛盾に、人形たちはもはや畏怖さえ抱く。汚染に蝕まれた肉体を変異させることなく完全に制御しきるなど、ソムワムンにすらできなかったというのに。
「ああ、この血と雑音、とってもざわざわです」
恍惚とした表情で、血まみれの亜竜人が無防備な姿を晒している。
隙だらけの状況で、近くの人形たちはいつでも飛び掛かれたはずだった。
しかし、彼らは既に結論を知っている。
先ほどから亜竜人の言葉を口にしているのは、人形たち自身なのだということを。
人形の兵団は一斉に自滅した。ある者は頭部を自壊させ、ある者は自死を選び、ある者たちは互いに刃を突き刺し、ある者は精神に異常をきたして世界槍の深みへと消えていった。
「いやあお見事。圧勝でねえか。つっても、おめたつの相手ができるってだけでも大したもんだ。まあ運が悪かったなあ」
ゲラゲラと喉奥で岩を転がすような笑い声が響く。
周囲の心を暴き、己の言葉を吐き出させる精神の支配者が君臨するこの場所で、紛れもない自分自身の言葉を発することができている。
それは紛れもなく強者の証である。
血の鎧を纏った女が視線を向けると、一人のトロルが人形を足蹴にしていた。
第六階層の掌握者代行、ガルラ・クオールを下した岩肌の男が歯を見せて笑みを作る。
「博物城を管理するキュレーター。その中でも選りすぐりの精鋭が十人か。増援としちゃあ十分過ぎるくれえだ。アゥルメイアの奴も太っ腹でねえか」
隻頭の岩肌種は、『塗壁』を名乗る危険な言語支配者の転生体だ。
第五階層を巡る争いの中心で暗躍する三人の超越者のひとりにして、ディスケイム家を統括する十二長老の一角。
ノゴルオゴルオはにんまりと笑い、足裏のガルラをぐりぐりといたぶる。
「しかし、まさか次期城主と目されるおめえが直々にやってくるとは思わなかっただよ。秘蔵の愛娘を送り出すとは、アゥルメイアも相当に本気だなあ?」
同じディスケイム、同じ陣営であるにもかかわらず、ノゴルオゴルオの視線はどこか威圧的であり、声は探るような響きを含んでいた。
対峙する甲冑の女は柔らかい態度を崩さないまま、優雅に細剣を鞘に収める。
そうしてからようやく己の口で、己の心と一致した言葉を紡いだ。
「そんなに警戒なさらないで。心配しなくても、これはあくまでも長老会議を通したノゴルオゴルオ様への支援活動でしかありません。これ以上のでしゃばりは致しませんよ。だからこそ、場の秩序を乱さぬようお義母さまではなく名代のわたしが来たのですから」
「おらはあの老いぼれ巨竜よりもおめえの方がおっかねえだよ。ハーゼムの分家から、どんな手品を使ったらディスケイム長老の後継者にまで昇りつめられんのか、是非とも教えて欲しいもんだ。なあ、『エィルの魔女』ティシリア・ハーゼム・メイザッハ」
博物城の主アゥルメイアはノゴルオゴルオと同格の長老である。
ティシリアという魔女はアゥルメイアの遠い子孫でありながら、ディスケイムの分家という血筋の劣位をものともせずに頭角を現し、ついには長老の後継者として見出された傑物だった。この場の序列としてはノゴルオゴルオに一歩譲るが、それはあくまでも指揮系統を乱さぬための配慮でしかない。
「過分な評価、痛み入ります。けれどこの勝利は私ひとりのものではありませんよ。作戦はノゴルオゴルオ様がいなければ成立しないのですから」
亜竜人はへりくだった様子だが、それでもどこか慇懃無礼という印象がぬぐえない。
トロルは高圧的な態度を崩さずに相手を睨む。
「その割に、随分と急にねじ込んできたでねえか」
「お義母さまをはじめとした長老の皆様も、竜母様がその時を迎えるのが待ち遠しくてならないのでしょう。それに私たちが来たことで作戦の幅が広がったのは確かでしょう?」
「まあ、それについては礼を言っとかねえとな。おらたつトロル陣営だけで第六階層を攻めんのは少し時間がかかり過ぎる。おめたつのお陰で随分と助かった」
しぶしぶと認めるノゴルオゴルオを、ティシリアは嬉しそうに眺めている。
伝播する感情は、支配のためのとっかかりでしかない。
恐らく老練なトロルがもう少し不用心だったなら、今ので完全に心を許してしまっていただろう。そうなったら終わりだ。計画はアゥルメイアの、そしてティリシアの手に収まる。
「それは良かった。そろそろ皆さんの片付けが終わりますが、ご挨拶はされますか?」
ある意味で、どの長老が介入してくるよりも悪質だった。
次期長老ティシリア。ディスケイム内部の権力闘争において、最も危険とされる精神支配の達人。ノゴルオゴルオはぴしゃりと干渉を断ち切った。
「いらね。下らねえおべっかやへつらいが好きな連中じゃねえべ? おめたつはさっさと次の準備でもしてろい」
にっこり。兜の奥で亜竜の口が笑みを作る。
彼女は常に柔らかな態度を崩さない。それは部下に対しても同じだった。
「では、お言葉に甘えて。ナサニアちゃんとケラトニアちゃん、燃やし過ぎだからそろそろ降りてきてくれる? 坂本さんはバジェントスさんのゾンビ軍団を収容したら階層の防衛施設を組み直して下さい。ノノくん、パルくん、ココくん、ザラくんは牽制しあってないで、皆で仲良くキニスちゃんを迎えに行く準備をするように」
一息に同胞たちへの指示を下す様は、指揮官というより子供たちの面倒を見る親戚のお姉さん、といった風情である。
それぞれが軍勢を踏み潰せるほどの災厄だが、ティシリアにしてみれば余裕をもって相手ができる程度の可愛い子供たちに過ぎない。
だがそんな彼女にも、ひとりだけ例外がいた。
すうと息を吸い、やや緊張した様子で口を開く。
無理もない。ノゴルオゴルオもまた唾を飲み干す。
最後の一人だけは絶対に扱いを間違えるわけにはいかなかった。
「クドラカーンさん。これから作戦を第二段階に移行させるために、あなたの力が必要です。軽く、ほんとにかるーく、ちょびーっとだけでいいので、ぜんぜん全く気合を入れたりはしなくて問題ないということを念頭に置いて、ちょっと世界を持ち上げてもらえます?」
遥か離れた場所への音声通話だが、奇妙な緊張がしばし訪れた。
やがて了承を示すメッセージが幻像文字として届き、直後に小さく大地が揺れ動く。
ティシリアは安堵の息を吐いた。
一方、トロルの眼光に油断はない。
博物城とは、ディスケイムの次代を担う者たちを作り出すための揺り籠でもある。その影響力は各長老たちにも及び、『下』の各地に送り込まれた血族たちは博物城出身者としての同族意識を持ちながら要職を担うようになる。トロル民族と国家を丸ごと掌握するノゴルオゴルオとは全く違った権力の形がそこにはあった。
この場にいるティシリアが博物城の長老アゥルメイアの後継者なら、他の九人は別の長老の側近や護衛、後継者候補と目される次世代の俊英たちであった。
次世代の救世主を巡る戦いの渦中に送り込む人選としては、長老たちよりもその後継者たちが相応しい、というのが長老会議の意向なのだろう。
「しかしおらも甘く見られたもんだなあ。あいつらめ、大事な大事な童どもが悪いトロルに喰われちまうとは考えもしねえってか?」
「まあ怖い。幾らなんでも、かの『双頭』にぱくりとされてしまったらひとたまりもなさそうですね。両肩は丸呑み、頭は真っ白、というところでしょうか」
脅かすトロルを軽くいなした亜竜人を、今度こそ殺意が貫いた。
軽い様子見や探りの段階では既にない。攻撃に繋がり得る恫喝だった。
「ほう。おもしれえ事を言う小娘だこと。だがそいつはちっとばかし面白過ぎる着眼点だ。おらの前でそれを口にする意味がわかってんのか?」
「あら失礼。あまりにもあからさまなので、隠す気がないのかと。どうかご安心くださいませ。私、口はけっこう堅牢なセキュリティに守られていますので」
ディスケイム家の増援はノゴルオゴルオにとって心強い味方ではあるが、完全に心を許せるような相手ではない。他の長老たちが第五階層における作戦の主導権の奪取しようと目論んでいる可能性は十分に考えられる。長老同士の権力闘争は日常だが、このタイミングで足を取られて失敗するわけにはいかない。
ひとつ、呪文で仕掛けを打っておくべきか。
老呪術師がすうと息を吸いこんだ時、見上げるような巨体が割って入った。
「ノゴルオゴルオ様。それ以上のお戯れはお控えください」
この場の戦端を開いた裏切りの騎士、アルバダオバだった。
彼が忠誠を誓っていたのは最初からディスケイム家であり、アルト王ではない。
博物城で生まれ、巣立ち、ガロアンディアンの要職に就き、来るかどうかもわからない時を待ち続けた。『その時』は王国の滅びから遥かな未来、蘇った世界槍の中でという奇妙な状況下で訪れたが、彼の忠節はやっと報われたのだ。
博物城の同胞意識。それは、遠い未来の若者たちに対しても向けられている。
「ティリシア様。そして博物城のキュレーターの皆様。戦闘は既に終結しております。やや窮屈に感じられるかもしれませんが、じいの体内にはお客様を歓待するための館の用意がございますので、そちらでゆるりと旅の疲れを癒していただければ幸いです」
「まあ素敵。作業中のクドラカーンさんは手が離せないから後で招待するとして、階層の調整作業はそちらでもできそうですね。ならお言葉に甘えようかしら。ああ、でも先に謝っておきます。私たちの中にはちょっと気難しい子が多くて、困った注文をしてしまったらごめんなさいね」
博物城の次期城主ティシリアは申し訳なさそうに言い添えたが、老騎士アルバダオバはむしろうれしそうに答える。
「アゥルメイアお嬢様のご息女の願いとあらば、この身にかえても成し遂げてごらんにいれましょう。どうかなんなりと、じいやにお申し付けくださいませ」
「ありがとう、アルバダオバさん。後続のドーセントたちのためにマーカーも移動させておきましょう。そうだ、あとでキニスちゃんとも顔合わせをしないと。彼女がどの座に到達するかはわからないけど、亜竜王として覚醒したら手伝ってあげてくださいね?」
「かしこまりました、お嬢様。それは実に楽しみな未来ですな」
気勢を削がれたノゴルオゴルオは害意を受け流す老騎士の振る舞いを見て評価を上方修正しつつ、ひとまずその場を収めることにした。
ティシリアは大きく開かれた首長亜竜の『扉』に足をかけながら、ふと思い出したように振り返った。
「ねえノゴルオゴルオ様。キニスちゃんの扱いはそちらに一任していますけど、本格的な選定の前に個人的に会ってお話するくらいはいいですよね? 仲良しだった男の子たちも会いたがっていますし、何より私が久しぶりに顔を見たくて」
「は。おらの記憶が正しければ、おめえは特にあの娘っこに嫌われてたはずだがな」
「まあ、そうなんですか? 残念、私はとっても仲良くしたいのに。だってそうでしょう? 恋人の娘なんですもの。ああ、そう考えるとざわざわしますね! 私、キニスちゃんの父親役をやってあげたいとずっと思っていたのです!」
とある少女の母親と内縁関係にある亜竜人の女は、心からの慈愛と共にそう語った。自分の母親の情婦に対して、実の父を失っている娘がどのような感情を抱くのか、精神支配の達人たるティリシアにわからぬはずもない。その上で平然と『父親役』などという言葉を口にする魔女を見て、ノゴルオゴルオは少しだけ愉快そうに口の端を持ち上げた。
「そうかい。なら、おらが保護者の顔をする必要はなさそうだ」
それは既に、少しだけ変わった親戚同士の会話でしかなかった。
和やかに変質した空気は透き通り、ほぐれた空気に毒を流し込む余地はない。
首長亜竜の口の中に消えていく博物城のキュレーターたちを見送ってから、トロルは足元の人形に視線を向ける。
ガルラ・クオールは屍同然だ。
今は人形の体内に構築された箱庭浄界に守られている掌握者権限を取り出す作業に時間をとられているだけ。老練な呪術師にとっては容易いことだが、ガルラにとっては嬲られるに等しい屈辱だろう。憎悪の視線が真下から突き刺さる。
「人の世界を嘲る屑め、今度は何を企んでいる」
それは人形姫の側近としての言葉というより、その大本になった存在としての言葉だ。
古代祭政期のラフディ。というより、その名前さえ存在していなかった時代、荒ぶる妖精王たちに脅かされながらも細々と命脈を繋ぐ小さな共同体があった。
王ではなく神官によって統治されていた祭祀国家で、球神ドルネスタンルフの言葉を代弁していたクオール家の筆頭神官がガルラの正体だ。
ラクルラールの人形は伝承と神話を素体に、歴史と遺物という繰り糸で形作られる本物の複製品。人工的な転生にも等しいその偉業は、球神官の記憶さえ呼び起こす。
ゆえにノゴルオゴルオもまた、この人形を古い顔見知りとして扱った。
「おらを悪だくみばっかのジジイみたいに言うもんでねえ。ああ傷ついただよ。昔馴染みに会った途端これだ。ドルスタームの神殿で力を合わせて土をこねくり回したあの思い出は、おらたつの絆はいったいどこにいっちまっただ?」
大仰に顔を覆うトロルを、踏みつけられた人形は一切の容赦なく侮蔑する。
「白々しいことを。そうか、お前の狙いはレッテではなくそちらか。一度は捨てた希望に縋るほど追い詰められるとは、いよいよ堕ちるところまで堕ちたな」
ノゴルオゴルオは愉快そうに歯を剥き出しにした。
「ドルネスタンルフの陪神ごときが、負け惜しみも大概にしろい。大地の神権を失ったばかりか院政による王権の維持さえままならなかった。人形の王を操るのに失敗した時点で、おめたつの神に未来はねえのよ」
「は、何もわかっていないんだな」
ノゴルオゴルオという強大な術者に敗れ、ガルラの存在は風前の灯だ。
ラプンシエルに付き従う『もう片方』とのリンクも切れ、彼という個我は決定的な死を目前としていた。ガルラ・クオールは何もできずに終わることしかできない。
だが、ひとつだけ示せるものがあった。
勝者を気取る者に、それが間違いだと教えてやることができるのだ。
「僕はお前とは違う。神と共にある祭祀国家など続く必要はない。背後から王を操る意味なんてない。老いては子に従うのが世の自然なありようだ。僕はレッテに、アルト・イヴニルに彼という可能性を託した。ただ寄生するだけのお前とは違う」
「ほでなす。その人形もじきに終わるべや」
まっすぐな視線を呆れたように見下ろして、ノゴルオゴルオは吐き捨てた。
掌握者権限の奪取が終わる。
大地が揺れ動き、第六階層全域が大きな変容を迎えようとしていた。
新たな掌握者、ノゴルオゴルオが望む世界。
ここは地底。大地の呪力が満ちる死者の棲家。
それは冥府にも通じる彼岸の世界だ。
「そう、か。貴様はこの世界を」
何かに気づいたガルラを、ノゴルオゴルオが楽しそうに踏み砕く。
首が折れ、外れた頭部がころころと転がっていく。
揺れ動く大地の中で、落下する岩盤が壊れた人形を呑み込んでいった。
そんなことにも気付かないほど、老トロルは興奮しながら両手を広げた。
「そうら動くぞ動くぞ。『下』からの大侵攻だ! この地底空洞はガロアンディアンの地下冥府と重なり合う。ちょうどレースの冥界行のタイミングぴったりになあ」
大規模な振動は、階層全体が動いている影響で発生したものだ。
第六階層は世界槍を満たす次元の泡を通過し、その境界面を侵食して第五階層とひとつになろうとしていた。通常ならば大規模な儀式を準備しなければ不可能な芸当だが、ディスケイム家が誇る最高傑作にはそれができた。博物城の血統術師、そしてノゴルオゴルオをはじめとする長老たちが組み上げた芸術作品。ディスケイム最大の成果がこれだ。
神話では、神や英雄が山や空、世界を丸ごと持ち上げることさえ起こりうる。
ならば、階層というひとつの世界を純粋な腕力のみで持ち上げることも理論上は可能。
第六階層は、いま強引に持ち上げられて第五階層に押し付けられているのだ。
たったひとりの、比類なき腕力によって。
「選定レースはクロウサーどもの庭だ、簡単に介入はできねえ。だが、じっくりとおらの世界として組み上げた階層ごとねっぱしちまえば話は別だ。奴らが総取りを狙う、空の竜母の青い融血。そいつを片っ端からかっぱらう!」
空使い選定レースは来訪者クロウサーの舞台だが、ディスケイムがそれを座して見守るということはあり得ない。狙うは終盤、ラストスパート。
冥府を踏破し、覚醒に至るであろう勝者の栄光。
それをみすみすクロウサーに独占させてやるつもりは全くない。
「勝つのはおらだ。いや、おらたつだな。そろそろ起きろい、アルテミシア」
深い地の底で、隻頭の老人が悪辣に笑う。
全ての人形を踏みつけ、今まさに己の血族を操り人形に貶めんとしながら。
その醜い姿を、砕けた人形から剥がれ落ちた瞳の残骸がじっと睨みつけていた。




