5-33 本選開幕④
第五階層の上空に、虚飾の風が吹く。
人々が見上げるテキストベース・サーキットよりも更なる高みに浮かぶ大小の飛行船。
祝祭を開催するため、というよりガロアンディアンという砂上の楼閣の維持に必要不可欠な『外部』の思惑を取り繕うための、利害関係に基づいた協調。
その象徴が幻像と呪文による広告でコーティングされた飛行船の群れだった。
その中には『稲穂と根菜と鎌』というシンボルを掲げた飛行船が混ざっている。
『ガリヨンテの鎌』という名で知られる、第八階層を中心に活動する武装商会の持ち物だった。飛行船の主はセロナ・ハーヴェスト。迷宮の遺品と盗品を漁って売りさばくならず者たちの長は、船内に設えられた応接室の中央で大きく息を吸った。
震えにも似た深呼吸。冷や汗が肌を伝う。
ゆったりとしたシルエットのクリーム色のストールの内側で、細いなで肩がひどく縮こまって見えた。この青年は機械女王が用意した『護衛』である獅子や豹といった猫科魔獣に常に囲まれている。だが、それは彼にとってさしたる脅威ではなかった。
本来の彼に備わっている穏やかさは、セロナの商人としての経験に由来するものだ。
男は地上の英雄として名高い『盗賊王』を構成する歯車のひとつ。
無法者の六化身からなる『新しき神』である。
迷宮内において半ば設備や機能のように振る舞うセロナの商売相手は、略奪と盗掘を生業とする探索者や、第八階層で紛争を続ける鈴国軍と巨人連合、ティリビナ人の武装集団だ。
機械女王程度の脅威ならば日常的に相対している。
そもそも、物質的な恫喝や拷問は彼に対してさしたる意味を持たない。
植物に近い性質を有するセロナの精神が揺らぐのは、同格以上の超越者と相対した時のみである。だが、いま彼の目の前にいるのはそのような存在だった。
「要するに囮よね。お前たち『ガリヨンテの鎌』にかまけている間に他の五人が仕込みを終える。ことが終わった後でも、ここは交渉の窓口にすればいい」
テーブルの向こう、ソファに腰かけた白骨死体が喋っている。
きらびやかな衣装を纏った、貴婦人とでも形容すべき恰好の再生者だ。
赤の義眼、灰のウィッグ、右の背からは銀の片翼。
手に遊ばせているのは長い鼻の獣を模した木彫り細工。玩具は生きているかのように鼻を巡らせ、水を噴き上げ雲と虹を作り出した。
中空に生まれた即席の箱庭で、雲を渡る翼人と虹を駆ける犬が稲光を追って競い合う。
全ては幻だ。儚い楽園を、骨の手がぐしゃりと握り潰した。
残ったのは空虚さのみ。
稚気と残忍さの入り混じった手遊びを続ける女を前に、セロナは音がしないように息を吸い、唾液で喉を潤す。彼は恐れてなどいない。ただ、備えているだけだ。
「仰る通り、僕の望みはあくまでも対話と取引です。ですからマダム、どうか道を譲っていただけませんか。我々とガロアンディアンの亀裂が致命的なものになる前に、機械女王との対話によってこの状況を平和裏に解決したいのです。僕ならば『あの方』と直接交渉してお諌めすることができる。問題の解決をお約束します」
応接用のソファから身を乗り出すような、懇願にも似た申し出。
木製の四角いテーブルの向こう側で、白骨の女が小さく鼻で笑った。
周囲を浮遊する獅子の顎下に指を伸ばしてくすぐると、魔獣はごろごろと喉を鳴らして目を細めた。猛獣を愛玩動物扱いするその姿はどこか威圧的だ。
「破壊をちらつかせながら取引のつもり? 『ならず者の商人』にふさわしいやり口ね。トリシューラに友人を選ぶように言い聞かせておくべきかしら。何でもかんでも制限する気はないけれど、可愛い生徒からはなるべく悪意を遠ざけておきたいもの」
「差し出がましいようですが、少々過保護なのでは?」
軽めの牽制に、強烈な悪意の反撃。
白骨死体から匂い立つのは死臭ではない。
『殺す』という臭気だ。
「父親におむつと哺乳瓶の世話をされている赤ちゃんに批判されるとは思わなかった。でもそうね。甘やかしていることは認める。その上で言わせてもらうなら、お前が出てきた時点でこの件は私の問題になったってことを理解しなさい」
ぐしゃり、と鮮血が飛び散った。
一体の獅子が再生者の細い手で舌を引き抜かれたのだ。
喉を鳴らすように吼えた魔獣は、口の中から血と一緒に燃えかけの人参をごろりと吐き出して絶命した。セロナの表情が凍る。『餌付け』済みの個体を見破られていた。
虚ろな眼窩に嵌った紅玉髄が、爛々と妖しい眼光で紀人を貫く。
「間違った前提から導かれるのは間違った結論だけ。同じように、偽りの神から生まれるのは偽りの世界だけ。穢れたこの世界を祓い清め、浄化された世界を創造する。『ここではないどこか』を求める楽園願望こそが邪視の根幹。『絡め取る楽園』というまことの名は、己が真なる神ではないという自己認識の呪縛に等しい」
白骨死体の貴婦人が、剥き出しの歯を鳴らしながら艶めいた女の声で嗤う。
セロナを貫通して彼方へと向けられた、それはあからさまな呪文詠唱。
露骨だからこそブラフだと気付く。本命は視線だ。
呪石義眼は呪具使いが用いる伝詞演算装置としての宝珠を邪視者向けにチューンナップしたものだ。『セレスティアルゲイズ』が誇る傑作機として名高い『林檎榴弾』はコルセスカが使用する巨大義眼ほどではないが、前世代のハイエンド品である。
第六階梯邪視者に匹敵する投射邪視と現実改変を可能とするスペックは、使い手次第で浄界の『起こり』を潰すことさえ可能とする。
出し抜けに、セロナ・ハーヴェストの両目から血の涙が流れ落ちた。
文字通りの意味で目にも留まらぬ攻防。現実改変前の段階で、不可視の邪視戦闘が決着したのだ。セロナの密やかな邪視を見咎めた白骨死体は赤い瞳で男を呪い続けている。その姿の奥、更なる深淵に潜む何者かを透かし見るように。
「敗北した偽神。惨めなハグレス、お前は前提の矛盾に気付いていながら止まることができない。価値に飢えるばかりの醜態を、せめて私が蔑んであげましょう」
「言っておきますが、僕を殺す価値はありませんよ、キュトスの魔女。あの方にとって、僕たちはしょせん死神様の代用品に過ぎません」
命乞いめいた言葉を、再生者は小首を傾げてはねのけた。
「そうかしら。あれは弱い神だもの。どんなに器に足りなくとも、単独で何かを為すことなんてできないわ。クロウサーに寄生しているのだってそういうことでしょう」
「ならおわかりでしょう。いかに『塔』と言えど、大神院とクロウサー家の意向を完全に無視することはできない。九姉が動かず、六十二妹の長であるあなたが介入しているのはこれが評議会を通していない独断行動であるからだ。現状はあなたにとっても綱渡りのはず」
「あら必死。随分とキュトスの姉妹にお詳しいのね」
「『下』では十女のルスクォミーズさんと良いパートナーシッ」
喋っている途中で呻き、ぱくぱくと口を開閉させながらもがくセロナ。
『窒息』と呼ばれる呪術基盤が青年の顔の周囲に展開されていた。
再生者は指ひとつ動かしていない。ただ視線を下げただけだ。
だが、その眼光の禍々しさは先ほどまでの比ではない。
「失言ね。私の前であの馬鹿の話をしない方がいいわよ。可愛い姉妹のすることだもの、姉妹喧嘩や鈴国びいきまでなら許せる。でも反逆者は駄目。私はね、姉妹の敵が嫌いなの」
言いながら、魔女は呪力の無菌室とでも呼ぶべき真空地帯を呪った。
構築されたのは簡易浄界。邪視の奥義を発動させるための前段階とも呼べる基本的な結界術だが、その手並みは鮮やかの一言に尽きた。悪意に埋め尽くされたセロナの顔面が、黒い靄で覆い尽くされていく。
「ねえハグレス。クロウサー家だとか、大神院だとか、今はそういう話をしたい気分じゃないのよ。微生物にも劣るお前の知性でも理解できるように言ってあげる。私はね、末妹候補であるトリシューラたちや予備候補であるリーナたちも含めた姉妹たちがだーい好きな、度を越したシスター・コンプレックスってだけ」
もがくセロナの動きが緩慢になり、次第に抵抗する力が弱々しくなったところで黒い靄が弾けて消えた。解放された男は溺れる寸前で引き揚げられた海難事故者さながらの様子で空気を貪る。観察と敵視を続けながら、魔女は威圧的に言い放つ。
「守護の九姉と私は違う。たとえ姉妹が皆殺しにされても、この怒りを絶やすことだけはできない。悪意を遮る守り手ではなく、支配と従属への抵抗を示す反撃者こそが私の役目よ。理解なさい、私やトリシューラはお前ごときの恫喝には屈しない」
怒り、憎しみ、敵意、攻撃の決意。
古い魔女の燃えるような赤い眼光を前に、若い商人は竦み上がるように全身を硬直させ、ふっとその瞳から意志の力を失った。
脱力と共に、魂が霧散するようにがくりと項垂れる。
その、直後。
「相変わらずおっかないな。あまり僕の眷属をいじめないでよ。恫喝しているのはいったいどっちだい? それとも、恐怖を誤魔化そうとしているのかな、かわいい魔女ちゃん」
再生者の頭蓋骨が、微塵に砕け散った。
赤い義眼は精緻な世界観ごと強引に打ち破られて機能を完全に停止している。
あまりにも暴力的な呪詛。空間を削り取った念動力は不可視ながらも誇示するような荒々しさで破壊という結果をもたらした。飛散した骨が灼熱の呪詛によって焙られていく。
「知らないうちに空虚大公なんて大げさな名前で呼ばれるようになっちゃって、少し気が大きくなってるのかな、かわいいクレア」
それは未だ荒く息を吸うセロナの声ではなかった。
彼のアストラル体を借りた形のない存在が、大気を震わせて発する合成音。
どこかちぐはぐな人工性を滲ませた滑稽さ。神経を逆なでするような饒舌さ。
その歪さにもかかわらず、明らかな超越性が世界の覇者が誰なのかを克明に語る。
天井という余分な枷を忘却させる、『観念的上方』からの威光。
直観的な『天』として知覚される絶対的上位者。
そこにいる。否、最初からそれは遍在していた。
あらゆる文明圏において『神』と呼称される唯一無二。
語らずともそれと知れる、雄々しき力の顕現である。
「それで、何か話があるんだったかな?」
矮小な個人では抗うことさえ許されない。
地べたを這いまわる邪視者たちは高みを見上げるように世界を塗り替える。
だが、神の視野は遥かな天座より見下ろすもの。
呪術世界において、『睥睨』とは高次の邪視として位置付けられる神の御業。
巨人の位階に立つことでようやく挑む資格を認められる域の争いに、巨人の肩を借りて作った義眼などで挑むなどおこがましいにも程がある。
神前に模造品を持ち出したことへの神罰。
それが魔女に与えられた軽い打擲の意味であり、躾け以上の意図はない。
「そろそろ起きて、姿を見せたらどうだい? まさか、偽りの名と姿のままで僕と対峙するつもりだったわけでもないんだろう?」
魔女は実体を持たない身でありながら器用に舌打ち音を発生させた。
視点なき認識。主体不在の視座。存在しないものが、個我を自覚し世界と対峙する。
既に再生者という偽装さえ不要だった。
不死なるものに、蘇る必要などないのだから。
「お前に愛称で呼ぶことを許した覚えはない」
神話の登場人物と関連付けられた持ち物を、アトリビュートと呼ぶ。
キュトスの姉妹たちに紐づけされたアトリビュートの規則は三つ。
記号、性質、起源を象徴する三要素。
表象と意味と価値の重ね合わせが魔女の宣名を規定する。
始まりのイメージは昏い灰の色彩を宿した長い髪。
続く在り方は左側を欠いた銀の片翼。
そして終わりに結論付けられたのは鮮血の如きまなざし。
点と点が結ばれ、線が重なり、やがて結実した光が像を結ぶ。
「私の名はクレアノーズよ。姉妹の十一女としても、末妹選定の発案者のひとりとしても、これ以上の横槍は敵対と見なす」
それは、この魔女が第五階層に訪れてから初めて行う宣名だった。
結界守護者クレアノーズ。
『塔』の外にもその名を轟かせる守護の九姉以外でその名を知られた数少ない姉妹。
結界の六十二妹と呼ばれる大多数の魔女たちの中核であり、『姉』たちが不在時にはその代行を務めるという有力者のひとり。
広げた右の片翼が、威圧的な暴風を拒絶するように力強くはばたく。
その反対側で、存在しない左の翼が影法師となって床に広がった。
左側にあるのは天に挑むための意思ではなく、大地に根差すための影なる心。
引き裂かれた地母神のひとかけらでありながら、この魔女は天地の狭間に立っている。
キュトスの姉妹のうち、『有翼』の特性を持つ魔女はごく少数とされていた。
だからこそ、『塔』におけるクレアノーズは天空との相対を役割としている。
機械女王トリシューラの師である女は、弟子と良く似た不敵さで超越者と相対した。
そんな敵意を嘲笑うように、姿なき存在は大気を揺らす。
「横槍なんて、とんだ言い掛かりだよ。僕は神の端くれとして、力を願う者にささやかな贈り物をしてあげているだけさ。このセロナも、ジュティアとミナも、他の沢山のみんなも。ただ力になってあげたくて、純粋な善意で」
「死神の腕、弱者の盗人、刈り取る者、猫の死、こぼれない鎌、外れない矢」
クレアノーズが並べた六つの呪詛が、調子のいい戯言を中断させた。
室内の大気が表情を失い、圧迫感が魔女の周囲で膨らんでいく。
無言の恫喝を受けながら、絵画と彫像の境界線を軽やかに超越するような女神の美貌は静謐さを保ったままだ。ちょうど成長したトリシューラとリールエルバを足すか掛けるかした後でそれぞれの愛らしさだけを綺麗に引き算したような小女神は、天上の悪意にも劣らぬ害意をありったけ舌に乗せて呪詛を吐いた。
「義人ナプラサフラスや勇者カーズガン。かつてお前が槍に招いた眷属はこうした正道を歩む英雄や聖者だけではない。荒れ野を歩む無法者、道を外れた放浪者、闇に潜む逸脱者。かつて槍神だったものはそうした怪物たちを打ち破り、その力を奪い取り込んでいった」
「そうさ、まさに勝利者の偉業だ! 僕らは選ばれた槍の民、複数の紀人によって構成された群体紀人フルグント。その歩みを止めることはできない!」
積極的な黙殺、あるいは攻撃的な無視が抗議への答えだった。
クレアノーズは相対する神を解体し、その本質を暴き立てる。
神秘なる果肉を引き裂いて、つまらない血潮を味わうために。
「シェロン、クラララリア、ティーアードゥ、ダーカンシェル、ラウス、そしてレメス。いずれの神話も賞味期限切れ。全盛期を過ぎた今のお前は正統な紀神としての格を保つことさえ出来ていない。『静謐』で解体するまでもない要介護老人。歴史の敗残者のゴミ捨て場。それがお前の正体よ、ハグレス」
挑発や愚弄と呼ぶことさえ控えめな呪文に対して、ハグレスは悲嘆を返す。
「クレアノーズ。不死なる女神の欠片がそれを言うのかい? 老いた者は消えてしまえと、そんな残酷なことを? あの輝かしい日々を諦めろと? やめてくれよ。僕たちはまだ誰も諦めていないんだ。弟子、残滓、眷属、子孫、息子、娘。続く希望は残された。僕の中ではまだ何も終わっていない。もう一度、僕らの英雄譚を始めたいのさ」
それは、終わりを迎えた現実を否認する確固たる意思だった。
世界が停止している。時の経過を拒絶し、流れを停滞させる邪視。
ありのままの世界を間違っていると拒絶する浄界。
老人の幼児性。巨人と小鬼の狭間でかろうじて踏みとどまっているような危うさが、セロナの空虚な瞳の奥でがたがたと震えていた。この老いた赤子は、ひどく怯えている。
それを確認したクレアノーズの視線から熱が失せていく。
怒りが鎮まるのと反比例するように、冷ややかな敵意が更なる鋭さで相手を貫いた。
「その足掻きはいずれ致命的な零落をもたらす。シェロンの弟子を使うのはまだわかるけど、自らの化身を使ってまでフルグントを維持し続ければ、今度こそ堕ち切る。ハグレス、仮にもかつては紀神であったお前が小鬼となれば、この世界に致命的な影響をもたらす。お願いだから、これ以上の無理を重ねないで」
クレアノーズを知る者であれば誰もが驚いただろう。あろうことか、彼女は敵対者に憐憫を示している。怒りと敵意に関する妥協を知らぬ姉妹きっての苛烈な魔女がだ。
だが、それは逆にハグレスに対する挑発となっていた。
「心配するふりはやめてくれよ。君はいつもそうだ。本当に心配しているのは義賊神の権能なんだろう? 弱者の盗人だけは駄目だ。大怪盗クラララリアは価値あるものなら何でも盗める。そしてあらゆる姿に変幻自在だ。『盗賊の信仰対象』というゼドの英雄像の根幹たる力を手放せるはずがないだろう!」
激昂に対して、クレアノーズはあくまでも淡々と言葉を連ねていく。
「この祝祭が引き起こす激流と災禍に、既にお前の神格では耐えきれない。手遅れになる前に一時的にでもいいから退避しなさい。七つの風と双銃を『塔』に返還すれば、私の名において代替信仰圏を用意するわ。教団と奉仕種族のあてもある。他に望みがあれば」
「黙れ!」
下手に出て相手を宥めようとする女の態度が癇に障ったのか、ハグレスは喚き散らすことで強引に相手の言葉を遮った。
「返還? 馬鹿を言え、勝ち取ったんだよ、強者の特権として! それこそが英雄の力、勝利者の栄誉! 女よ、男たちが競い合い、勝利し、全てを奪うことを否定するな! 僕と下界の世界観は一致している。これは合意に基づく神の支配だ!」
次第に激しさを増す声が部屋を揺らし、猫科魔獣たちはうるさそうに顔を背けた。
敵意を露にするほどではないが、嫌悪を表情に出す程度の不快さ。
そんな何とも言えない空気の中、老いた神は必死になって熱を放射し続けていた。
「パーンも、ライラも、ノゴルオゴルオでさえ! 僕は全てを手にして心臓を掴むぞ! 邪魔をするなとはこちらの台詞だ、代替わりさえ許さない、お前はこの第五階層で終わらせてやるぞクレアノーズ。たかが女神の断片ごときが、この僕に歯向かった代償を支払わせてやる! 泣いて赦しを乞うまで僕ら全員でいたぶってやろう。女として生まれたことを後悔するがいいさ、ギャハハハハハ!!」
醜悪な捨て台詞を残して、神の気配が遠ざかっていく。
クレアノーズは深々と溜息を吐いて、細い指先で額をこつこつと叩いた。
「『三下のごろつきどもの神』なんて型に嵌まると、神の品性までああなってしまうのは考えものね。お似合いではあるけれど、実際に見てしまうとうんざり」
荒くれたちが崇める武神が理知的ではありえないように、盗賊たちの神が超越的な振る舞いをするはずもない。狡賢く卑しい、欲望に忠実な俗物。正しい道からはみ出した世界の敗北者。ハグレスはそうした者たちを肯定する、言ってしまえば『小物の神』なのだ。
もちろん、神が自ら己を貶めようとすることはない。
この茶番じみた一幕そのものがそのようなハグレスの性質を利用した文脈操作。
言葉と態度、流れの全てを掌握したクレアノーズの呪術である。
そうなるように、戯画化して零落させた。
今のハグレスはある意味ではその性質を極端に尖らせ、別の意味では封じられている。
決して不可能なことではない。
擬人化された人格神は怒り、妬み、過ちを重ねるもの。
彼らはしばしば矮小な人との知恵比べに負けるし、些細な挑発にも乗ってしまう。
「やれやれ。ああなると僕らまで低く見られてしまうから、あの方にはなるべく表には出ない方向でお願いしたいのですが」
ひどく疲れた表情で憑依から解放されたセロナがぼやく。
クレアノーズは今度は憐れみひとつ見せずに鼻で笑った。
「ああ言っていたけれど、この流れであのパーンが誘いに乗ると思う?」
「いいえ。ノゴルオゴルオさんの時にはそれで失敗しましたし、ライラさんには随分と不信がられてしまっています。正直、六席全てを適格者で埋めるのは無理だと思ってますよ」
セロナは既に敵対のポーズを見せるふりさえ諦めていた。
上位者が去ったからというよりも、ある種の呆れゆえの無気力さである。
「系譜から考えれば、次のお目当てはユディーアよね? ジュティアとミナに渡した銀貨から因果を辿るつもりでしょうけど、やめておいた方が賢明ね。残念だけど、亜竜王の遠い娘は私の妹候補よ。これ以上の干渉は許さない」
「ディスケイムの血統が『塔』に馴染むとも思えませんが、あなたがそう言うのであれば肝に銘じておきましょう。なんとかあの方に進言しつつ誘導してみます。ただ」
「ただ?」
クレアノーズの問いに、セロナはわざとらしく肩をすくめた。
「いえ、我々も個々の自由意志あっての群れですから。レナリアあたりが先走っていなければいいのですが。彼女はいささか自由奔放な所がありまして」
「それに関しては、既に手を打ってあるわ。ユディーアはいま、とても不安定な運命の渦中に放り込まれている。当然そこには都市の中心が現れるわよね? 都市の法はあらゆる無法を許さない。今のお前が虜囚の身に等しいように」
第五階層から離れた隣接異界。
その隠し病院で起きているとある転生を巡る事故のことをセロナは知る由もなかったが、クレアノーズの言い回しで何かを察したのか目を閉じて首を振った。
「流石ですね。レナリアにとっては少し厳しい展開になりそうだ」
「まるで他人事ね」
「そういう割り切りが必要なんですよ。自分を保つためには」
セロナはすっかり落ち着いた様子でくつろいでいた。
弱さゆえの無害さと商人ゆえの利便性が彼の安全をかろうじて確保していた。
ハグレスがこの場を退いたのは、依り代として最弱のセロナでは仮にも女神であるクレアノーズを打ち負かすことはできないと確信してのことだ。
始末するには惜しいが単独では無害なセロナは他の眷属たちと合流させてはならない。
現状維持のまま、この場に軟禁しておくのが最善と言える。
既にこの局面の趨勢は決していたが、クレアノーズはまだ手を緩めようとはしていなかった。ハグレスとの最初の対決は区切りがついたが、彼女はセロナを見据えている。
青年も、ここにきてはじめて魔女が己を注視していることに気付いた。
「次はお前よ。その器が藍天主の片割れと同じ商売の悪魔である以上、この私といえども封じるのは少々手間がかかる。だから取引しましょう」
「ほう?」
途端、疲労と苦痛の全てが消え去ったかのようにセロナの瞳に輝きが宿る。
上位者に支配される操り人形、あるいは小間使いという印象が払拭され、抜け目ない商売人としての表情で魔女の言葉に耳を傾けていた。
「お前たち『ガリヨンテの鎌』の兵力を、私が買いましょう。ハグレスはもちろん邪魔だけど、それ以外の問題に対処するための手が足りないの」
「かの空虚大公であれば、居城に幾らでも手練れの使い魔がいるのでは?」
「『ご機嫌な時計城』は色々あっていま再建中なのよ。それに『塔』や私の所領にもしがらみはある。お前の推測は正解。私もこの身ひとつでは手が足りない」
「なるほど。確かに、階層の外側を見ればなかなかの情勢になっていますからね。素晴らしい、どうやら僕はようやくまともな顧客と巡り合うことができたようだ」
直前の暴力や呪術戦が嘘だったかのような切り替えの速さは、世界槍を巡る商人らしいしたたかさと言えた。両者が交渉の細部を詰めていこうと話し込んでいると、ふとクレアノーズが何かに気づいたように部屋の窓に視線を向けた。
「セロナ・ハーヴェスト。この動きはお前の仕込み?」
「いえ? というか、何のお話ですか?」
奇術のように魔女の掌に現れた魔導書端末が開かれて、空中に幻像を投影した。
魔女は監視用の水晶や使い魔の目を通して、何らかの異常を検知したのだ。
表示された複数の窓に、遥か下の市街地の光景が映し出される。
空使いレースの開催で浮足立つ都市の中央区には、無数の人々が行き交っている。
「空の民、それに『上』の勢力に呪文的な干渉が行われた。極めて広域に」
「まさか、機械女王が黙っているはずが」
「機械的なチェックにひっかからないほど微弱な小細工よ。けど的確ね。森の中の木の葉になっている」
魔女が示す先に、工作の瞬間が記録されていた。
レース会場の周辺。手にした風船でふわふわと浮遊する空の民たちはクロウサー家の雲持ちたちだ。伝統的な赤黒染めのサーコートと深紅の風船はいかにもな剣呑さを醸し出しており、いささか物々しい。規格化された儀典錫杖には装飾に擬したオプション取り付けレール。占術スコープにレーザーサイト、対抗呪文スクロールなどの付属品。
高圧的な態度で市民や観光客を見下ろすクロウサー家の武力は、一部の隙もない警戒態勢で一定のルートを周回している。
それとは対照的なのが、カールした角が愛らしい小柄な使用人たちだ。
少し前までは食用奉仕種族として知られていたが、現在は『下』と同じように羊人と呼ばれているれっきとした空の民である。
献身欲を昇華させるために客席のあちこちをふわふわ行き交って軽食販売や給仕などのこまごました雑事を担当している羊人たちだったが、小柄な彼らにひらりと近づく風がある。都市の喧騒に紛れて届けられたのは、ささやかな呪文だ。
自由を謳歌する奉仕種族たちから苦々しく目を逸らす空の民たちの死角から、大量の広告に紛れてそれは滑り込む。赤子のように無垢で純粋な羊人の瞳が、それを捉えた。
『目覚めよ』
なるほど、それは都市という森にありふれた木の葉だった。
広告を伝達するための単純なツール。
チラシである。
風に乗って、言葉は次々と伝染していく。
都市には松明の騎士団の関係者までもが訪れていた。
ガロアンディアンへの友好を示す派閥の者たちである。
キロンがシナモリアキラに殺害された当時からは考えられないことだが、未だに明確な敵意を示す医療修道会派閥とは異なり、多くの騎士修道士がガロアンディアンへの好意を示している。これは教会に大きな影響力を持つクロウサー家のトップがリーナに変化したことによる最大の変化と言えた。
燐血の民や四腕人といった種族は警戒も露わに周囲を見張ったり、気を楽にしながら軽食を楽しんだり、レースに熱中したりと様々な表情を見せている。
一見して、彼らの様子に異常はない。
だが、それは外から見た現在の姿でしかなかった。
メナル人は燐血の民の少数種族とされ、共に炎天使の末裔として神話に語られる太陽の眷属たちだと大神院は説明している。燃える血が太陽のかけらであるように、四つの腕は翼を地上生活に適応させるための神からの贈り物なのだという。
若い世代のメナル人たちが翼の名残と信じている上側の二本腕に、年配の同族たちは複雑な視線を送っている。
右上の火手と左上の風手という精霊信仰に基づく呼び名は、『正しい信仰』にそぐわない迷信の現れだとして廃れつつある。御使いの翼は左右共に炎なのだから。
『目覚めよ』
大量の広告に紛れ、見知らぬアドレスから端末に送られてきたメッセージ。
諦観に曇った老いた瞳が、その呪文を捉えた。
ささやかな、けれど重大な異変。
映像を停止させて、魔女は眉根を寄せて思案する。
『上』の統治に対する呪文攻撃にしては、毒が弱すぎる。
「ノゴルオゴルオの手にしては少し迂遠ね。スーリウム配下の呪文使い? この段階で『上』に仕掛けを打つ勢力が他にも?」
クレアノーズの表情と口調はある意味で神と対峙している時よりも切迫していた。
これは彼女にとって予測と覚悟の外側なのだ。
端末を操作しつつ、複数の窓を比較しながら情報を精査していく。
視界の中心に躍り出たのはレースの中継映像だった。
神の傀儡たる反則者と、追撃から逃れようとする選手たち。
その中のひとつを、赤い視線が貫いた。
「あの自律型機甲箒、ジーゼロとか言ったわね」
「細工はしやすそうですが、あれは『上』側の道具では?」
セロナの指摘に考え込んだクレアノーズは、断りを入れてから外部に通信を繋げた。
応答の声は軽やかで、甘い飴細工の香りがした。
「タマラ、犬の尖兵は?」
「本日は雲ひとつない快晴、絵本の虹はまだ架かっておりません。おねむの時間まではまだまだありますわよ。わたくし少しばかり退屈になってきたのでその辺の雲にお宝を隠してもよろしいでしょうか。つきましてはわんちゃんの大好きな骨ガムと骨クッキーを作るためにお姉さまの指先をちょいと拝借」
「先に夢界で準備だけしておいて。流れ次第だけど、もしかすると私はそちらにまで手が回らないかもしれない」
通信を切ってからセロナに視線を戻し、言葉を続けた。
「早速、そちらの手を借りることになりそうよ」
「なるほど? 宣戦布告をしてすぐに共闘というのも奇妙なものですが、どうやら『上』が攻撃を受けているらしい。あの方のしもべとして、地上の秩序を守らないわけにもいきませんね。いやまったく、この都市はまさに混沌の坩堝だ。誰か、第五階層にひしめく勢力の全てを把握している人はいるんでしょうか?」
答えは沈黙だった。
不死なる魔女でさえ、全能にはほど遠い。
それからクレアノーズはセロナとの交渉、商品の値踏み、取引、即席の使い魔たちへの指示を素早く済ませて飛行船を足早に立ち去った。
もちろん、片翼で飛ぶわけではない。来た時と同じように、大型の機甲箒に乗って移動するだけだ。自動運転に任せながら運転席に背を沈め、目的地に着くまでの時間を思案にあてる。ひとりきりの車内、誰に聞かせるでもなく呟きが漏れる。
「サリアとアルマだけでは間に合わない。紀人への到達はぎりぎりだったわね」
独白にしては明瞭な声だ。
己にではなく、遠くに響かせるような呼びかけ。
だが車両型の大型機甲箒は装甲で覆われ、外界からは遮断されている。
そのように語り掛ける必要がある対象となれば、物質的な制約に束縛されない相手しかいない。紀人、あるいは紀神と呼ばれる上層次元の存在だ。
「七つの風を掌握し、七日目を乗り越えられるのか。だとしても、八日目に訪れる破滅の炎と九日目に再臨する絶対者の瞳だけは逃れることがかなわない」
なぞかけのような言葉が虚空に溶けて消える。
答えを待たず、魔女は静かに続けた。
「ハグレスは奪い合う生存競争を肯定したけれど、そこには先がない。男だとか女だとかの象徴を破壊と創造になぞらえることさえ言葉の陥穽に足をとられている。競い合うことをゼロサムゲームとして捉えている限り、勝利という限界が定められてしまうからよ。だからこそ、末妹選定は潰し合いであってはならない。このレースも同じこと」
クレアノーズは嘆くように空を見上げた。透明なガラス窓の向こう、遥かな頭上に第五階層のシンボルのひとつとして知られる巨大な船がある。
巡槍艦ノアズアーク。世界槍の機能である『創造』の力によって形作られた情報構造体は、槍の周辺に展開された文明圏の内部限定でのみ次元を渡る航行能力を有する。
「間に合わなければ、第五階層は世界を喰らう風と火の波濤に沈むことになる。アララトの頂きさえ乗り越えられる、巨大な方舟と次元を超えて吹く風が必要よ」
方舟がどこに向かうためのものであるのかを、彼女だけが知っていた。
遠い誰かに向けた呼びかけが続く。
未分化の未来を決定づけるための呪文の詠唱。
断片的な情報の開示は、歩むべき道の舗装のようなものだ。
「空使い。明藍の天主。冥道の踏破者。またの名を、七つの風の主」
繰り返される記号。共通するイメージ。浮かび上がるのは、揺らぐ神話の像。
「キュトスの姉妹を統べる守護の九姉、その最初の死者にして転生者」
クロウサー家、大神院、死人の森の六王、そしてキュトスの姉妹。
ばらばらだった要素を結び付けるのは、誰にとっても身近なありふれた価値。
広がる青。大いなる空と、自由に吹き抜ける風だ。
「大界賊シャーネス・クラララリア・クロウサー。蹄鉄の四血族よりも古い風渡り」
言葉を切って、クレアノーズは真っ直ぐに相手を見据えた。
どこかに向けた言葉ではない。目の前にいる相手に対しての助言だ。
「シナモリアキラ、わかっているわね? お前に課せられた七番目の魔女の指令は、この空と風の掌握ではない。お前なりの認識と理解よ」
それは世界に投げかける問いであり、確認だった。
都市となった新しき神は第五階層そのものだ。
クレアノーズは破局を前にした舞台に向かって決意を問うていた。
「紀人都市として、第四の権能を理解した時に感じたはず。末妹選定の本質とは、お前が繰り返してきたような凄惨な殺し合いなどではないのだと」
怒りと憎しみ、抵抗と敵意。
クレアノーズを規定する感情は、しかし敵が不在の時にこそ本来の表情を見せる。
神を憎み、世界に怒りを抱くというその在り方は、本質的には破壊的なものではない。
苛烈さとは、必ずしも燃え盛るような炎と結びつくわけではなかった。
「冥道の先に、産道が開く。転生を経た心臓は鼓動を始めるでしょう。もはや神にさえ止めることはできない。選定のレースは、ここに幕を開けた」
敵意を込めて殴りつけるように。
激情によって不完全な神に祈るように。
矛盾に満ちた天使の翼から、銀色の羽が零れ落ちた。
「末妹選定は、ここから始まる」




