5-32 本選開幕③
おはセスカ。
森羅万象を震わせる呪文と共に、世界の全てが書き換えられる。
第五階層を中心とした意識圏は瞬く間に戸惑いと驚きに染め上げられた。それは動画の配信という形で第五階層に存在する全ての人々の脳に叩き込まれた『過去』である。
「というわけで前回の続きから~。いよいよダウザール戦ですね」
プレイ動画だ。冬の魔女コルセスカがゲームの実況配信をしている。
今まさに、リーナ・ゾラ・クロウサーの血脈から引きずり出された古き空の支配者、伝説的な覇王がその姿を現したという場面であるにもかかわらず、やたらと気の緩んだ雰囲気でゲームのプレイ動画が再生されてしまっている。現実は放り出され、人類の都合を無視してセーブデータがロードされていった。
呼吸とまばたきの狭間。
時の止まった僅かな刹那に挟み込まれた膨大な情報。
意識に押し込まれた意味不明な光景は、あまりに瞬間的な出来事だったために回避さえできず、誰もが呆然とするしかなかった。『なぜ』『どうして』『意味がわからない』『ふざけているのか』といった言葉を口にする余裕すら与えられないまま。
やがて、追体験するように人々はそれを回想し始めた。
『幻想六将伝Ⅳ~奈落の四神珠~リマスター版』。
コルセスカがプレイしているのは渦中の人であるパーンを主役に据えたやや古めのロールプレイングゲームである。史実と伝説を巧みに織り交ぜたシナリオと斬新なキャラクター解釈で話題を呼んだ名作、と動画下に添えられた説明文にはある。
コルセスカは既に何回か同じゲームで配信をしているようで、今回はいよいよ宿敵であるダウザールとの対決、という場面だった。
天空に浮かぶ『ダウザールパレス』に乗り込んだパーンと仲間たち。その最深部で待ち受けていたのはダウザール転生三世。すなわち己が末裔を器として転生を果たした超越者である。再臨した開祖は皺だらけの顔を歪め、厳かに口を開いた。
「まさか、自ら飛び込んでくるとはな。よほど死にたいと見える」
誰が聞いても悪役とわかる威圧的な声は、悪役や老人役に定評のあるベテランの演技。
クロウサー家を構成する『蹄鉄の四血族』の始祖・魔王ダウザール。
全ての血族の特徴を併せ持つ肉体は継ぎ接ぎだ。不自然に縫い合わせた人形の寄せ集めさながらである。庇護すべき血族の肉体を奪い、己の完全性を維持するためだけに生贄とするあさましい我欲の塊。パーンの両親を殺し、彼の右腕を奪った仇。
「は、藍の賢者に敗れた挙句、その末路が寄生虫か。醜態もここまでと知れ」
主人公であるパーンは鋼鉄の拳を握りしめながら吐き捨てた。
するとダウザールの胸元にカメラがフォーカスしていく。
異様なほどに隆起し、脈動する布地に血がにじみ、どろりと溶けて上半身が露わとなる。うるさいほどの鼓動が背景音楽を掻き消して、赤黒い色が触手じみた血管と共に溢れた。
現れたのは、複数人のものを強引につなぎ合わせた異形の心臓だ。
それを見たパーンが小さく『フェロニア』と呟くと、画面が一瞬だけ切り替わり笑顔で振り返る少女の一枚絵が表示されてすぐに消えた。
ここで画面の端に映っていたコルセスカのコメントが挟まり、続けて画面横のコメント欄を視聴者の発言が流れて行く。
「史実的にもゲーム的にも負けイベントなのですが、実はここ普通に勝てちゃうんですね。体力ゲージはかなり無茶な量ですけどパーンの義肢モジュールで割合ダメージのやつを獲得しておくとなんとかなるので、竜神信教イベントは進めておくことが前提です」
『俺の知ってるパーンと違う』『第五階層パーンじゃねえか』『また非公式MOD入れてる』『このシリーズ全裸まであってクソ笑った』『実はオルガンローデの高倍率も頼りになる』
『リマスター版出たので懐かしの名作を遊んでみる』というコンセプトの動画であるためコルセスカや動画視聴者たちの多くは既に旧バージョンをクリア済みである。
こういうとき、冬の魔女は『盛り上げるため』などと言ってキャラクターを変な衣装に着替えさせたり、外見をMODと呼ばれる改造データで変更したりしがちであった。本来ならこのゲームの主人公は第五階層に存在しているパーンとは似ても似つかない外見なのだが、動画内では現実の彼と瓜二つだ。
「あ、そうそうそうなんですよね。今回はあまり火力用のオルガンローデ使いませんけど、詠唱フルチャージで一気に削る戦略もあります。ね、ほんと色々なやり方できるのがこのゲームのいいとこ。というわけで難易度インフェルノでやっていきたいと思います」
ゲーム内での会話がその間にもボイス付きで進行し、パーン役の声優の熱演に引きずられるようにコルセスカもヒートアップしていく。玉座から立ち上がったダウザールが吼え、勇壮な背景音楽が流れ始めた。
「滅びよガレニス。貴様を喰らい、蹄鉄の四珠すべてを取り戻してくれようぞ!」
「構えろ、ミシャルヒ、カーイン、オーファ! ここで全てを終わらせる!」
決戦が始まる流れだが、『メニューを開きますか? (セーブはできません)』という表示が出て音楽が停止。コルセスカは素早く操作をして戦闘前の準備を整えながら場を繋ぐための雑談を開始した。
「モーエンとのイベント起こして裏口から奇襲するルートだと蹄鉄が全部揃うのでチェダラーテとエンハドーラが両脇にいる状態のパーフェクトダウザールと戦えるんですが、それだと蹄鉄溶かして仲間の最強装備が作れないので今回はパスです」
『蹄鉄溶かす派、人の心ないの?』『まるで腕にしてる奴に人の心が無いみたいな』『最強装備一択なんだよなあ』『そもそも側近揃ってたらどうあがいても勝てないから』『改造データで勝ってる動画あったよ』『ダウザールとかいうチェダラーテ専用砲台』『台座の畜生どもがよ』『お供が強すぎて笑うしかないルート』
コメントに反応しつつ準備が完了し、戦闘が始まる。
完全に初見でこういった形式の動画に馴染みがない大多数は、唐突に物語が途切れて更なる困惑の渦に叩き込まれていたが、もっとも目が死んでいるのは当のダウザールであった。
なにしろこの後、四人で囲んでひたすら叩かれるのだから。
「スタメンはいつもの。パーンはひたすら殴ってミシャルヒで攻防バフ、カーインはずっとビューティーウィップぶんぶんです」
四人のキャラクターが画面を縦横無尽に動き回り、巨大な老人をひたすら攻撃するというアクション性を取り入れた戦闘画面。派手なエフェクトが乱舞し、四桁の数字が現れては消えていく。戦闘が始まってしばらくすると、画面の隅で仲間キャラクターの顔アイコンが光った。『美しく咲き誇るとしよう』と蠱惑的に囁きかけ、薔薇をくわえたデフォルメキャラのシンボルが自己主張。しかしコルセスカはこれを完全に無視。
「カーインが合体技の準備完了アピールしてるけど今回は使いません。パーンのゲージはミシャルヒと合わせたいので」
『安定のカーインスルー』『一生薔薇はむはむしてる奴』『本体のビューティーウィップさんは超有能』『ダウザールは属性耐性があるから仕方ないね』
「オーファはバフと回復に専念してもらって、ひたすら波動掌ループで削っていきます」
コルセスカが操作するパーンは技名を叫びながらダウザールをひたすら攻撃していく。
「波動掌! 波動掌! 双撃波動! 昇牙絶功! 弧王旋空!」
「ダウザールはわりとアホなのでビューティウィップの連撃十回目の確定クリティカルでタゲをカーインに移しちゃいます。その後に近接多段ヒットの弧王旋空がタイミング合うとまたこっち狙ってくれるんでダメージが程よく分散してくれるんですね。ビューティウィップの特性強化はしっかりやっておきましょう」
『パーンさん腕が服を貫通してますよ』『デフォ衣装から変えると結構なる』『パーンの腕はなんでも貫通するからな』『ミシャルヒのフードとカーインの髪より貫通してる』
ゲームについての解説などを交えた動画は本来想定している視聴者には『わかるわかる』と頷けるものだったが、強制的にそれを見せられている大半の者たちにとってはよくわからない映像に過ぎない。それでも刷り込まれる端的なイメージがある。
それは敵と味方。すなわち善と悪だ。
「パーン!」「合わせろミシャルヒ!」
義手の青年と黒衣の麗人が視線を交錯させ、派手なカットイン演出と共に飛翔。二人は螺旋の軌跡を描きながら上昇していく。
「灼空!」「閃影!」
二人が声をそろえて叫び、ダウザール目掛けて同時に拳を叩き込む。
『この奥義演出すき』『わかる』『スキップしないサービス精神すき』などとコメントされながら、パーンとミシャルヒの合体攻撃がダウザールの巨体をよろめかせた。
「猛襲波!!」
閃光と爆発を背景に二人並び立つパーンとミシャルヒが互いの手の甲を打ち合わせる。勝利が決まったかのような演出だが、それでも膨大なダウザールの生命力は削り切れず戦闘が再開された。
「これ五回くらい繰り返すと前半終了で本気モードです。普通ならここで全滅コース」
淡々と作業をこなすように一連の流れを繰り返すと、ダウザールが突如として唸り声を上げてうずくまる。直後、老人を中心に凄まじい暴風が荒れ狂ってパーンたちが吹き飛ばされた。肥大化していくダウザールの肉体はもはや怪物のそれで、瞳からも声からも理性は失われていた。獣じみた咆哮が轟くと、嵐さながらの風と雷光が炸裂し始める。
「なのですぐメンバーチェンジしてパーンとテンボトアン交代、ミシャルヒはシャドウシフトして無敵権ここで切ります。オーファもメイヤちゃんと交代ですね」
『生贄哀れ』『貴重な幼女が』『フェロニア泣いてるよ?』『テンボトアン即死で笑う』『カーインはライフで受けろ』『初回のシャドウシフトで無敵なるのはグリッチ』『言うて移動回避スキルでもあるし』『は? 全方位攻撃避けるのは不正だろ』『チーターがよ』『仕様! そういう仕様です!』『無限落下死バグ修正されたからなんでもいいよ』
「はいビリビリ来ました。交代した控えメンバーとカーイン死にますけど無敵ミシャルヒが影に潜ってる間にスキル終わります。パーンとオーファ戻して立て直しつつまた殴っていくわけですが、DLCで界賊船攻略が済んでたらここでカーインとクラララリア交代の方が圧倒的に楽です。パーンもファウヌスシフトできるので更に安定」
『界賊船の方がはるかにきついんだよなあ』『七風域全制覇できるならダウザールとかザコだと思うんですが』『ハードまでならそっちのが楽』『パイレーツスキン以外クソDLC』『リマスター版に追加要素っている?』『オリジナル版から予定あったけどポシャったとかインタビューで言ってたよ』『別売り商法すんな潰れろ』『潰れただろ!』
「第二形態での注意点として、殴る時に常に右手側から当てていくようにすることですね。包囲すると振り向き邪視ビーム飛ばされるので、味方の配置に気をつけましょう。弾幕は速い自機狙いプラスうねうね自機外しの組み合わせなので避け方はいつものやつ。それ以外の回避も大きく切り返し使っていく感じです」
虚無の内輪ネタを見せられている。その場にいた呪術師たちはこの動画の意図をうっすらと理解しつつも、そんな感想を抱かずにはいられなかった。
『化身』の術によって現世に引きずり出されたパーンの宿敵、ダウザール。
長い時を経て遂に対決の時、という流れのはずだった。
それが、よくわからないゲームのプレイ動画を一瞬にして脳に流し込まれるという異質な状況ゆえに完全に思考が停止している。ダウザールほどの強大な『巨人』位階の呪術師であっても、『流れ』を持っていかれればこうなるしかないのだ。
ガロアンディアンはアンドロイドの魔女トリシューラの王国であると同時に、冬の魔女コルセスカの浄界『コキュートス』の影響下に置かれている。
その本当の恐ろしさは、老練な呪術の巨人たちですら翻弄する『遊び』の色濃さにある。
『楽しく』『明るく』そして『軽い』という雰囲気のまじない。
どのような情報を提示されたとしても、それは『遊び』の中に取り込まれてしまう。
そして、もはやこの現実は『遊び』と共にあるのだ。
歴史よりも真に迫った虚構として立ち現れた『強敵を倒す遊び』はどれだけ文脈がわかりづらかろうと『そういうもの』として人々の意識に刷り込まれる。
そこに、わかりやすく情に訴えかけるようなドラマが追加されればどうなるか。
安っぽく古めかしい演出であろうと、マス向けのエンターテインメントは有効に機能する。ましてこの場は祝祭の中心である。
ゲームの進行とコルセスカの解説によって人々に理解が浸透していった。
善と悪。美と醜。快と不快。
すなわち、どちらが勝った方が痛快であるのか、という結論を誘導されたのだ。
語られたのはパーンの戦う理由。両親と老人の確執。家同士の因縁。
そして涙を誘うパーンの悲恋。少女の中に入り込みその運命を支配する邪悪な老人。
ダウザールに愛する少女を奪われた男は復讐のために強大な『空使い』に挑んでいたのだ、というストーリー。
後世の創作である。このゲームではそういう設定になっているというだけで、シナリオライターも『独自解釈と想像力を膨らませた』と明言している。
しかし、現実と地続きの動画が視聴者たちの認識を歪めていた。
何故なら、臆面もなく第五階層に実在している再生者のパーンがそれに『乗っかった』からである。つらい過去を追想するように唇を噛み、一筋の雫が頬を流れる。チャクラを励起し、脳の前頭前野を波動によって制御しているのだ。
それを拡大された立体幻像の窓で見せつけられた人々はこう思ってしまった。
『まさか、あの俗説が真実だったとは』と。
あからさまな演出であるにもかかわらずだ。
自尊心から生まれたような男が手段を選ばずに超越者を仕留めにかかるというのはこういうことだ。初手の奇襲から間を置かず畳みかけていく。
『悲しき復讐者』となったパーンの濡れた瞳に宿るのは、絶対なる反逆の意思。
天上の神々であろうと確実に引きずり落とす。全てはそのための仕込み。
動画はコルセスカが操るパーンによってダウザールが倒された場面で幕を閉じた。
もはやどうしようもなく悪役としての位置付けがなされたダウザールが白目を剥く。
「ワシ、ここまで非道なことやっとらんけどー?!」
『ガビーン』という小さな文字列が老人の頭上に一瞬だけ浮かんで消えた。
それを見た緑天主ロードデンドロンが感心したように「へぇ」と呟き、竜の巫女マルガリータはパーンに軽蔑の視線を向ける。間の抜けたダウザールのリアクションは遠い位置にある観客席からは確認できない。ここにいる選手たちに見せるための幻だ。
実際のダウザールは黙ったまま浮遊している。
『老害』『巨悪』という印象操作。
予想外の工作に翻弄される時代遅れの間抜けという『格』の剥奪。
それぞれ観客と選手に対する二重の小細工だった。
老人は静かに息を吐き、対峙するパーンたちに向かって言い放つ。
「よかろう。お前の児戯に付き合ってやるのも悪くない。リーナ、そしてパーン。この私を越えてみせよ。それができるのであれば、今さら私など必要ないのだからな」
厳かな宣言と共に強大な呪力が瞳から放出された。
直後、血に汚れた肉体と衣装がまたたく間に真新しいローブへと入れ替わる。
文脈の型に嵌められた状況であっても『巨人』位階の邪視者が軽々と自己への確信を喪失することはない。鋭く鳴らされた口笛が『召喚』の詠唱となる。
「来たれ我が乗騎、エンハドーラ!」
老人の背後で大気が波打ち、虚空から沁み出すように巨大な箒が現れた。
古めかしい型の機甲箒の形状は直前にエンハとナックスの兄弟が見せた『生ける箒』の秘術と酷似していた。というより、その原型なのだろう。
「エンハとナックスよ。お前たちの研鑽、源流たる我らの前で証明して見せよ」
「おお、身に余る光栄でございます!」
偉大な始祖からの言葉に大仰に喜んで見せる分家の長子だが、その目はまるで獲物を前にした狩人さながらだ。『空使い』というたったひとつの座を巡る争いの中で、老人はもはや追い落とされるべき障害物でしかなかった。クロウサーの血族だけではない。参加選手たちの大半は混乱から既に立ち直り、現れたダウザールを標的として見定めている。
タイミングを見計らったように会場に放送が響く。
機械女王とクロウサー家が協議した結果、新たにダウザールのために特別参加枠が用意されたという内容だったが、本当に協議がされたのかどうかは疑わしい。
あまりにも段取りがスムーズで、まるで予定されていた事態のようだ。
だが、予定外の事態を場は歓迎していた。
なぜなら、その方が『面白くてわかりやすい』からだ。
観客にとっても選手にとっても、打倒すべき『悪役』が存在してくれた方が望ましい。
この空間には大層な理想やお題目など必要ない。新興の『自称国家』でしかないガロアンディアンでは、格式や伝統さえ軽んじられてしまう。
盛り上がればそれでいい。
祝祭の空気が全てを許容し、不自然と荒唐無稽を押し通す。
パーンの印象は観客ごと破滅に誘う理解不能の怪物から一転、恋人を失い荒れ狂う復讐者というわかりやすい属性で解釈され、『そういうキャラ』として応援の対象となる。新たな『悪役』が登場したことで、物語の続きを望む欲求が観客席から流れ込む。
いまやレース会場は呪いの湖だった。
幾つもの河川から流れ込む呪力。
それは祝祭という大呪術が形にした目に見えない一個の世界。
人を喰らい、呑み込む享楽の水面。
俗悪な都市の姿がそこにあった。環境を利用した悪意の呪術をダウザールは正面から受け止め、パーンをはじめとする選手たちは遠慮なく利用して大物狩りを狙う。
その様子を一歩引いて睨み据える選手がひとり。
「まがい物ども。叩き潰してあげるわ」
凄絶な殺意を込めた視線と共に吐き捨てる。
竜神信教の巫女マルガリータは、退廃と堕落の全てに対して怒りと嫌悪を向けていた。
混乱した場が落ち着くために、少しの時間が必要だった。
ダウザールという異物、ある意味では最も相応しい裁定者を加えた上で行われる空使い選定レースは、しかし厳粛で神聖な儀式からはほど遠い空気の中で始まろうとしている。
祝祭の喧噪。娯楽として簡単に賭けられる命。『第五階層のイベントなんだからどうせいつものようになんとかなるだろう』という楽観。ここぞとばかりに宣伝される転生アプリ。
参加者たちはそれぞれが闘志を燃やしているが、その中でリーナ・ゾラ・クロウサーだけは未だにミルーニャの喪失による衝撃の傷に打ちのめされたままだ。
怒りと憎しみが空回りしたままのリーナは完全には状況を把握しきれていない上に、突如として自分の中から現れたダウザールという存在を受け止めることすらできていない。
間もなくレースが始まる。
所定の位置に移動するようにというアナウンスに反応してのろのろと箒を浮かばせるが、いつものような調子はもちろん出ていなかった。
そんな彼女の背後から、選手のひとりである老女がそっと近づく。
追い抜きざまに囁く声が、かつての教え子の耳をぴくりと震わせた。
「たかが肉親の命ひとつでこのざまとは。当主の名が泣きますね」
反射的に怒りを激発させようとしたリーナがかろうじて自制できたのは、恩師であったビルメーヤが観客席に向かって笑顔で手を振り、ある言葉を口にしたからだ。
「みなさん、私とリーナさんはあのような非道な手段でレースを穢す者にはけっして負けません! どうか安心してくださいね!」
リーナはそこで、応援に駆けつけてくれた友人たちがずっと怯えていたことに初めて気が付いた。クロウサー家当主、空使いの名を継ぐ者が真っ先にしなければならなかったことは何か。ただひとり、この場で覚悟が不足していた己に気が付き、リーナは深く息を吐いた。
ずれた三角帽子をかぶり直し、大きく大気を吸い込む。
続く動作は呪文。声の増幅を意図して風を手繰るリーナは、しかし出鼻をくじかれた。
「命を他者に預けるな! 観客席の有象無象ども、お前たちは既にただの第三者ではない! 記述の風が吹き荒れる航路、その枠こそがお前たち観客という読者だ! テキストベース・サーキットの三人称、俺が飛翔する天の道そのものだと知れ!」
パーンによる高らかな宣言は、この呪文的競技が有する特性をこれ以上ないほど明快に人々に提示した。レースを目撃し、読み進める全ての者もまた当事者であり参加者でもある。だからこそ命を賭けろと彼は吼えたのだ。
「不遜にも天に挑む戦いを見物しようと言う愚者ども。享楽に耽り、好奇心で身を滅ぼさんとする大馬鹿者ども。己の意思によって寿命を浪費し、時をすり減らす物好きども」
再生した古代の蛮族、国も民も持たぬ孤独な王は、それでも高みに立つ君臨者だ。
当然のように群衆を見下ろし、その上で全ての魂を鷲掴みにしてみせる。
それこそが覇者が持つカリスマ。世界は既にパーンのものだ。
「そして無惨な敗北を恐れぬ向こう見ずども! この場に相応しいのはお行儀のいいスポーツマンなどではない! 常識と理性に反逆しようという奴だけがこの場に残り、我が覇道を見届けるがいい!」
ビルメーヤの理性的な言葉を踏みにじる暴言の数々。
しかしパーンに浴びせられたのは熱狂と興奮の大歓声だった。
暴虐の化身とも呼べる男がもたらすであろう波乱への期待。
『お前たちも当事者である』という認識の共有。
醸成された一体感と物語に呑み込まれる熱が波となって押し寄せる。
この場の主役は既にパーンだ。
リーナは哀れな被害者であり、英雄に助けられるお姫様でしかない。
挽回しようにも既に手遅れであることを悟った魔女は、口を開閉させて声にならない音を喉の中で空回りさせることしかできずにいた。
脇へと追いやられていく感覚。更に、風を操ろうと周囲の空間に広げた感覚が、追い打ちのように人々の声を拾い上げてしまう。
決定的場面に居合わせたという興奮だけではない。
全てを見下すかのような冷笑も、この場には溢れかえっている。
「転生アプリのおかげで無惨に殺されてもセーフでした、ってオチ見えたわ」「やるかやらないかで言えば機械女王はやる」「やっすい死だな」「コスパ優秀だからいいじゃん」「あのミルーニャって女の転生体がどのへんで登場するか賭けようぜ」「予言しとくわ、たぶん『王殺し』に転生してる」「名探偵あらわる」
怒りを形にすることさえできない。
なぜなら、リーナは『塔』で学んだ魔女だからだ。
不死なるキュトスの姉妹たちの視点と、杖使いの思考。
冷たい心を有効に扱えるのは機械女王だけではない。
リーナは、ミルーニャもまた己の死を『使うことができる』タイプだとわかっていた。
多分、この瞬間的な怒りを持続させる意味はとっくに消え失せている。
悲劇も喜劇も、結局は呪術を機能させるための茶番に過ぎない。
結果として大切なものは失われなかった。
なのに、喪失感だけが胸の奥で反響し続けている。
パーンにダウザールが引きずり出された時、何かが一緒に失われてしまったかのように。
空虚さを埋めようとして、かろうじて絞り出せた音がある。
小さな子供が親に縋りつくような弱々しい声。
ぽつりと形になった言葉は、ここにはいない誰かの名前だ。
「ガルズ」
呼び声は大歓声に押しつぶされて消えていった。
リーナ・ゾラ・クロウサーの言葉は、どこにも届かない。
やがて選手たちが所定の位置でそれぞれの箒を『起こす』と、巨大な呪具たちは唸るような振動音と共に『浮遊』から『飛行』へと意識を切り替える。
擬人化された乗騎たち。彼らもまたこの場の主役だ。
「さあみんな、準備はいい?」
機械女王の問いかけに応じるような排気音が響く。
狂騒の中、冷たい雰囲気のまま加熱していく冬の魔女は変わらずに遊びを満喫中。
「実況と解説は引き続き私たちが、飽きたら『王殺し』を探したり『シアンレーシング』で遊んだりしちゃいましょう! 本イベントとコラボした新作レースゲームをいち早く試遊できるのはこの会場だけ!」
「うわ、裏でゲーム配信やってる。器用なのはいいけどこっちも真面目にね」
「もちろん全部が真剣です! 遊びは呪術!」
「呪術は競技。てなわけで、本選の開幕だー!」
号砲が鳴り響き、世界はひとつながりの道となる。
テキストベース・サーキット。
始まりの一語を記すために、選手たちが競って前へと突き進む。
その、直前。
『あの子とはじめて出会った時のこと、よく覚えている。こんな馬鹿な奴がいるのかって』
『ジュティアちゃんは頭がいいから、いつだって間違ってるのは私だって知ってた』
既視感が万人に襲いかかる。
その場の誰もが知る情報の過剰供給。
直前に垂れ流されたコルセスカのプレイ動画が感覚としては近い。時間を停止させるような体感と共に、記憶の強制的な同期が行われている。
選手が回想シーンに入ったのだ。
「おおっと! 初手から回想とはロケットスタート狙いか? しかしペア参加者が同時に回想を行うというのは異例の事態です、これはどういうことなんでしょうか?」
「ペアの場合、前半と後半で回想を分割するいわゆる『バトンパス』と呼ばれる戦法が定石となっています。ジュティア・ミナ組の同時回想は情報を把握しづらい上に陳腐化を誘発しかねないため普通は避けるべき手ですが、事故でなければ狙いはおそらく、誘発と減速」
テキストに対しての『解説』である魔女たちはすなわち呪文に付与された注釈そのものだ。欄外から本文に紐づけされた『※』となった二人の言葉は時間の流れを無視して読むことが可能であり、いま読んでも後で目を通しても内側に影響を与えることはない。
本来なら、予選を突破した探索者ペアの行動は完全なる悪手だ。
内容としては他愛ない個人の記憶。せいぜいが互いの絆を強調するためのよくある擦れ違いを経てからの和解。『ミナの能天気な顔が、きらいだった』『えへへ、どうしてもジュティアちゃんに紹介したくって。じゃーん、わたしの彼氏さんでーす。どうだ、私だってやればできるんだから』『ほんと、馬鹿みたいな笑顔』『ジュティアちゃん、どうしよう。病気で、もうどうしようもないって』『すぐに泣く、その顔が、ほんとうに』
勝たなければ死や喪失が待つなどの『負けられない理由』は定番であるがゆえに多用される。ミルーニャの喪失と同じ理屈だ。成功率の低い手術を恐れる子供に勇気を与える為に勝利を誓うだとか、高額の手術費用を工面するために出場するだとか、そういった『理由』を試合前に用意しておくことも戦略にひとつである。過去の選定レースでは恋人を呪わせた選手すらいたという。
「本来なら、初手回想によるロケットスタートは今回のような日を跨ぐ耐久レースには不向きです。先ほどの私のプレイ動画は簡単なチュートリアルであると同時に無謀なスタートダッシュ回想を抑制する効果を期待したものでした」
「ぶっちゃけ、主催側としては序盤から脱落濃厚な選手が出ちゃうと困るからね!」
だからこそ、回想というカードを切るタイミングが重要となる。
陳腐化を防ぐため、分割した上で『引き』を作って後半で布石を回収するのがペアの基本戦略であるはず。素人であっても、呪術に通じていればその程度は理解できているはず。
ならば、なぜジュティアとミナはこのようなことをしているのか。
「あの二人の機体特性は爆発力重視です。初手から飛ばしてリード、そのまま逃げ切る戦法だとしても、モノローグ重視の回想を重ねられると『減速』が厳しいでしょう」
「また回想かよ、ってなるからねー」
だが、二人の冷静な分析すら予想できない異常が積み重なる。
連続して三つ目の回想が始まったのだ。
ペアそれぞれの視点からの回想に続く、ペアが共有する記憶の展開。
完全な悪手だ。長い回想が立て続けに三度。観客たちの表情は曇り、機械女王が言った通りの空気になってしまっている。自殺行為でなければ悪質な試合妨害としか思えない。
会場は一気に冷え切って、開幕した直前の熱は雲散霧消していた。
そして駄目押しのように、四つ目の回想。
『ボクを頑張って作ってくれた皆のために、ぜったいに勝ってみせる!』
割り込んだのは、電子的に加工された少年の無垢な言葉。
ぎょっとして誰もがその回想の主を注視した。
「おおっと! ここでなんと、無人機のジーゼロまでもが回想を始めてしまったぁ!」
「いいえ。おそらく意図的に誘発させられたのでしょう」
「だね。カウンター回想の条件設定が甘すぎかな。集団が密集していること、回想連鎖時に相対順位が後方であること、他にもいくつかの状況が重なって暴発したんだろうね。ハードはともかく、ソフトがちょっと子供っぽい感じ」
辛辣な機械女王の評価通り、回想は機体を擬人化したハートフル系の演出で、よく言えば大衆向け、悪く言えば子供だましのものだった。
大切に扱われたモノが魂を宿す、あるいは人工知能が意思を獲得する、というタイプの物語で無機質な機械に愛着を持ってもらおうという狙いが透けて見える。
アンドロイドの魔女トリシューラという『塔』の異端技術が生み出した特異点のせいでガロアンディアン住人は感覚が麻痺しているが、ゼオーティアの一般的な技術水準ではそのような高度な汎用人工知能をゼロから作り出すのは極めて困難である。
ジーゼロは『回想の意味』を理解できず、テキストベース・サーキットにおけるレース展開の流れが持つ文脈を読むことができない。
だからこんな簡単な罠に気付くことさえできなかった。
事前のシミュレーションに基づいて設定されていた幾つかの判断基準に従い、『連続して回想が行われた』という事実に対して『レース展開が佳境であり追随しなければ引き離される』という判断を下したのだ。
果たしてジュティアとミナはその判断基準を知っていたのか。
真実が判然としないまま、過去の箒レース史を遡っても前例のない珍事が発生する。
観客たちが混乱するテキストの外部でがやがやと騒ぎ出した。
「回想飽和だ!」「いきなり飽和って初めて見た」「しばらくは誰も回想使えないぞ」「いやそれは大した問題じゃない、どうせ回想の使いどころは明日だ」「深刻なのは陳腐化の方だろ」「連続使用に負のイメージがついてしまったから」「対抗回想の出力が低下するよな」「回想に回想をぶつけて競り合う展開が使いづらくなった」
つまり、この退屈極まりない一連の回想シーンは全て無駄。
結果的に最下位スタートとなったジュティアとミナ。
機体の性能は初速に優れているはずが、この立ち上がりは完全な失敗だ。
ジーゼロ妨害のための意図的な攪乱行為ともとれる悪質な奇手に、盤外での工作や八百長を誰もが想起した。
本業のレーサーではない上に予選三位、賞金目当ての探索者となれば、ある意味で買収が最も容易な選手と言える。期待値は最低。レース展開からは早くも脱落濃厚。
開始直後にジーゼロを道連れにして最後方に下がった機体から誰もが関心を失い、苛立ちと失望を斬り裂くように轟音が先頭を突き破る。
スタートと同時に時間が動き出す。
一斉に加速する中で、頭一つ抜け出たのはやはりパーン。
『溜めてから加速』というオルガンローデ式飛翔とは真逆の戦略は、二日に渡る長時間の耐久レースとは余りにも相性が悪い。
だがパーンは躊躇や様子見を嫌ったのか、迷いなく先頭に集団を牽引していく。
その他の選手たちも団子状態でその後を追うが、予想外の展開によってまたしても遅延が発生する。テキストの可読性にもよるが、『進みが遅い記述』はレース展開に際限のない減速をもたらすため嫌われがちだ。
箒レースにおける最も嫌われる行為とは何か。
それはレースそれ自体の妨害。
悪意であり、呪いでもあるもの。
またの名を『反則』という。
加速しようとする選手たちに背後から追い縋ったのは、紛れもなく足を引こうとする妨害の意思。最後尾から狙い撃つ、必中の念を込めた魔弾。
即座に片手で防御の術を展開できたのはパーン、マルガリータ、ファーガストの三人のみ。ジーゼロは自動的に防御障壁を展開し、ダウザールは一瞥した上で完全に無視。
至る所で悲鳴が上がる。全く反応できなかったレーサーたちやリーナ、ロードデンドロンたちに呪術攻撃が直撃。火力が分散されていたためか、耐久仕様の機甲箒を破壊するには至らなかったが、選手たちは大きく速度を落としてしまう。
「正気なのか?! 美しくない真似はよせ!」
ティリビナ人だけは驚愕した表情を見せつつも身体を覆うように浮かび上がった障壁で守られていた。流動する唐草模様は平面上に再現された自然そのもの。
最後尾から攻撃を実行した二人の返答は、更なる追撃。
ロードデンドロンは対抗するように拳銃を取り出し、召喚による自衛を試みた。戦闘や妨害行為は反則だが、迫りくる危機に呪術で対処することは禁止されていない。
「召喚! 美しき九祖、土のアヴロノ、穏やかなるアドガレンスよ。この身に城砦の守りを与えたまえ!」
射撃音の直後、浮遊する土の壁がロードデンドロンの機甲箒に追加装甲のように取り囲んでいく。通常の召喚士部隊が最小四人の『操縦手』『砲手』『装填手』『指揮手』で実行する手順を単独で即時実行する絶技であり、今の彼は北方辺境の浮遊戦車にも匹敵する航空戦力である。個人レベルの魔弾が通用する道理はない。
もはやジュティアとミナが悪質な反則によってレースを妨害する邪魔者であることは誰の目にも明らかだった。あえて最後尾になったのも、全てはこのため。
レースは先頭を競うものだが、空戦は後方を奪い合うものだ。
闘争を日常とする探索者にとっては、むしろこちらが発揮すべき本領と言える。
灰色帽子のアヴロノが機甲箒を操りながら瞳に呪いを宿し、背中空きのニットとブラウスを重ね着した桃髪の女が長槍を構えた。
「パーンを狩る方が確実だろ」
「ばいばーい」
探索者が本業のレーサーに勝てるはずもない。
素人の探索者ペアなどしょせんはお祭りの記念参加、賑やかし要員である。
だからこそ、魂を賭けたレースに付き合う義理もまた微塵もなかった。
最初からこの二人は戦うためにこの場にいたのだ。
技術による競い合いではなく、無慈悲な命の潰し合い。
準英雄級の探索者二人による全力の追跡。
本業のレーサーに対抗する術などありはしない。
即座に反則認定がされ、ジュティアとミナのペアは失格を言い渡される。
続々と現れる鉄杖無人機と浮遊無人機が探索者たちを捕縛しようと迫るが、ジュティアの一瞥によって放たれた視線の魔弾が追尾する無人機を全て撃ち落とし、襲撃を強行。
既に穏便に解決できる状況ではなくなっていた。
機械女王は猫科魔獣を解放し、妨害者の生死を問わずに鎮圧することを決定。
燃え盛る太陽の擬獣、浮遊する頭部としか形容できない獅子が四方八方からジュティアとミナを襲い、地上では虎が槍状に尖らせた尾を振動させて腐朽呪詛による砲撃を繰り返す。
手練れの探索者であろうと確実に葬るであろう無慈悲な殺意。
だが二人が取り出した呪具が状況を覆した。
それは、二丁の拳銃だった。
エルネトモランの誰もが知る、とある英雄の象徴。
「ハッピー、ぶちかませ」
「ラメント、歌って」
喜銃と愴銃。女神が作り出したオーパーツにして情動を射出する異能の兵器。
解き放たれた魔弾が雨となって猫科魔獣たちを無力化していく。
都市の空を周回するというルールを放棄した二人の探索者たちは、コースを逸れて縦横無尽に飛び回りながら魔獣の群れを蹂躙すると、曲線を描いて飛翔する先頭集団に直線のショートカットで追い付いた。
前の席でジュティアが操縦桿を片手で握りながら拳銃を瞳の中に沈みこませ、後方では文脈圧をものともせず直立不動で槍と銃とを融け合わせていく。
両者の意思はひとつ。揺るぎない殺意。
ジュティアの眼窩から漆黒の火花が弾け、ミナの背から灼熱の翼が迸った。
「浄界と化身?!」
膨れ上がる呪力の余波を読み取ったリーナが驚愕して悲鳴を上げる。
探索者ペアを基点にして世界が変質していく。
だが出現したのは一見して未熟とわかる不完全な浄界だった。
完全な包囲に至らず、空間を半球型に覆った状態が精一杯の不出来な代物だ。
苦痛と穢れに満ちた『悪の宇宙』を浄化する『あるべき世界像』への確信。
至るべき楽園、浄化された世界というビジョンに破綻があってはならない。
世界を完結させることができない、空間を閉じられないというのは典型的な浄界修行者によくある失敗だ。経験者ゆえにリーナにはそれが理解できた。
明らかな実力不足。実戦での無茶がもたらした当然の結果に見えた。
球形に閉じることができない半球はすぐに破綻して霧散するはず。
だが、飛翔する選手たちを追う浄界はいつまでたっても口を開いたままだった。
「再装填。圧縮。成型」
銃口と一体化したアヴロノの瞳が、爛々と輝く。
射撃、射撃、射撃、射撃、射撃、射撃。次の六発をまとめてひとつに。
七つ目の眼光が世界を照らす光を呑み込んで、闇が虚空を満たしていく。
「感涙に咽び泣け、『第八魔弾』」
破綻していながら継続するという奇妙な浄界が先頭集団を追うと同時、殺到する獅子の炎を更なる猛火で呑み込みながら燐血の民が笑った。
「時限爆弾、お返し~」
炎の翼がはためくと同時、爆炎の雨が降り注ぐ。
だがその炎が選手たちの命を脅かすことはなかった。
それは破壊を目的とした呪いではない。
むしろ、祝福に近い性質を持った暖かな灯火だ。
「貴方ノ、残リ命数ヲ、オ知ラセシマス」
ジーゼロを除いた選手たちの腕に、肩に、しっかりとしがみついた小さな影。
それは可愛らしくデフォルメされた二頭身のぬいぐるみ。
古代の貫頭衣を纏った無垢なる炎天使のビジョンである。
既に殺意の矛先が向いているのはパーンだけではない。レースの破壊に方針を切り替えた二人は、異様な力によって全ての選手を射程内に捉えている。
英雄の武装で猫科魔獣の群れを一蹴し、呪術の奥義を操るその力は、事前に予想されていた準英雄級という枠から僅かに逸脱していた。
紀神の加護を限界まで引き出さなければ発揮できない壮絶な呪力は、祝福者のような神に愛された個体にしか許されないはずのものだ。
二人の背後に揺らめくのは、確かに神の威光に見えた。
それは妖精たちの母アエルガ=ミクニーであり、炎天使たちの父ピュクティエトである。
二神が並び立っているわけではない。
どちらでもあり、同時にどちらでもない『何か』がそこにいた。
あろうことか神を僭称し、その権能すら偽装して恥じない悪魔のごとき存在。
その上で、神としての完全な機能を兼ね備えた悪しき造物主。
『強引な介入だけど許してくれよ、ダウザール。少しは友達っぽいことがしてみたくてね』
レイヤーの異なる層で交わされた思念を、常人が知る術はない。
そして『友』を名乗る者の介入を、老いた巨人は意に介していなかった。
この程度の妨害はダウザールにとっては羽虫が纏わりついているようなものだ。
しかし、彼以外にとっては違う。
小細工を弄してまで必死に巨人の足を引こうとしていたパーンは、小さな炎天使を振り払おうとして失敗していた。あれは形のない幻影であり、ただのマーカーに過ぎない。
『急造とはいえ、いつまでもアダスに三役をやらせるのも無理がある。喜銃と愴銃に権能を預けておくのも宝の持ち腐れだ。なあに、足りぬ器なら壊れるだろうが、祝祭の間だけ使えればそれでいい』
レースに対する無関心は、そのまま選手の命に対する軽視と直結していた。
超越者の視点から見下ろす無法者は、遥かな高みから眼前の誰かに向けて語り掛ける。
『挨拶が遅れたね、生まれたての紀人都市。新たに『外れない矢』ジュティアと『刈り取る者』ミナを加えた、この僕たちがフルグント六柱群の残り三名だ』
第五階層を舞台とした空使い選定のレースは、もちろんただの競技では終わらない。
紀人都市によって執り行われる大規模な呪術儀式は、新しき神による盤上遊戯のひとつの形態とも解釈可能だ。その遥か『上』のレイヤーでは、形のない闘争が始まっている。
あるいはそれも含めてレースである、と言うべきか。
『それとも君にはこう名乗った方がわかりやすい? 『槍の民』ゼド=ハグレスってさ』
祝祭二日目。
かくして天上の神々は第五階層に顕現し、新しき神である紀人都市と対峙する。
それは遥かな空を巡る激戦の幕開けだった。




